2008年6月24日 (59日目) P402、270 Km


夕べは風呂(バーニャ、ロシア風サウナ)に入れて貰い、ウォッカを少し飲んだためか早く寝てしまった。泊めてくれた老人は、俺が寝付いた頃、何度も俺を起こした。しかし、最後には何かを言いながら俺の足元に毛布を掛けてくれた。俺のことを歓迎してくれ、親切にしてくれた。しかし、朝、発つときには家の中に姿が無かった。昨日に続いて、別れの挨拶が出来ない。家の周りには家畜は居ないので、その面倒を見ているわけではない。農作物を見に行ってしまったのか分からない。それとも、夜は違うところで寝ているのかもしれない。

少し待ったが、諦めて出ることにする。夕べ、ポテトの炒め物やサラダを作ってくれた婦人にも挨拶したかったが、まだ誰も起きている気配がしない。仕方なく、紙切れに「スパシーバ、イポーニャ」、「ありがとう、日本から来た者」と書き残してきた。


外は寒かった。P402 の幹線に出る前、あぜ道で青年二人に会う。酔っ払っている。少し話をすると、彼らは携帯電話で俺を写真に収めた。例え酔っ払いであっても、俺の事を認めてくれる若者に会えて嬉しかった。

いつの間には、俺は最終目的地をモスクワではなく、ポルトガルに戻していた。彼らに「ポルトガーレ」と伝えた時の彼らの顔が忘れられない。文字通り目を丸くしていた。酔いも醒めたことだろう。俺をまた村に引き戻そうとか言っていたのかも知れないが、構わず俺は先を急いだ。別れ間際、一人が持っていたオレンジジュースを頂いた。

気付くと俺はいつでも酔っ払いに助けられている。時には民家の前で繕いで居る老人が、自転車を捨てて飲もう、といったような事を言っている。また、酔っ払いは特に親切で、道順を聞けば、懇切丁寧に教えてくれる。普通なら警戒されても不思議ではない状況でも、酔っているから関係ない。人懐こく近寄ってきて、色々話しかけてきてくれる。時には、体臭が厳しい時もあるが、お互い様だ。俺も何日も風呂に入れない事がある。


P402に出ると、そこにはカフェがあった。トラックが何台も駐車していた。道路の横の川や池からは湯気が上がっているくらい冷えていたのだった。俺は、青いレインジャケット、手の指を全てカバーする手袋の上にショッピングバッグを重ねるくらい寒かった。



7時くらいに走り出したが、カフェは見つからず、ひたすら走った。早朝は風が弱いので冷たかったが快調に飛ばした。しかし、10時位になると向かい風が出てきてしまった。道の方角が変わったのも向かい風になってしまった理由の一つかもしれない。途中、オブラスト(行政区)が変わった。

9時くらいだったか、ケメロボのウラジミールにSMS を送る。恵子にメッセージを転送して欲しかったからだ。オムスクを出て、メガフォンの電波は入らなくなってしまった。この地域のメガフォンのSIMカードが必要だったのかも知れない。昨日、夕食に寄ったカフェで古い携帯番号に課金したので、今は古いSIM を使っている旨を伝えて欲しかった。返事は直ぐに来たが、仕事中なので、仕事が終わり自宅に戻ったらEメールを送ってくれるとの事だった。とにかく、俺はウラジミールに頼りっきりだった。オムスクで泊めてくれたターニャをCouchSurfing で見つけてくれたのもウラジミールだった。悪く言えば、俺はウラジミールを最大限に利用していた。でも、いつでもウラジミールは俺からの連絡を待っていてくれたのだった。元気? 誰かの家に泊まった? 良い人に会えるように等と、いつも気遣ってくれていた。ハバロフスクのマリーナやマリヤのようにウラジミールも本当に優しい人だ。


道はオブラストが変わると悪くなってしまった。久しぶりに悪路になってしまった。凸凹の道で、ほんの一部だけは舗装工事をしていた。朝食を食べなかったので途中疲れてしまったようだ。それに加え、久しぶりの丘陵地帯に入ったようで、それ程、高低差のない登りと下り坂が続いた。道路標識で55% という下りがあった。明らかに5.5% の間違いだと思う。しかし、5.5% だったら急な坂ではないので、標識を掲げるほどでもないだろうと笑えるようなものだった。



昼前に、3台のキャンピングカーが行き過ぎるのを見た。ロシアで始めて見るキャンピングカーだった。ナンバープレートを見ても、どこの国から来たのか分からない。ロシア国内の旅行者かも知れない。昼に食べたカフェで分かったのだが、時間が1時間遅れていた。また一つ時間帯を超えた。



正午だと思ってカフェに入るとカフェの時計は11時だった。いつものメニュー、玉子焼き、マカロニ、ボルシチ、紅茶などを昼食とした。そのカフェの中で日記を書く。

水がなくなってしまったので、カフェではなく店で買いたかった。しかし見つけた店の水は安くなかった。仕方ないので、買って出る。


携帯電話は、オブラストでは少し料金が高いようだった。何も表示されない時はSMSが4ルーブルのようだ。メガフォンの時は、常に1ルーブルだったので安かった。

恐らく今日からウラル地方に入ったのだと思う。シベリアを脱出したのだろう。もし出来たら、チュメインで泊めてくれるリエナにお願いしてMTC(電話会社)のSIM を買おうと思う。


チュメインから先はどのルートを行くか未だ決めてない。というか、どの幹線道路がモスクワまで行っているか分からない。もしかしたら遠回りをしてでも、南下してチェレビンスクに向わないといけないかも知れない。

17時位にイシムという町に入った。その前にはスイスからYamaha の750CCのバイクに乗ったマルコスに会う。俺を見つけるとUターンして来てくれて、30分くらい話をした。ロサンゼルスに行くかも知れないと言うので、俺のメールアドレスと電話番号を伝えた。


イシムの町の前にカフェがあったので、食事を取る。いつもの食事だが、玉子焼きが二つで40ルーブルと高かった。ウェートレスの態度が悪く、早く食べて出たかったので、早食いをすると、注文したマカロニが出てきたのは、全て食べ終わった時だった。問題のある店では、最初から問題があり、その時の勘というのは何故か当たってしまう。

P402 の道は、イシムの町の北を進み、町の中心からは離れていた。本当は店でピロシキか何か食べ物を買いたかったが、仕方ない。道を進むと、イシムの町を抜けてしまった。

そして、今日はチュメインまで250キロ位の距離まで進みたかったが、今日は既に170キロ走っていたので、次に出てきた村に入る。村の井戸では子供が並んで水を汲んでいた。俺も水を貰い、そのまま村の一本道を進むと、老人が数人長椅子に座って居た。俺はいつものメモを見せた。すると、全員が「サーシャ、お前が泊めろ」と言うような事を言った。そして本人は最初、面倒だな、という態度だったが、一緒に家まで行くと、その老人サーシャは快く家に迎え入れてくれた。



家に入ると直ぐに紅茶を入れてくれ、老人が吸っていたタバコにはトロイカと書かれていたのが読めたので、その曲を口ずさむと喜んでくれた。俺は更に昔のモスクワ放送の最初に流れた曲や、ラフマニノフの曲を口ずさむと大変喜んでくれた。会話にはならなかったが、音楽がサーシャと俺を結んでくれた。

老人は娘さんと思われる若い女性に言いつけて、家の中のありとあらゆる食べ物を出してくれた。家の中を見れば裕福であるかどうか直ぐに分かる。しかし、老人が家の中の全ての食べ物を差し出したのではないかと思ったくらい、スープや魚など色んな食べ物を出してくれた。俺は嬉しかった反面、こんな貧しい生活をしている老人から恩を受けて、罰当たりな男だと思った。俺は騙したつもりはない。屋根の下で寝たかっただけだと自分に言い聞かせた。

食事が終わると、俺は外に溜めてあった水で頭と上半身を洗った。たとえそれが雨水を溜めた桶の水であっても、俺には気持ちの良い水であった。サーシャは頭に水を掛けてくれて手伝ってくれた。そしてソファで寝たら良いと、毛布を用意してくれた。テレビも付けてくれたが、今日はよく走ったので、見る元気もない。サーシャは一緒に見たかったようだが、俺は先に寝かせてもらった。ありがとう、サーシャ。

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