2008年4月25日 伏木港からウラジオストックへ(船内 1泊目)

昨晩、バスは東京駅前を発って新宿駅の近くでも停車した。最前列の席に座って、それまで一人だったが、バスは満車となり俺の隣にも他の客が座った。窓側だったが、通路側は足を少し伸ばせると思って、席を替わって貰った。バスは高速道路を進み、暗闇の中を進む。少しだけ寝たが思うように眠れない。そしてバスは約2時間毎に停車した。俺はその度に外へ出て様子を窺った。日本の高速道路のサービスエリアが懐かしかった。トイレで用を足す者、タバコを吸う者、色々だった。

夜は明け、富山県に入った。外を眺めていると偶然にも「広貫堂」という建物が見えた。恵子の従兄弟が勤める会社の名前だった。薬の国に来た気がした。バスは先ず富山駅前で停車して、10人位の客が降りた。富山駅は1980年にサイクリングで寄って、駅構舎内のベンチで寝た事があった。その時は、他の登山客が沢山居たので全く違和感無かった。でも、今の富山駅は近代的な建物になってしまい、そんなベンチは今は無いだろう。自分の思い出の場が失われているのは少し悲しかった。次が俺の降りる高岡駅だ。

富山駅前を後にして、30分くらいで高岡駅前に着く。高岡駅でも数人が一緒に降りた。さて俺は船が伏木港から出港するまで時間を潰さないといけない。先ずは、ロスの家族に電話をしようと思った。バスを降りた高岡駅の南口は裏玄関で、表玄関に行かないと国際電話が出来る公衆電話がないそうだ。しかし、国際電話が出来る電話機は見つからない。

電話は出来ないので仕方なく、ウラジオストック行きのフェリーの料金を支払うFKK エアーサービスという旅行社を探す。駅前に交番があったので中に入ると、防弾チョッキを着た警官が居た。日本も物騒になったものだ。この地方都市でさえそんなものを着ていなければならないのか。若い警官は直ぐにFKKの事務所を地図で見つけ、親切に場所を教えてくれた。駅の改札からそう遠くない距離だった。

始業前の時間だと思い、立ち食い蕎麦を食べることにした。子供の頃はよく立ち食いを食べたものだった。安くて早くて味も悪くなかった。だけど、何故か昔のような美味しい蕎麦では無かった。でも本当は味が悪かったのではなく、蕎麦を作る人の態度が問題だったように思う。昔の立ち食いは威勢が良かった。でも今は皆、機械にお金を入れて食券を買い、食券を渡して出来上がった丼を無言で受け取る。はいどうぞ、はいおまち、ありがとう、すいません。そんな昔の元気な声が聞こえない。俺も年を取ったという事か。寒かったのでとりあえず蕎麦で温まった。

駅の待合室にはテレビがあった。朝のニュースのようなものを流していた。そして9時になるのを待って、駅前の図書館に向った。先の警官から、9時になったら図書館が開き、そこではインターネットが使えると聞いていたからで、エレベーターに乗って2階の図書館に行くと、インターネットが使えるコンピュータがあった。恵子に無事に高岡に着いた旨のEメールを送る。そして、俺の机のPC の電源を入れて、更にWindows XPのCDROMを入れて欲しいと伝えた。

いつの間にかインターネットを始めて1時間が経過してしまったので、FKKエアーサービス社に向う。そしてウラジオストック行きのフェリーの予約を担当してくれた水上さんに400ドルを渡した。水上さんは、成田から送った俺の自転車が伏木港の営業所に届いているも確認してくれた。

水上さんに礼を言って、高岡駅前に戻り薬局を探す。万一、傷を作った時の為の抗生剤、そして蚊取り線香を買いたかった。抗生剤の軟膏は買えたが、蚊取り線香は季節外れでなかった。それからついでに頭痛薬、そして乗り物の酔い止めの薬も買った。薬局を出て、商店街に本屋が一つあったので、六ヶ国語会話集を探したが無かった。

駅ビルの中にはお土産屋があったので、そこで風呂敷を買う。ハバロフスクで泊めてくれる予定になっているユーリアへのお土産だ。

11時くらいに高岡駅北口からバスに乗り伏木港まで行くつもりだったが、到着するバスはどれも違うバスだと言う。待っていると高校生位の若い女性が来たので、本屋が他に無いか聞くと、南口のサティという中にあると言う。南口に行ってみたが、行って戻ってきたらバスに遅れてしまうと思って諦めた。バスをもしかしたら逃したかもと思って、南口の駅の時刻表を見ると、伏木駅方面に向う電車が出る時間だった。

