2008年6月27日 (62日目) P351 KM マーカ:238


夕べは暑かった。寝袋の中に入って居られないほどだった。でも、テントを張って蚊の大群の中で寝るよりもはるかに良かった。インターネットを昨晩出来なかったので、今朝はもう一度インターネットカフェに行って写真をアップロードしたかった。8時くらいに起きて、10時位にインターネットカフェに行けるように準備をしたが、結局10時半くらいになってしまった。リエナは今日の仕事は午後とのことで、アパートに居た。

インターネットカフェに行って、俺の自分の小さなコンピュータをネットワークに接続して、IPアドレスを固定し、プロキシーサーバを設定して、とりあえずインターネットが出来るようになった。リエナが正午にアパートを出るとの事なので、その時間に間に合わせる為に急いだが、結局写真は一枚もアップロード出来なかった。でも、Eメールの返信と、次の都会のエカテリンブルグでCouchSurfing のメンバーの宿泊先を見つけ、泊めて貰えないかリクエストした。

11時45分位にリエナのアパートの戻り、自転車を6階から降ろし、リエナと一緒に出る。携帯電話の新しいSIM カードは買うことが出来ない。ロシア人かその住民でないと購入できず、リエナの携帯は仕事先の知人が用意してくれたもので、俺の為に買うことは出来ないとの事だった。でも、最初にリエナに会った交差点付近の携帯電話の店で300ルーブル追加した。その間、店の外に自転車を置いてあったので、リエナに自転車を見守って貰った。


シャワーを浴びさせてくれ、洗濯も出来た。一泊だが綺麗な所に泊めてもらい、俺は非常に満足だった。リエナとは写真を撮った後、別れた。

携帯電話の店の外では、店員と酔っ払いが俺の進むべきエカテリンブルグへの道を紙に書いて教えてくれた。店員は英語が出来たわけではないが、酔っ払いと一緒に丁寧に教えてくれた。店員は店の事を忘れて、俺が道を間違えないように一生懸命に教えてくれた。ありがたいことだった。


チュメインの街を出るには簡単だった。店の中のコンピュータで地図を見ていたのと、店員と酔っ払いの説明で迷わずに街を出られた。大きな街だった。


13時位に走り出す。市内の道路は良かった。そしてオブラストが変わると、そこからはシベリアを脱したことになった。地形的にも行政的にも遂にウラル地方に入った。その後、カフェは幾つか見つけたが寄らずにそのまま走った。出発が遅れたので、カフェに寄って食事をする気にはなれなかった。チュメインで買ったバナナとビスケット等を食べる。


夕方前に、多分KM マーカの260位だと思うが、道路が酷く悪くなった。おまけに小さな虫が多く、立ち止まると無数の蝿のような虫が寄って来た。道路際は沼地が多かったので当然だ。

悪路の上に路肩も悪いので、そんな道路を走るのは面白くない。辛いものだが仕方ない。進むしかない。17時過ぎだったと思うが、交通量が少ないので、道路の状態が良い、道の真ん中を進む。風は無く、車が近づくと音で直ぐに分かったので、その時は直ぐに道路脇に戻る。こんな道路を走ると、本当にフロントにショックアブソーバが欲しくなる。


20時過ぎには道が真っ直ぐになり、道路は良くなった。カフェがあったので、その裏にでもテントを張りたかったが、断られてしまった。林の中なので特に問題ないと思ったが駄目だった。林の奥深くだったら構わないと言われたが、動物が怖いのよりも、もし盗賊にでも襲われる方が怖いのでやめた。

カフェでは中年の女性と、その娘と思われる10歳くらいの女の子が手伝っていた。トレーラーを改造したような小さなものと、それに併設した屋根があるだけの質素な建物だった。夕食をそのカフェで食べて先に進む。

