2008年7月18日 (83日目)ウラジミール市、M7 625Km


朝は5時45分位に起きる。誰かに起こされた気がした。ドアを叩く者も誰も居ないのに。

昨日の後輪のスポークが折れて居ることで気が重かった。モスクワまで300キロ以上ある。その距離を折れたままで行ったら更にリムが狂ってしまうので出来ることなら修理したかった。朝起きて寝袋などを片付けた後、自分でスペアのスポークを入れ替えて見ることにした。果たしてどこまで正確にリムを調整できるか分からない。運良く車用のツールが店にありそれを借りてフリーウィールは外す事が出来る。しかし、7千キロ以上走り続けたフリーウィールは固かった。ネジが緩まない。どれ位の加重が過去2ヶ月の間に掛かった事か。車輪を立ててツールを手で持って体重を掛けて回そうとしたが一向に回る気配が無い。でも諦める訳には行かない。モスクワに行って修理する事にしたら、その間にどれだけリムが狂う事か、もし修理しないで進んだら段差が気になってどんなにサイクリングがつまらない物になるだろうか。

力任せにネジを回したら壊れるのは分かっているが、回してフリーウィールを外さない限りスポークを入れ替えることが出来ない。諦め半分で何がここで出来るか暫くの間考えた。そして今までやった事の無い事を思い付いた。今まではツールを手か足で押せば緩んだが今回は何をしても駄目だなので、座って車輪を横にして足でツールを押して車輪を手で回すことにした。車用のツールは長かったが、その長さよりも車輪の直径の方が長かったので、全身の力を振り絞って思い切って回すと緩んだ。これで難関が一つ去った。

その後で折れたスポークのネジの部分(ニップル)とスペア部品として持っていたスポークのネジの部分を比べると同じだった。これが違ったら使い物にならない。そして今度はスポークの長さを比べると、新しいスポークの方が少し長い。ペンチで数ミリを切り落としたがそれでも長すぎる。仕方ないのでパンク修理用のパッチを切り落としたスポークの先に当てて保護することにした。

それからスポークのニップルを回してリムを調整する。マイナスのドライバをフレームに押さえて固定してリムを回す。振れ過ぎている箇所はドライバの先に当たる。当たるとドライバを抑えている手には鈍い感触が伝わる。ハブの左側と右側に繋がっているニップルを反対に回してリムが左右に振れを少しずつ収まるように調整する。少しニップルを回してはリムを数回転させて振れの量を確認しながら進める。時にニップルと1回転回して見たり、時には4分の1回転といい加減ではあったが30分から45分くらい経過したのだろうか。調整に疲れた。でも妥協できる位の振れに収まった。本来はリムがハブの中央に納まるように調整しないといけないが無理な話だ。

でも、自分の技量とリムの調整台無しではこれ以上正確に調整は不可能であろう。タイヤとチューブを戻して空気を入れた。もう一度リムの振れ幅を見るが、残念ながら僅かに振れている。仕方ない。これ以上は無理だと自分に言い聞かせ諦める。出来ればモスクワまでスポークを折らずに行けたらとりあえずインタビューには間に合うだろう。

昨晩夕食をとったカフェに行って朝食を食べる。4個の玉子焼き、マカロニ、パン、紅茶などを食べる。自分の為に寝る場所のスペースを提供してくれた背の高い人にお礼を言って分かれる。どうしてか分からないが、昨晩は自分の家に戻らずに車の中に寝たようだった。暑い夏しか出来ない事だろう。奥さんに電話してくれたり、使ってない物置の部屋を片付けてくれたり、とても親切な人だった。何を彼をそんなに動かしたのだろうか。もの静かな青年で言葉が少なくそれが尚更心残りだった。

   
(左)黄色のシャツを着た親切な青年、(右)昨晩の夕食と今朝の朝食を食べたカフェ

7時45分位だっただろうか走り出す。走り出してから古いMegaPhone のSIM にメッセージが入ってないか気になったので、入れてみるとモスクワのいちのへさんからのSMSを二つ受信した。来週の月曜日の15時30分にインタユーで、その翌日にはディナーを食べましょう、という内容だった。もう一通のSMSは送信者が誰か分からないが、メールアドレスを教えて欲しいとの事だった。

