2008年5月02日 (6日目) M60、キーロフスキー、セルゲイ宅




朝がいつの間にか訪れていた。昨日まで早く目が覚めてしまっていたのに、今日は起きてみたら、ネリさんも彼氏も、ネリさんの両親も、全員が朝食を済ませていた。慌てて準備すると、ネリさんの母親が朝食を準備してくれた。

朝食が終わりソファーに腰掛けると、ネリさんの横に居た猫が俺に近づいて来て、俺の膝に乗ってきた。可愛いものだ。俺はロシアの猫にも好かれたようだ。

出発の準備をしていると、ネリさんは緑色の箱を持って行って、と差し出してくる。食べ物が入っているとこのとで、ありがたく頂いた。

ネリさんの家を発ったのは朝8時半くらいだった。夕べと同じようにネリさんの父親の小さなトラックの荷台に自転車を乗せてもらい、昨日拾って貰った場所まで送ってもらった。


今日はウラジオストックのエフジェニアの友人、セルゲイの自宅に泊めてもらう事になった。(はっきりと思い出せないが、恐らくネリさん宅で食事をしている際に、エフジェニアに書いてもらったセルゲイの電話にネリさんが電話してくれて、泊まれる事になったのだと思う。)

ネリさんと別れて1時間ほど走ると、ネリさんの母親から電話が鳴る。俺はネリさんの家に忘れ物をしてしまったのだった。何か袋に入っている、と言っているが思い出せない。ネリさんの父親が車で持っていくので待っていて欲しいとの事だった。

フェンスに囲まれた場所の前で待つ。そのフェンス内の敷地は資材置き場のようで番犬が居た。俺がいるのに気付いて吠えている。番人のような人が出てきて、話をするが何も通じない。でも、日本から来た、と言うことだけは伝わったようで、犬が吠えてはいたが、俺がその場で待つことに対して何も言わずに、戻っていった。

15分ほど待っただろうか。ネリさんの父親が現れる。黒いビニール袋を持ってきてくれた。それを見て俺はやっと思い出した。夕べ店によってもらって買い物をした時のものだった。俺は、ネリさんの家に入った時に、キッチンのドア近くにそれを置いて、その後、まったく気付かなかったのだった。ネリさんの父親にもう一度ハグして分かれた。その中身の物も、金額的にも大したこと無かったが、俺はこんな親切が本当に嬉しかった。俺はネリさん家族に本当に歓迎されていたと感じたのだった。


ネリさんの父親は、この先の交差点を左に曲がるように、と教えてくれたので、俺はそのとおりに左(北)に向って進む。少し進むと舗装された道は終わった。砂利道になってしまった。

プーチンがまだ大統領だった2004年2月、大統領はチタとハバロフスク間の高速道路の開通を宣言した。これでモスクワからウラジオストックまで高速道路が貫通したのだった。実際には高速道路とは名ばかりで、シベリアの中部と、このチタとハバロフスク間のには舗装されてない砂利道があるとの事だった。

チタとハバロフスク間の現地の住民は、宣言の一年前からその区間の新しい道路を使用していたことを大統領は知らず、その発表は不機嫌なものだったらしい。

実際にその区間を乗用車で2007年に通過した千葉県佐倉市在住の小川さんの話では、チタとハバロフスク間の2300キロは7割方舗装されてないとの事だった。小川さんからは冗談のようにマスクを持参した方が良いかも知れないとアドバイスを受けていた。小川さんは加えて、ウラジオストックとハバロフスク間にも舗装されて無い区間が少しある、との事だった。

覚悟は出来ていた。しかし、実際に砂利道が見えた時、俺の希望は無残に消えた。進むしかない。小川さんが通過して一年も経過しているので状況は良くなっているかと思ったが甘かった。もしかしたら近くに舗装された道路があるのではないか、とも思ったがトラックが行き交うのを見ると、この道が幹線のようだった。

砂利道の道路だけでも嫌なのに、午後は小雨がずっと続いた。雨の中のサイクリングは何も面白く無い。しかし、雨宿りできる建物や場所があるわけでもなく、低い雲は晴れそうに無い。幸いにもレインジャケットだけでも走れる程の小雨だったので助かった。

午後3時くらいだっただろうか。一台の右ハンドルのトヨタ車が路肩に止まった。そして、中年の女性が降りてくる。俺に何か用があるようだが、見覚えの無い婦人だ。英語は通じなかったが、話が始まると、何とウラジオストックのイフジェニアの友人だと分かった。

彼女は車からサーモを持ってきてくれて、温かい紅茶を飲ませてくれた。サイクリングとしては面白くない雨の中の走行だったので、声を掛けてもらった上に、紅茶やバナナも頂いて俺は嬉しかった。そして俺は果物を無性に食べたかったので、頂いたバナナは特に美味しかった。

今晩泊めて貰う予定になっているセルゲイの奥さんなのか、姉妹なのか分からない。でも、キーロフスキーの町に入ったら最初のАЗС(ガソリンステーション)からセルゲイに電話するように言われた。

その女性と別れると雨は強くなった。レインパンツを履いて、跳ねる水を除ける為に靴にはショッピングバッグを履いた。雨の中、道は相変わらずだった。登ったり下ったりの連続。いつかこんな道を好きになる時が来るのだろうかと思った。

やっとの思いでキーロフスキーの町の南に着いた。АЗСの屋根の下に入って雨に濡れないようにしてからセルゲイに電話した。しかし、セルゲイは俺の英語を全く理解していなかった。そしてセルゲイは電話を切ってしまった。俺はどうしたものかと思った。果たして、先の女性が言ったように俺がキーロフスキーの町の南から電話する事を知っていたのだろうか。しかし、俺はその場を立ちたくなかった。雨も止みそうに無い。

すると10分もすると一台のトヨタのSUV が現れて、男の人が出てきた。セルゲイだった。俺は会えて嬉しかった。もし会えなかったら、この雨の中、どこかテントを張る場所を探さないといけなかった。でも、これで濡れずに寝る場所が確保できた。

セルゲイは、自転車を車の後ろに入れよう、というので二人で押し込んだ。本当ならセルゲイの車の後を走って行っても良かったが、雨も降っているし、遠いかも知れないので、セルゲイの思うようにしてもらった。


セルゲイの家は、町の中心から東に延びた道を進み、丘の上にあった。敷地は大きく、家も大きい。家の中は外見とは違って随分と内装にお金を掛けて綺麗になっていた。俺はさっき会った女性が後で来るのだろうと思っていたがそんな気配は無い。セルゲイが一人でこの大きな家に住んでいるのかも知れない。

セルゲイと俺は一緒に夕食の準備をした。冷蔵庫にあった野菜や等を使って素早く夕食を作ってくれた。そして二人で食べた。夕べのネリさんの家でもそうだったが、トマトとキュウリのサラダが特に美味しかった。

夕食の後、セルゲイは俺にシャワーを浴びたいかと聞いてくれた。俺は願ってましたとばかりに、浴びたいと答える。シャワーの水は、家の外にある水のタンクからバケツに汲んで来た。そして調理用のストーブの上にバケツを置いてお湯を沸かした。俺は温まったバケツを持ってバスルームに行ってシャワーを浴びた。とても気持ちよかった。

セルゲイは内装の工事を含め、多くの工事を自分で施したようで、色んな話をした。実際には英語が通じなかったので、持っているロシア語の会話集の後ろにある簡単な辞典を使って話をした。

特にセルゲイは、アメリカや日本での燃料(エネルギー)の値段に興味があったようで、プロパン、ケロセン(灯油)、ソーラーパネルなどの事を質問してきた。ロシアでの生活は燃料代が相当の割合を占めるはずなので、セルゲイはそんな事に興味があったのだろう。何時の間にか夜11時くらいになってしまったので、寝る事にした。

2008年5月01日 (5日目) M60、スパスク・ダルニー(Спасск-Дальний)、ネリ宅



朝はいつものように早く目が覚めてしまうが、7時くらいになるまで横になっていた。廣田先生には朝食を準備して頂いた。

別れの時間が来た。夕べから鼻水がでるようになってしまい、昨晩先生から頂いた風邪薬を飲んだのだったが、先生は心配してその風邪薬の入った一瓶を持って行きなさいと下さった。そして、果物、パン、ジャム、それから地球の歩き方のロシア版を二冊持っているとの事でその一冊も頂いた。俺はロシアの事を殆ど知らずに旅たってしまったので、昨晩俺が先生のその本を貪る様に読んでいたのに先生は気付いたのかも知れない。本は重いが、モスクワの赤の広場以外の観光地を知らない俺にとっては有益なものになると思った。


先生のアパートを出たのが8時半くらいだった。外の気温は8℃。快適な気温ではない。どちらかと言えば寒い。しかし、走り出したら直ぐに汗をかいた。

今日は130キロ走らないといけない。廣田先生の日本語のクラスの生徒のネリさんの自宅に泊まる予定になっていて、ネリさんが住むスパスクまでの距離だ。このサイクリングでウラジオストックを発ってから、一日の走行距離としては最長になる。

午前中は比較的平坦な道が続いた。それから丘陵地帯が続いた。途中、ある村へ入る前に、道路の右側にフォード社製のエアロスターという名のバンが停まっていた。そして左側の前輪のハブから煙が上がっている。タイヤは既に取り外されており、ブレーキやサスペンションが見える。通り過ぎようと思ったが、思い直して戻った。

よく見てみるとアクスルベアリングが壊れている。テーパーローラーを固定するハウジングが壊れていて、どうしようもない。ローラーが欠落していてとても車重を支えられる状態ではない。新品のベアリングが必要だ。でも運転手は家族と思われる同乗者から、どうにかして直せないかとの期待を背負っている。その運転手は数少ない工具を出してきて、直そうとする。アクスルを外せば、その部分を修理工場に持って行って直せる。只、そんな経験はなさそうだ。コッターピンを外さないとアクスルのボルトを外せないことを知らないようだ。コッターピンの事を教えてやると、運転手はボルトを緩めた。しかし、ここまでだ。ディスクブレーキのキャリパーを外さない限り、アクスルの部分だけを取り外すことは不可能だ。でもアーレンキーが必要だが無い。お手上げだ。工具があれば俺には手伝うことが出来たが、何も出来ない。運転手の娘さんと思われる若い女性は英語を少し話したが、会話にはならなかった。仕方なくその場を去る。