改札の係員の女性にその電車に乗りたいと告げると、この紙を持って乗車して下さいとの事で、その列車が停まっているホームに急いだ。通路を走っていると電車が発車するアナウンスが流れた。もう間に合わないと思った。でも、先の係員が車掌に告げてくれていたのか、階段を走って降りて、電車に飛び込むとドアは閉まった。この電車に乗り遅れると、次の電車まで1時間待たないのいけないので助かった。

電車は高岡駅始発の氷見線で氷見方面に向った。4両くらいの電車で、ゆっくりと街中を進んだ。電車に乗るのはいつも楽しい。特にゆっくりと進む電車はそこに住む人達の生活に手が届きそうで面白い。電車の中には、日本人以外に数人が居た。ザックを背負っていたので直ぐに分かる。

電車は機関士一人で操作されるワンマンだった。伏木駅で降りて改札で、高岡から飛び乗ったと紙を見せ料金をそこで払った。駅を出て、FKK の伏木事務所に歩いて向った。成田空港からダンボールを宅急便で港まで送って正解だった。とても駅から港まで持って歩ける距離ではなかった。

途中、歩いている年配の婦人にこの辺に本屋が無いか聞くと、一軒あると言い、近くだからと連れて行ってくれた。しかし、探している六ヶ国語の会話集は無かった。でも、日本人の親切な人に会えて良かった。そして俺は諦めが付いた。会話集は要らない。なるようになる。




そしてFKK のビルを見つけた。中の事務所に入って、宅急便で送った荷物を取りに来ましたと伝えると、応接室に通されてしまった。俺をどこかの上客と間違えている。女子事務員がお茶を持って来てくれる。暫くすると受け付けてくれた男の事務員は、そのような荷物は届いてないと言う。俺は今朝、高岡駅の事務所からFKK の港の事務所に自転車と段ボール箱一箱が届いていると聞いたと、伝えると、また調べますと応接室を出て行ってしまった。5分くらい待っただろうか、さっきの事務員は、見つかりましたと教えてくれた。でもこのビルではなく、旅行部門の事務所に行って下さい、との事だった。俺が入ったのはFKK の本社だったのだ。応対が素晴らしいわけだ。そのビルを出て道の角を曲がると、あったFKK エアーサービスの支店があった。

事務所に入ると、待ってましたとばかりに快く応対して貰えた。俺の世話をしても全然利益にならないだろうが、高岡駅前の営業所の水上さんを始めFKK の方々には御世話になった。

自転車は分解されてキャンバス地の大きな袋に入っているので、跨って船まで行けない。袋のまま持って歩いて船に向う。途中の駐車場では自動車の部品やタイヤなどを売る業者が並んでいた。駐車場の外れにまずは警備員が居てパスポートをチェックされた。そしていよいよ船に乗る。タラップを登って、インフォメーション・デスクでパスポートとFKK から受け取った乗船券を渡す。そして係員の若い女性は俺の部屋を案内してくれた。部屋は4等、一番安い部屋だ。4人の相部屋だったが、俺が最初のようだった。窓は無いが全く問題ない。船底から聞こるエンジンの音もそれほどうるさくない。

部屋に自転車を入れて、部屋に鍵を掛けて残りのダンボール箱をFKK の事務所に取りに戻る。礼を言ってFKK を後にし、船に戻る途中、自動車部品を売っている業者から、芳香剤を買う。これはウラジオストックで泊めて貰える予定になっているジェナへのお土産だ。気の利かないお土産だが、彼女からのリクエストだ。船に戻り、ダンボールも自分の部屋に入れて、荷物は全て整った。

俺は船の入り口でインフォメーション・デスクの横で何かを確認している日本人の曽田さんと話をする。二日間の船旅で、俺は話し相手というか、少しでもロシアの事に付いて知っている人を見つけたかった。でも、曽田さん曰く、乗船客名簿には俺以外の日本人の名前は無いと言う。でも、俺は何もする事がなかったので、曽田さんに話し相手になってもらった。