モスクワで泊めて貰える場所を探して一度はいちのへさんの家に泊めて頂けることになっていたが、昨日になって泊まれない事が分かり、いちのへさんは替わりの家を探して下さっていた。そしてSMS を何度かやり取りすると、いちのへさんは電話で話しましょうとなり電話すると、泊めてくださる家は見つかったけれどモスクワの中心に近いかどうか分からなかった。とりあえず探して下さるのは有難いことだ。只、ロスの家から送って貰った自転車の部品のフリーウィールは早くて月曜日に届くとの事だった。間に合わないかも知れない。ロシアのビザの期限が迫っている。モスクワに居座って部品を待てばモスクワからラトビア国境まで自転車ではなくて電車かヒッチハイクする必要が生じる。とりあえず先に進む。

   
(左)遥か彼方に道が真っ直ぐと進む

少しの追い風で13時までに65キロ位走った。カフェを見つけていつもの玉子焼き、マカロニ、サラダ、ジュールなどを食べる。携帯電話の電池が少なくなっているので、カフェで充電しながら日記を書く。そして手と顔を洗面所で洗うと、一人のウエイトレスがペーパータオルを持ってきてくれた。思いがけない親切に驚いたのと同時にとても嬉しかった。カフェの中は冷房が効いていて良かった。玉子焼きにはトマトとハムが混じっていた。今までは玉子焼き(ラズーニャ)と注文すれば必ず卵だけだったがこのカフェは違ってハムが入っていた。ウェートレスが気を利かしてハムを入れてくれたのだろうか。俺は肉が嫌いなので肉は避けて食べているが、今日はハムを除けずに全てを食べた。

   
(左)昼食を食べたカフェ、(右)カフェの前の駐車場

カフェを出て走るが華氏90度の中を走るのは暑かった。昼食の後と昨晩の睡眠が短かった為か眠い。しかしその眠さは一つの登り坂で吹っ飛んだ。そして以前に比べると路肩は広いし登りも下りも少ないが暑さが増して走るのが大変なのには変わりなかった。只、向かい風は無く無風に近かったのでそれで助かった。

ウラジミール市への道の分岐点では、モスクワ方向に進むとKm マーカーは1から始まりバイパスである事に気づく。54Km と反対側の車線の標識にあった。先に進むといつものように夕立が来た。先に見える黒い雲から雨が降っているのが分かったので、ゆっくりと走って雲の流れるのを見ながら走ったら、見事に雨に当たらずに済んだ。しかし、Kemerovo に住むウラジミールからSMS が来たので返事を書いていると夕立の雲の続きがあってその雨に当たった。15分位の短い雨だったが、沢山の雨が降ったのか路面が全部濡れていて、仕方なくレインギアを着たまま走った。モスクワのいちのへさんからの電話を受けていた事を後で知った。

   
(左)ウラジミールの街の中心を進む道とバイパスの分岐点、(右)夕立の後

電話してみると案の定モスクワでの宿泊先は未だ見つかって無いとの事だった。いちのへさんから宿泊先の確認のSMS が来てなかったので気になっていたが的中してしまった。Kemerovoのウラジミールにモスクワに友人知人は居ないかSMSで聞いてみると、今近くを走っているウラジミール市のイリーナさんという人を見つけてくれて、今晩泊まれると言う。只、どれくらい走ったらイリーナの家に着くのか気になった。バイパスを走っているのでウラジミール市は別の所だ。近くに故障の為に止まっていたトラックの運転手にウラジミールからの電話を替わってもらって、イリーナの家はそう遠くないことが分かる。街に進む道路を進むことにする。標識には5キロとあった。街は明かりが灯っているが、郊外なので街灯がなくて暗い。工場が並んでいるが誰も居ない。道路を行き交う車も少なく心細かった。途中お店を見つけて飲み物を買いたかったが、止まる事が出来ない、止まる気になれない。早くイリーナに会う場所に行きたかった。どこでも良いので寝床を確認したかった。線路を越えるにはループを登る必要があった。登りたくない。もう体力はとっくに尽きている。でも進まないといけない。

