夕べは夜中に中継されいたと思われるサッカーの試合をアレクセイが見ていたので、テレビの音で深い眠りには着けなかった。アセクセイはロシアがマンチェスター・ユナイテッドに負けてしまったことをとても悔しがっていた。テレビは試合が終わっても付けっ放しになっていたので、アレクセイはいつの間にか寝付いてしまったようだった。余程テレビを止めようと思ったが、もしテレビを消すと明かりが何もないので何も見えなくなりそうで、ベッドを出て無事にベッドに戻れる気がしなかった。そして俺はそのまま夜が明けるのを待った。外が明るくなったので起きて朝食を済ませ、9時過ぎに別れを告げる。
夕べは2回ほど訪問者があった。今朝も誰かが訪ねて来た。そして全員がアレクセイの家の入り口近くにあった水桶の中身を調べていた。左腕の無いアレクセイを近所の住民が気遣っているのだと気付く。別れ間際、アレクセイとある友人はウオッカを飲んでいた。この人たちは朝晩関係なく飲んでいるのか、と思ったが、門出を祝ってくれるのはありがたいことだった。
村の砂利道を坂を登り、M55に出る。天気は曇り。昨日の高気圧はもう抜けてしまったのだろうか。風は無く、快調に進む。昨日は尻が痛かったが今日は大丈夫だ。便秘気味だったので、排便の後が痛かったようだ。気温は15℃。走るには丁度よかった。西には暗い雲があるがどうなるか。
昨晩、イルクーツクのエレーナにSMS(テキストメッセージ)を送って、600Km 位離れたところに居ると伝えてあった。返事がエレーナからSMSであって、イルクーツクに来たらは泊まっていって下さいとの事だった。
今は昨日会ったローヤル・エンフェールドに乗っていたジョンが言っていたと思われるカフェに着くことが出来て日記を書いている。朝食は軽く済ませていたし、昼前だったので時間的には中途半端だったが、以前からの経験でカフェを見つけたら空腹でも食事を取ろうと決めていたのだ。それから、地図上ではこの先には当分の間、、村も町も無いように見える。ウラジオストックで購入した地図を持っているが、どの辺に町や村があるかは見当が付いていたが、そこのカフェやマガジンがある保証は無い。
食事を終えて走り出すと、カフェが当分無いことの予感は当たっていたが、酷い向かい風と横殴りの雨が待っているとは思わっていなかった。峠にて便意を催したので道から離れたところで車が来ない時を見計らって用を足した。下痢だった。昨晩泊めて貰ったアレクセイの自宅で頂いたミルクが悪かったのか、それともカフェで食べたものが悪かったのか分からない。それから走り出して間近か、家内からの電話が鳴る。寒かったが15分くらい話した。気温は10度を切って寒かったが、この後が大変だった。
晴れていれば20Km は見渡せるような谷間だった。向こうに見える山脈との間には何も無かった。木が全く無い。シベリアの春は未だなのか、小さな草木も無い。電柱が道路沿いにあるが、それ以外は何も無い。その電柱も全て風の強さのために左に傾いていた。風は吹き上げてきて、結構な下り坂なのにペダルを漕がないとスピードが出ない。そんな平原を進むと羊飼いに会う。100頭くらいの羊をM55越しに渡そうとしていたが、俺の自転車に一部の羊が驚いているのが分かった。羊飼いが居るということは、近くに民家があると期待した。民家の軒下でも納屋でも何でもいいから屋根が欲しかった。
しかし、何件かの民家を見つけられてもそれらは全てM55からは数キロ離れていた。先に進もうにも強風でどうにもならない。レインジャケットは着ていたが、雨が酷くなったのでレインパンツを履く。体温が下がるのが分かるような気がした。空は未だ暗くなかったが、そんな雲が既に何時間も続いていたので、これからどうなるか見当が付かない。低気圧の中心に吸い込まれるような感じだった。
(これ以降は雨のため数時間写真を撮れず)
長い下り坂は終わり、急ではないが長い登り坂と連なる山々が先方に見える。雨の中の峠越え。登り坂では体力を消耗し、下り坂は雨のためスリップしないようにブレーキを掛けてスピードを抑えないといけない。そんな状況を俺は今まで何度経験してきたことか分からない。それに加え文字通り左も右も分からないシベリアの谷間。言葉も通じない。最悪だ。風が強くて自転車に跨っていられないので、降りて自転車を押す。