14時くらいだっただろうか、年配の事務員は俺に食事だからレストランに行くように教えてくれた。どうやら俺以外はロシア人のようで、ロシア語のアナウンスを理解しない俺に特別に教えたのだった。レストランに行くと3人のロシア人との相席だった。3人共英語は分からなかった。愛想もそれ程良くない。どちらかと言うと悪い。ロシア料理を俺は初めて目にするのだった。スープ、野菜、肉料理、全てが初めてのものだった。ウェートレスは全部で10人くらい居て、担当のテーブルが決まっていた。でも、俺のテーブルのウェートレスは英語が分からず、俺が肉を嫌いな事をうまく理解できなかった。俺は食べれるものだけを食べた。食べ終わる頃には他のロシア人の3人は何も言わずに席を立っていった。俺もそれに習って、皿をそのままにして席を立つ。

出航までは未だ時間があるとの事で、近くの店に行って何か食べ物を買いに行くことにした。曽田さんは近くに「ママさん」と呼ばれる店があると言う。教えられた場所に行ったが、幾つかの店があり、どれか分からなかったが一つの店で、バナナ、クラッカー、梅干などを買って戻る。

15時から船内では日本政府の移民官が来て、パスポートを調べて処理を始めていた。でも、列が長かったので、少し待った。暫くすると列が短くなり、俺も列に並んで順番を待った。移民官とは日本語で、パーサーとは英語でやり取りした。パーサーは下船までパスポートを預かるという。これで俺は日本出国した事になった。そして移民官に他に日本人が居ましたかと聞くと、俺以外には居ないとの事だった。長い船旅になりそうだ。


このルーシー号は元はヨーロッパで造船されたフェリーで、船尾にはプールがあった。でもプールの中に水は無く、日本からの中古の乗用車が詰まっていた。中古車はプールだけではなく、デッキの至る所に並べられていた。各乗用車の間隔は数センチしか空いてない。それはそれは素晴らしい並べ方だった。


曽田さん曰く、数日前から車両の運搬は始まり、船の中腹には中型のトラックや沢山の乗用車が既に積み込まれていて、残った車両はデッキにクレーンで積み込まれるとの事だった。数分間隔で一台づつの乗用車が出航間際まで積み込まれた。


客室に戻り、俺はシャワーを浴びる。出航の時間が迫っていたのでデッキに出る。船のデッキには沢山のロシア人が出港を見守っていた。何故か多くが携帯で何かを話していた。そして18時近くになって船は伏木港を離れる。出航だ。クレーンで乗用車を吊り上げる作業をしていた人達はもう殆ど居ない。曽田さんも居ない。


1982年成田空港を発って、初めてアメリカに向う飛行機の中と同じような感じだった。これで異国の地に向う。後はもう自分だけが頼りだ。先方の言葉が分からない。どんな道路が待っているのか分からない。不安で一杯だった。絶対にどんな時でも何とかなる、と思っていても不安な気持を抑えることは出来ない。気を紛らせたかったが、船の上にはインターネットも無いし、日本語を話す人も居ない。とてもロシア語の会話集を読む気になれない。

20時くらいに船内のアナウンスがあり、昼食と同じレストランで夕食を食べる。睡眠不足の為か酷く疲れていて、ベッドに横になったら直ぐに寝てしまったようだ。

2008年4月24日 成田空港から伏木港へ


午後3時くらいに成田空港に着陸する。天気は良くなかった。そして機内のアナウンスは、天候のために離陸出来ない飛行機が留まっているので20分くらい待機するとこの事だったが、実際にはそれよりも早く降機できた。

移民局の審査は簡単で、その後は通関のために自分の荷物、自転車の袋を待つ。同じ飛行機で到着した他の客は荷物をターンテーブルから拾い上げていたが、自分の自転車は永い事出てこなかった。暫くすると係員がカートに自分の自転車の袋を乗せて持ってきてくれた。

自転車のハンドルと同じ幅の比較的小さなバッグは機内に持ち込んだ。自転車は前後車輪を外してキャンバス地の大きな袋に、他の荷物はダンボール1箱に詰めてチェックインの際に預けていた。全ての荷物が整い、通関の列に進む。通関の職員には荷物は自転車かと聞かれ、そのとおりだと答えると、それ以上の質問は無く、簡単に通関が終わり一般人の待つ通路に出られた。

通路に出てみると、自転車をカートに乗せて運んできてくれた係員が居たので自分の荷物を宅配便で送りたいのだけど何処で扱っているか質問をする。すると初老の係員は、このビルの反対側だと教えてくれた。カートに自転車と大きな段ボール箱を乗せ、宅配業者が並ぶ窓口に近づくと、ヤマト運輸の係員が先方から近づいて来た。自分の自転車を宅配便で送りたいと伝えると、日本を出国の際にヤマト運輸を利用したかと聞かれた。しかしその職員は俺の返事を待つ前に、他の業者、佐川さんに当たって下さいと自分で言った。都合の良い仕事しかしないのはこの世の常なのか。日本もアメリカも同じだと思った。

ロスを発つ前に自転車の運送方法はインターネットで調べていた。本来は東京から富山の高岡までの夜行バスに荷物として預けようとしたのだが、どこのバス会社も輪行自転車は預かってくれなかった。仕方ないので宅配便を探すとANA のウエブサイトに自転車の大きさの荷物でも扱うとの事だった。そして佐川急便の窓口では自転車を快く受け取ってくれた。佐川急便はANA の代理店だったのだ。

自転車だけを送って、大きな段ボール箱は自分で運ぼうと思ったが、足でまといになるのは分かっていたので段ボール箱も送ることにした。

荷物を預けると身軽になった。そしてJRの緑の窓口に行き、東京駅までの切符を買い、直ぐに電車に乗り込んだ。しかし、席に付いてから従兄弟の留美ちゃんと会う約束事をプリントした紙を佐川急便のカウンターに置いてきてしまった事に気付く。荷物を電車の棚から降ろして、電車を直ぐに降りた。でも、次の東京駅行きの電車はきっと30分後だと思ったので、仕方なくまた電車に戻った。彼女の電話番号が分からない。待ち合わせ場所も覚えてない。

しかし、幸運にも座った席の向かいの席の男性に携帯電話を借りることが出来た。電話を電車の中でしている人は居ない。しかし、俺は待ち合わせの時間に遅れるのは確実で、少なくとも待ち合わせ場所の確認だけでもしたかった。携帯を借りるが、どのボタンを押したら電話できるのか電話の仕方が分からない。仕方ないので、男性に佐川急便のカウンターで引き換えに貰った紙を見せて電話して頂いた。そして成田空港のカウンターには未だ俺の忘れた紙が残っていたので、その中の待ち合わせ場所を教えてもらい、その紙は荷物と一緒に送ってもらう事にした。

そして東京駅に降りて、待ち合わせ場所の銀の鈴に向う。30年も前は東京駅の出口くらいどこが何か分かったが、しかしもう何も分からない。方向感覚だけは自信があるが、建物の中ではどこが何か皆目見当が付かない。東京駅は俺にとってニューヨークのセントラルステーションのように何も分からなかった。制服を着た駅員に銀の鈴の場所を聞くと、駅員も正確には答えられず手帳を取り出して、丁寧に教えて貰えた。

予定よりも30分遅れて留美ちゃんに会うことが出来た。遅れて申し訳なかったが、微笑んでくれた。勤めと勉強と忙しい日課の中、俺の門出を祝う為に時間を割いてくれて嬉しかった。大丸デパートの12階にレストランが沢山ある、と言うのでそこの京風レストランに入る。叔母と留美ちゃんの弟、泰君が合流する。叔母には中学を卒業して工専に入った時からずっとお世話になっていたので、叔母と言うよりも姉に近い存在だった。この旅を生きて帰ってこれたら良いが、もしかしたら叔母に会うのは最後かも知れないと思うと会えて本当に嬉しかった。留美ちゃんは新しく始まる講座の件で、ミーティングがあるようでまた戻ると言って去ってしまった。

食事の後は、泰君の案内で本屋を探す。俺は3ヶ月をロシアで過ごすのにロシア語の勉強を何もしてない。おまけにドイツ語もフランス語も分からない。会話集の本が欲しかった。昔だったら八重洲口の出口にあった本屋も、今の俺には見つけられなかった。何件か小さな本屋を当たったが、JTBの出版する六ヶ国語会話集は見つけられなかった。仕方ないのでロシア語だけの会話集を買う。

俺が利用する夜行バスの出発時間の23時には未だ時間があったので、地下街のコーヒーショップで休む。俺は叔母達に会えれば良かったのだが、バスを見送ってくれると言う。幸いにも泰君が車を運転して叔母を連れて来てくれたので、叔母には特別大きな負担では無いだろうと願った。暫くすると留美ちゃんも戻って来てくれて、叔母の健康の事や、親戚の話を聞く。

22時を回り、夜行バスの集合場所に向う。最初、幾つかのバスが停まっていたが、どれも俺の予約したバスではない。泰君はあちこちを探してくれて、角を回ったところにホットドッグというバス会社の係員らしき人を見つけてくれた。係員にはプリントされた紙を見せることになっていたが、そんな紙は無い。成田空港の佐川急便のカウンターに忘れてきた。でも、係員は結構です、と俺の名前だけを聞いて受け付けてくれた。

叔母達に別れの時間が来た。俺は、俺の不安そうな顔を微塵も見せたくなかった。本当なら、もう会えなくなるかも知れないので、横浜に住んだ5年間、叔母には色々と御世話になった事を伝えたかったが、言ったら涙がこぼれそうで、結局何も言えなかった。只、見送りに来てくれてありがとう、と伝えた。バスが出て3人に手を振る。3人が見えなくなる頃、俺の涙は止まらなかった。ロスから成田までの飛行機の中でも涙がよくこぼれた。どうして俺はこんなにナイーブになってしまったのか。自分の望みどおりの旅に発つのに何が悲しいのか分からない。何としてでも生きて帰ってこないといけない。叔母にありがとうと伝える必要が俺にはある。

2008年4月23日 ロサンゼルス


出発に際し準備時間が無かったので、色々な意味で大きな損をすることになったが仕方ない。先ずは、ロサンゼルスの空港で、持ってきたラップトップに日本語の入力機能が無いことに気付く。考えられる対処方法は幾つかある。恵子に連絡して自分が使っていたPCにWindows XPのCDROMを入れて貰い、VPN接続してそこから必要なファイルをこのラップトップにコピーして、日本語を入力出来るようにする。もう一つは、誰かWindows XPを使っている人のPCから必要なファイルをコピーさせて貰う事だ。

家族には自分の我侭な旅に対して理解してくれた事、そして実際に旅立つ事を許してくれた家族に感謝する。恵子は長男のルイスが1996年に生まれてから、毎年夏休みになると息子達を連れて日本に帰省しているので、自分は常に見送る立場だったが、今日は自分が見送られる番だった。

そして計画では5ヶ月か6ヶ月間家を空けることになり、こんな永い間家を空けるのは初めてだった。この半年間、ハワイへの出張で家を空けることが数回あったが、長くて2週間だった。恵子と息子二人ルイスとクリスは頼れる人が今日からは家に居なくなる。携帯電話でも連絡が取れない未知の土地へ旅立つ。家族と同様に自分の旅をサポートしてくれた人々に感謝する。

地図で下調べをしたものの実際に走行する距離は分からない。恐らく1万マイル、1万61千キロ位になるであろう。26年前にアメリカを横断した時は約3千5百マイル(5千6百キロ)だった。俺は今46歳。そしてきっと旅行中に、フランスかスペインで47歳の誕生日を迎えるのだと思う。もし、若かりし頃のように早く走ることが出来たら、自分の誕生日には家に帰れると思う。

搭乗を待っている間に最初は日記を書いていたが、もう少し時間があると思い米ドルから露ルーブルに両替しようと思って荷物検査の行われた場所近くに戻って順番を待っていたら、大韓航空のアナウンスで呼び出されたしまった。搭乗時間は知っていたが、腕時計も持って無かったのでその時間になっていることに気付かなかった。慌てて搭乗すると、飛行機のドアは直ぐに閉められた。自分が最後の搭乗客だった。

飛行機の中は比較的空いていた。エコノミークラスの席は狭いので、チェックインの際に非常口の席をリクエストしたら運良く右翼の付け根の近くの非常口の席に座れることが出来た。

離陸してから自分の家の近くのマリーナデルレイ付近を眺めることが出来た。旅を終えて無事に生きて帰ってくる自信はあったが、これが自分の家を見る最後になるかもとも思った。

飛行機の中では何もする事が無かった。不安のために何も手につかないというのが正直なところだ。昼食を頂き、その後で機内誌を読んだ。実に世の中というのは不思議なものだ。機内誌なので旅を題材にしたものが多いのは分かるが、まるで自分の旅立ちの気持ちを詠ったかのような詩を読んだ。

「空につづく道、竹林精舎」

雨に洗われた竹の青さを追いかけていったら
空にまで辿り着きそうだ
うねうねとからまりもつれた、
色々なものごとを、
ほぐしてあやして抱きとめて
そうやってどれほど歩いてきたのか、
振り返ることもせず
やみくもに歩いてきたのだ、
そらにまで行き着きそうなこの道
丸く盛り上がった朝露のように、
澄んでいるこの空につづく道

(チェ・ドン・ムク作)

強引に旅立ってしまった自分の行為に後ろめたさがあったのか、詩を読んだ後で涙が湧き挙げてきた。機内は暗く誰にも気付かれる事がなかったので、尚更のことだったのだろう。