後味の悪いものだった。俺は常に取り残される側に居るのだが、今回は彼らを残して先に進まないといけない。仕方ない。

次の村に入ると、わき道に井戸が見えた。井戸に近づくと、それは使われてないものだった。近所の男の人に、どこに水があるか聞くと、待っていろ、とのこと。するとその男性は大きな水のボトルを持ってきて、その水を俺の水のボトルに注いでくれた。スパシーバと言って別れる。ありがたいことだった。

午後、自転車に乗って走っていると、音楽が聞こえてきた。民家が見えるが、そんな遠くから聞こえてくるような音ではなかった。

日本の山奥に行くと、惨事に備えて屋外のスピーカーが備えられているところがあり、それと同じかと一瞬思ったが、とてもそんな風には思えなかった。しかし、その音楽が止まない。何か変だ。自転車を停めてみてやっと分かった。俺の携帯電話の呼び鈴が音楽だったのだ。慌てて、携帯をジャケットから取り出すと、呼び鈴は既に鳴り止んでいた。恐らくロスの恵子から電話であったのだろう。仕方なく走り出すと、5分くらいでもう一度携帯が鳴った。慌てて自転車を止めて電話に出ると恵子だった。

特に問題はないが、次男のクリスの宿題の為に、家の隣の主人リックが工作の手伝いに来てくれていると言う。礼をリックに言うと、リックの長女マーニーは毎晩のように日本語を習いに来ているのだという。リックの奥さんのメグはマーニーの弟二人で手一杯のようだとの事だった。ギブ・アンド・テイクだった。

電話で話をしていると、道端に一台のトラックが停まった。日本から輸入された4トンくらいのトラックで、運転手は降りて自分に近づいて来た。何が起ころうとしているのか分からなかったので、電話を切った。

運転手はロシア語でしきりに何かを伝えようとしているが、全く分からない。俺の英語も通じてない。運転手は身振り手振りで色々言っているが、恐らく運転手が今朝M60 の道路を南に向って行った時に、俺が北に向っているのを見て、配達の帰りに北に道を戻るとまた俺を見つけた、と言いたかったのだと思う。停まってくれて嬉しかった。どこまで行くのかと聞くので、モスクワまで行くと言うと、どうして自転車で行くのだと聞いてくる。


俺の目的地はポルトガルだが。この数日の間、何人ものロシア人に行き先を聞かれてポルトガルと答えたが、誰も理解している様子が無い。俺はポルトガルのことを「ポルトガーレ」とロシア語で言うのは分かったが、そう答えても誰もそれは何かも間違いであるような顔をしていた。ところがモスクワと答えると、そうか、それは大変な距離だ、という反応になった。でも、その先のモスクワの先のゲルマンやフランセに行き、ポルトガーレに行く、と言っても、皆が困った顔をしている。だから俺は面倒な「ポルトガーレ」行きを「モスクバ」行きに替えただった。(モスクワではなくモスクバ)

この手の質問の答えにいつも困った。妻の恵子を含め、殆どの人が同じ質問をしてくる。「どうしてそんなことをするのか?」。理由など何も無い。行きたいから行く、ただそれだけだ。

チャレンジだとこの運転手に伝えようとしたが、理解できてない。マラソンやエベレスト登山を例に挙げたが、それとこれは違うだろう、というような返事が帰ってくる。俺は自転車に乗った旅行者だ。旅行者がどうしてチャレンジしなければならないのか。無理も無い。俺は彼の写真を撮った後、分かれる。

そして、暫く走ると、今度はトヨタのSUV が俺の左側にゆっくりと走ってきて近づいて来た。俺は路肩に入って停まると若い運転手も車を停めて、右側の座席から窓越しに英語で、どこへ行くか、どこから来たかと質問をしてきた。先のトラックドライバと違って、英語の会話には問題なかった。俺がモスクワを目指していると伝えると、俺のやっている事は素晴らしいことだと感銘してくれて、幸運を願う、と言ってくれた。そしてレッド・ブルというアメリカのブランドの栄養剤のようなドリンクを下さった。先のトラックの運転手と違って、俺のやっている事を理解してくれたのが俺には嬉しかった。


その後、道は以前のように登り下りが続いた。こんな道は疲れる。しかしペダルを漕がないと大陸の西側には着けない。ペダルを一回転させれば1メートる進むと言い聞かせた。もしその1メートルが正確だとしたら150万以上回転させないと着けない距離だ。気の遠くなるような数字だ。桁数も多すぎる。しかし一度決めたからには進まないと。千里の道も1歩から。一歩一歩、一回転一回転進まないといけない。


ネリさんの家のあるスパスクに近づいたのは午後8時くらいだった。夕闇が迫っていた。町に入る前に警察のチェックポイントを記す看板(ДПС)があった。信号は無かったが町の一番大きな交差点のようで、警官が4、5人立って行き交う車両を止めていた。しかし、その中の二人はレーダーガンを持っていたので、スピード違反の車両も止めていた様だった。一人の背の高い警官が近づいて来たので話を少しした後で写真を撮った。

交差点の南東の角は警察、南西の角にはタイヤを修理する工場があった。看板の文字が読めないが、工場の前に止められて乗用車がジャッキアップされているので、タイヤの交換か修理をしているのだろう。


その後で、俺はネリさんに電話した。するとネリさんはその交差点で30分くらい待って下さい、との事だった。20分くらい待っていると、ネリさんは父親の運転する小型トラックに同乗して現れた。実に人の良さそうな父親だった。俺の自転車をトラックの荷台に乗せて、走り出すと、ネリさんは俺に今晩、家の中に泊まって下さいと言ってくれた。

元々、俺は夕べ泊めて頂いた今朝ウスリースクの廣田先生に、ネリさんの自宅の裏庭にでもテントを張らせて欲しい、とお願いしてあったのだった。そして先生からは、ネリさんの家でテントを張っても良い、と返事を貰っていた。でも、ネリさんは俺を家の中に泊めることを父親から既に承諾を得ていたようだった。

助かった。綺麗な夕焼けで雨は降りそうに無いが、家の中に泊めて貰えるのはとても嬉しかった。でも、この家の中に泊まって下さい、との言葉は俺を歓迎する始まりだったと気付たのは家の中に入ってからだった。

ネリさんの家に向う前に、俺は店によって貰った。廣田先生が教えてくださったロシア語、マガジンだ。店の中のものは全てがカウンターの向こう側だった。ネリさんが手伝ってくれて、俺の欲しい物全てを買うことが出来た。練り歯磨き、使い捨ての髭剃り、ビスケット等を買った。

ネリさんの家はスパスクの中心から少し離れていて一軒家だった。そして、必要な着替えなどをパニアから取り出してネリさんの家に入る。家の車庫の近くには大きなセントバーナード犬が居た。俺は犬に触りたかった。犬は尻尾を大きく振り、ネリさんの父親に抱きつくようにはしゃいでいた。でも、ネリさんの父親は、構わないで欲しい、という感じだったので、俺は犬に愛嬌を振って家に入る。土間があった。そして、鶏の雛がの声が聞こえ、挨拶に出て来てくれたネリさんの母親は、雛の籠に掛けてある毛布を持ち上げて籠の中を見せてくれた。20羽くらい居ただろうか。何れ卵を産む雌鳥になるか、食にされるのであろう。


俺は時間が遅くなってしまったので、皆食事は済んでいるものだと思った。でも、実はネリさんの家族全員が俺の事を待っていてくれたのだった。食卓には沢山の食事が並んでいた。チキンが料理されていたが、肉が嫌いだと伝える必要があった。申し訳なかった。しかし、他に沢山の料理が山盛りになっていたので、俺は沢山頂いた。特に好物のトマトのサラダは美味しかったので沢山頂いた。食卓にはネリさん、ネリさんの両親、ネリさんの彼氏、そして俺。5人での食事は楽しかった。一つだけ和食の調味料があった。チューブに入ったハウス社の黄色い練り辛子だ。これをロシアでは「ワサビ」と呼んでいるそうだ。誰かが訳を間違えたのか、意図的だったのか。

食卓には小さめのコップが置かれていて、ネリさんの父親は俺にビールを飲みたいか、と聞く。今でもそうかもしれないが、その昔、日本の飲み屋や食堂ならどこにでもあったような小ぶりなコップだった。そのコップにビールを半分ほど入れて貰い、乾杯する。俺は一気に飲んだ。俺にはビールの味が分からないが、ひとくち目はとても美味しかった。するとネリさんの父親はもう一杯、もう一杯と沢山注ぐのだったが、3杯目には限界だった。130キロの走行で疲れていたのも理由だろう。ネリさんの母親はアップルパイを召し上がれと勧めてくれた。俺は勧められるように頂いた。これも美味しかった。恐らく全てが手作りの料理で、もしかしたら材料の殆どが裏庭で取れたものだったかもしれない。

ネリさんの母親は、インターネットの接続に問題がある、と言うのでPCを見せてもらった。母親はクレジットカードと同じ大きさのカードを持っていて、それにはログオンの為のID とパスワード、そしてプロバイダへ接続する際の電話番号が記されていた。購入された金額によって接続時間を制限されている前払いのカードのようだった。