暫く進みM55の道路の下を横切る土管を見つけた。土管の中で暖を取ってみたが雨は止みそうに無い。自分の食料は1日半分くらいしかないので、大雨が続いたら問題だ。不安になる。もし土管の中で寝ている最中、大雨になってに水が流れて来たら命が危ない。道路を行き交う車も少ない。物取りが現れても誰にも気付かれることは無い状況だった。
俺は、誰かが俺のことを電話で呼び戻してくれないか、と願っていた。諦めることが嫌いな自分にとって、避けたいことであったが、旅を終わりにしたかった。日本からでもアメリカからでも良い。もうこれは旅行ではない。試練以外の何でも無い。例え不幸の電話であっても、この場所から抜け出すのに都合の良い言い訳が欲しかった。不幸な知らせは困るが、この際ここから脱出できたらそれで良いとさえ思った。
と、そんな思いが巡る中、正気を取り戻し、ヒッチハイクする事にした。できればユーラシア大陸を自転車で走破したいと思っていたが、ロシアのビザが3ヶ月しか貰えない以上それは無理なことで、俺は既にハバロフスクからチタまで電車で移動しているので走破する意味は既に無かった。
多分次の大きな町、ウランウデまではそう遠い距離ではないはずだ。そこまで行けたらそれで十分だと思った。自転車を土管から引きずり上げて、行き交う車に手を振る。でも何故かトラックが少ない。通り過ぎるのはどれも小さな乗用車だった。そして、どれも何人も乗せているので、俺を乗せられる状況ではない車ばかりだった。しかし幸運にも右ハンドルの日本からの輸入車の小さな Hino トラックが止まってくれた。自分のロシア語が強風の中でどれだけ通じるか一瞬戸惑ったが、俺は「ウランウデ」と一言伝えた。ドライバが理解できたはずが無い。むしろ聞く耳があったとは思えない状況だった。ドライバは何も言わずに降りてきて、自分の自転車を荷台に載せるのを手伝ってくれた。60Kg くらいある自転車を荷台に乗せるのは楽ではなかった。そして、乗せた後で気付いたのだが、そのトラックドライバは雨具を付けてなかった。俺は上下付けていた。俺は既にずぶ濡れだったが、数分間だけ外に出たドライバも頭からずぶ濡れになってしまった。申し訳なかったが、お礼にスパシーバと言うのが精一杯だった。こんな雨の中、良く止まってくれたものだと思った。
俺は自分の名前を伝え、ドライバの名前はポールと呼んでくれとの事だった。小さなトラックは雨の中、ワイパーを速いスピードで動かしながら進む。ウランウデまで30Km 位だと思っていたが、実際は60Km以上もあったのだった。そして、次の村に行くまで結構な登り坂だった。もしヒッチハイクしないで、雨の中を自転車を押していたら、とてつもない時間が必要だったに違いない。それに強風の中、テントを張るには大変な苦労をしたと思った。
ポールは俺の言う英語を少し理解していた。そしてポールは何故かノボシビルスクまで行くと言っている。俺は英語が分かるがポールは分からない。ポールはロシア語で話しかけてくるが俺はロシア語が分からない。どうしてこの小さなトラックが何千キロも離れた都会まで行くのか半信半疑だった。途中、ポールは小さな村でのガソリンステーションで止まった。給油のためではなかったが、店の中に入って行き、戻ってくる時には何か小さな物を持っていた。トラックの運転席に戻ってから気付いたのだが、ポールは紅茶とチョコレートを俺のために買ってきてくれたのだった。今でも思い出すと涙がこぼれそうだ。ポールはお金は取らなかった。
自分にとっては狭いトラックの助手席に座り続けていた事と、車内のヒータが効いていてもずぶ濡れの自分の膝は動かすことが出来ない位痛んでいた。一難去ってまた一難だ。強風の中から抜け出すことが出来たが、左膝を少し動かす度に痛んだ。とても明日からまた自転車に乗って走り出せるとは思えなかった。
登り坂は一層険しくなり、辺りは雪が見えるようになり、更に登ると雨は雪に変わり、チェーンを付ける程ではなかったが、回りは雪景色に変わっていた。そしてギブアップして正解だとそんな景色を見て自分言い聞かせる。後悔ではなく、命拾いしたのかも知れないと思った。
