2008年7月18日 (83日目)ウラジミール市、M7 625Km


朝は5時45分位に起きる。誰かに起こされた気がした。ドアを叩く者も誰も居ないのに。

昨日の後輪のスポークが折れて居ることで気が重かった。モスクワまで300キロ以上ある。その距離を折れたままで行ったら更にリムが狂ってしまうので出来ることなら修理したかった。朝起きて寝袋などを片付けた後、自分でスペアのスポークを入れ替えて見ることにした。果たしてどこまで正確にリムを調整できるか分からない。運良く車用のツールが店にありそれを借りてフリーウィールは外す事が出来る。しかし、7千キロ以上走り続けたフリーウィールは固かった。ネジが緩まない。どれ位の加重が過去2ヶ月の間に掛かった事か。車輪を立ててツールを手で持って体重を掛けて回そうとしたが一向に回る気配が無い。でも諦める訳には行かない。モスクワに行って修理する事にしたら、その間にどれだけリムが狂う事か、もし修理しないで進んだら段差が気になってどんなにサイクリングがつまらない物になるだろうか。

力任せにネジを回したら壊れるのは分かっているが、回してフリーウィールを外さない限りスポークを入れ替えることが出来ない。諦め半分で何がここで出来るか暫くの間考えた。そして今までやった事の無い事を思い付いた。今まではツールを手か足で押せば緩んだが今回は何をしても駄目だなので、座って車輪を横にして足でツールを押して車輪を手で回すことにした。車用のツールは長かったが、その長さよりも車輪の直径の方が長かったので、全身の力を振り絞って思い切って回すと緩んだ。これで難関が一つ去った。

その後で折れたスポークのネジの部分(ニップル)とスペア部品として持っていたスポークのネジの部分を比べると同じだった。これが違ったら使い物にならない。そして今度はスポークの長さを比べると、新しいスポークの方が少し長い。ペンチで数ミリを切り落としたがそれでも長すぎる。仕方ないのでパンク修理用のパッチを切り落としたスポークの先に当てて保護することにした。

それからスポークのニップルを回してリムを調整する。マイナスのドライバをフレームに押さえて固定してリムを回す。振れ過ぎている箇所はドライバの先に当たる。当たるとドライバを抑えている手には鈍い感触が伝わる。ハブの左側と右側に繋がっているニップルを反対に回してリムが左右に振れを少しずつ収まるように調整する。少しニップルを回してはリムを数回転させて振れの量を確認しながら進める。時にニップルと1回転回して見たり、時には4分の1回転といい加減ではあったが30分から45分くらい経過したのだろうか。調整に疲れた。でも妥協できる位の振れに収まった。本来はリムがハブの中央に納まるように調整しないといけないが無理な話だ。

でも、自分の技量とリムの調整台無しではこれ以上正確に調整は不可能であろう。タイヤとチューブを戻して空気を入れた。もう一度リムの振れ幅を見るが、残念ながら僅かに振れている。仕方ない。これ以上は無理だと自分に言い聞かせ諦める。出来ればモスクワまでスポークを折らずに行けたらとりあえずインタビューには間に合うだろう。

昨晩夕食をとったカフェに行って朝食を食べる。4個の玉子焼き、マカロニ、パン、紅茶などを食べる。自分の為に寝る場所のスペースを提供してくれた背の高い人にお礼を言って分かれる。どうしてか分からないが、昨晩は自分の家に戻らずに車の中に寝たようだった。暑い夏しか出来ない事だろう。奥さんに電話してくれたり、使ってない物置の部屋を片付けてくれたり、とても親切な人だった。何を彼をそんなに動かしたのだろうか。もの静かな青年で言葉が少なくそれが尚更心残りだった。

   
(左)黄色のシャツを着た親切な青年、(右)昨晩の夕食と今朝の朝食を食べたカフェ

7時45分位だっただろうか走り出す。走り出してから古いMegaPhone のSIM にメッセージが入ってないか気になったので、入れてみるとモスクワのいちのへさんからのSMSを二つ受信した。来週の月曜日の15時30分にインタユーで、その翌日にはディナーを食べましょう、という内容だった。もう一通のSMSは送信者が誰か分からないが、メールアドレスを教えて欲しいとの事だった。

モスクワで泊めて貰える場所を探して一度はいちのへさんの家に泊めて頂けることになっていたが、昨日になって泊まれない事が分かり、いちのへさんは替わりの家を探して下さっていた。そしてSMS を何度かやり取りすると、いちのへさんは電話で話しましょうとなり電話すると、泊めてくださる家は見つかったけれどモスクワの中心に近いかどうか分からなかった。とりあえず探して下さるのは有難いことだ。只、ロスの家から送って貰った自転車の部品のフリーウィールは早くて月曜日に届くとの事だった。間に合わないかも知れない。ロシアのビザの期限が迫っている。モスクワに居座って部品を待てばモスクワからラトビア国境まで自転車ではなくて電車かヒッチハイクする必要が生じる。とりあえず先に進む。