PCのモデムは発信するが、先方のモデムが応答してない。ハンドシャイクが始まらないようだった。携帯電話で記された番号に電話するとモデムからは返答がある。しかし回線上の雑音の問題か、それともモデムの設定の問題か。俺はもう少しトラブルシュートしても良かったが、ネリさんの母親は疲れている俺に気遣ってか、もう結構です、と何度も言い続けていたので、俺は途中で止めた。それからネリさんの母親は何かの苗木を見せてくれた。小さな鉢に植えられていたが大きくなったら売るのだと言っていた。

俺はシャワーを浴びたかった。でも、誰もシャワーを浴びる感じではなかったのでシャワーは浴びれなかった。トイレはシャワーを浴びる場所の奥にあった。その場所の上には、廣田先生のアパートにあったような温水ヒーターが取り付けられていた。バスタブは無い。

夕食が済むと、ネリさんは小さな箱に入ったものを俺にプレゼントしてくれると言う。箱を開けてみると白い皿で、皿には綺麗な絵が書かれていた。俺は喜んで受け取った。しかし、この皿は重すぎる。これをポルトガルまで持って行けない。下着一枚の重さを惜しんで持ち物を減らしているのに、どうしたものか。

ネリさんとは日本語での会話を試みたが、英語での会話が楽だった。それとは別に驚いたことに、ネリさんの両親は、俺とネリさんの会話に耳を傾けていて、ネリさんが理解できない言葉を母親は理解していた。どこで英語を習ったのか俺には聞けなかった。聞く必要も無かった。母親には教養があったという事で十分だった。

ネリさんは日本語のほかに中国語も習っていた。そしてテレビでは、日本のアニメ、セーラームーンというものをロシア語の吹き替えで見ていたそうだ。

家の中がどんな造りか分からなかったが、俺はネリさんの父親が案内してくれた部屋の中のベッドを使わせて貰うことになった。部屋の中には運動器具が置いてあり、ネリさんの父親は使いたければ使って下さい、と言ってくれるが、俺にはそんな余力は無く、ビールの酔いも手伝って、夜の静けさを知ることなく寝付いてしまった。

俺はこの日、ネリさんの自宅の裏庭でテントを張る予定で、どんな家なのか想像しながら走って来た。大きな家なのか小さい家なのか、山に近いのか、フェンスはあるのか、色々想像した。でも、どんな建物でも良いから屋根の下に寝られたら最高だと願ってもいた。

着いてみると、ネリさんの家族全員が歓迎してくれた。夜遅くに食事を始めたのに、誰も嫌がらずに全員が俺を気遣ってくれた。食事だけに付いて言えば、初めて会う俺の為にこれ程の食事で歓迎してくれた家族はなかったと思う。家を見れば裕福でないのは分かる。俺はネリさんの両親が出来る最高の歓待を受けた。実に不思議な事が次から次へと起こるものだ。

2008年4月30日 (4日目) M60、ウスリースク、廣田先生宅



昨晩はホテルに泊まったのだが、隣の部屋の客が一晩中煩く良く寝ることが出来なかった。そして、また早く目が覚めてしまった。

ベッドに横になっていてが、8時くらいに起きてホテルのデスクに行った。昨日はロシアのビザの為の登録は午後2時までなので出来ないと言っていたのに、今朝になったら、次の街で登録したら良いと言っている。何の為にお金を出してホテルに泊まったのか分からない。俺にはもう一日あるから大丈夫などと、とんでもない事を言っている。

埒が開かないので部屋に戻って、ウラジオストックの日本領事館に電話してロシアのビザに付いて質問してみると、俺がモスクワから入手した招待状を発行した会社に電話して下さい、と冷たく言われてしまった。誰もが面倒な事はしたくない、厄介な責任を負いたくない、と俺には思えた。

もう一度、ホテルのデスクに戻って、同じ女性に話をするが何も進展しない。するとその女性は、昨日一緒だった人を呼んだらどうだと言う。俺には他に頼る人が居ないので、Jay に電話すると、直ぐにホテルに来てくれるという。そうこうしているうちに、昨晩俺の部屋に来て下さった廣田先生も来て下さった。Jay は15分くらいでホテルに来てくれた。Jay はホテルの女性と何かロシア語で話して、ホテルの部屋があった3階から1階のサウナの受付に向う。するとそのサウナの受付の女性は誰か知らない人と話をした後で、Jayと廣田先生と俺は警察に向うことになった。

警察まではJay の車で5分くらいの距離だった。警察の建物の裏に行くと、どこの駐車場か分からなかったが、車を停めて警察に向おうとしたら、後から制服の警官が出てきて、どこか他に駐車しろ、という事だったので、Jay は車を移動した後で、3人揃って警察の建物の正面から入った。北国の造りだ。まず最初のドアを開けると、そこはちょっとした広間になっていた。恐らくここで雪を掃ったりするのであろう。そして、数ステップの階段を上がると二つ目のドアがあった。そのドアを開けて右側にあった窓口で、Jay が俺のパスポートと滞在許可を記す書類を見せると、一枚の用紙を渡されて午後2時に戻ってくるようにとの事だった。Jay は学校の授業があるのか、行く必要があるとの事で別れた。

その用紙を持ってホテルに戻り、サウナの受付の反対にあった事務所の中の職員が30分くらい掛けて用紙に何かをタイプしてくれた。その用紙が整うと、何故か3階のホテルの女性が現れて、その女性と廣田先生と俺は警察に歩いて向うことになった。

ホテルの西側には自動車の部品を販売する店が幾つかあった。どうやらこの一帯は修理工場が多いらしい。

ホテルの女性は今朝はハバロフスクでもどこでもいいから次の街で登録したら良い、と言っていたのに何故か3人で警察まで行ってくれると言う。何が何だか分からない。どうしてそんなに意見をころころと変えるのか。

とりあえず警察の建物の中に入ってある警官と話をした後、彼女はある部屋に入って行くことになり、廣田先生と俺にその場で待つようにと伝えて部屋に入って行った。彼女が出てくるのを待っている間、廣田先生は、どうして我々は待たさせるのだろう、と言って彼女の行動に疑問を抱いていた。先生は、もしかしたら午後2時を待たなくても書類の処理が終わるかも知れないと楽観視していた。俺はそんな楽観的な気持にはなれなかった。

15分ほど待つと、用紙の裏にスタンプを貰って来てくれた。これで終わりだ。二日前、入国審査が終わった時には、殆どの問題は片付いたと思っていたが、これで俺のロシアでの滞在に何も問題は無くなった。全ての処理が終わった。

ホテルに戻ると、先生は今晩先生の自宅に泊まりますか、と聞いて下さったので、そうさせて貰う事にした。元々、午後2時以降のいつ書類の処理が終わるのか分からなかったし、今日は自転車に乗って走る気はしなかったので助かった。

自転車をホテルの部屋から出して、チェックアウトする。それから先生はお昼をご馳走してくださると言う。先生の案内で自転車を押しながら、大通りから離れ、病院とも学校とも言えるような、ゆったりとした敷地のある場所の一角にあったカフェに入った。その回りには小さなお店が幾つかあった。

昼食の時間には早かったので、他の客は居なかった。先生は「ビジネスランチ」、と英語のメニューを注文して下さった。先生の説明では、セットメニューになっているので、恐らく早くて安く提供できるのだろうとの事だった。前菜、主菜 デザート、飲み物がセットになっていた。主菜はチキンだったので残してしまったが、他は美味しかった。

昼食の後、先生が教鞭を取る大学に向った。先生の生徒で、ウスリースクの北に住む人が居るので、もしその生徒が学校に残っていればその人に泊めて貰えるかもしれない、と学校に向ったのだが、その生徒はもう学校には居なく帰宅してしまっていた。仕方ないので、先生の自宅に向うことにした。先生はバスで、俺は自転車に乗って、先生の自宅付近にあるスーパーマーケットにて待ち合わせることにした。

街の中の道は良くなかった。埃っぽい。M60 の幹線道路のほうが遥かに良かった。特に先生の話では道に穴ぼこが多いので注意するようにとの事だった。

川の橋を越えて、直ぐにスーパーは左手に見えた。先生に会えて、自転車をスーパーの中に入れて、先生が買い物をしている間、俺は自転車の傍で待った。警備員が居る。まるでアメリカと同じだ。もしかしたら、アメリカ以上かも知れない。スーパーの中は広く、色んなものが売られていた。

先生は今晩の夕飯の為に色々買って来て下さった。スーパーから先生のアパートまでは歩いて10分くらいだった。先生曰く、この辺のバスの運転手は親切で、バス停から離れていても、そこで降りたい、というとバスを停めて降ろしてくれるのだそうだ。先生の話しっぷりでは、特定のバスドライバだけではなく、全部のドライバが親切だ、というような感じだった。なんとも長閑なのか。何とも人間的なのか、と思った。日本やアメリカだったらありえない事だと思う。

先生の自宅に向う。17時からイワン君と言うロシア人で日本語を勉強する学生が来る予定だった。イワン君が現れ、先生は日本語の指導をしている。イワン君は、指導の後で俺にテレビのインタビューに応えるかと聞いてきた。俺は願っても叶ったりだったので、二つ返事で承諾した。イワン君の知人にテレビ局関係の人がいるそうで、直ぐに連絡をしてくれた。そして、インタビューワーとカメラマンの二人がタクシーに乗って現れたのが19時位だった。でも外はまだ明るかったので、俺が自転車に乗る様子や、先生のアパートの中でインタビューと撮影が行われた。

(廣田先生のアパートの前にて)

イワン君は日本語の指導の後、行くところがあると言っていたが、結局インタビューの最後まで付き合ってくれた。悪いことをしてしまった。それに加え、俺は携帯電話の課金を頼んでいたので、いろんな迷惑を掛けてしまった。でも、親切な人で無かったらインタビューの手配をしてくれないであろうから、遅くなってしまい申し訳なかったが、そんな彼の親切はとても嬉しかった。

先生と俺は夕食を一緒に済ませ、色々なロシアの事を教えて頂いた。ロサンゼルスの恵子から電話があったので、お礼を先生に伝えて欲しく電話を先生に替わった。

先生のアパートにはDSL と思われるインターネット回線があって、俺はメールを確認できた。先生はプリンタが調子悪い、との事だったので見てみたが、ウィンドウズの問題ではなく、プリンタ本体の問題だったので、何も対処できなかった。

でも、先生はブログに興味を持たれていたので、Google のブログを設置することにした。記事の投稿の仕方や、写真の挿入の仕方を簡単に説明できた。俺はGoogle のPicasa Web に写真をアップロードする事が出来た。

昨日と一昨日の二日間、登り坂で沢山汗をかいて下り坂では汗の為に一気に体温が下がってしまい、俺は風邪をひいてしまった様だ。鼻水がでるようになってしまった。先生から日本からの風邪薬を頂いて休む。

明日は次の町(村)に住む先生の生徒さん、ネリさんの自宅に泊めて頂けるようになった。寝るところが決まっていると精神的に余裕が出来る。見ず知らずの旅人をロシア人だけではなく韓国人、日本人と俺は色々な人の世話になっている。とてもありがたいことだ。

2008年4月29日 (3日目) M60、ウスリースク (KMマーカ:100位)



今朝も早くから目が覚めてしまった。誰かが起きるのを待ってベッドの中で待つと、朝の7時くらいだった。起きたのは牧師の奥さんで、朝食の準備を始めた。奥さんは英語が不得意のようだったが、俺にはお茶を勧めて下さったのでありがたく頂いた。

建物の外は酷く寒く見えた。神父の息子モーゼが起きてきて、この辺一帯でこの教会の付近は特別寒くなると言っていた。

他の人たちが起きてくるまで日記を書く。皆が揃って朝食を頂く。ご飯、玉子焼き、キムチ、スープ、のり等を頂いた。朝食の後、3人は直ぐに学校に行くと出かけていった。

朝食の後、日記の残りを書いて、それから俺も出る事にした。ボトルに水を頂き、モーゼと写真を撮ってハグして分かれる。モーゼはロサンゼルスに来るかも知れないと言っていた。そしてお互いのEメールアドレスと電話番号は交わした。


教会のメンバーの人達は、教会のあるラズドルネの村から、次の街のウスリースクまで2つの大きな峠があると教えてくれた。普通、乗用車に乗っている人には坂の事は気にならないはずだ。だけど、その人たちが教えてくれると言う事は、きっと大きな山があるのだと思い覚悟した。

村を南北に走る道を北に向う。昨日と同じように体が温まるまで自転車を押して歩いた。とても自転車に乗って登り切れる坂ではなかった。坂の頂上付近から自転車に乗り、直ぐにM60 の幹線道路に出た。

M60 の道路は片側1車線と2車線の部分があった。2車線の道路は比較的に舗装が新しく走りやすかった。でも、1車線の道路は舗装が古いせいか走り辛かった。

登り下りの道が続く。アメリカの中西部、ネブラスカ州やアイオワ州の道路と同じで、小さな起伏が多く疲れる。道路の両側には白樺や他の木々が見えるが単調だった。

丘を登る時は汗をかくので、ジャケットの前のジッパーを開いたり着ているものを一枚・二枚脱いで登り、下りでは汗が一瞬で体を冷やしてしまうので服を着たりジッパーを閉じて下る。

1982年に北米を横断した時に注文して作った自転車だったが、幸運なことに今のところ全く問題は無い。本来ならこの辺で綺麗に掃除して、状況を確認すべきだが怠け者の俺にはその余力が無い。

体は特に問題なさそうだ。現地の水道の水を飲んでも今のところ問題は無い。只、大量に汗をかいているので、下り坂の度にそれが体温を奪ってしまうので注意をしなければいけなかった。上半身は5枚、下半身はスエットパンツを2枚履いていた為か、上半身の汗が異常に多かった。特に腰の辺りはびしょ濡れだ。

道路上では、殆どのトラックドライバが余裕を持って走り去っていく。しかし、中には俺の存在を無視して、間近を勢いよく走り抜けるトラックもあった。そして、登坂車線がある時に、トラックのドライバは俺との距離を空けるために追い越し車線に入ってくれるが、それに我慢できない乗用車が右側の登坂車線を勢いよく抜けて行く事もあった。そんな時は俺はいつも路肩の砂利道の上に出て走った。

しかし、殆どのドライバは自転車に乗る俺に友好的で、クラクションを鳴らして走りすぎる。俺は必ず手を振って応えた。そして、俺との距離を開けて走り去るトラックには手を振った。クラクションを鳴らして行ったわけではないが、距離を開けてくれる事が嬉しかった。走りながら手を振るのは簡単ではないが、そうすることによって、後続の車両も続いて俺との間隔を開けてくれるのだった。

ある峠を登っている途中、水を現す標識が目に入る。駐車場も見える。自転車を降りて、水道か井戸でもあるのだろうと探すが見つからない。ある人に俺は空になった水のボトルを振って見せると、その人は指で階段を下りた場所の森の中を指差してくれた。何があるか分からなかったが、コンクリートの階段を下りると小川が流れていて、緑の屋根の小さな物があった。近づいてみてもそれが何か分からないで、うろうろしていると、ある人が緑の屋根の下の部分にあった小さなパイプを教えてくれた。それは湧き水で、俺はその流れる水をボトルに入れた。


綺麗な水か、飲んでも安全な水か分からない。しかし俺は両方のボトルが既に空だったので水を入れる。水を沸かすストーブは持ってない。ストーブの燃料としてロシアで何が入手出来るか分からなかったので持ってこなかった。だが、バクテリアを除去してくれる手動のフィルタだけは持ってきた。でも、結局俺はその水をそのまま飲まざるを得なかったので飲んだが問題なかった。

道路の脇には道標があった。キロメートルを表示している。その数字がどこから始まっているか分からないが、自転車に乗って走る俺にとっては大事なものだ。

M60 を進んで北上すると、ウスリースクの街への分岐点が出てきた。俺はM60 から離れて街に進む。街のサインは丘の上にあって、眼下に街が広がって見えた。坂を下って、最初の多きな交差点で自転車を降りて、教会で逢った韓国人の Jay に電話した。Jay は朝の別れ間際に、電話番号を教えてくれて、ウスリースクに入ったら電話して欲しいと言ってくれていた。

(右上:教会のメンバーと韓国人留学生)


ウラジオストックで買った携帯でJay に電話してみるが通じない。通話の履歴を見ると、ウラジオストックのエフジェニアが彼女の友人に電話した番号が残っていて、その番号の最初には「+ 」が含まれていた。もしかして、と思ってJay の電話番号の前にも「+ 」をつけてダイヤルするとJay が電話に応答してくれた。Jay は俺がどこにいるのか分からなかったので、交差点で5階建て位のビルが近くにあり、その屋上には電話会社の大きなサインがあると伝えると、Jay はそこで10分ほど待って下さい、との事だった。ラッキーだった。電話会社のサインでJay は俺の居場所が確認できた。交差点の反対側にはバス停があり、沢山のバスが出入りしていた。

俺には何の予定も無い。Jay と会って何をするとも決まってない。俺はJay の優しい言葉を頼りにこの街に入ったのだった。そして、ウスリースクに寄った理由の最大の目的は、ロシア連邦から貰ったビザに対する登録だった。ガイドブックによるとロシアに入国して3日間以内に登録する必要があるという。ロシアに入って二日目だったが、出来れば早く片付けてしまいたかった。

Jay は暫くすると6人乗り位のバンでやってきて、車の中には教会の牧師夫婦も一緒に来てくれていた。Jay は俺に、付いて来て下さい、との事だった。俺は遅れないようにJay の車の後ろを付いて走った。5分も走ると街の中心部になり、ある建物の前で停まった。彼らが通う大学だった。

彼らの部屋がその建物の中にあると言うのでJay に手伝ってもらって自転車を3階まで上げる。そこの受付みたいな机に座って居た係りの人にJay は自転車を此処の残していく、とのような事を告げて、彼らの部屋に向った。建物は学生寮だった。ベッドと机、そして洗面所がある小さな部屋だった。すると牧師の奥さんは直ぐに俺に昼食にとラーメンのようなものを作って下さった。沢山の麺の入った美味しいものだった。

食事の後、Jay は他に韓国から留学している友人達を紹介してくれた。そしてその中の一人が、この大学には日本人の教師がいるので紹介すると、大学の教室の別の建物に入って、日本語のクラスルームに連れて行ってくれた。行ってみると日本語の教師、廣田先生がいらした。丁度習字の練習をしていて、先生は俺に習字が出来ますか、と質問されたので、小学生の時に習ってましたと答えると、それは丁度いいので手本を見せて欲しいとの事だった。

(左:ホテルの受付) (右上:廣田先生が教鞭を振るう大学)

でも一緒にいたJay は、ロシアに入ったことを登録するのだったら、早くしたほうが良いだろうと忠告してくれたので、廣田先生とはその場で別れた。しかし、登録するにはハバロフスクに行かないと出来ないだろう、という事になり、俺は教会の人達と、若い韓国人留学生と一緒に駅に向った。若い留学生は駅の窓口でロシア語でやりとりしてくれた。

そして電車賃として1600ルーブル、そして自転車は余分に掛かるとの事だった。電車に乗って明朝にハバロフスクに着けば、入国してから三日という期限に間に合う。でも、もしかしたらこの街でも登録できないのだろうか、という事になって駅を後にした。

Jay は俺を連れて韓国の企業が所有するホテルへ連れて行ってくれた。そこで話をしてもらうと、午後2時を過ぎてしまっているので、今日の登録は出来ないとの事だった。でも、このホテルで登録してくれるとの事だったので、ハバロフスクに電車で行かなくて済むのが分かった。

今度はJay は大学に俺を連れ戻してくれた。そして、先の廣田先生に登録の事を聞くと、先生はウラジオストックの日本大使館に電話してくださったが、土日が3日間に勘定されるのか明確な答えは得られなかった。でも先生のお陰で、俺は自分のパスポートのコピーや、入国時に記入された登録の為の用紙のコピーを取ってもらえた。

廣田先生と再度別れて、韓国人留学生達にも別れを告げた。自転車に乗り、さっき連れて行って貰ったホテルに向った。しかし碁盤の目のような道並みの為に道を間違えてしまった。全く分からない。Jay に教えてもらったのは「5+ 」というスーパーに向って、そこを右に曲がる事だった。右に曲がったらホテルがあるのかと思っていたが、いつの間にか川の橋が見えてしまい、行き過ぎたことに気付く。Jay に電話してみたが、電話に出たのはJay 出は無かった。牧師の奥さんだったかも知れない。彼女は俺に居場所を聞くがそれが答えられない。通りすがりの人に携帯電話を渡して代わって貰うと、ロシア語での話があって、直ぐに電話は終わった。

そしてその人は、この先の右側にホテルがあるので、直ぐ分かるというような事を言った。でも、俺はそのホテルではなくて、他のホテルだと伝える。でも伝わってない。俺はJay が連れて行ってくれたホテルの外の看板にはロシア語で書いてあった。しかしキリル文字を読めない俺には何と書いてあったのか分からないが、確か「パラダイス」とか言っていたのを思い出して伝えると、その人はこの道を戻って、右(北)に進めばいいと教えてくれた。

言われたように道を北上すると、見慣れた広い道があった。そして突き当たりにホテルが見えた。ホテルに入ると受付があった。一泊したいと伝えると話が通じない。どうしたものかと思ったら、そこはサウナの受付で、ホテルは2階だった。自転車をホテルのロビーの中を押しながら進み、自転車を持ち上げて階段を登る。

受付はサウナの受付とは正反対で質素な受付だった。一泊1300ルーブル、約60ドルだった。クレジットカードで払いたかったが駄目だったので現金で支払う。部屋に案内され、俺はその後、サウナに入った。日本の公衆浴場のよう大きく気持ちよかった。

サウナから出て、俺は歩いて5+ スーパーマーケットに行く。夕食の為の食料と、スナック、果物等を買った。全部で250ルーブル位になった。決して安くない。ホテルに戻って、部屋でそれらを食べた。

ベッドに横になりながらロシア語のテレビを見ていたら、いつの間にか寝てしまっていた。そして誰かがドアをノックする音で目が覚める。ドアを開ける前に英語で Who is it? と聞くと、日本語で廣田です、と返って来た。廣田先生には俺の携帯番号は伝えてあったが、どこに泊まるかは決まってなかったので伝えて無かった。でも、先生は韓国人の人たちに俺の宿泊先のホテルを聞いて訪ねて下さったのだった。

先生は俺に、明朝ハバロフスクの日本領事館に電話して、登録の事を確認した方が言いと忠告の為に俺のホテルまで来て下さったのだった。先生はウラジオストックの領事館の人と電話で話したようで、その時には、俺の自由気ままな自転車旅行に強い懸念を抱いている、と言われたそうだ。廣田先生とは、先生のロシアでの生活感、そして俺の昨日と今日の出来事を何時間か話した。

しかし、嘘のような出来事が次から次へと起こるものだ。ラズドルネで出会ったバイクに乗った少年のお陰で、俺は廣田先生から色々教えてもらう事が出来た。

2008年4月28日 (2日目) M60、ラズドルネ (KMマーカ:45位)




このところ連日午前2時くらいに目が覚め、今朝も同じだった。ベッドの中に5時くらいまで入っていた。それから日記を書く。

エフジェニアの息子さんは6時位に起きて直ぐに仕事に出かけた。何かの買い付けの仕事で、今日は中国内の国境近くの町へバスで行くので早く出かけるとの事だった。中国までバスで7時間の距離だそうだ。

エフジェニアは7時くらいに起きて、朝食を用意してくれパンケーキのようなものを頂いた。彼女は仕事に8時に行くとの事で、俺もそれに合わせて出発できるように準備した。外は寒い。だが朝の好きな俺にとっては雨さえ降っていなければ寒さは然程気にならなかった。


エフジェニアの家の前で別れ間際、彼女は俺の写真を撮ってくれた。CouchSurfing.com で俺が最初のビジターだそうだ。俺にとっても彼女の家が最初のホストだった。昨日は朝から一日付き合って貰えてとても嬉しかった。出迎えを期待してなかったのに、港まで迎えに来て貰えたので窮地を凌げた。

別れ間際に俺は彼女にハグをした。俺が彼女に会えてどんなに嬉しかったか彼女には分からないであろう。俺は道中何があるか分からないので、彼女と二度と会えないだろう思ったので、とても親切にしてくれた彼女との別れに感傷的になってしまった。でも彼女は足早に仕事に向って行った。それで良かったのだ。(この時は、エフジェニアとの出会いが、俺の今回の旅に絶大なる影響を及ぼすとは全く分からなかった。)

建物から少し離れたところで自転車の点検をする。昨日は碌な点検もしないで走ってしまったので、念入りに行う。チェーンにはオイルを差す。ネジ類も締めなおして確認。パニアの中の荷物の重さが左右同じになるように物を入れ替える。

自転車の準備が出来た。すると一人の老人が犬を連れて現れた。ロシア語で何か聞いているが、分からない。俺は地図を広げて、モスクワまで行くと伝えると、老人は驚いている。無理も無い。モスクワは9千3百キロ離れている。シベリア鉄道に乗っても6日間の距離だそうだ。

俺が広げた地図は、ロスを発つ前に不動産業を営む鈴岡さんから頂いた地図のカラーコピーだった。荷造りをした時は、この大雑把な地図が役立つかと思ったが、イソップの教えかのように、人の親切を無駄には出来ないと思い、持参していたのだった。一人の老人との話がこの地図のお陰で出来た。

老人の犬は小型犬で綱に繋がれていて、最初は怖がって近づいてこなかったが、俺は手の甲を差し出すと、犬は俺の手の甲に鼻を近づけて臭いを嗅ぐ。それで犬は安心したので、俺は何度と無く頭や背中を撫でた。

さあ、出発だ。泣いても転んでも走り出さないと始まらない。勇んで走り出す。下り坂は問題ないが、寒くて膝が冷えているので酷使したくなく、坂道の登りは髄分と自転車を押して歩いた。幹線に出て、昨日エフジェニアの車から見た景色の立体交差点に差し掛かる。


でも案の定、道を間違えた。思った方向に道が進んでない。俺は東にそれる道に入ってしまった。バス停付近に停まっていたタクシーのドライバに M60 に戻って、ハバロフスクに向いたいと英語で伝えると、英語が分かったようではなかったが、地図を見せると親切に戻り方を教えてくれた。

そして、直ぐにまた道を間違えた。でも、道路わきを歩く人が沢山居たので、若い二人の女性に話しかけて道を聞いた。若くインテリに見えたが、やはり英語は出来なかった。でもこの女性達も親切に道を教えてくれたので、幹線に戻ることが出来た。

ウラジオストックの幹線道路はどこの坂の連続だった。そして行き交う沢山のトラックから吐き出されるディーゼルの排気ガスは日本の幹線道路を思いださせた。登り下りの坂は大変だが仕方ないこと。でも、ディーゼルの排気ガスだけは我慢にならなかった。

M60 の幹線道路を北に進む。この道路標識さえ失わなければ次の都会、ハバロフスクに行ける。そこには別のCouchSurfing.com のメンバーのユリヤが泊めてくれる事になっていた。そこまでは760キロ位なので8日間で行ける距離だ。

M60 の道路わきには小さな店が所々並んでいた。その中の一つに、キャンプ用のテントを飾る店を見つけた。俺はキャンプの時にテントの下に敷くグラウンドシートを買う必要があった。店の中に入る際に、自分の自転車を入れても良いかと英語で聞くと、首を頷くので、店の中に入れる事が出来た。これで安心して買い物が出来る。

店の中には様々な物が並んでいた。キャンプ用品はその一角にあったが、グラウンドシートは見当たらない。店員は4人くらい居たが、誰も英語を話さなかった。でも、俺は、テントの下に敷くもので、テントの生地よりも厚くて丈夫な物が欲しいと言うと、一人のマネージャと思われる人が、付いて来なさいと言う。店の地下に入ると、色んな建築資材が残っていて、その中に何かの商品の宣伝用に作られたサインを見せてくれた。布をビニールのような素材でコーティングされたもので、明らかに水にも耐える素材だった。でも大き過ぎる。その人に切って分けて貰えるかと聞くと、好きなだけ切ったら良いと言う返事だったので、テントに必要な畳2畳分くらいの大きさに切った。

地下にあった不要な物という感じがしたが、幾らか支払おうと思ったら、俺へのプレゼントだからお金は要らないと言う。人の好意に甘える。節約できる費用は節約しないといけないので、助かった。お礼に、鶴の折り紙でもと思ったが、綺麗な紙が見当たない。仕方なくそのまま礼を言って店を出る。

道路脇に車を止めて下りた老人は、水を水道から汲んでいた。俺もそれに倣って水を自転車用の水のボトルに入れた。水道のレバーを押すと水は勢いよく出てきた。どうしてこんなに圧力が必要なのかと思うくらい勢いが良かった。ボトルに入れた冷たい水は美味しかった。日本以外の国で水を飲む時は気をつけた方が良いと言われるが、俺にはそんな言葉はどうでも良かった。水が無ければ先に進めない。下痢をしたらそれはその時だ。


何時だったか忘れたがウラジオストックの街を出て、暫くするとトラックや乗用車が沢山停まっている所に出る。レストランではなく、軽食を提供する店が軒を並べていた。各お店の前にはテーブルと椅子が並べられていた。

それらの店で、魚があるか聞いてみる。どこも英語は通じない。ロシア語会話集から魚「ルイーバ」という言葉を見つけ、何件か当たると3件目の店で魚が見つかった。冷凍にされたものを見せられたが、俺は肉以外だったら何でも良かった。その魚とご飯と小さなサラダで70ルーブルだった。パンは一切れ単位で料金を支払った。ロサンゼルスのコーヒーショップ等ではパンには料金が付いてない事が多く、御替りも自由だったので、これは非常に不思議な料金付けだと思った。

店の前のテーブルは全部埋まっていたので、小さな小道に入り、座れる場所を探すが見つからない。仕方なく、道路脇に座って食べる。紙のように薄い皿とデザート用と思われるフォークでの食事は簡単ではなかった。でも、食べられることはありがたかった。

食べ終えて、道を北へと進む。道は登り下りの連続が続く。何度と無く検問のように警官が立っていたが、俺には全く興味を示さず、むしろ無視されて寂しいくらいだった。


ある町の外れで、道路脇に自転車を止めて水を飲んでいると、ある男の人がレストラン(カフェ)から出てきて話しかけてくる。英語で、お茶かコーヒーを飲みたいかと聞かれる。一瞬、お茶にお金を払うのはどうかと思ったが、さっきの魚を食べたところの料金からしたら然程にならないだろうと思って、幾らかと聞くと、お茶のお金は要らない、と言ってくれた。

その人はアルメニアから来た人で、肉料理のカフェを営んでいたのだった。俺とそのアルメニア人は屋外にあったガゼボのような屋根つきの小屋の中に座ると、その人はウェートレスを呼んで、お茶を用意してくれた。不思議なことにそのウェートレスも英語を話した。彼女は名前を教えてくれたが、難しく忘れてしまった。

冷たい北風を受けて走る俺にとって暖かいお茶はとてもありがたかった。その人は俺がお茶を一気に飲んでしまったので、御替りのお茶と一緒にデザートのケーキもご馳走してくれた。そして別れ間際には、自転車に付けている水用のボトルにも温かい紅茶を入れて下さった。俺はそのアルメニア人にハグして分かれた。走り出して一日目、親切な人々に会えて、俺は幸先良いスタートを切った、とこの時は思った。(この時の思いが間違いだったとは永い事、気付かなかった。)



冷たい風の中を走っていても汗はかく。Tシャツの下着、長袖の薄手の化繊のシャツ、長袖のセーター、長袖のジャケット、そして長袖のレインジャケット。5枚を重ねて着て走る。登り坂では服を脱ぎ、下り坂では服を着る事を繰り返した。

夕方になり、M60 から東に外れた所に村があるのが見えた。もう疲れていたので、その辺に泊めてくれる安宿はないかと思って、ある民家を訪ねる。英語が分からるとは思わなかったのでロシア語会話集に書いてあるものを見せると、この辺には無いが、M60 の反対側だったらある、というような返事だった。

M60 の幹線から外れて村に入ったのだったが、反対に進まないといけない。数キロ損をしてしまった。西に向って、M60 を横切り、民家が見える方向に進む。疲れていて、どこでも良いからテントを張りたかったが、走り出して一日目、どこかに泊まりたかった。

道を進むと、店の前に10人位の高校生と思われる男子が居たので、会話集を見せると、もっと先に進んだら良いと言う。彼らが俺の事をからかっているとも思えたが、その道は北に向っているので、そのとおりに進む。

すると13歳くらいと8歳くらいの男の子二人が小さなバイクに乗って近寄ってきた。全く何を言っているのか分からなかった。でも、会話集を見せると、北に向ったら良い、とさっきの男子達と同じことを言って先に行ってしまった。

アパートのような集合住宅の一角にはお店が見えた。でも、店に行く気にはなれなかった。暗すぎる。店に入っている間に自転車を盗まれたら大変だ。

長い急な登り坂があり、俺は途中で自転車を降りた。とても自転車に乗って登り切れる距離ではなかった。自転車を押しながら進むと、さっき小さなバイクに乗った二人の子供がまた現れる。その辺りには珍しく建物の上に十字架が建っていた。そして直ぐに別の二人の青年が歩いて現れた。「アンニョンハセヨ」。会釈した彼らから聞こえた第一声だった。韓国語だ。俺は英語で日本人です、と答えると、二人は英語で、今晩は私達の教会に泊まって下さい、と言う。奇跡かと思った。どうしてロシアのこんな小さな村で韓国人に逢うのか。

教会に向って歩くと、いつの間にかさっきの二人の子供は居なくなってしまった。この二人の子供に俺は救われた。その子供の二人が俺の事を韓国人と間違えて、教会に駆け込んでくれていたのだった。

教会は大きな建物で建築中のようだったが、所々修復されたような箇所のある建物だった。教会の中の車庫に自転車を入れて、中に案内された。階段を登り、ダイニングのような大きな部屋をとおり、今晩俺が使っても良いベッドに案内された。その部屋には誰も寝泊りして無いので、自由に使ってくださいとの事だった。

そして直ぐにダイニングに案内されて、夕食を頂いた。教会には8人位の韓国人が寝泊りしていて、その人達の夕食は済んでいたのだったが、一人の韓国人男性の奥さんが、直ぐに色々なものを出してくださった。久しぶりに食べるキムチは特に美味しかった。(その男性は牧師だった。)

自分の食べたものくらい片付けるつもりだったが、疲れているでしょうからゆっくりして下さい、と気遣ってくれた。

夜の8時には夜の礼拝が始まった。皆、韓国語の聖書を手にしている。カトリックかプロテスタントか俺には分からない。でも子供の頃通った教会での礼拝を思い出した。実に35年振り位だ。常に牧師は、今日は何章の何を読みます、と朗読を始めた。この礼拝でも同じだった。

礼拝が終わると、神父の息子のモーゼはシャワーを浴びる手順を教えてくれた。温水ヒータは無い。電気のコンセントの付いたコイル状に2回ほど丸められたヒータを、水の溜まった大きなバケツに入れて水を温めるのだった。浴室の気温は低く寒かったが、シャワーを浴びれるとは思ってなかったので嬉しかった。

今日、着ていたもの全てがびしょ濡れ。Nike のTシャツだけが特別早く乾く素材だったので、唯一ドライなのはそのTシャツだけだった。着ていたものを全て2段ベッドの手すりなどに干した。

それから夜の11時位までモーゼと英語で色々な話をする。自分は幸運なのか。不思議なことに親切にしてくれる人が次から次へと現れる。無宗教者の俺でも神に感謝したくなった。

2008年4月27日 (1日目) ウラジオストック、エフジェニア宅




寝過ごしてしまったと思ったが、起きたら昨日と同じ午前2時だった。早すぎたのでベッドに2時間位横になり、時が過ぎるのを待った。しかし、それ以上寝ていても寝付けないのは分かっていたので起きて日記を書く。

日記を書き終えると自転車の組み立てを始める。組み立ててみると、大きな問題は無い。失くした部品も無いようだ。組み立てに1時間近く掛かったのだろう。前輪と後輪の横に付けるパニアにも荷物を詰めてみると、随分と余分な荷物を持ってきてしまったと思った。例えば、ソーラーパネル。あったら役に立つのは分かっているが、本当に必要かどうか分からない。パネルを丸めてもかさ張ったが、軽いのがせめてもの救いだ。そんな余分なものを持ってきて、後悔せずに役立ったと言える日が来るかも知れない。

腕時計は無いが、自転車の距離計に時計の機能があるので、日本よりも2時間進めて設定した。それがウラジオストックの時間だ(UTC+11)。その時間に設定すると午前の7時になってしまった。西日本と同じ位の緯度なのに2時間進んでいるので、春の7時にしては暗かった。外は小雨のようで寒そうだった。そして、陸地に近づいたようで明かりが見え出した。しかし、それは未だ遥か彼方に思えた。

外は次第に明るくなり、陸が見え出した。希望は無い。地球の果てに向っている気がする。大袈裟だが、そんな気分にさせる状況だった。せめて青空でも見えたら気持は晴れるだろうが、雲はどんよりと重い。もうここは一年の多くが青空のロサンゼルスではない。フェリーが発った伏木港での青空はもう無い。かつて今までにこんな状態で始まった旅があっただろうか。アメリカを横断したときも、縦断したときも出発はいつも晴れていた。自分が直面した状況を呑まないといけない。俺はロサンゼルスの天気に感化されてしまったようだ。人が恐れたシベリアに向おうというのに、こんな弱気になってしまった。

朝食はいつものように始まる。食事として先ずオートミールに似た物が出てきた。そしてスマッシュト・ポテト、それから茹でたキャベツなどだった。我々の担当の若いウェートレスは、俺が毎回肉だけを残しているのに気付いたのか、同じテーブルのロシア人が伝えてくれたのか、夕べの食事から、俺の皿には肉が出てこなくなった。その替わりに野菜が多く盛られていた。そんな気遣いはとても嬉しかった。

一緒に何度も同じテーブルで食事した3人のロシア人とはこれが最後だ。他に200人近くいるロシア人の中で、一番親しく感じたロシア人だったが、彼らとはお別れだ。

我々の担当のウェートレスは英語を話さなかったが、隣のセクションを担当しているウェートレスは英語が話せて、食事に問題が無いか初めて聞いてくれた。俺は、あなた方のアテンションに感謝していると伝える。

レストランを出てから、インフォーメーション・デスクに向う。そこの居たパーサーは、パスポートを返すのに少し時間が掛かるので待つようにとの事だった。俺はキャビンに戻って、下船の準備をする。暫くすると、船内アナウンスで俺の名前をパーサーが呼んでいる。俺はロシア語が出来ないので、いつも特別扱いだった。インフォーメーション・デスクに行くと、パーサーはロシアの移民局の審査は終えたと言う。一つ難題が去った。

