朝食はカフェで玉子焼きを注文するとハムも一緒に付いて来た。そして紅茶を含めて50ルーブルを支払った。店主と思われるセーベルに泊めてくれたことや全てを含めて礼を言って別れた。
西に進む幹線M55(マルシュルート55)から離れて北側の進み、店を見つける必要があった。すると自分に向って会釈する30歳くらいの男性が止まれと合図する。俺を日本人と見抜いていたのだと思う。道路工事の職員らしく、M55の工事現場でお茶を貰ったらいい、とというようなことを言っていた。自分にロシア語が分からないので何度も何度も同じ事を言い返していた。俺みたいな見ず知らずの旅行者を工事現場の人が歓迎する分けないと思ったが、こんな親切は本当に嬉しかった。
村の奥に進みそこで見つけた店まで行き、更に北上して駅に着いてしまい、この先が山の中だったのでM55に戻る必要があった。道路はあちこちが陥没していた。道路を修理できないのは寒暖の差が相当あるのだろうと思った。駅から少し離れたところに学校があった。中学生くらいを思われる男女が校庭で運動をしていた。そして何人かの男子生徒が手を振っているのが見えたので俺も手を振って答えた。自転車でこの村に来るのは旅行者しか居ないと分かっているかのようだった。道を間違えたのが悔しかったが、それはたったその数人の若者の手を振る姿を見て吹っ切れた。
M55まで戻る途中、近道をしたくてたまらなかった。でも、どの道を進ん
で良いのか分からない。でも思い切って西南に向っている道を曲がった。すると家の外に立っている60歳くらいの男の人が居たので、M55はこの先かと聞くとそうだと教えてくれた。そしてしばらく走るとM55に戻ることが出来た。
M55に戻ると向かい風が待っていた。道路の右端には新しく敷かれて出来たばかりのアスファルトの部分と少し低い古い舗装の段差があって、僅か脇見をした瞬間に右側の路肩に落ちて転倒してしまった。いつでもそうだが、その時の瞬間はまるでスローモーションのビデオのようにゆっくりだった。30cmはある段差だがうまく前輪を持ち上げられれば着地に成功するかと思うが、次の瞬間、自分の体は自転車よりも前にあり、路肩に叩き付けられる格好になってしまった。幸いにも怪我は無く、自転車はブレーキを調整する必要があったが、壊れた箇所は無かった。路肩が柔らかい砂地でよかった。
そういえば朝、転んだ後で、ハバロフスクの日本領事館の職員、藤井さんから電話があった。ウラジオストックの日本領事館からの自分に付いての連絡があったそうで、俺の具合を心配して連絡して下さったのだった。数日後にまた電話をしてくださると言っていた。
恵子からの電話を切って、暫くすると遠くに滑走路が見えて飛行機のようなもの沢山見えた。しかし、近づくにつれ滑走路は民家などに隠れてしまい見えなくなってしまった。ただ、不思議なことに村を離れようとしたら、ジェット戦闘機が丁度離陸した直後のような姿勢で空に舞い上がって行くのが見えた。どうしてこのような小さな村にジェット戦闘機があるのか不思議だった。
随分と走ったがカフェが無い。あったと思ったら大き過ぎて入る気がしなかった。結局今日もラーメンを生で昼食になってしまった。大きなカフェは自分の自転車を気遣うと入れなかった。なるべく自転車から目を離したくなかったので、小さなカフェが都合が良いのだ。そして、峠を越えると日本製の大型トラックの運転手に止められて、我々はモスクワまで行くので、一緒に行こうと言われた。自転車に乗るために来たので、ありがとうと言ったが断った。すると運転手は紅茶の入ったボトルを下さった。一緒に旅を出来たらそれはそれで楽しい思い出になるとは思ったが、仕方ない。
その前には、別の乗用車の運転手に止められ、その人は日本人サイクリスト二人をバイカル湖からハバロフスク近辺まで伴走したことがあると言っていた。その人は、別れ間際に小さな水のボトルを下さった。何と優しい人達なのだろう。
それからは長い下り坂が続いた。そして夜の8時くらいに右側の路肩に止まっていた4台の運転手にカフェはないかと聞くと、5kmくらい先にあると言う。少し走ると確かに村は出てきた。しかし、M55からは離れていたし、まだ明るかったので先に進んだ。これが間違いの始まりだった。先に進むが一向に村もカフェも無い。モンゴル系と思われる乗用車の運転手に止められたので、別れ間際に近くにカフェがあるかと聞くと、2Kmくらい先にあると言う。これもまた見つからず、仕方なく次に見えた左側の村に入って行くことにした。
もう暗闇になっていて心細かった。学校らしき建物が見えて、近くを歩いている二人の青年に俺はテントをこの辺で張りたいだがどこか良いところは無いかと聞いた。するとそのうちの一人、セルージャは一瞬躊躇したように見えたが、自分の家に着たら良いという。ドームという言葉だけが理解できたが、自分の胸を指差していたので、俺はそう理解した。その二人と一緒に歩いてセルージャの家に着くまで、我々の会話は全く成り立たなかった。でも、この暗闇で誰かと一緒に歩くことが嬉しかった。果たしてどんな家、どんな場所に連れて行かれるのか多少の不安はあったが、セルージャが二つ返事してくれた事が嬉しく、どんな場所に連れて行かれても大丈夫のような気がした。
5分くらい歩くと、村の外れになってしまっていた。そしてセルージャの家に着いたのだが、母親が出てきて自分を見て驚いていた。夜10時は回っていた。東洋人の背の高い男が自転車で自分の息子と一緒に家に来たのだから無理は無いと思う。でもセルゲイの母親は一瞬の驚きの後、微笑んで歓迎してくれた。
家族全員の夕食は終えていたと思うが、パンやビスケット、スープなど簡単に作れるものを直ぐに出してくださった。昼食もまともに食べてなく、カフェを夕方から長いこと探していたので、そんな気遣いは本当に嬉しかった。セルージャと妹のクリスティーナ、母親のスビャータと話をしていると、セルージャと一緒にいたもう一人の青年サーシャの彼女イリーナが後から来た。サーシャがイリーナに電話をしていたのだった。イリーナは英語が得意だった。隣の町の高校に電車で通っていると言っていた。イリーナが通訳をしてくれたので、夜は遅かったが楽しい一時が過ごせた。俺は空いた腹を満たすだけではなく、テントではなく屋根の下に泊まる事が出来、見ず知らずの旅行者の暖かく迎えてくれるロシア人に会えて、体力的には疲れていたが嬉しかった。皆イリーナと俺の英語の会話に耳を傾けて談笑できた。気付くと午前1時近かったので、慌てて寝ることにした。
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