荷台の自転車はロープで何かに結んだわけでは無かったので時々気になって後ろを振り返ったが問題なかった。そして我々はウランウデに入ったのだが、左膝が問題なのは変わらなかった。ハバロフスクのマリーナに電話して、運転手のポールにこの町で安い宿を探してもらえないかと通訳してもらおうと俺の携帯をポールに渡すと、電話は切れてしまった。それ以降マリーナと電話が通じなくなってしまったので、自分で何とかしなくてはと思い、イルクーツクのエレーナに電話して一週間後の予定ではなく、明日から二晩泊めて貰えないかと聞くと、快く承諾してくれた。その後、マリーナにもう一度電話しようとすると、先方から電話があり、マリーナは日本人女性に電話を替わってくれた。マリーナは俺との英語と日本語での会話に自信が無く日本人女性を見つけて俺に電話して来てくれたのだった。嘘のような嬉しい事が次々に起こるものだった。
ヒッチハイクに成功、ノボシビルスクまで一緒に行っても良いと言うポール、一週間後の予定を明日に急に変えても快く来て下さいと言うエレーナ、俺の膝の事を気遣って日本語を話す人を直ぐに探して電話して来てくれたマリーナ。何なんだろうこれは。幸運なんて言葉で片付けられるものでは無い。確かに不親切なロシア人も時には居る。でも、会う人会う人、見ず知らずの旅行者を助けてくれる素晴らしい人達ばかりだ。
日本人女性との電話の後、ポールにはイルクーツクまで乗せて欲しいと伝える。でもポールは相変わらず、私はノボシビルスクまで行くからと言っている。何と優しい人なんだ。同じ言葉で話しても気持ちが伝わらないことが多いのに、ポールは俺を気遣ってそう言ってくれている。
ウランウデに入る前から雪は雨に変わった。そしてM55はセレンガ川に沿って北上している。大きな綺麗な川だ。自転車に跨って見る景色と、車の中から見る景色は全然違う。自転車で雨の中を進んだら、きっとこの川の景色を綺麗と感じることは無かったであろう。セレンガ川を渡る際に、両端には憲兵が居ると思われる小屋があったが、通り過ぎる際に我々はチェックを受けずに素通りした。
暫くするとポールはバスを待つ必要があると言う。7台のバスが来るのを待つと言う。どうしてこのウランウデのセレンガ川を越えた人里はなれた所で待たなければならないのか不思議で、ポールと俺との会話に間違いがあるのではないかと思った。でも、ポールは何度か電話に出たり電話を掛けたりして、誰かと連絡を取っている。丘の上に待ち場所を変えると、セレンガ川を見下ろすかのように崖っぷちに作られた小さな彫刻を教えてくれた。俺一人だったら間違いなく見逃してしまうくらいの大きさだった。
丘の上で待つこと30分くらい、本当にバスが数台現れた。そして、10分遅れくらいで全7台が揃った。ポールの言っている事を信用しなかったのではなく、我々の会話が成り立っていないのではないかと思ったので、バスが揃った時にはロシアでの生活が約一ヶ月になろうとしている自分のロシア語の理解度も満更ではないな、と愉快にも思えた。
全部のバスが揃ったところで、その先に出てきたカフェで食事をする事になった。モンゴル料理店の様で、プローフ(炊き込みご飯、ウズベキスタン料理でロシアではポピュラーな料理)は無かった。ご飯も卵料理も無かった。仕方ないので、ボルシチ、何かの魚料理、そしてお茶だけの食事になった。どのテーブルも椅子は二脚しかなく、ポールが座っているテーブルには既に3人が座っていたので、別の部屋で他の客と一緒に食べる。食べ終わると、ポールの隣の席が空いていて、未だ食べ終えてない人が居たのでポールの隣に座った。するとポール達は肉饅頭のような物を食べていた。ロシア料理かと聞くと、そうでは無いという。俺の食事の量が少ないのを知っていてか、薄い生地のパンのようなものをカフェの人が運んできてくれた。誰が支払ってくれたのか分からないが、ポールが食べたらという顔をしていたので黙って頂いた。
カフェを出る時、俺はカフェで一緒のテーブルに座った初老のドライバのバスに乗り移った。ポールはバスの方が足を伸ばせるだろうと言って気遣ってくれていた。でも、少し進むと全部のバスがディーゼル燃料を補給することになり停車した。7台の補給には30分以上が掛かっていた。そして、実際には7台のバスとポールのHino 小型トラック、そして警官の制服を着た人が運転するHonda の小型車の全部で9台の一団はみぞれの中をバイカル湖に向けて進んだ。