エカテリンブルグへの幹線道路はP351。その道路脇に、ある木工所のような建物があり、中に作業をしている人が居たので、その敷地内にテントを張らせて貰った。只、蚊が多く、その上に金曜日とあってか一晩中、建物の中から賑やかな音楽を鳴らしていた。ウランウデ付近で材木所の寄宿舎で泊めて貰った時や、イルクーツクとクラスノヤルスクとの中間で泊めて貰った時も同じで、週末になると夜更けまで騒ぐ人が多い。週末は気をつけないといけないと改めて思った。


テントを張って寝る準備をするが、木工所の機械の音は止まなかった。夜の天気は良さそうだったのと、暑かったのでテントのフライは張らない。

日が長く夜10時を過ぎても未だ暗くならない。作業員に水が欲しいと言うと、木工所には水道が無いのか、その人が住んでいると思われる民家に行って水を貰った。電気のモーターの音がしたので、おそらくその家には地下水があるのだろう。モーターで水の流れを制御しているので、溢れるばかりの水を頂いた。寝る前に顔を洗う水も無かったシベリアでの夜が嘘のようだった。

寝る前に気付いたのだが、ノボシビルスクのパベールに買って貰った赤い帽子が無い。どこかで落としてしまったのか。夕刻は帽子が眩しい日差しを遮ってくれていたが、その後、暑かったので帽子を被ってなかった。失敗した。パベールの思い出を失ったようで悔しかった。

2008年6月26日 (61日目) チュメイン(チュメニ)、リエナ宅


昨日のSMS では、チュメイン(チュメニ)で泊めてくれるリエナは仕事の都合上、午後3時半までに来るか、午後9時半以降に来て欲しいとの事だった。夕べは長い時間走ったので寝るのが遅くなってしまったが、朝の5時半に起きた。カフェに居た客は、朝方になって俺がカフェの裏でテントを張っていることに気付き、日本から来た者はここに寝てしまった、というような事を立小便をしながら言っていた。でも、用が済むと皆家路に着いたようだった。夜の暗い時間は短いので、空は明るくなりかけていた。

5時半くらいに起きる。日はもう上がっている。走り出すまでに片付けの時間が必要なのか計ったら、寝袋、テント、空気が入ったマットレス、蚊除け、自転車のフロントバッグ等をきまった場所に収めるまで45分掛かった。素早くやったつもりだったが、いつも1時間くらい掛かっているのでその時間に間違いない。たった、数点の荷物を片付けるのにこんなに時間が掛かるのだった。何とかこの時間を短く出来たら良いが、テントを張ったら難しいだろう。


6時15分位に走り出す。カフェは24時間営業と書いてあっても、掃除の人が庭を綺麗にしていただけで、他には誰も居ないかのように静まり返っていた。酒場の典型的な朝だろう。

暫くすると、テントを張ったのは村の外れの最後のカフェだと思っていたが、別のカフェを見つける。夕べは暗かったので様子が分からなかったのだ。カフェの駐車場にはトラックが何台も止まっていた。只、カフェは始業前の清掃中だった。でも、サハリンから来たというマネージャは紅茶だけだったら出してくれるとの事だった。走り出して間もないので、休む必要は無かったが、その人の好意に甘える。掃除中の女性の不機嫌そうな声が奥から聞こえる。マネージャは別の女性を連れてきて、紅茶だけではなく朝食も作るように伝えてくれた。そしてマネージャはカフェの奥のキッチンを案内してくれ、俺は手と顔を洗うことが出来た。いつもの玉子焼き、ボルシチ、パン等を朝食にする。


そして食事の後、カフェを出る前に5リットルの水を40ルーブルで買う。青色の自転車のフレームに取り付けられている二つのボトルと、前輪の横にあるパニアの中に入れてある水のボトルに5リットルの水を分けて入れた。

準備を終えて走り出すと7時を過ぎてしまった。今日でロシアのビザは丁度残り一ヶ月になった。

シベリアの西の玄関、チュメイン(チュメニ)に通じるP402 は道幅が広かったが、綺麗な走りやすい区間もあれば、そうでない区間もやはりあった。午前中の体力がある時間は道の程度は気にならないが、午後は距離が延びない。10時くらいから吹き出す風の影響もあるのだろう。