   
(左)遥か彼方に道が真っ直ぐと進む

少しの追い風で13時までに65キロ位走った。カフェを見つけていつもの玉子焼き、マカロニ、サラダ、ジュールなどを食べる。携帯電話の電池が少なくなっているので、カフェで充電しながら日記を書く。そして手と顔を洗面所で洗うと、一人のウエイトレスがペーパータオルを持ってきてくれた。思いがけない親切に驚いたのと同時にとても嬉しかった。カフェの中は冷房が効いていて良かった。玉子焼きにはトマトとハムが混じっていた。今までは玉子焼き(ラズーニャ)と注文すれば必ず卵だけだったがこのカフェは違ってハムが入っていた。ウェートレスが気を利かしてハムを入れてくれたのだろうか。俺は肉が嫌いなので肉は避けて食べているが、今日はハムを除けずに全てを食べた。

   
(左)昼食を食べたカフェ、(右)カフェの前の駐車場

カフェを出て走るが華氏90度の中を走るのは暑かった。昼食の後と昨晩の睡眠が短かった為か眠い。しかしその眠さは一つの登り坂で吹っ飛んだ。そして以前に比べると路肩は広いし登りも下りも少ないが暑さが増して走るのが大変なのには変わりなかった。只、向かい風は無く無風に近かったのでそれで助かった。

ウラジミール市への道の分岐点では、モスクワ方向に進むとKm マーカーは1から始まりバイパスである事に気づく。54Km と反対側の車線の標識にあった。先に進むといつものように夕立が来た。先に見える黒い雲から雨が降っているのが分かったので、ゆっくりと走って雲の流れるのを見ながら走ったら、見事に雨に当たらずに済んだ。しかし、Kemerovo に住むウラジミールからSMS が来たので返事を書いていると夕立の雲の続きがあってその雨に当たった。15分位の短い雨だったが、沢山の雨が降ったのか路面が全部濡れていて、仕方なくレインギアを着たまま走った。モスクワのいちのへさんからの電話を受けていた事を後で知った。

   
(左)ウラジミールの街の中心を進む道とバイパスの分岐点、(右)夕立の後

電話してみると案の定モスクワでの宿泊先は未だ見つかって無いとの事だった。いちのへさんから宿泊先の確認のSMS が来てなかったので気になっていたが的中してしまった。Kemerovoのウラジミールにモスクワに友人知人は居ないかSMSで聞いてみると、今近くを走っているウラジミール市のイリーナさんという人を見つけてくれて、今晩泊まれると言う。只、どれくらい走ったらイリーナの家に着くのか気になった。バイパスを走っているのでウラジミール市は別の所だ。近くに故障の為に止まっていたトラックの運転手にウラジミールからの電話を替わってもらって、イリーナの家はそう遠くないことが分かる。街に進む道路を進むことにする。標識には5キロとあった。街は明かりが灯っているが、郊外なので街灯がなくて暗い。工場が並んでいるが誰も居ない。道路を行き交う車も少なく心細かった。途中お店を見つけて飲み物を買いたかったが、止まる事が出来ない、止まる気になれない。早くイリーナに会う場所に行きたかった。どこでも良いので寝床を確認したかった。線路を越えるにはループを登る必要があった。登りたくない。もう体力はとっくに尽きている。でも進まないといけない。

何人もの人にイリーナと待ち合わせているゴールデン・ゲートの場所を確認しながら進んだ。あるバス停の近くにで道を聞くと、一度に何人もの人が競うように自分が教えてあげると喜んで道を教えてもらう事が出来た。ウラジミール市の中心に向かう道の名前は「プロスペクト・レーニン通り」。ソ連の生みの親の姓名が付けられている。そしてそのレーニンの名前はこの街の名前としてウラジミール市。レーニンが死んだ後のソ連の指導者スターリンの評価は低いのか、銅像は見たことは無いが、レーニンの銅像は何処にでもあり、道の名前にもなっているし、今居るロシア有数の市の名前にもなっている。レーニンとスターリンとでは大きな差があるように思った。

ゴールデンゲートでイリーナを30分位待っている間に持っていた缶詰の魚とパンを食べる。広場の前には若者が集まって賑やかだった。そうこうしているとイリーナと息子のアンチョンが自転車で迎えに来てくれた。3人共自転車に乗って下り坂を進みイリーナの住むフラットに向かう。15分くらい走ったが殆ど下り坂だったので明朝はいきなり上り坂になる。不思議な事にどんなに疲れていても明日の事が気になるものだった。着いてから自転車を離れの車庫の中に入れさせて貰って、典型的な集合住宅の階段を上りフラットに着く。シャワーを浴びさせて貰って、その後に軽い用意していただいた夕食を食べる。イリーナは数年前にご主人を亡くしていて、ご主人が残した無線機などがそのまま残っていた。コールサインも残されていた。真空管の無線機もモールス電鍵もあったので、そうとう長いこと無線をしていたのだろう。Eメールも確認させて貰えたので、恵子に新しい携帯電話の番号を念のために送った。

0 件のコメント: