2008年6月06日 (41日目) クラスノヤルスク、フィヨドール宅


夕べは寝たのが2時位だったかもしれないが、朝起きたら8時だった。日記を書いていながら昨日買ったパンやりんごを食べる。昨日のFyodor の話では、カナダのケベックに住むある人は、冬にロシアを自転車で横断したそうだ。ロシアの西から東に向ったとはいえ、大変なことを成し遂げた人が居るものだ。その人はマウンテンバイク風の自転車だったそうだ。今時、俺の自転車の様にドロップハンドルは人気が無いようだ。俺が次回サイクリングする時は新調すべきだ。出来ればディスクブレーキが欲しい。カンティレバーブレーキは耐久性には優れていると思うが、雨が降ったら途端にブレーキの効きが悪くなるのが嫌だ。そして悪路に備えてサスペンションがあった方が良いと思う。自転車は重くなってしまうが、自分の今の手の痺れを考えたら仕方ないだろう。でも、ドロップハンドルは譲れない。一本の横棒のハンドルは長距離には向いてないはずだ。

とにかく今の自転車はブレーキが問題なので、先ずはブレーキパッドを替えて、もしそれでも駄目ならブレーキを他のものに替えたい。フレームには他のブレーキを取り付けられる穴が開いてないと思うので、替える時はドリルが必要になる。恐らく何処かの店に持っていかないと駄目だろう。

Fyodor が起きてきたが直ぐに出かけ、俺は戻ってくるまでインターネットを使わせてもらった。何通かのメールが届いていたので返事を書く。写真のアップロードするとインターネット代が上がってしまうと言っていたので、写真はアップロードしなかった。でも、メールを送受信できたのでありがたかった。本来なら自分の携帯電話を買いなおして、携帯から写真をアップロード出来たら良いのだが、PCの電池が充電無しでどれだけ使えるのか気になるので当分はこのままだ。

フィヨドールは暫くすると戻ってきて、車で一緒に友人のデニスの家に行った。デニスの両親とも挨拶をして写真を撮ったりする。そこにはフランス人の女性が居た。フランスの北部からボランティア活動の為にロシアに来ているのだが、今は旅行中という。デニスの両親以外、フィヨドール、デニス、フランス人女性、そして俺の4人は朝食兼昼食にパンケーキなどを頂く。デニスの母親は、俺だけにスープを余分に出して下さった。見ず知らずの旅行者を暖かく迎え入れてくれるロシアの人達。感謝の念に堪えない。

デニスはロシア各地を自転車で旅行していて、モスクワの街中は走らない方が良いと教えてくれた。誰かの家に泊めさせて貰って、電車でRed Square まで行った方が良いと言う。でも、俺には自転車で行って記念写真を撮りたい。早朝のモスクワなら大丈夫であろう。何とか自転車で行きたい。

デニスの家を出て、4人で車に乗ってクラスノヤルスクの街に出る。デニスは写真の焼き増し、フランス人女性はDVD のコピー、そして俺はフィヨドールに頼んで携帯電話のSIM カードを買って貰った。俺はロシア住民ではないのでSIM カードを買うことが出来ないので、頼んだのだった。今まではMTC (MTS) だったが、これからはMegaphone になる。そして新しい電話番号になった。100ルーブルのバランス込みで125ルーブルを支払う。これでノボシビルスクまでは無料で電話を受信できるそうだ。


その後、車に戻り街の西に進み、川沿いにかなり進んだ。エニセイ川で日本の川とは種の異なる川だった。大陸の川だけあって、ゆっくりと水が流れている。川幅も300メートル位ある広い川だった。川の長さでは世界で6番目の河川で、アムール川より長いそうだ。少しハイキングして、川岸の小高い丘に登って川を見下ろすと素晴らしい景色だったが、俺には毎日のサイクリングで疲れているので、足を滑らして滑落したら大変という気持ちが強かった。その辺りで一番高い丘に登り、そこで持っていたリンゴなどを食べる。


丘を降りてから更に西に歩くが、ある地点ですれ違った車の中の人が、これ以上進まないようにというようなジェスチャーをしたそうで、我々4人は引き返すことにした。我々は間違って私有地に入ってしまったので戻った方が良いのか、何か先に厄介な事があるのか分からない。でも、好奇心を持って先に進もうという物は4人の中に誰も居なかった。

車に戻って少し走ると小さな店があり、そこで皆アイスクリームを買って食べる。その後は、車を川岸に止めて川の水で車を洗うことになった。最初、フランス人女性と俺はどうやって川で車を洗うのか気になっていた。でも、川岸に行ってみると他にも洗車している人が居たので容易に分かった。水を川から汲んできて洗うだけだった。クラスノヤルスクは都会とは言え、アパートの外には水道が無いのかもしれない。


俺は、車の左側後ろのブレーキから音が出ていたのに気付いていたので、洗車は任せてブレーキの点検をする。ブレーキドラムを外そう試みたが外れなかった。銅かゴムのハンマーでショックを与えるか、若しくはボルトでアクスルの内側から押さないと外れないほどになっている。フィヨドールには修理工場に持っていった方が良いと伝える。

デニスとフランス人女性をデニス宅に送り、夜7時過ぎにフィヨドール宅に戻る。俺は一人で近くのマーケットに行き今晩の夕食と明日からの食料を買い出しに行く。トイレットペーパー、チョコレート、ジュース、バナナ、トマトペースト、量り売りの冷凍野菜などを買う。新鮮な野菜はまとめて買う必要があったので買うのを躊躇したら、冷凍野菜が量り売りされていたので今晩必要なだけ少量を買えたので安く上がった。冷凍野菜や冷凍果物は非常に種類が多かった。

このマーケットは団地のような集合住宅地の中にあり、並びには銀行や理髪店もあった。フィヨドールに教えてもらたこの区域の名前「アカデムグロドック(Академгородок)」には、集合住宅地とは道を隔てて結構大きな大学があり、きっと「アカデム」はアカデミーの省略と思われ、「グロドック(городок)」は「街」なので、大学街といった意味になるのであろう。

マーケットから戻るとフィヨドールは彼女の家に行って夕食を食べてくるとの事だった。俺はフィヨドールと一緒に夕食を食べると思って買い出しに行ったのだが、一人で食べることになる。フィヨドールのアパートのキッチンは狭かったので、二人分を同時に作るのは難しかったので丁度良かった。

最初、パスタを半分茹でたら良いと思っていたが、作り出してから面倒だったので全てを茹でてトマトペーストも全て使い、明日の分まで作ることにした。夕食を済ませるとフィヨドールが戻ってきて、インターネットの料金を支払ったのでまたやっても良いと教えてくれる。机の上には150ルーブルのレシートが残っていた。レシートがあるという事は、どこかのお店で支払ったのだろう。携帯電話のように残高を追加するのか、それともインターネットの業者の事務所に出向いたのか分からない。何れにしてもありがたいことだった。

左膝は相変わらず痛い。恐らくバスと接触しそうになった時のものだろう。こんな状態で強い向かい風の中を走るのは気が進まない。だが、頑張ろう。雨さえ降らなければ、1Kmでも西に進まないといけない。Eメールでロスの友人のAlex から一通届いていた。Alex はモスクワに知人が居て、その人伝で俺のロシアのビザの延長を打診していた。数週間でも延ばす事が出来たら最高だ。


2008年6月05日 (40日目) クラスノヤルスク、フィヨドール宅


今日は永い一日だった。Fyodor の家に着くまで都会の町中を随分走って、着いたら夜の8時半くらいだったと思う。クラスノヤルスクの町の中では、路肩を走っていた自分の走行をあるバスが接近してきて、路肩とバスに挟まれそうになったので、とっさにバスの横の車体を数回叩いた。それでもバスは走り続け、雨の中ブレーキの効かない自分はバスが通り過ぎた直後にその後ろの道路に転んだ。そして上下のレインギアに穴を開けてしまった。手首が痛んだが怪我は大したこと無かった。バスの運転手は直ぐにバスを止める。万一の為に警察に報告をした方が良いと思ったが、お金で解決しようと思ったのか1000ルーブル(約40ドル)でどうだというような感じだった。その金額ではNorthface のジャケットも買えない。俺は断固として警察を呼んで欲しい思っていたので「ミリーッア」と車掌の女性に大声で言う。

しかし、どうしてブレーキが効かなくなってしまったのだろう。以前にも雨にはよく当たったが今日ほど長い雨は無かったかもしれない。今日は昼食に入ったカフェの前から雨だった。きっと転ぶまで5、6時間はブレーキは濡れっぱなしだったのだろう。これからロシアは雨季だ。クラスノヤルスクの街でブレーキを探す必要があるかもしれない。

朝は6時くらいに目が覚めた。なるべく早くFyodorの家に行きたかったので、早く目が覚めてしまったのだと思う。テントや寝袋を片付けて7時前に納屋を出る。納屋の隣の家に住んでいる人に挨拶をしたかったが誰も起きている気配がしないので、何も言わずにメモを書き残して出ようと思ったが、その前に3匹の犬が吠え出してしまった。すると直ぐにその家の人が出てきたので、起こしてしまったようだった。

ありがとうと伝えると、何を言うか、というような仕草をしてくれた。とてもありがたかった。夕べは彼らが農耕機の修理をしているところで、お決まりの質問に答え、自分はガソリンエンジンだったら修理したことがあると伝えたが、残念ながら伝わって無いと思う。ロシア語が話せないことが辛い。話せたらどれだけ自分の気持ちを伝えられたか。一般の人にとって納屋にテントを張らせて貰う事が大したこと無くても、自分には大きな事だった。犬が吠え止まぬので足早に去った。

村の道の反対側に井戸が見えたので水を補給し、村を出た。そして夕べ食事をしたカフェに入ってみると朝7時からの営業だと思っていたら既に開いていて、夕べのキャッシャーの女性が居た。ピロシキでも買って紅茶を飲んだら走り出そうと思っていたら、店に残っているピロシキには全て肉が入っていたので買えなかった。




空は今日も快晴。只、水平線には雲がどんよりとあった。そして9時前だったと思うがカフェを見つけたので、朝食にいつものボルシチ、玉子焼き、パン、紅茶などを食べる。玉子焼きにはハムが付いてきてしまった。これも大事な栄養と思い我慢して飲み込んだ。ボルシチなどスープは今まで決まって陶器の皿で出てきた。しかし、このカフェは使い捨ての皿だった。初めての事だった。

食べ終える頃に、携帯電話の電池の残量が少なくなっている事を思い出し、昨日の日記を書いている時間に店のコンセントを借りて充電をした。20分位充電してから走り出す。M53 の車道に戻る前に、駐車場の離れた場所からカフェの写真を撮ろうと、少し東に戻った後、自転車の向きを変えようと思ったら不意にも転んでしまった。駐車場の砂利と自転車のフロントが重いので一瞬の出来事だった。左膝を打ってしまう。本当はカフェに戻り少し休みたかったが、いつ Fyodor の家に辿り着くか不安だったので先に進む。



最初は左足は回すことだけで精一杯で、右足だけで漕いだ。そのまま走ったら右足に負担がかかり両方の足が痛くなってしまうのではないかと不安だった。もう気持ちはFyodor の家に2泊させて貰いたいとなってしまっている。でも、結果的にはクラスノヤルスクの街中でバスと接触しそうになり転んだので、左足だけではなく左手も痛んでいたので2泊させて貰うことになった。

左手は親指の付け根辺りが膨らんでいて痛い。痣の様に少し黒ずんだ部分がある。左手の小指から手首に掛けて痺れていて、何とも悪い状況だ。昨日は雨に降られて、指先の無いサイクリング用の手袋を着ける必要があったので、その時に気付いたのだが、そのサイクリング用の手袋はマウンテンバイク用の物のようだ。手の内側に当たるところにクッションが付いているのだが、手袋の外側の小指の部分がクッションになっている。真っ直ぐ横に延びたマウンテンバイクのハンドルを握る時に手の内側に当たる位置だったのだ。



手の痺れはきっと数日経てば治ると思ったが、今日クラスノヤルスク市街で転んだ時に出来た痛みは当分続くであろう。今朝カフェの駐車場で転んだ時の左膝の痛みは午後には殆どなくなっていたのに、クラスノヤルスク市街で転んだ後はまた痛むようになってしまった。でも、旅を中止するような大事には至らなかったので良かった。

結局バスの運転手にはレインギアの代金として2500ルーブル(約100ドル)貰った。Northface のジャケット代の半分にしかならないが仕方ない。バスの車掌が書いた何だか分からないロシア語が書かれた書面にサインをした。パスポート番号を渡したわけでもなかったので、俺を追跡するのは不可能だと思ってサインをした。恐らくこれ以上の請求はしない、と言う内容だったのであろう。

以前から思っていたのだが、レインギアのGoretex は役に立ってない。ジャケットもパンツも裏側には滴り落ちる水滴が沢山付いて、レインギアの内側の服も濡れてしまっている。Goretex の機能が何年したら劣化するのか気になった。

クラスノヤルスクの街は大きかった。Fyodor の家に着くまでに、道歩く人に何度も何度も道を尋ねた。やっとの思いで着き、SMSを送ると自宅に1時間で戻るとの返事が直ぐに来た。近くで屋台を並べて野菜や果物を売る店があったのでバナナを買う。都会のせいか、今までよりも安かった。そのお店の近くに店があり、中に入って買い物をしたかったが店には出入り口以外の窓がなく、自転車を店の中から見えない場所にしかない置けなかった。でも、何かを飲みたくて店の外に自転車を置いて店に入り、コーラだけを買って出てきた。それらをFyodor のアパートの公園で食べていると丁度、彼が車で戻ってきた。会えてよかった。

Fyodor にはSMS で「アカデムグロドック(Академгородок) 」とクラスノヤルスク市内で聞けば分かるはずだと教えて貰っていたが、果たして辿り着いたところが本当にFyodor のアパートなのか彼に会うまで不安で仕方なった。

アパートの周りは木が多くどこでもキャンプできるが、屋根の下に寝られると思って今日一日雨の中を、そして膝や手首を労って走ってきたので、もしこれで彼のアパートに泊まれなかったらと思うと辛かった。だから、彼が車から降りて自分の方に向って着てくれた時は本当に嬉しかった。大袈裟だが救世主のように見えた。とにかく永い一日だった。

建物は9階建てだったので、何階まで自転車を持ち上げないといけないのかと思ったが、運良くFyodor のアパートは3階だった。俺の自転車は雨で特に汚れていた。しかしFyodor は快く俺の自転車をアパートの中に入れたら良いと言ってくれた。そしてシャワーを浴びたら良いと言ってくれた。何と優しい人なのか。俺は洗濯もしたいと言うと、バケツで洗ったら良いと教えてくれた。俺をアパートに入れてくれると、彼は直ぐに出かけて行ってしまった。俺をアパートに入れてくれるために戻ってきてくれていたのだった。ありがとう。

シャワーを浴びて、洗濯を始めるとFyodor が戻ってきた。今度は、Fyodor の彼女の家に行って夕食を食べようと言う。そして、彼女のアパートには洗濯機があるとの事で、Fyodorは洗濯物を持って行こうと言ってくれた。近くのマーケットに行き、Fyodor は彼女の家で一緒にアイスクリームも食べようと思いと言うので、俺は自分がこの数日間食べる物と一緒にそのアイスクリーム代も支払った。泊めて貰うことへの代償としたら安すぎるが、これくらいの事をさせてもらわないと、と思った。

彼女のアパートに行くと、Fyodor よりも彼女は年上のようだったが綺麗な女性だった。イルクーツクのイレーナのように品のある女性だった。そして夕食にはお店で買った魚のフライやら出して頂いたサラダなどを食べる。その後には皆でアイスクリームを食べた。夕食が終わり、彼女の娘さんが使っているPCであるゲームが出来ないと言うので、少し見てみたが直せなかった。

そして、彼女の家を出た後、Fyodor の友人宅に連れて行って貰った。そこに居た女性3人とは少し英語で話が出来た。その内の一人、アーニャは一週間後にモスクワに引っ越すと言う。出身はべラルースと言っていた。Fyodor は俺の疲れを悟ったのか気遣ってくれて家路に着く。Fyodor のアパートに戻り、洗濯物をバスルームに干す。Fyodor はインターネットを使いたいかと聞いてくれたが、俺は明日使いたいと伝えて寝る。

2008年6月04日 (39日目) M53マーカー:950Km付近

昨晩は林の中でのキャンプだったので蚊が多く大変だった。素早く寝袋とテントを片付けて7時くらいには走り出す。しかし体調が悪いのか思うように距離が進まない。気が付くと向かい風だった。快晴、しかし強い向かい風だった。そして今日は2回の雨に当たった。最初はレインギアを付けてから10分くらい走ったところでガスステーションの小屋の近くで雨宿りした。2回目は夕立で一気に物凄い勢いの雨が降ってきたため、レインギアを着る前に全身殆どズブ濡れになってしまった。雷が遠くに見えたが、自分の進む方角では無いと無視していたら、空は然程暗くないのに何故か一気に雨が降ってきた。

一回目の雨は、雨宿りをして1時間ほど待った。2回目の雨は着ていた服を乾かすのに、これもまた1時間ほど休んだ。


朝食は8時半くらいに見つけたガスステーションの一部のカフェにて、キャベツのサラダ、ボルシチスープ、マカロニ、玉子焼き、パン、紅茶などを食べる。昼食はガスステーションの並びにあった比較的大きなカフェに入ろうと思い、自転車もカフェの中に入れるが、自転車を外に出すように言われてしまった。外に自転車を置いたら、カフェの奥にあるキャッシャーから遠くて見えなくなってしまい、昼食は大事だと思ったが、自転車の方がもっと大事だったのでそのまま出る。食欲は多いにあったが、ここで旅を終わりにしたくなかったので仕方ない。



午前中、ある小さな村への分かれ道の前に、ロシア製のよく見るバンの運転手が止まって話しかけてきた。何かを食べたいか?というような感じだったので食べたいと返事すると、お金がどうのという事を言っていたが理解できない。年配のメガネを掛けたドライバは直ぐにバンに戻る。バンにはХлеб(フレッブ、ロシア語で食パン)と書かれていたので、もしかしたら食パンでも俺に売りたいのか、それともあまりの食パンでも分けてくれるのかと思った。するとドライバは手ぶらで戻ってきて、100ルーブル札を一枚下さった。最初は何だかよく分からなかった。でも、その人の良さそうなドライバは、少し戻ればАЗСの近くにカフェがあるので、そこで食べたら良いと教えてくれた。


このドライバは俺がどこから来てどこへ行くかも知らない。日本人か中国人かモンゴル人かも分からないはずだ。どこかで以前にあったことは無いと思う。何も話すことが出来ず御礼は一言、「スパシーバ・バリショーエ」で終わってしまった。名前をメモ帳に書いて貰いたかったが、急いでいるようだったので写真だけ収めて別れてしまった。こんなこともあるのだ。何と嬉しいことか。当然、金額はいくらでも良い。10ルーブルでも20ルーブルでも良い。自分を応援してくれているその気持ちがとても嬉しかった。

でも、戻ってカフェにて昼食にするには未だ早過ぎたので先に進む。道は南に向っていたが、風は向かい風だった。そして、大きなカーブの曲がり道で、先方から重機をトレーラに載せたトラックを誘導していたパトカーは、俺を見つけてサイレンを鳴らしてパトカーの運転手と助手は手を振りながら去っていった。俺もそれに応えて手を振ったが、一人旅の俺にとってはとてもありがたいことだった。誰かが俺のことを見てくれている。気にしてくれている。応援してくれている。しかし、そのカーブを曲がると北西に道は進んでいたが酷い向かい風になってしまった。


そして、2度目の雷雨に当たる。一瞬で大雨になったので、レインギアをパニアから取り出す前に結構濡れてしまい、着た時には大雨で自転車に跨ることが出来なかった。でも、雷雨は直ぐに去っていった。ずぶ濡れの全身。次に出てきたАЗСにて服を全て着替えて、乾かすことにした。АЗСの裏で、下着もTシャツも全て着替えた。そして石の上に濡れてしまった服を広げてある程度乾くまで待った。АЗСでは食事の替わりに1リットルのペプシを飲む。糖分と水分の補給と思って買って飲んだ。АЗСの周りを手入れをしている老人に「スコルカ・キロメーター・カフェ」(Сколько километров в кафе)と聞くと21キロ先だと教えてくれた。

昼食抜きだったので大変だった。Km マーカーを見ながら、あと何キロ、あと何キロと数えながら進む。老人の言うとおりに丁度21キロ先にカフェとАЗСが並んだ場所を見つける。交差点のコーナーにАЗС、そしてその並びにカフェが5件くらい並んでいた。肉料理の店と他には普通のカフェがあり、そのうちの一つのカフェに入る。いつものボルシチ、玉子焼き、パン、紅茶などを食べる。そして、食事の後、ピロシキを5つ程買ってその場で食べる。珍しくカフェには家族連れが居た。両親と幼い姉妹の4人だった。旅行中なのか、それとも近くの村の住民か。カフェは決まってトラックや中古車のドライバしか居なかった。幼い姉妹の仕草を見ていると、当たり前だが子供は子供だった。食事の後にアイスクリームを買って貰って喜んでいた。


食事の後、もう夕暮れが迫っていたのでテントを張る場所を探した。そのАЗСがあった交差点から村に通じる道を進む。すると農耕機を修理する数人を見つけたので道は無かったが草むらを自転車を押してその人達の所へ歩き進んだ。その人達にテントを張りたいと言うと直ぐにOKしてくれた。只、近くに大きな倉庫とも家畜小屋とも思われる建物があったので、その中でも良いかと聞くと、どこでも良いよ、というような返事だった。その建物に入ると、一部を馬小屋として、そして殆どは農耕機の格納の為にあるようだった。テントを馬の近くに張る。馬2頭で、母親と子馬のようだった。馬は時々、大きな鼻息を出すが、大きな倉庫の人気の無いところよりも動物が近くに居たほうが安全だ。




テントを張ってからも少し明るかったので外で農耕機を修理している作業を見る。どうやらエンジンを降ろす作業をしているようだった。農耕機の隣にはクレーンを後ろに積んだトラックがあった。そのクレーンを使ってエンジンを降ろそうとしていたのだが、そのトラックがまたあまり調子よくなく、アイドリングの状態ではクレーンが使えず、エンジンを吹かしながら操っていた。

夕方、クラスノヤルスクのフィオドー(Fyodor)にSMSを送って、明日の夕刻にはクラスノヤルスクに入れると伝えた。フィオドーとはロスを発つ前からCouchSurfing.com を通して連絡してあり、いつでもどうぞ、と返事をくれた親切そうな青年だ。SMSを送ってから暫くすると今日は返事があったので安心した。これで明日泊まる場所が確保できた。もし返事が無かったら大きな街の中で途方にくれてしまうところだった。ありがたいことだ。