前輪のショックアブソーバが欲しい。2ヶ月もの間を良く走ってきたものだ。悪路のお陰で手の指の痺れが治まらない。それから左足の指も痺れているが、これは若しかしたらペダルの中心が背足(支点)からずれてしまっているのが問題かもしれない。ペダルクリップは自転車を購入した時のものなので、古いスタイルであったが俺は好きだ。何しろスニーカーでもペダルを漕げるからだ。でも、20年以上の前のスニーカーと今のスニーカーは造りが違い、足のサイズは同じでも靴の外側は大きくなっているので、ペダルの中心と背足が一致せず、つま先でペダルを漕いでいることになっているので、これが足の指先の痺れの原因だと思う。でも、今は何も出来ない。チュメインで自転車屋を探しても、俺の気に入ったペダルクリップがあるかどうか分からない。無駄な時間を過ごすよりも先に進みたい。でも、若しかしたらロシアを出て、道路がよくなったら、手足の痺れもひけるかも知れない。

後輪のタイヤはいつの間にか山がなくなって磨り減っていた。以前、砂の道路を走ると滑っていたので変だとは思っていた。前輪はまだ当分大丈夫だ。


暫く走り、次の町に入る。店で牛乳、ピロシキ、バナナ等を買う。牛乳は冷えていて美味しかった。朝の早い段階で90キロを走ってしまったのでチュメインのサインが出た時はホッとした。沢山の車のディーラーが並んだ道を進む。そして道を歩く人と止めて、自分が正しい道を進んで居るのか確認した。発音できないので、SMS で送られてきた文字を写したメモ帳を見せると、真っ直ぐに進んだら良い、と教えてくれた。そして Respubliky と Kholodilnaya の交差点に向う。



何度も何度も道を歩く人に場所を確認しながら進む。するとある若い学生風の二人は、英語で道を教えてくれた。只、真っ直ぐに進めば良かったのだが、どれくらいの距離なのか想像できたのでよかった。それを聞いていた自転車に乗った若い女性は、自分もその方角に行く、と言ってくれたので、一緒に行ってくれるかと思ったら、素早く走り去ってしまった。でも、リエナと逢う約束をした交差点には午後1時半に着けた。早く着けそうな気はしていたが、こんな都会でこんなに簡単に約束の場所が見つかるとは想像できなかったので良かった。リエナには到着したことをSMS で送り、約束の時間を待った。やれやれだ。

午後3時半に会う約束なので、それまで近くの公園で休む。ベンチはあるが、水道が無い。比較的大きな公園だったが、どこにも無い。トイレも見あたらない。そして日陰には蚊が多かった。公園で涼んでいる他の人は蚊に慣れてしまっているのか、気にしてないようだった。

リエナは約束どおりに3時半に来てくれた。彼女はその交差点の近くに住んでいて、俺を直ぐに連れて行ってくれた。ケメロボを出る前に、彼女のプロファイルをCouchSurfing で確認していたのだが、彼女はカナダのオタワで生まれで、英語とフランス語が話せ、このチュメインでは英語をある企業で教えているとの事だった。オムスクのターニャと同じだ。


彼女のアパートは建物は他と同じように古いが中は綺麗になっていた。チュメインに来てまだ一ヶ月との事で、8月に契約が切れるまでチュメインに居るが、その後は分からないと言っていた。以前、住んでいたチェコのプラハでは英語とフランス語を教えていたそうだ。自宅にはインターネットが無かった。でも、親切にどこへ行けばインターネットカフェがあるか教えて貰えた。そしてリエナは次の仕事があったので、直ぐに出かけて行った。

俺は先ず、シャワーを浴びさせて貰った。シャワーを浴びると、まるで生き返るようだった。洗濯機がバスルームにあったので、洗濯もさせてもらう。使い方を教えて貰ったが、最初のスタートの部分だけ。洗濯が終わっても取り出す手順を教えて貰ってなかったので、洗濯機のドアがロックされていて干すことが出来なかった。仕方ないのでそのままにして、インターネットと買い物の為に外出する。合鍵が無いので、一度外出するとリエナが戻るまで入れないので、5時くらいになるのを待って出かけた。

先ずはインターネットカフェに行った。英語のメールは読めたが、恵子から日本語のメールもあったので、それも読みたかったが、使ったコンピュータは日本語を表示できず読めなかった。
ウイルスとスパイウエア対策の為に、Windows を再起動すると先の設定は全て消去され、また新しい環境になってしまうので、日本語をWindows に設定することは出来なかった。それから写真もうまくアップロード出来なかった。仕方ないので、後で自分のラップトップを持ってきて、接続させて貰うことにした。一時間くらいインターネットして、63ルーブル支払った。インターネットカフェの中には10台くらいのコンピュータが置いてあり、高校生位の年代の数人が居た。

スーパーマーケットは歩いて10分くらいの距離だった。大きな建物の中にあり、アメリカの大型なショッピングモールと負けず劣らずの大きさだ。リエナ曰くこの町は石油で潤う町で、富裕層の一部は特に裕福だと言っていた。モールの中には様々な店が入っていたが、はやはり婦人服が中心だった。当面の食料を買って、400ルーブル位をVisaカードで支払うことが出来た。リエナにはコーヒーとクッキーを買った。ロシアの夏の飲み物、クワスも買ってみた。フードコートに行ってみると、食べたいものが見つからないのと、値段が高いので、食事をそこで食べるのをやめた。

そしてリエナのアパート近くに戻る。しかし、街角のキオスクは全て閉まっていて、何も買えない。先にインターネットカフェに行った際に、その手前に小さなスーパーマーケットがあったのでそこに行ってピロシキのような菓子パンのようなものと飲み物などを買う。そしてさっき大きなスーパーで買った食料が夕食になった。

夜の10時半にリエナが戻ってきたので、アパートに戻り、俺は直ぐにラップトップを持ってインターネットカフェに行った。しかし、閉まっていた。インターネットカフェのマネージャのセルゲイに聞いた時は夜12時まで営業しているとの事だったが、閉まっていた。夜の8時にいつも閉まるので、リエナは俺が聞き間違い下のではないかと思ったようだ。8時と12時を間違える訳ないと思ったが仕方ない。今晩は、ロシア対スペインのサッカーの試合があるので、セルゲイは帰ってしまったのか、とも思った。仕方ないので、明朝もう一度行くことにした。

先に買ったクワスをリエナに見せると、聞いたことはあるが飲んだことは無いと言う。ヨーロッパの人達には不評な事を知っていたので、そう伝えるとリエナは遠慮しておく、と笑った。俺は特別好きでは無かったが、道端によく捨てられている空きボトルと同じレベルの物が売られていたので、それを飲んでみたかった。悪くない。でも、リエナは俺の顔を見て、やっぱりやめておく、と言う。結局一人で2リットル位を全て飲むことになった。しかし、都会の夜は暑かったので好都合だった。寝室一つ、キッチン、バスルームと、小さなアパートだったので、キッチンにマットレスを敷いて寝る。

2008年6月25日 (60日目) P402、94 Km


朝は5時半くらいに起きて、静かに準備を始めるとサーシャ(泊めてくれた老人)を起こしてしまった。サーシャは直ぐにマカロニを温めてくれたので、それを頂いて6時半くらいに出る。夕べの話では、トラックを運転している息子が戻ってくるような事を言っていたと思ったが、帰ってこなかったようだ。


昨日もそうだったが、朝は冷えていた。朝霧が道路を隠すように低く広がっている。俺が一番好きな時間だ。風がなく、寒いくらいだが、全ての動植物が目を覚ますような瞬間が好きだ。


今日は170キロ位走らないといけないので、早く出た。そしてチュメインのリエナにSMS を送って、明晩泊めて欲しいと伝えるとOK との返事が直ぐに来た。朝食は9時位に見つけたカフェで食べる。2階建てで建物は立派だったが、料理が盛られた皿はプラスティックだったので、残念だった。そしてセルスサーブで、出来上がった料理は自分で取りに行く必要があった。おまけに玉子焼きも作ってくれなかった。メニューにないのだから仕方ないが、ピロシキも殆ど残ってなく、外見とは違うお粗末なカフェだった。

