夕べは外の気温とは全く関係なく、部屋の中は温かく熟睡できた。昨晩4人全員が一部屋に寝た。俺だけがソファを広げたベッドで寝た。俺がもし居なければマリーナとアーニャがソファのベッドに寝て、マーシャがエアマットレスに寝たのであろう。見ず知らずの俺に親切にしてくれる3人には感謝だ。
起きてから日記を書く。そして直に3人も起きてきた。朝食の用意をしてくれて、俺を真っ先に食べさせてくれた。ロシアに入って二日目の日の朝に、ラズドルネという村の韓国人の教会で玉子焼きを頂いたが、卵を食べるのはこれが2回目だった。
もし旅行中に調理をする事があればきっと玉子焼きを良く食べたのだろうが、俺には調理道具もないし、ロシアのビザが3ヶ月しかないので急ぐ必要があって、俺はいつも店で買える食べ物だけで過ごしてきた。だから、この女性達の作る料理はとても嬉しかった。
朝食の後、4人でアパートを後にしてパレードを見に行く。1945年5月9日、ロシアがドイツに対して大戦の勝利を宣言した日だそうだ。歴史に疎い俺は日本が敗戦した日よりも早くドイツが降伏していた事だけは覚えていたが、それが日本よりも3ヶ月も早かったとは知らなかった。
外は寒いというので、マリーナの父親のコートを借りて外に出る。階段を下りるのは辛かった。まだサイクリングを始めて850キロくらいしか走っていないが、昨日の疲れもあるだろうが、左膝の痛みもあり階段を降りるのに時間がかかった。
道路に出ると、西に向う。東側には昨日マリーナとマーシャが待っていてくれたバス停があるが、今日は西側の幹線道路に向った。マリーナのアパートのある集合住宅の東側と西側の両方に幹線道路があったのだ。
今まで2枚はいていたスエットパンツだが今日は黒いスエットパンツ一枚だけ履く。ハバロフスクの朝はこの一枚では寒く膝には良くないと思ったが、汚れたグレイのスエットパンツを履いてパレードに行く気はしなかった。これで風邪でもひいたら大変だとも思ったが、雨は降りそうも無く、温かくなるだろうと願った。
でも、幸運にもバス停で待っていると小型の乗り合いバスは間も無く来た。ロシアで初めて乗るバス。マルシュルートカ(Маршрутка)と呼ばれているものだった。小銭を3人のうちの誰かが俺の分も支払ってくれた。10ルーブルか15ルーブル位だったと思う。
10分位バスに乗ってハバロフスクの中心と思われるレーニン広場に近付く。バスは通行止めの為か、先に進まないので途中で降ろしてもらって歩き出す。パレードが丁度始まるところだった。
(左上:マーシャ、マリーナ、アーニャ)
退役軍人が乗ったオープンカーが何台も行く。そして、マーチンバンドや様々な団体のグループがパレードを飾る。行進の終わりのグループには一般人が行進に加わる。その中には旧ソ連の国旗を掲げている老人も居る。中にはベンツのパトカーもパレードに加わっていた。負かした国の車を、その記念日に乗るというのはどういう意味なのかよく分からない。裕福な市警察を誇示するためなのか。俺には不思議に思えた。
我々4人も一般人に混じって続き、レーニン広場から西に向けアムール川の方角に歩いた。道路脇にも様々なグループがパレードの行進に声援を送っていた。郵便局の前には、ハバロフスク市制定150周年記念の黄色いシャツを着た若者がロシアの国旗を振って盛んに何かを叫んでいた。
そしてパレードの行進は青い屋根の大きな教会のある交差点を南に向った。坂道を下って、その先の別の教会の方に向っているのだと言う。我々はその交差点でパレードの行進から外れて、その青い屋根の教会の近くの博物館に行く事にした。でも、博物館に行ってみると、入場券が無いそうで入れなかった。少し待ってみたが、仕方ないので歩いて他の場所に行くことになった。
(右上:運動公園への門)
そこからアムール川に近い道を北に歩くと運動公園があった。陸上競技場を中心に、大きな敷地に沢山の施設がある。そこに入るには大きな門があったが閉まっていたので脇の小さな門から入る。広場には車両兵器が並べられていて、子供達が群がっていた。戦争とは無縁の小さな子供が何も分からず戯れる。
広場にはテントが沢山あり、それらの下では様々な食べ物が売られていた。また広場の一角では沢山の人が列を作っていた。白い帽子を被った人が居たので、何かの食べ物を配っていたのだと思う。
我々はアムール川が間近に見える所に出る。南の川上には中国の山並みが見える。そして、北の川下には鉄橋が見えた。俺はこの鉄橋を渡ってモスクワを進むのだ。
青い屋根の教会の広場に戻り、レーニン広場に戻る事にした。途中、サッポロという和食レストランを見つける。ハバロフスクでは有名なレストランらしい。我々はその近くの地下にあったファーストフードの店に入って食事をした。俺は初めて彼女達に礼をする機会を得たと思い4人分の食事を支払った。でも料金が高い店だったのか、何故か彼女達は遠慮して少なめに注文したように思えた。店の中はお客で一杯で、家族連れには人気な店のようだった。
(左上:アムール川 ) (右上:レーニン広場)
道路わきには沢山の店があり、幾つかのスポーツ店に入ってみたが、自転車のハンドルに巻くテープは見つけられなかった。気が付くと一人仲間が増えている。マーシャとマリーナの友人で名前はリーリヤ。日本語は殆ど出来なかったが、非常に興味があるようで、俺とマーシャの日本語の会話には耳を立てていた。