何人もの人にイリーナと待ち合わせているゴールデン・ゲートの場所を確認しながら進んだ。あるバス停の近くにで道を聞くと、一度に何人もの人が競うように自分が教えてあげると喜んで道を教えてもらう事が出来た。ウラジミール市の中心に向かう道の名前は「プロスペクト・レーニン通り」。ソ連の生みの親の姓名が付けられている。そしてそのレーニンの名前はこの街の名前としてウラジミール市。レーニンが死んだ後のソ連の指導者スターリンの評価は低いのか、銅像は見たことは無いが、レーニンの銅像は何処にでもあり、道の名前にもなっているし、今居るロシア有数の市の名前にもなっている。レーニンとスターリンとでは大きな差があるように思った。

ゴールデンゲートでイリーナを30分位待っている間に持っていた缶詰の魚とパンを食べる。広場の前には若者が集まって賑やかだった。そうこうしているとイリーナと息子のアンチョンが自転車で迎えに来てくれた。3人共自転車に乗って下り坂を進みイリーナの住むフラットに向かう。15分くらい走ったが殆ど下り坂だったので明朝はいきなり上り坂になる。不思議な事にどんなに疲れていても明日の事が気になるものだった。着いてから自転車を離れの車庫の中に入れさせて貰って、典型的な集合住宅の階段を上りフラットに着く。シャワーを浴びさせて貰って、その後に軽い用意していただいた夕食を食べる。イリーナは数年前にご主人を亡くしていて、ご主人が残した無線機などがそのまま残っていた。コールサインも残されていた。真空管の無線機もモールス電鍵もあったので、そうとう長いこと無線をしていたのだろう。Eメールも確認させて貰えたので、恵子に新しい携帯電話の番号を念のために送った。

2008年7月17日 (82日目) 473Km


朝4時前に目が覚めると明るかったが早すぎるので何度か目が覚めたが寝ているといつの間にか6時15分くらいになってしまい日は高く上がってしまった。夕べは暑くて寝苦しかったのでテントのフライを半分開けて寝たが朝方は冷えていた。テントを片付けて朝食に昨晩無料で食べされて貰ったカフェに行き、魚とマカロニ、トマトときゅうりのサラダ、それとオレンジニュースを買って食べた。食べ終えてカフェを出ると7時15分くらいだった。今朝はテントのフライが朝露に濡れてなかったので早く片付けられた。

  
  
上り下りの道、そして悪路を進むが、Kstobo の街に入ると道は良くなった。街の中心と思われるレーニン像がある広場の前でいつもの黄色の携帯電話の店に入りMegaPhoneのSIMが欲しいと言うとやはり日本のパスポートでは駄目だった。店の外に出ると二人の若い男の人が話し掛けてきたので、その後でSIM を買いたいとのメモを見せると二人ともパスポートを持ってなかったがそのうちの一人が車かどこかに行って戻ってくるとパスポートを持って戻って来てくれた。その人のお陰でSIM を買うことが出来た。家族は日本に帰省するので今までのように電話を受ける事は無いと思ったが、いずれにしてもUfa で購入したSIM には残高が残ってないので、新しいSIM を購入する必要があった。お店の人は30分後くらいに購入した残高が正しく表示されるようになると教えてくれたが、心配だったので並びに出ている幾つかの出店でバナナとチェリーや牛乳を買ってそれを食べて飲んで時間を潰した。その後でもSIM の残高が表示されないので、その携帯電話の店に戻って状況を伝えると、その店の人はどこかに電話してくれて、その後で始めて残高が確認されて電話が使えるようになった。無意味な時間を過ごした事になりそうだったが、待ってよかった。

