出発に際し準備時間が無かったので、色々な意味で大きな損をすることになったが仕方ない。先ずは、ロサンゼルスの空港で、持ってきたラップトップに日本語の入力機能が無いことに気付く。考えられる対処方法は幾つかある。恵子に連絡して自分が使っていたPCにWindows XPのCDROMを入れて貰い、VPN接続してそこから必要なファイルをこのラップトップにコピーして、日本語を入力出来るようにする。もう一つは、誰かWindows XPを使っている人のPCから必要なファイルをコピーさせて貰う事だ。
家族には自分の我侭な旅に対して理解してくれた事、そして実際に旅立つ事を許してくれた家族に感謝する。恵子は長男のルイスが1996年に生まれてから、毎年夏休みになると息子達を連れて日本に帰省しているので、自分は常に見送る立場だったが、今日は自分が見送られる番だった。
そして計画では5ヶ月か6ヶ月間家を空けることになり、こんな永い間家を空けるのは初めてだった。この半年間、ハワイへの出張で家を空けることが数回あったが、長くて2週間だった。恵子と息子二人ルイスとクリスは頼れる人が今日からは家に居なくなる。携帯電話でも連絡が取れない未知の土地へ旅立つ。家族と同様に自分の旅をサポートしてくれた人々に感謝する。
地図で下調べをしたものの実際に走行する距離は分からない。恐らく1万マイル、1万61千キロ位になるであろう。26年前にアメリカを横断した時は約3千5百マイル(5千6百キロ)だった。俺は今46歳。そしてきっと旅行中に、フランスかスペインで47歳の誕生日を迎えるのだと思う。もし、若かりし頃のように早く走ることが出来たら、自分の誕生日には家に帰れると思う。
搭乗を待っている間に最初は日記を書いていたが、もう少し時間があると思い米ドルから露ルーブルに両替しようと思って荷物検査の行われた場所近くに戻って順番を待っていたら、大韓航空のアナウンスで呼び出されたしまった。搭乗時間は知っていたが、腕時計も持って無かったのでその時間になっていることに気付かなかった。慌てて搭乗すると、飛行機のドアは直ぐに閉められた。自分が最後の搭乗客だった。
飛行機の中は比較的空いていた。エコノミークラスの席は狭いので、チェックインの際に非常口の席をリクエストしたら運良く右翼の付け根の近くの非常口の席に座れることが出来た。
離陸してから自分の家の近くのマリーナデルレイ付近を眺めることが出来た。旅を終えて無事に生きて帰ってくる自信はあったが、これが自分の家を見る最後になるかもとも思った。
飛行機の中では何もする事が無かった。不安のために何も手につかないというのが正直なところだ。昼食を頂き、その後で機内誌を読んだ。実に世の中というのは不思議なものだ。機内誌なので旅を題材にしたものが多いのは分かるが、まるで自分の旅立ちの気持ちを詠ったかのような詩を読んだ。
「空につづく道、竹林精舎」
雨に洗われた竹の青さを追いかけていったら
空にまで辿り着きそうだ
うねうねとからまりもつれた、
色々なものごとを、
ほぐしてあやして抱きとめて
そうやってどれほど歩いてきたのか、
振り返ることもせず
やみくもに歩いてきたのだ、
そらにまで行き着きそうなこの道
丸く盛り上がった朝露のように、
澄んでいるこの空につづく道
(チェ・ドン・ムク作)
強引に旅立ってしまった自分の行為に後ろめたさがあったのか、詩を読んだ後で涙が湧き挙げてきた。機内は暗く誰にも気付かれる事がなかったので、尚更のことだったのだろう。
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