去る4月3日にモスクワからの郵便がロサンゼルスの自宅に届く。ロシアのビザを申請するのに必要な招待状が届いた。インターネット上で探したモスクワの代理店に依頼していて、その現物が届いたのだった。最初はインターネットで探した業者よりも、少なくても日本語でやりとり出来る日本に事務所がある業者を利用して、招待状を入手しようとしたが、どこも良い返事をしてくれなかった。正確には、俺の自転車旅行の為の招待状は取り扱えないとの事だった。無理やりお願いして、先方に迷惑を掛けたらいけない。ある業者はモスクワの提携先に連絡して下さったが、断ってきた。無理も無い。俺には帰りの飛行機の航空券も、ホテルの予約一つも無い。友人も誰も居ない。誰が身元引受人になるものか。

だから俺は日本の業者の方々の迷惑になるかも知れないと、日本の業者を諦めてモスクワの業者を利用したのだった。

その時も未だ本当にロシアに行けるのか半信半疑だった。ビザを貰わないと、ロシアに向うことさえ出来ない。俺は翌日、サンフランシスコのロシア大使館に向った。善は急げと言うが、そんなものではない。旅立つことが出来るかどうかの大分岐点だ。

その昔、植村直己は南米アコンカグアと北米マッキンリー単独登山の許可を取り付けるために苦労したと本で読んだ。何日も何日もアルゼンチン軍指揮官に許可を願い、やっとの思いで許可を取る。単独登坂は許可されないとの事で、山岳部隊の一行として許可を取り付ける。

アラスカの国立公園の管理局でも、簡単に許可が降りず、執念の結果、アメリカ人の山岳パーティの一員として許可を得ている。

俺も何事も努力だと思っている。努力する者に手を差し伸べないのは間違っていると思う。もし不可能という運命だったら、俺は運命を変える必要があった。何としてもビザを貰わないといけない。ビザ無しには何も始まらない。

サンフランシスコに車を飛ばして7時間。大使館の場所は、ダウンタウンよりも、どちらかと言うと金門橋の近くのプレシディオに近かった。10時からの受付には間に合わなかったが、直ぐに場所は分かった。大使館の入り口は二つ用意されていて、ビザの申請用とその他のようだった。ビザの申請用の出入り口には、は監視用のカメラが目立つように取り付けられていて、ベルを押すとドアを押せば開けられる状態を知らせるブザーがなった。ドアを押して、敷地内に入る。建物の外にはロシアの国旗がなびいていた。

建物のドアを開けると、中には既に10人位の人が居た。順番を決める札は無い。ビザ取得の代行業者が何人も居て、そのうちの一人が俺の順番は誰の後、と教えてくれた。ソファと椅子が用意されていて、申請用の窓口は二つあったが、一つしか開いてない。そしてもう一つは受け取り専用みたいで、少し広い窓口だった。

30分くらい待つと、俺の番になった。受付の窓口にビザ申請に必要な書類類を差し出す。ビザ申請書、招待状、顔写真、個人の小切手は受け付けないとの事で会社の小切手、エイズ検査の証明書、日本のパスポート、アメリカの永住権、そして自己紹介だった。

顔写真はサンフランシスコに向う前夜に自宅で撮った。白い壁をバックにデジカメで撮影して、それを近くのKinko に持って行き、そこでプリントして、大きさが適当になるまで何枚もプリントした。顔写真が必要なのは分かっていたが、先に書いたように招待状が本当に来るのか分からなかったので、用意してなかったので、慌てて用意したのだった。

エイズ検査の結果は近くのクリニックから発行してもらったものだった。医師の署名はあるが、こんなものでは通用するのかと心配させられる紙切れだった。

窓口のロシア人の担当者は、今日ビザが欲しいのですか、と確認するので、今日欲しいと答える。パスポートを預けて、一週間後に取りに来るような猶予は無い。ビザが貰えるのだったら、今、この場で欲しかった。

ビザの申請書にも招待状にも、ロシアには商業で行く内容になっている。そして自己紹介(cover letter)には、どんな予定で、どこに行くのか記す必要があった。宿泊先の電話番号やファックス番号も記すように、とインターネット上のロシア大使館のホームページには記されていた。でも、俺には宿泊先など殆ど無い。殆どが野宿になる。ビザの種類は商業でも、正直に自転車で旅行して、極東からラトビアに抜ける行程を書いた。ビザ申請書とカバーレターは正反対の目的が記されているという事だ。でも、俺はアメリカを横断や縦断した時のインタビューを受けた際のコピーも持参していて、どうしても3ヶ月以上のビザが欲しかった。もしどうしても3ヶ月のビザしか許可されないのであれば、担当者に面会を申し込んでも、4ヶ月のビザが欲しかった。俺は、どう切り出したら良いか考えて無かった。とっさに、4ヶ月のビザが欲しいと伝える。すると窓口の担当者は、3ヶ月のビザが欲しいのですか、欲しくないのですか、という強硬な返事だった。俺はとっさに折れた。相談する余地はなさそうだと悟った。俺の思惑は一瞬にして崩れた。

書類を提出して、300ドルの小切手を渡すと、座って待ってくださいとの事だった。どれくらい待ったらいいかですかと聞くと、30分位です、との返事。

いつの時も待つ側の時間は永いものである。もしビザが下りなかったら、書類をもう一度書き直せば許可されるものなのか。一度、却下されたら一定期間申請が出来ないのか。300ドルの小切手を出したが、それは返金されるのか。不安が一杯だった。

俺の名前が呼ばれると、窓口の担当者は、俺の日本のパスポートとアメリカの永住権を揃えて返してくれた。ビザが下りたのか返事が無い。担当者は俺のパスポートのページをめくり、ここにビザがありますと、見せてくれた。感激の一瞬だった。俺の不安をよそに、商業ビザが3ヶ月おりた。4月27日からと7月26日と記されている。欲を言えば4ヶ月でロシアを自転車で走って横断できる距離と考えていたが、行けないよりも遥かに良い。

この瞬間にロシア行きが決まった。後はウラジオストックに行って、入国審査だけが問題だ。入国審査で、自転車を持ち込む商業ビザを持つ日本人が受け入れられるかが問題だった。

話は戻るが、パーサーは移民局の審査が終えたと言う。残るは税関が問題かと思った。船を下りるタラップの前、インフォーメーション・デスクの前には沢山の人が順番を待っていた。タラップの所には、制服を来たロシア人が立って、一人一人のパスポート等を確認していた。

キャビンに戻り、自転車や荷物をインフォーメーション・デスクの前に持ってきた。そして列の最後に並んだ。しかし、パーサーの指示だったのか、制服を着た女性が俺を呼んだので、列を割り込んで先に進む。誰も文句を言わなかった。その女性は俺のパスポートを見て、下船しなさい、首を振った。俺は疚しいことは何も無い。只、目的とビザの種類が合致しないだけだと、自分に言い聞かせて平静に努めた。先ずは自転車をタラップを伝って下ろす。そして、自転車から外してあったパニアを2回目に降ろす。

ウラジオストックの、そしてロシアの地を踏む。感激も何も無い。不安で一杯だ。雲は低く、みぞれで、寒い。素早く自転車にパニアを取り付けて、ロシア人の後を追う。

そして比較的大きなビルに入る。すると深緑の制服を着た職員が、Russian Citizen と英語で書かれたサインの方に来るように手招きする。何故か俺は間違っているとは思わなかった。間違いでも何でも良い。これが最後の砦だ。ここさえ超えてしまえば俺のものだ。

再度、平静に努める。俺の前に並んでいた人の行動を見張る。移民局の審査は終えたとパーサーは言っていたが、ここでもパスポートを確認している。恐らくこれが本当の入国審査で、船の上での検査は、只単に、書類が整っているかだけのものだったのであろう。

前の人の審査は5分位だった。俺の番が来た。世紀の瞬間だ。ロスから成田まで飛行機で、成田から伏木まで電車とバスで、そして伏木からフェリーでやっとウラジオストックまで来れた。ここで帰れ、と言われても困る。入国させて貰えないと困る。

制服を着た女性の審査官とは僅かな隙間で目を見て確認する。彼女は一言、英語で、パスポートと言った。俺から審査官の肩から下は見えない。只、審査官からは天井にあるミラーで俺の背中も見えるようになっている。俺の自転車が見せているはずだ。パスポートには商業ビザがある。どう考えるのだろう。俺のビザの申請書にはモスクワにも行くことになっている。彼女にはそんなデータへのアクセス権があるのだろうか。多少の不安はあったが、以前のような不安ではなかった。まな板の鯉だ。審査官が何をしているのか全く分からないので、待ち時間は永く感じられた。でも、審査官は何も言わずに何かにスタンプを押して、俺のパスポートを返してくれた。

そして、先に進む。税関だ。さっきの審査官とは、うって変わって、今度は広い部屋に制服が何人も待機している。3つのグループに分かれていて、それぞれに上級の審査官と思われる担当者が居た。その中で一番若い審査官に呼ばれる。先に進むと、どこかの旅行案内にあった税関の申告書が目に入る。

他の二つのグループの審査官は年配なのに、この審査官は若かった。どうやら、この審査官だけが英語を理解しているようだった。そして、俺は通関の申告書を渡された。そして、ロシア語の用紙だったが、その審査官は親切に、どこには何を書くのか教えてくれた。そして、俺の所持金を聞かれたので、5000ドルと答えておいた。

そして用紙の裏には、一台の自転車を記入する。そして小型のコンピュータを持っていると伝えるが、それは書かなくて良いと言う。何でそんな物を書く必要があるのだ、と言わんばかりだが、害を蒙るのは俺なので、買きたいと言うと勝手にしろ、という感じだったので、コンピュータも追加する。それからソーラーパネル、テント、寝袋などを記入した。