自転車を見守る必要があったので、入り口に近いベンチに座って、自転車を見下ろすようにしながら食べた。しかし、プラスティックの皿は味気ない。ピロシキ、サリャンカ、紅茶と少な目の朝食となった。


道は相変わらずだが、上り下りが少しあった。そして暑かった事もあり、俺は殆どの水を飲み干してしまっていた。そして、道路脇に停められたトラック数台を横に通り過ぎた。ドライバは何か飲み物を飲んでいた。俺はまだ水が少し残っていたが、この先どれくらいの距離に村があるか分からないので、もしかしたら水を貰えないかと直ぐに引き返した。

ドライバは俺を歓迎してくれた。水が欲しけりゃやるよ、でも紅茶がいいかい、それともコーヒー?と、いうような事を言ってくれた。みんな陽気な人達だったので、嬉しかった。水をボトルに一本分入れて貰い、コーヒーを一杯頂いた。俺は先を急ぐ必要があったので、直ぐに発つ。

暫くするとドライバ全員が、俺を追い越すときにクラクションを軽く鳴らして通り過ぎて行った。俺はクラクションが鳴らされる度に、右手を大きく挙げた。俺にはそんなクラクションが走る勇気を与えてくれるようで嬉しい。大型トレーラーなので、俺が見える位の距離になったら、俺の姿はバックミラーに小さく写り、俺が手を挙げているか分からないだろうといつも思うのだが、手を挙げずには居られなかった。


シベリアではモンシロチョウのような白い蝶や蜜蜂が纏わり付いていたが、この辺の蜂は全然違う。黒く大きくて自転車に乗っている俺を刺そうとしている。追い払うのが厄介だった。トラックが通り過ぎると風でその蜂は俺に近づけないのだが、風がなくなると20匹くらいが纏めてやってくる。昨日の夕食のカフェでは、若者が俺に虫の事を聞いていたので、この事だったのかとやっと気付いた。


朝は無風に近かったが、午後は向かい風になってしまい、いつものように午後はペースが落ちてしまう。甘いものを食べたくなり、ある村に入ってお店を見つける。ピロシキみたいに揚げたパンで三角のものがあり、中には魚が少し入っていた。35ルーブル。そしてチーズが入ったピザみたいなものも同じ35ルーブルだった。ジュース、バナナ6本、水2リットル、安全ピン等で200ルーブル位を支払う。本当は牛乳を買いたかったのだが無かった。そして、安全ピンはまとめて売っているようで、俺が一つ欲しいというと、組になっている中から一つ取り出してくれた。多分、この分は只にしてくれたのだと思う。このお店の中年の女性は、俺があれこれ時間がかかっても、嫌な顔一つしないで応対してくれた。他のお客と同じように扱われた事が嬉しかった。

お店で買った物が昼食になった。店の前が駐車場で、腰掛けられるような所はないので立ちながら食べた。店には小さな女の子が二人、アイスクリームを買って出て行く。この店に来る前に、実は他の店にも入ったのだったが、そこは営業時間なのに閉まっていた。この店の向かいには、プロパンを売るガソリンステーションがある。P402 の幹線からは家が沢山見えていたので、それなりの村だと思ったが、結構の大きさなのかもしれない。道歩くブロンドの20歳位の女性を見つける。髪の毛は金色というよりも、白に近い本当のブロンドだ。こんな田舎にもこんな人もいるのだった。


チュメインまで100キロを切った段階でもう午後9時を過ぎていたので、線路の丘を越えたところにあったトラックの修理工場の近くでテントを張りたかったが、断られた。敷地には沢山のトラックが止めてあった。そして守衛がいたので、期待したのだが駄目だった。でも、守衛の人に水が欲しいと言うと事務所の中に入れてくれて、水のみ場を案内してくれた。顔もついでに洗わせてもらった。

守衛は、隣の建物で聞いてみたらと教えてくれたので、その通りにしたが、呼び鈴の返事は無かった。そして、俺はすがる気持で守衛に戻って、誰も居ない、と伝えると、一緒にその建物の前まで一緒に行ってくれた。さっき俺が建物の呼び鈴を押しても誰も出てこなかった。そして守衛が押して誰も出てこなかった。でも守衛は、大声で叫ぶと2階の窓から老婆が顔を出してくれた。守衛は俺が旅行者で、泊まる場所を探していると伝えてくれたのだと思うが、老婆は軽く駄目だと言った。もう辺りは暗く、もう走る元気も無い。俺は守衛に礼を言って、そこを離れるが、その後ろにも何かの修理工場のような建物が見えたので、そこに行く。子供が6人くらい遊んでいる。アルメニア人だった。テントを張りたいと聞くがあまり良い返事ではない。でも、その中の10歳くらいの男の子は、英語を勉強していると、家からテキストを持ってきて、色々話しかけてきた。それから20分くらい相手をしたのだろうか、大人が外に出てきた。俺はいつものメモを見せる。するとその中の中年の男の人は、待って欲しい、と言ってどこかに行ってしまった。待っていると、他の中年の男の人も一緒に戻って来たが、答えはこの辺では駄目だという。無駄な時間を費やしてしまった。でも、仕方ない。先に進むことにする。

すると10キロ位で別の町が出てきた。ガソリンスタンド、カフェ、トラックなどの修理工場と、結構な町だった。カフェが幾つもあったので、全てを見たが、どれも気が進まない。道歩く若いカップルに泊まる場所はあるかと聞くと、ホテルがあると言う。オムスクの東で会ったスイス人のサイクリストは、ウラルでは200ルーブル位(約8ドル)で泊まれるホテルが幾つかあった、というので俺は果たしてそんなホテルが本当にあるのか確かめたかった。



でも、案の定一泊70ドルとの事だった。部屋代をドルで伝えて来たと言う事は、ロシア人とそれ以外の料金が違うのだろうか。案内してくれたカップルには悪いことをした。ホテルの中に入って値段や空き部屋を聞いてきてくれたのに俺は泊まらなかった。ホテルはある敷地内にあったので、その敷地を歩いて一緒に出た。丁寧に礼をカップルに言って別れる。親切なカップルだった。

P402 の幹線道路上で、一番西に位置するカフェにはフェンスがあったので、そこの入りテントを張りたいと言うとOK してくれた。カフェでは、いつものメニューを食べる。いつものように酔っ払いが寄って来る。年配の恰幅のある人だった。ウォッカを飲めとしきりに勧められる。ウェートレスの様子を伺っていると、その人の指図で物事が動いていたので、経営者のようだった。注文してない物等を出してくれたので、ウォッカを一口頂いた。一口飲んだら収まったようだった。

カフェの中には個室があって、カフェの外側には24時間営業と書いてあったので、その部屋の中に寝ても構わないかとその人に聞いたが、それは駄目だった。すると個室に同席していた人は俺に1000ルーブル(約40ドル)出して、これでホテルに泊まりなさいと言ってくれた。でも、俺は既に70ドルと料金を聞いていて、不足分を出しても俺は朝早く出てしまうので、俺にはホテルの部屋は不要だったので、ありがたく断った。

食事の後は、先の酔っ払いがウェートレスに俺にコーヒーを出すように伝えてくれて、それを頂いた。大した金額ではないが、いつものように旅人の俺を持て成してくれる人がここにも居た。12時を回ってしまった。カフェの裏にテントを張って寝る。今日もよく走った。

2008年6月24日 (59日目) P402、270 Km


夕べは風呂(バーニャ、ロシア風サウナ)に入れて貰い、ウォッカを少し飲んだためか早く寝てしまった。泊めてくれた老人は、俺が寝付いた頃、何度も俺を起こした。しかし、最後には何かを言いながら俺の足元に毛布を掛けてくれた。俺のことを歓迎してくれ、親切にしてくれた。しかし、朝、発つときには家の中に姿が無かった。昨日に続いて、別れの挨拶が出来ない。家の周りには家畜は居ないので、その面倒を見ているわけではない。農作物を見に行ってしまったのか分からない。それとも、夜は違うところで寝ているのかもしれない。