それから記念日なのに銀行が開いているのが分かったので、換算レートを確認すると1ドル23.1 ルーブルとの事だった。他の銀行も同じようなレートなのか気になったので、他の銀行も探したが、同じようなレートだった。
レーニン広場に戻ると、民族衣装を纏った人達が集まっていた。子供達の衣装は白が主体で、婦人の衣装は赤が主体だ。違った民族なのか、子供と大人で衣装が違うのだろうか。子供達の写真を撮っていると、責任者と思われる民族衣装を纏った婦人から、子供達と一緒に写真に入って欲しいと頼まれる。俺は背が高いので目立つのは分かるが、どうして俺なのか不思議だった。でも、写真に入って欲しいと言われ嬉しくて、その婦人の他にも何人もの人が写真を撮っていた。
(右上:水色のマフラーはリーリヤ、マーシャ、俺、アーニャ)
その後、リーリヤの知人の雑誌記者のインタービューを喫茶店のような店で受けたのだが、インタビューの前に、マリーナとアーニャ姉妹は自宅に戻り夕食の支度をすると言う事で先に帰っていった。
エクストリーム・スポーツの雑誌の記事にしたいとの事だった。自分では俺のサイクリングは距離が長いだけで特別とは思わないが、やはり一般的にはエクストリームなのだろう。人が俺のやっている事に意味を見出してくれるとは嬉しい限りだ。
しかし、人との繋がりとは実に面白いものだ。ウラジオストックの北の町ウスリースクではその前日に御世話になった韓国人留学生の知人で日本語を教えている廣田先生の生徒がテレビインタビューに取り持ってくれた。そして、それから数日後、ルチェゴルスクではウラジオストックのエフジェニアの友人のリタがテレビインタビューを。そして、ハバロフスクでは、エフジェニアの友人リタの知人の娘さん(マリーナ)の友人(ユーリヤ)が雑誌のインタビューを取り付けてくれた。
どれ一つとっても、一つ何かが違えば結果が全く別なものになると思う。例え何か一つが違っても、俺はそんなインタビューを受けられたのだろうか。只の偶然なのか。これは運命なのか。答えが出ないのは分かっているが、泊めてもらえたり、水やお茶を頂いたり、様々な幸運が続くのが俺には不思議で仕方ない。
寒い北風の中を走るのは確かに辛い。左膝が壊れてしまうのではないかという不安も確かにある。しかし一度、人の笑顔に触れたら、不思議と辛い事を忘れて自分は幸運だと思える。俺は極度に楽天的になってしまったのかとも思ったが、そうではないと思う。俺が既婚であっても、一人の男と見て近付いてくる女性もいるだろう。しかし、分からない。分かっているのは良い人が多いと言う事だ。俺は何に感謝したらいいのか。誰か教えて欲しい。
インタビューの後トローリーに乗ってマーシャは俺を自転車店に連れて行ってくれた。しかし、祭日の為か店は既に閉まっていた。俺は左膝の事もあり数日休む事を決めていたので、マリーナはまた明日来ましょう、と言う。自転車店から歩いてもう一度アムール川の辺に戻った。今朝の時よりも沢山の人が居た。マリーナと二人で歩いていると、とても昨日会ったばかりの女性とは思えなかった。マーシャは英語よりも日本語が得意で、俺は彼女に分かるように少しゆっくりと分かりやすく話した。彼女の日本語はロシア語のアクセントがあり少し変だが、日常の会話には全く問題ないくらい良く日本語を話した。
青い屋根の教会の近くから別の教会まで歩いて行くと、そこには戦死者を奉るような記念碑があり、今日は記念日とあり花やろうそくが供えられていた。
その近くでバス(マルシュルートカ)に乗り、マリーナとアーニャのアパートに向う。朝バスに乗った場所の道の反対側で降りる。
アパートに入ると、アーニャはアーニャの携帯電話をPCに接続して、インターネットが使えるようにしてくれた。俺はEメールを読んで幾つかの返信を書いた。マリーナは、俺のMTS の携帯の料金の事を調べてくれて、プランを変更してくれた。俺は受信は無料と思っていたが、実は有料でその為に、ハバロフスクで元々泊めてもらう予定になっていたユーリヤに電話しようと思ったときには残高が無くなってしまい電話できなかったのだった。マリーナは、今後は相手の携帯電話会社がMTSの場合は1分2ルーブル、他のネットワークの場合は8ルーブルと教えてくれた。
夕食は昨日と同じように沢山の皿が食卓を飾った。俺は女性に囲まれて食事をしたわけだったが、俺には彼女達が昔からの友達に思えた。親子のように年の離れた年下の若い女友達なんてありえないが、不思議と親近感があった。
夕食の後、マリーナは俺の衣類を洗濯してくれた。洗濯が始まった後で、俺は未だ一度も洗ってないオレンジ色のジャケットも洗濯機の中に入れた。暫くすると、マリーナは洗濯機の中にオレンジ色の俺のジャケットを見つけて、「どうして色物の服が洗濯機の中に入っているの~!?」というような事をロシア語で叫んだ。これに俺には可笑しくて仕方なかった。マリーナに俺が入れたと説明すると、「他の衣類にオレンジ色が付いてしまうでしょ?」と言ったが、俺はそれでも構わないと答えた。俺にとって、白いTシャツや下着がオレンジになっても、それはどうでも良い事だった。マリーナも直ぐに理解してくれて、それもそうだ、と二人で大笑いした。
マリーナとマーシャは去年日本に行った時の写真を沢山見せてくれた。彼女達がどんな歓迎を受けたのか俺には分からない。でも、俺を歓待してくれる彼女達の仕草からしたら、きっと嬉しい思い出が沢山あるのだと思った。