   走り出すとニージニ・ノボグロッドに入る。大きな街だったからひたすらと走った。モスクワという道路標識があったのでそのまま進むといつの間にか幹線のM7から外れてしまったが、橋を渡って街を抜けた。恐らく街を抜けるのに2時間くらい掛かった。道は路肩が広く平らだったので距離は延びた。携帯電話のSIMカード購入で時間を取られてしまったので取り戻したかった。14時半くらいにАЗС(ガスステーション)に入ってジュースを買ってパンと魚の缶詰を昼食として食べた。俺に良くしてくれた東洋人のようなАЗСの職員にバナナをお礼に渡して分かれる。

暑い。15時位にはまた別のАЗСにて牛乳を買って飲む。1リットルだったが一気に飲んでしまった。夕方雨が少し降ってきたのでカフェの玄関に自転車を入れて貰おうと思ったら断られた。客も居ないし雨なので客は入りそうに無かったので意地悪された感じだったので、外で少し待って雨が小降りになってから走り出す。
  
ロシアの声のいちのへさんからはSMS が届き来週の月曜日のインタビューが決まった。暫く走ると、ピーン、という音がする。注意してなかったら聞き逃してしまうほどの小さい音で、久々に聞く音だった。そして一番聞きたくなかった音だった。自転車に乗って走りながら後輪のリムの振れ具合を見ると、悪い予感は見事に大当たり。リムが左に右にと振れている。後輪のスポークが折れた。止まって後輪を回してみると振れる場所を確認できて、手でスポークを二本づつ手で挟んで確認すると、折れているスポークがどれか分かる。そうしてここでもマーフィーの法則が登場。一番壊れて欲しくないものが壊れている。後輪の左側ではなくて、面倒なフリーウィール側のスポークが折れた。またしても泣きっ面に鉢に刺された思いだった。モスクワでのインタビューには間に合わせないといけない。折角頂いたチャンスを逃せない。でも自転車店を探してスポークの修理をして貰ったらどれくらい遅れてしまうか分からない。でも、このままスポークが一本折れた状態で走ったら、二本目三本目が折れるのは分かっている。早く直さないといけない。

次に出てきた街で教会が見えたので裏に回ったが、無人の教会だったようで電気も付いてなく静かだった。教会の周りの家の人には迷惑の目で見られているのが分かったので直ぐにその場を去って先に進んだ。スポークが折れているので道路の段差には細心の注意を払う必要があった。無闇に段差を乗り上げたら、リムが更に狂って次のスポークが折れる。走るのが嫌だったが止まっては居られないので進む。

Kemerovo のウラジミールには新しい携帯電話の番号を恵子に伝えて欲しいとSMSを送ってお願いする。18時半くらいにカフェに入りコーラを飲みながら日記を書く。カフェを出て走る。20時半位だったかカフェとタイヤ修理工場が並ぶ一角にテントを張れる場所を探していると、若い人5、6人に呼び止められ、テントを張りたいと伝えると、近くの空き地何処でも良いから張ったら言いという。只、道路から丸見えで道がぬかるみで、もし今晩雨が降ったら嫌だったので他の場所が無いか色々見ていると、その中の背の高い人の奥さんが電話をしてくれて、奥さんと電話で英語で話すと、夫はとても良い人なので絶対にあなたの事を助けてあげます、と言っている。何度かその奥さんとその背の高い人と電話を替わってから電話を切る。するとその人は並びの小屋の一つで物置として使っていた小部屋を空けてくれて、そこに泊まれることになった。自動車部品や不要なものと思われる物が一杯だったが、物を移動して寝袋と自転車が入れられるスペースを作った。ようやく寝床が決まったので、カフェに行って玉子焼き、マカロニ、ジャガイモのサラダ、ジュースなどを食べる。店番の老婦人の愛想が良いからだろうか少ないテーブルは客で一杯だった。今までロシアのカフェでそんなマネージャに会うことは無かったが、昨晩のカフェ・ルルバに続いて今日もしっかりとしたマネージャに会ったような気がした。
  
外では先の若者達がビールを飲んでいるのか陽気に話を続けている。新車と思われるルノーのトラック(トラクタートレイラー)が来る。若いドライバーだ。相当優秀なドライバーかも知れないが、ロシアで新車のトラクターに乗れるという事は相当ラッキーな事だろう。

モスクワへと急いでいるのにスポークが折れてしまい気が重いがテントを張らずに済んだ。インタビューの時間に間に合うか分からないが進まないといけない。でもいつものように不安をよそに数秒で寝付いてしまったようだ。

2008年7月16日 (81日目)M7、856Km

昨晩は自分の寝たソファの反対側で数人が酒を飲んでいて騒がしく、その上に川辺に近いためか蚊が多く良く眠れなかった。そして午前2時くらいにはもう明るくなりかけていた。その時に起きて外側のドアを閉めたら蚊が少なくなったようで暑かったが休む事ができた。

(左:標識にはロシア語と英語)

今は8時前だが出来たら早く出たい。8時過ぎに下の階のカフェに行ってみるがニコライが何処に寝ているのか誰も知らなかった。2階のカラオケに使っていた部屋を開けてみると俺から金を受け取ったイゴールが寝ていたので申し訳なかったが起こして自分の自転車を小屋から出して貰う。準備をしているとニコライから電話があり、今から会いに来ると言う。下で待っているとニコライは俺が未だ昨晩寝た場所に居ると思って2階に上がってしまった。俺がモスクワに急いでいるのを知る余地もないので、俺は未だ起きたばかりと思ったのであろう。その後、ニコライの仕事場の近くに職員用の食堂があるとの事で、連れて行ってもらった。そこではお粥のようなものを頂いた。ニコライは親切に俺に未だ色々見せたかったようだったが、俺も急いでいるので申し訳なかったが直ぐに施設を出る。既に9時を回っていて、空気は暖かくなってしまっている。

今までの道路も色々であったが、今日の道路は酷かった。道路工事が終えたばかりの区間は素晴らしいが、マーカーで770Km 位と 830Km 位の場所はとても車道を走れるものでは無かったので、砂利の敷かれた路肩を走る。時間が余分に掛かってしまったが、10時間で約100キロ走れたので満足だ。

(右:昼食を取ったカフェ)

昼食は早いと思ったが暑かったので正午位に見つけたカフェに寄る。いつものように玉子焼き、マカロニ、キャベツ等のサラダ、ヨーグルト、ジュース等で済ます。カフェから出る時に入り口近くにあった手洗い場から水を自分の水筒に入れる。するとトラックのドライバは、その水は止めてマガジン(店)で買いなさい、とか言っている。俺にはありがた迷惑だった。どこに店があると言うのだ。俺は今まで何度と無く村の井戸から水を汲み取って飲んできた。この水も大丈夫だろうと思ったが、ドライバの注意もあったので今日は念の為にフィルターで水を濾した。

走ると暑い。АЗС(ガソリンステーション)でスプライトや、小さな村の店でアイスクリームやミルクを買う。とにかく暑かった。



19時位に見つけたカフェの駐車場にてテントを張りたかったので、店の外に居た人に話をすると、恰幅の良い50才位の女性が現れる。いつものような質問に受け答えるが、この女性の態度が明らかにこの店の主と思われたので、食事の後に駐車場にテントを張りたいと伝えると二つ返事で承諾してくれた。

10段くらいの階段を登るとカフェの中は大きく、長いテーブルが7、8個並んでいた。デリみたいに食べ物がショーケースに並んでいた。それとは別にメニューがあり、俺は魚のフライ、マカロニ、トマトときゅうりのサラダと飲み物を注文した。俺の注文を取った若く綺麗な女性は、お金は要らないと言う。

一瞬どうした事かと思ったが、どうやら先の恰幅の良い女性はやはり主だったようで、その若い女性にお金を取らないように伝えたあったようだ。テントを張らせて貰えればそれで良かったが、思わぬ好意はありがたかった。俺には何も出来ないが、以前と同じように紙で鶴を折って差し出すと喜んで貰えた。そうこうしていると女主が現れ、外の看板に私の名前があるでしょ、とか言っている。カフェ・ルババ の「ルババ」は彼女の名前だったのだ。