少し待ったが、諦めて出ることにする。夕べ、ポテトの炒め物やサラダを作ってくれた婦人にも挨拶したかったが、まだ誰も起きている気配がしない。仕方なく、紙切れに「スパシーバ、イポーニャ」、「ありがとう、日本から来た者」と書き残してきた。


外は寒かった。P402 の幹線に出る前、あぜ道で青年二人に会う。酔っ払っている。少し話をすると、彼らは携帯電話で俺を写真に収めた。例え酔っ払いであっても、俺の事を認めてくれる若者に会えて嬉しかった。

いつの間には、俺は最終目的地をモスクワではなく、ポルトガルに戻していた。彼らに「ポルトガーレ」と伝えた時の彼らの顔が忘れられない。文字通り目を丸くしていた。酔いも醒めたことだろう。俺をまた村に引き戻そうとか言っていたのかも知れないが、構わず俺は先を急いだ。別れ間際、一人が持っていたオレンジジュースを頂いた。

気付くと俺はいつでも酔っ払いに助けられている。時には民家の前で繕いで居る老人が、自転車を捨てて飲もう、といったような事を言っている。また、酔っ払いは特に親切で、道順を聞けば、懇切丁寧に教えてくれる。普通なら警戒されても不思議ではない状況でも、酔っているから関係ない。人懐こく近寄ってきて、色々話しかけてきてくれる。時には、体臭が厳しい時もあるが、お互い様だ。俺も何日も風呂に入れない事がある。


P402に出ると、そこにはカフェがあった。トラックが何台も駐車していた。道路の横の川や池からは湯気が上がっているくらい冷えていたのだった。俺は、青いレインジャケット、手の指を全てカバーする手袋の上にショッピングバッグを重ねるくらい寒かった。



7時くらいに走り出したが、カフェは見つからず、ひたすら走った。早朝は風が弱いので冷たかったが快調に飛ばした。しかし、10時位になると向かい風が出てきてしまった。道の方角が変わったのも向かい風になってしまった理由の一つかもしれない。途中、オブラスト(行政区)が変わった。

9時くらいだったか、ケメロボのウラジミールにSMS を送る。恵子にメッセージを転送して欲しかったからだ。オムスクを出て、メガフォンの電波は入らなくなってしまった。この地域のメガフォンのSIMカードが必要だったのかも知れない。昨日、夕食に寄ったカフェで古い携帯番号に課金したので、今は古いSIM を使っている旨を伝えて欲しかった。返事は直ぐに来たが、仕事中なので、仕事が終わり自宅に戻ったらEメールを送ってくれるとの事だった。とにかく、俺はウラジミールに頼りっきりだった。オムスクで泊めてくれたターニャをCouchSurfing で見つけてくれたのもウラジミールだった。悪く言えば、俺はウラジミールを最大限に利用していた。でも、いつでもウラジミールは俺からの連絡を待っていてくれたのだった。元気? 誰かの家に泊まった? 良い人に会えるように等と、いつも気遣ってくれていた。ハバロフスクのマリーナやマリヤのようにウラジミールも本当に優しい人だ。


道はオブラストが変わると悪くなってしまった。久しぶりに悪路になってしまった。凸凹の道で、ほんの一部だけは舗装工事をしていた。朝食を食べなかったので途中疲れてしまったようだ。それに加え、久しぶりの丘陵地帯に入ったようで、それ程、高低差のない登りと下り坂が続いた。道路標識で55% という下りがあった。明らかに5.5% の間違いだと思う。しかし、5.5% だったら急な坂ではないので、標識を掲げるほどでもないだろうと笑えるようなものだった。