給油の後は、俺はまた別のバスに乗ったらと言われ、先頭から2番目の今度は35歳くらいの一団の中では一番若いドライバのイワンが運転するバスに乗せてもらった。ポールと同じくらい英語が分かったので退屈はしなかった。最初はどんな順番でバスが並んでいるのかと思ったが、どうやら経験の順のようで、イワンは今迄にウラジオストックからノボシビルスクまでバスを何7、8台陸送していたのだった。そのせいか、イワンのバスはもの凄いスピードで進んだ。イワンはまるで鼻歌を歌っているかのように、そして乗用車を操るようにハンドルを右へ左へ、加速、減速の連続だった。そして、道路のくぼみを減速できず(減速せず?)進むと、サスペンションの限界なのか時々何かを打つような鈍い音をあげなから突き進んだ。
暫くしてみぞれは上がり、どのバスも見事にフロントガラスが泥だらけになっていた。そして突然バスを止めると、ドライバは立ち小便を始める。そして各ドライバーは川の方にボトルを持って行ってしまった。俺が以前したように、どこかの家で水を分けてもらうのかと思ったら、川の水をボトルに入れて戻ってきた。バスのワイパー用の水を汲みに行ったのだった。夕闇を走り、日が落ちそうなのでもうバスを止めると思ったが、一向にその気配なし。
しかし、外の気温はウランウデに入る前の山の中のようは寒さでは無かった。
バスは快調に飛ばし、いつの間にかバイカル湖が見えてきた。夕日が落ちる直前だった。世界で一番深い湖だそうで、まるで海を見ているかのようだった。只、そんな綺麗な景色を見ていても、左膝が気になって仕方なかった。ポールのトラックに乗っている時は酷く痛んだ。でも、今はそれ程でもない。でも、もしサイクリングを止めるとしたら、その後はどうしたら良いのか分からない。どこの空港から戻れば良いのか。シベリア鉄道で戻ったら良いのか。膝が痛む以上、気になる。もう既にサイクリングは十分に楽しんだが、予定の10% の距離しか満たさない結果に終わってしまう。膝の具合次第では旅を終えてもいいという気持ちとは別に、どうしても続けたい気持ちもある。一人旅とはこんなものなのか。弱気の時にはとことん弱気になってしまう。
日が落ちてバイカル湖畔でバスは全部止まった。全員のドライバが魚の燻製を買っていたので、俺も3匹ほどの燻製を買う。イルクーツクのエレーナに日本からは何もお土産を持って来てなかったので、お土産に持って行っても良いと思った。
バスは日が落ちても相変わらずのスピードで進んだ。もしかしたら、このまま今晩中にイルクーツクに着いてしまうのではと心配する勢いだった。そしてやっと見つけた湖畔の駐車場に全部のバスが止まって、夜を明かすことになった。夕食のカフェから給油までの僅かな区間乗せてくれた初老のドライバの運転するバスに、ポールと3人で寝ることになった。ポールはどうやら道案内役とパンクした時の為のスペアタイヤを運ぶのが仕事のようだった。これでポールが小さなHino のトラックでノボシビルスクに向って行ける訳が分かった。車両をウラジオストックから運ぶ運転手は殆ど運転しているその車両の中で寝泊りしている。ポールのトラックでは小さすぎて夜を明かせない。しかしポールは仲間のバスの中で寝泊りしていたのだった。俺はバスの一番後ろの席に寝袋を広げて寝た。
午後のヒッチハイクする前、一番辛かった時の事だが、不思議と中学生の時に聞いた曲を思い出した。確かNSPという3人組のフォークソングで「夕暮れ時はさびしそう」という曲だった。「とっても一人ではいられない」という一節がその時の俺の気持ちであったのであろう。それとは別に井上陽水の「昼寝をすると夜中に眠れない。。。」という曲があり、途中「頑張れ、みんな頑張れ。。。」という節があり、登り坂で大変な時にはよく思い出された。その他といえば、かめとウサギの歌で、「どうしてそんなに遅いのか。。。」という曲も時々思い出された。他にも沢山の曲があるのに、何故かこの3曲だ。追い風で楽な時は歌を歌う必要が無い。必ず登り坂で大変な時だけで不思議なものだ。歌を歌えば少しでも気がまぎれるのだ。でも、本当に大変な時は、歌を思い出す気さえもないのであろう。止まって水を飲むこと以外に何も楽なことは無い。しかし、自分が一回転でもペダルを踏み込まなければ、目的地のポルトガルどころか、モスクワにさえ着けない。自分の為に、そして応援してくれている人々の為に頑張らないといけない。