(左:翌朝テントを片付けた後) (左:カフェ・ルババの入り口、女主の自動車)

日記を店の端のテーブルで書いていると何か飲みたくなり、コーラを買って支払おうとしたら、先の若い女性はルババが支払うからこれも結構です、とかと言っている。こんな事もあるのだ。駐車場のテントなど誰も好まない筈だが、快くOK してくれた上に、夕食まで御世話になってしまった。勿論金銭的にありがたいのだが、厄介がられて居ないのが何よりも嬉しかった。


2008年7月15日 (80日目)M7、747Km

泊めてもらった家を7時15分位に出る。夜は何度か目が覚めた。そして時計を見ると朝3時なのにもう明るくなりかけていた。朝食は食べずにとりあえず走った。そしてある店でパンと魚の缶詰を買って、それを近くのバス停で食べた。本当はサラダとか沢山食べたいが無いので仕方ない。ラッキーな事に雨が降らない事だけでも嬉しい。急いでいるので1時間のロスも生みたくない。


(左:泊めてくれた青年) (右:前方の4階建ての建物に泊めて貰う)

(左:泊めてもらった町を出て西へ西へ) (ウラル地方では毎日夕立だったが、晴天続き)

ひたすら走りTaska の住む町Чебоксары (チェボスカリ)の横を通った時は正午を回っていた。昨日ここまで来ようとしたが試みずに良かった。とても昨日中に来れる距離では無かった。そして彼女の住む町は標識にM7から13キロ位離れているとの事で、更に時間が掛かったはずだ。

(左:チェボクサリの中心は右へ) (右:ルクオイルのガスステーション、牛乳が無かった店の道路を挟んで反対側)

昼食の前にある村の店に行き牛乳かケフィールを飲みたかったが店には無かった。外で少しロシア人を話をすると、その夫婦は自分達の採りたての牛乳の持って行きなさいと言う。1.5リットルの結構大きなボトルだ。その夫婦の自動車には乳児が座っている。この乳児の為に農家から買ってきたのだろうか。どこからか貰ってきたものだろうか。お金を渡そうとしたが、いつものようにこの夫婦もお金を受け取るのを拒んだ。一瞬迷ったが恥じらいも無くその牛乳を頂くことにした。何と人の良いことか。とてもありがたかった。

(左:牛乳の出来事は中央の白い建物の店の前で) (右:忘れられない親切と彼らの顔)

牛乳は俺にとって限られた蛋白質源だ。体重が減り続けているのは恐らく絶対的な栄養不足。自分の顔を鏡で見ることは殆ど無いが、泊めて貰った時に鏡を見ると痩せこけた頬がそこに映った。そして恐らく鉄分不足、蛋白不足、体のバランスが狂っているのは分かっている。

昼食にはあるカフェでいつものように卵焼き、マカロニ、アップルジュース、トマトジュースなどを食べる。午後はいつものように距離が進まない。何度と無く道端の店に入りケフィールやコーラなどを飲む。そして風は強くなかったが道が途中非常に悪くなり、トラックのドライバーは何台もクラクションを鳴らして行った。こんなに道が悪いと二度とロシアをサイクリングしたくなくなる。とにかく道路の状況は悪かった。

(左:道路を振り返り、共和国が変わった事を記す看板を遠くに見る) (右:草臥れたアスファルト)

そして夕方の店ではアイスクリームを買った。バナナも買う。暫くすると別のカフェがあり、そこでSIM に課金しようかと思ったが、ロシア人で英語を話す男の人が来て、近くに宿泊できる所があるから来て見ては、と言ってくれた。自分はテントを張って寝ているのでお金は払えないと伝えると、とにかく来てみてくれとの事だった。M7の幹線から南に折れて細い道を進む。

するとリゾート地のような所が見えた。守衛がいる。その前では許可待ちの乗用車や小型トラックが列を作っている。その脇を俺は構わず進んだ。そしてさっきの男の人とどうやったら話が出来るものかと思っていると、守衛の小屋の電話が鳴る。電話を守衛は耳に当てながら俺に「イポーニャ(日本から)?」と聞く。俺はうなずいて「ダー」と答えると、それだけで守衛は門を開けて俺を通してくれた。順番待ちの自動車の運転手達は何事かと俺の事を見ている。