昼前に、3台のキャンピングカーが行き過ぎるのを見た。ロシアで始めて見るキャンピングカーだった。ナンバープレートを見ても、どこの国から来たのか分からない。ロシア国内の旅行者かも知れない。昼に食べたカフェで分かったのだが、時間が1時間遅れていた。また一つ時間帯を超えた。



正午だと思ってカフェに入るとカフェの時計は11時だった。いつものメニュー、玉子焼き、マカロニ、ボルシチ、紅茶などを昼食とした。そのカフェの中で日記を書く。

水がなくなってしまったので、カフェではなく店で買いたかった。しかし見つけた店の水は安くなかった。仕方ないので、買って出る。


携帯電話は、オブラストでは少し料金が高いようだった。何も表示されない時はSMSが4ルーブルのようだ。メガフォンの時は、常に1ルーブルだったので安かった。

恐らく今日からウラル地方に入ったのだと思う。シベリアを脱出したのだろう。もし出来たら、チュメインで泊めてくれるリエナにお願いしてMTC(電話会社)のSIM を買おうと思う。


チュメインから先はどのルートを行くか未だ決めてない。というか、どの幹線道路がモスクワまで行っているか分からない。もしかしたら遠回りをしてでも、南下してチェレビンスクに向わないといけないかも知れない。

17時位にイシムという町に入った。その前にはスイスからYamaha の750CCのバイクに乗ったマルコスに会う。俺を見つけるとUターンして来てくれて、30分くらい話をした。ロサンゼルスに行くかも知れないと言うので、俺のメールアドレスと電話番号を伝えた。


イシムの町の前にカフェがあったので、食事を取る。いつもの食事だが、玉子焼きが二つで40ルーブルと高かった。ウェートレスの態度が悪く、早く食べて出たかったので、早食いをすると、注文したマカロニが出てきたのは、全て食べ終わった時だった。問題のある店では、最初から問題があり、その時の勘というのは何故か当たってしまう。

P402 の道は、イシムの町の北を進み、町の中心からは離れていた。本当は店でピロシキか何か食べ物を買いたかったが、仕方ない。道を進むと、イシムの町を抜けてしまった。

そして、今日はチュメインまで250キロ位の距離まで進みたかったが、今日は既に170キロ走っていたので、次に出てきた村に入る。村の井戸では子供が並んで水を汲んでいた。俺も水を貰い、そのまま村の一本道を進むと、老人が数人長椅子に座って居た。俺はいつものメモを見せた。すると、全員が「サーシャ、お前が泊めろ」と言うような事を言った。そして本人は最初、面倒だな、という態度だったが、一緒に家まで行くと、その老人サーシャは快く家に迎え入れてくれた。



家に入ると直ぐに紅茶を入れてくれ、老人が吸っていたタバコにはトロイカと書かれていたのが読めたので、その曲を口ずさむと喜んでくれた。俺は更に昔のモスクワ放送の最初に流れた曲や、ラフマニノフの曲を口ずさむと大変喜んでくれた。会話にはならなかったが、音楽がサーシャと俺を結んでくれた。

老人は娘さんと思われる若い女性に言いつけて、家の中のありとあらゆる食べ物を出してくれた。家の中を見れば裕福であるかどうか直ぐに分かる。しかし、老人が家の中の全ての食べ物を差し出したのではないかと思ったくらい、スープや魚など色んな食べ物を出してくれた。俺は嬉しかった反面、こんな貧しい生活をしている老人から恩を受けて、罰当たりな男だと思った。俺は騙したつもりはない。屋根の下で寝たかっただけだと自分に言い聞かせた。

食事が終わると、俺は外に溜めてあった水で頭と上半身を洗った。たとえそれが雨水を溜めた桶の水であっても、俺には気持ちの良い水であった。サーシャは頭に水を掛けてくれて手伝ってくれた。そしてソファで寝たら良いと、毛布を用意してくれた。テレビも付けてくれたが、今日はよく走ったので、見る元気もない。サーシャは一緒に見たかったようだが、俺は先に寝かせてもらった。ありがとう、サーシャ。