審査官は、用紙に沢山のスタンプを押した。そして、俺が勝手に記入できないように空白のスペースには線を書き入れた。通関の時間は10分くらいだった。

そして、俺は同じフェリー「ルーシー号」で来たと思われるロシア人の後を付いて進むと、部屋の外に出た。これで入国審査の全てが終わったのだった。永いこと心配した入国審査だったが、無事に終えた。一悶着あるかもと覚悟していたので、あっさりと終わって助かった。ロシアの旅行がこれで始まる。大陸横断への旅行が始まる。



全ての入国審査が終わり、ドアを開けて部屋を出ると、沢山の出迎えの人が居た。恐らく俺が乗ってきてルーシー号の乗船客の出迎えだと思う。

出迎えの人達の周りには二つのドアがあった。俺は英語で、「どのドアが電車の駅への出口ですか?」と聞いたが、誰も返事をしてくれない。仕方ないので、何のサインも無いドアで、何度か人の出入りが見えたドアを開けてみる。果たしてそれが俺の望んでいる出口へのドアかどうか分からないが、少なくても制服を着てない人が出入りがあるので、俺が行っても問題ないと思った。そしてそこには狭い通路と数段の階段があって、それを降りてその先の別のドアを開ける。

そこはビルの外側で、線路が沢山あり電車の駅はその線路の反対側だった。自転車を持ち上げて線路を越えても良かったが、大変そうだったので止める。

建物から出てきたドアから中に戻り、さっきの部屋に戻り、今度はもう一つのドアを開けて、階段を登る。通路も階段も行き交う人が少なかったので、自転車を持って移動する俺には好都合だった。1階登ると、そこには小さな店が並んでいた。これが一般的な出口だろうと直ぐに分かった。そして俺は公衆電話を探した。自転車を押しながら移動する俺を誰もが不思議そうな顔で見ているのが分かる。

公衆電話は見つからない。でも、先方から一人の婦人が近づいて来るくる。ほんの一瞬の出来事だったが、俺のこの困った状況を聞いてくれそうな感じがした。そしてそれは、直ぐに今晩泊めてくれる予定になっているエフジェニアだったらどんなに嬉しい事か、との願いに変わった。そして婦人は俺の名前を聞いてきた!何と言うことか。CouchSurfing.com のメンバーで、今晩泊めてくれる予定になっているエフジェニアだったのだ。願っても無かったのに迎えに来てくれていたのだった。俺は、まるで無抵抗の少女を抱くように自分からエフジェニアに抱きついてしまった。無意識に近い状態だった。嬉しくて堪らなかった。

例え、公衆電話が見つかったとしても、ルーブルを持ち合わせてない。小銭も無い。電話の掛け方さえ分からない。そんな状況でエフジェニアに会えたことをとても幸運に思えた。その事を彼女に伝えると、英語の問題だったのかどうか分からないが、自分は当然の事をしてます、と言わんばかりだった。

俺はこの時に初めてロシアに来たと実感した。不安も当然のように消えた。何と素晴らしいことか。商業用のビザで、自転車を押して下船してきた俺をロシア連邦は受け入れてくれた。二人で港湾の建物を出て、下に線路が走っている橋を渡る。小雨でどんよりした雲はどうでも良かった。只、嬉しかった。

エフジェニアのSuzuki の小型SUV は橋を越えた所にある駐車場に停めてあった。右ハンドルの日本からの輸入車だ。彼女は自転車を車に乗せられないかと言う。無理だ。タイヤを外しても、分解しない限り入らない。彼女に俺は自転車で後を付いて行くと伝え、駐車場を出る。

道路を行き交う車は日本からの輸入車が多い。そして、路面電車が走っている大通りを進むエフジェニアを追いかける。坂があったが、エフジェニアは時々車を停めて待っていてくれた。そして大通りから離れて小さな道を進む。途中アメリカのブランドのオイルの広告を見つける。恐らくトラックか乗用車の修理工場の宣伝だろう。線路の下をくぐって、アパートのような建物が沢山見える場所を進み、海が見える所で、エフジェニアは車を停めた。駅から15分くらい走っただろうか。彼女の家の前に着いた。オーシャンフロントと言えば聞こえが良いが、北国のオーシャンフロントは風が強く冷たかった。無理も無い。ここは札幌と同じ位の緯度だ。4月下旬とはいえ春とは思えない。

エフジェニアは、住んでいるのはこの上です、と言う。俺は、エレベータはありますか?と聞いた。愚問だった。でも、彼女は質問に答えず、黙って階段を登るので、俺も自転車を持ち上げて登る。するとエフジェニアは息子を呼んでくれて、俺の自転車を持ち上げるのを手伝ってくれた。幸運にもその息子も英語を話せた。3階に自転車を持ち上げて、彼女のアパート風マンションの中に自転車も入れる。家の中は暖かかった。玄関口にあったベンチに俺は座らせて貰って少し休んだ。もう大丈夫だ。このロシアの都会でテントを張らずに済む。今晩寝る場所は確保できた。疲れが出たのだと思う。




少し休ませて貰った後、エフジェニアの娘さんの部屋に案内された。娘さんは日本に留学中で、今日はその部屋を自由に使って下さい、との事だった。広い部屋に一つのベッド、大きくも小さくも無い箪笥と机が置かれていた。さすがに女の子の部屋で綺麗に片付けられていた。

俺はベッドに横になると、数時間寝てしまった。寝ている間に訪問者があったようで、数人の女性の声が聞こえたが起き上がる必要も無いし、その気力も無かった。

そして午後3時位に起きると、エフジェニアは簡単な食事を用意してくれた。鮭の切り身、蜂蜜、パン、そして紅茶を頂く。全てが美味しかった。

俺はエフジェニアに米ドルをルーブルに交換したいのと、携帯電話を買いたいと伝えると、車で連れて行ってくれるという。左側の席の助手席に座り、10分位でスーパーマーケットのような所に着く。その建物には小さなお店が入っていて、その中で米ドルのトラベラーズチェックをルーブルに変換できた。銀行の出先なのか分からないが、一人の職員が中に居て、比較的簡単にルーブルに交換してくれた。

そして携帯の店に行くと、その時にロシア人以外は携帯電話を買えないことが分かった。でも、エフジェニアは彼女の名前で買えるので、一度家に戻って彼女のパスポートを持って出直しましょう、と言ってくれた。パスポートを取りに戻り、また店に戻り、俺は携帯電話を買う事が出来た。一番安いものだったが、別に問題は無い。電話を受けられればそれで良かった。

携帯電話は、受信が無料で、電話を掛けると1.75 ルーブルとの事だった。150ルーブル分を買って、SIMカードも使えるようにしてもらった。

俺はロスを出る前に、ソーラーパネルの発電は12.6 ボルトにステップダウンするようDCDCコンバータを取り付けていたので、自動車のシガレットライターから携帯電話を充電する為のアダプタを買いたかったが、その携帯の店には無かった。エフジェニアはどこで売っているか店員に聞いてくれたようで、我々はその店に向う。車で僅かの距離だった。そして、そこは中古の携帯電話も売る店だった。アメリカには中古の携帯電話を売る店が無いので少し驚いた。そして、シガレットライターのアダプタを買って、その並びにあった本屋で極東地方(プリモルスキー・クライ)の地図も買った。

これで準備万端だ。不足している石鹸やシャンプーなど小物は未だあるが、あとはどうでも良い。

お店を後にして、エフジェニアはビーチに連れて行ってくれた。夕方が近づいていたが、寝る場所は決まっているので何も恐れるものは無い。街を北に進み、ある道を左に曲がり東に進んだ。そして少し坂を登って下ると、海が見えた。寒い。エフジェニアは、昨日雪が降ったので山に雪が沢山残っているのだと言う。山から吹き降ろす風は冷たく、ビーチを歩く人は10人位しか居なかった。でも、肉料理の店等が客を待っていた。ビーチを散歩してみるが、風が冷たく10分ほどで戻ることにする。道行く人に記念写真を撮ってもらった。伏木の港を出てから始めての写真だった。



ビーチからは、来た道を戻り、途中で清水を水のボトルに汲んで帰る。そこでは同じように水を汲んでいる人が10人くらい居たので人気の水のようだ。我々はボトルを3つしか入れなかったが、中には10個位のボトルを持っている人も居た。エフジェニアは、この水で飲むお茶は特に美味しいと言っていた。


幹線に戻ると、エフジェニアは俺に、明日はこの道を北に進めばハバロフスクに行けると教えてくれた。嬉しいアドバイスだった。自転車の旅行にとって、道を間違えるのは大きな痛手なので、道の雰囲気がつかめたので助かった。

エフジェニアは警察官を教育する部署で働いているそうで、もし検問か何かで止められても、殆どの警官を知っているから何も心配要りません、等ととても頼もしいことを言っていた。

エフジェニアの家に戻る際に、ウラジオストックの幹線道路の交差点を幾つか通る。自転車に乗っている人は一人も居ない。高速道路のようにみんな飛ばしていくが、料金所は無い。道路には坂が多く、立体交差が幾つもあった。

家に戻ると、エフジェニアは直ぐに夕食の準備をしてくれた。味は馴染み深いものでは無かったが、暖かい部屋の中で、誰かと一緒に食べられることが、とてもありがたかった。そしてシャワーも浴びさせてもらった。それからロサンゼルスの家内に電話して、携帯電話の番号を伝えた。これで恵子からの電話を受けられる。

エフジェニアはSkype を使って、日本にいる娘さんを呼び出した。名古屋の大学で勉強しているそうで、娘さんとは日本語で挨拶をした。Skypeの電話を切ると、エフジェニアは俺を夜の街に案内してくれると言う。非常にありがたかった。恐らく殆どの旅行客が喜ぶ事だったのだろうか、俺にはそんな余力は無かった。本当なら車の中で寝てしまったとしても行くべきだったと思うが、俺は断ってしまった。でも、本当に嬉しかった。初めて会う異国の人をこんなに歓迎してくれるとは、下船する時には全く想像できなかった事だ。

さあ、明日から本番だ! 1万6千キロ離れたユーラシア大陸の西の端を目指して。