(左:M7 から脇道を進み看板は施設のものと思われる) (右:中央の茶色のソファに寝る)

その敷地内では皆思い思いの事をしていた。ピンポン、バドミントンなどを楽しんでいる。川では一艘のモーターボートが勢い良く川を上ったり下ったりしている。中に入るとマネージャのような人が迎えてくれたが、先ほどの男の人のようには英語が通じなかった。そしてその人は125ルーブルを支払えば泊めてくれるという。今晩の夕食と朝食も含めると良心的だったので、そのまま支払って泊めて貰うことにした。

(左:泊めて貰った部屋かのM7の橋が見えた) (右:イゴール、この施設のマネージャ?)

先ずはその人の案内で自転車を鍵の掛かる小屋に収めて、寝袋や着替えなど必要な物を持って別の建物に向う。そしてその建物の1階には食堂があって、皆食事は済んでいるようだった。どうやら青少年の為の施設のようで、保護者無しで、子供とその施設の指導者だけが居るようだった。村で見かけるような子供ではなく、裕福な家庭の子息といった趣だった。

夕食は皆済んでしまっているので、俺は簡単なものを頂いた。シャワーを別の棟で浴びる。思ったとおりだった。施設は新しく素晴らしく整っているのに、中は煩雑だった。ゴミが落ちていたり、シャワーの栓をしっかりと締めて無いので水が滴り落ちている。裕福な子供の典型的な仕業だ。

(左:ダンサーのニコライと) (右:ニコライの彼女と女子大生のマーシャ)

暫くすると先にM7上のカフェで会った男の人、ニコライが現れる。そして俺はニコライにもう少し良い食事を期待していたと伝えると、彼自身のデザートを持って来てくれた。本当は支払う必要は無かった、と言っていた。マネージャの懐に俺の金は納まったようだ。でも、ニコライは親切で優しい人だ。その施設で何かを手伝っているようだが、ニコライはプロのダンサーだと言っていた。そしてその後で、ニコライは彼女を紹介してくれた。彼女もプロのダンサーとの事だった。それと子供の指導役と思われる大学生のマーシャと交えて英語で話す。日本語に興味があるとのことで片言の日本語も教えたりした。いつの間にか遅くなってしまったので、ソファの上に寝袋を広げて寝る。

後記: 実にインターネットとは便利なものと改めて感心する。こんな(宿泊)施設だったのだ。
http://www.surskiezori.narod.ru/

2008年7月14日 (79日目)M7、625Km







朝は7時くらいに目が覚めるがインターネットを出来るラップトップが見当たらないのでキッチンを片付けたり、出発の準備をした。そして、ティムールさんが9時くらいに起きてきて、友人は車ではなくバスで行くと教えてくれた。モスクワでのインタービューの期日を絶対に守らなければと思い、もし自動車に乗せてもらいカザンの街を抜けるだけでも良かったが、その可能性はなくなったので、自分は急いで出発の準備をした。

地図で街から出る時、大きな通りよりも線路脇の方が安全だと思い脇道を進むと非常に道が悪かった。そして、線路を跨いで渡ったりした。道路は路線バスの通る程の道だったが、トラックが行き交う道路ではなかった。道路わきの小さな店ではバナナを6本買うことが出来、ケフィールも飲んだ。店先では俺のことを、どうしてこんな店に来ているんだ、という視線で客が見ている。無理も無い。どうやっても旅行者が迷い込むような所ではない。

途中、非常に面白い建物を見つける。教会とも寺院とも言える不思議な建物だった。




(写真左:不思議な教会?寺院?) (写真右:雄大なボルガ川)

陸橋は線路を超える。俺は西か南に進まないといけないのに、陸橋を超えて北側に戻ってしまう。陸橋からは俺が本来進むべきM7 の陸橋が北に見える。俺はそれを通ってボルガ川を南に進む必要がある。俺は迷った。北側に進んで幹線に戻るか、陸橋の麓まで行ってみてそこから自転車の引き上げを試みるかの二つに一つ。安全策を取って幹線も戻ることにする。道は自動車が一台行き交うことが出来る程の狭い道。太陽の日が地面を照らすことが無いほど茂っている森に進む。そこは墓地だった。シベリアでは墓地は決まって町外れの離れで多くは緑色のフェンスに囲まれていた。この墓地の集落にはフェンスはあっても森の中の為か、緑色のフェンスではなかった。

俺は走った。まるで墓場の霊に追いかけられてでもいるかように狂ったように走った。早く森を抜けたかった。墓場に山賊は居ないとは限らない。何かあって大声を上げたとしてもエコーが響くような森ではないのは容易に分かった。ブラックホールのように全て吸収されてしまいそうな森だった。必死に走ると、時々自動車とすれ違ってみてそれ程人里を離れて無いことを悟る。月曜日だったが、お墓参りの人たちであろう。

距離にすれば大したことは無いのだろうが、30分位の時間が永く感じられた。直に家が見え隠れし、それから直ぐに住宅地に入り、そして遂にカザンの街から進んでいる幹線のM7 にやっとの思いで出られた。始めから幹線を進んでくればきっと1時間くらいの余分な時間を費やすことは無かったであろう。時間は既に13時半。都会からの脱出は時間が掛かってしまい嫌いだ。

(左:幹線のM7に戻る。ボルガ川の橋の手前)


(左:昼食を取ったカフェ)

次の大きな街、チェボクサリに住んでいるティムールの知人のTaska さんという女性の家に泊まりたかったが道路わきに表示されているサインには180キロと記されている。今日行ける距離ではない。しかし、カフェでは100キロと言う人が居たので頑張れば夜遅くなっても着く事が出来る距離だと思って走った。

しかしそんなのも束の間、次の距離のサインは120キロと表示されている。不可能だ。諦めてTaska さんとティムールさんにSMS を送ってその旨を伝えた。

天気は良い。しかし、昼前のカザンの街の脱出で疲れたのと、日がまだ昇っていても7時を超えてしまっているので、カフェで食事をすると走る気は無くなってしまった。カフェはデリみたいに作り置きが並んでいて、それらの中から数品をピックアップして清算した。

カフェを出て近くの自動車の修理工場で働いている人にテントを近くで張っても良いか、誰かの家に泊めて貰えないかと聞くと、少し待って、との事だった。何が起こるのか分からなかったが、待つこと10分くらい。すると20才くらいの青年が付いて来て、というので、近くの5階建てくらいの建物が幾つか並ぶ住宅地に入る。あぜ道を戻りM7 の幹線を行き交う自動車の音が聞こえてくる位の距離だった。


その青年は誰の目を気にしているのか、キョロキョロと近辺を伺いながら俺を案内してくれた。ロシアのどこにでもあるようなコンクリートの建物で、階段を上ろうとすると、その青年は耳を澄まして誰も居ないことを確認してから俺を彼の住むユニットまで案内してくれた。彼の住む家の中は大きな部屋が二つ、キッチン、そして俺を案内してくれた小さな部屋と、結構広いユニットだった。俺はシャワーを浴びさせて貰い、その後、先に夕食を取ったカフェの並びのお店に戻り、小さなアイスクリームを4つ買って戻って、その青年と一緒に住んでいる人に渡した。しかし、その後で、その青年はお金を要求してきた。俺は手元の現金が少なくなっているのと、後からお金を要求された事が気に食わず、200ルーブルを値切って100ルーブルにしてもらった。青年は少し不満そうだった。その家は恐らく彼の家ではなく、彼は一緒に済ませてもらっているような気がした。そして、一緒に住む人の家族には小さな子供があり、テレビを見ていた。その家の人の一人は少し英語が出来たので、俺の写真を見てもらって少し話をした。
(今思えば、ありがたく泊めてくれたのだから200ルーブル払って上げれば良かったと悔やむ)