2008年6月03日 (38日目) M53マーカー:862Km



夕べは塀の外側が賑やかだった。店がきっと村の中央なのであろう。若い人々の声が大きく響いていた。朝は7時半に起きた、と思ったが、実は既に隣の時間帯に進んでいたので、6時半だった。そして8時に走り出そうと思ったら、俺が納屋に泊まって良いと言ってくれた老人はお茶を飲みたいかと聞いてくれた。家の中に入れて貰い、椅子に座るとコーヒーを入れてくれた。テーブルの上にあったパンも食べて良いというので一切れ頂いた。ありがとう。別れ間際に二人の写真を撮って別れる。



天気は快晴。昨日みたいに地平線近くには雲は無かったので、今日は天気が崩れることは無いだろう。風は向かい風。でも、冷たくもあり気持ちよい風であった。夕べの降った雨のためか湿った空気で、涼しい気温の最高の状態だった。





道は次第に悪くなりぬかるみにトラックが立ち往生している。ドライバはトレーラーには35トンの荷物が積んであると言う。トラックは前輪が半分くらい埋まってしまっていて、キャブオーバーのトラックのボディの一部が地面と接していた。スコップでその土を退かしていたが、その小さなスコップと土の量はあまりにも掛け離れていた。前進は不可能だ。もしトレーラーが切り離せトラクタの自重だけだったら前進できたかもしれないが、ドライバはトレーラーをを切り離したくないと言っていた。無理も無い。平坦な土地だったら、切り離しても直ぐに接続できるが、ぬかるみで、そして凸凹な道路ではトレーラーのキングピンをトラックに接続するのは至難の業かも知れない。一時間くらいだろうか手伝ったが何も出来なかった。そしてドライバは道の南(東)の方にブルドーザーが来るのを見つけた。恐らく通り過ぎるトラックに援助を求めていたのだと思った。ブルドーザーが来るまで相当の時間が掛かりそうだったが、助っ人が向っているのでドライバとは別れる。





その後、ある村の店でバナナやヨーグルトのような飲み物を買う。その後、直ぐに町に入り、カフェで昼食とする。いつもの玉子焼き、ご飯、ラッソーリニクというスープと紅茶を頼む。このカフェの時計を見て、時間帯が一つ変わって1時間進んだことが分かった。

途中、電話が鳴ったが応答できなかった。短い3回のビープ音が3回繰り返して切れてしまった。携帯のSIM カードを替えないといけないのかもしれない。あと3日間で次の都会、クラスノヤルスクに着けるので、それまでは電話を受けられないかもしれない。

食事の後、準備をしているとまた自宅から電話があった。最初は何のアナウンスもビープ音も無かったのでローミングでは無いと思って話をした。恵子は俺が2月にハワイのヒロで借りたレンタカーの事でレンタカー会社から連絡があったと言う。どうやら返した時には何も車体に傷が無かったのに、今になって傷があるので修理代を400ドル以上を支払え、との事だと言う。困ったものだ。何らかの保険が適応されるはずなので、とりあえず支払うように伝える。






電話の後で分かったのだが、携帯の残高は94ルーブルくらいあったはずだったのに、電話の後はマイナス83ルーブルだった。ローミング代が加算されていたのだった。20分以上話したので一気に残高がなくなってしまった。食事の前に鳴ったビープ音はローミングの開始のシグナルだったのかもしれない。




それから道は一部悪路があったが、午後の後半は良くと言うか以前の普通の舗装になった。そしてカンスク(КАНСК)という地方都市に入ったのだが、道を間違えた。交差点の標識に、優先を記す太い線が右に折れていたので、右に曲がったのが間違いだった。住宅地が商業地に変わり、町の中心に向っているようだったので、その時は全く疑う余地が無かった。



英語の Administration という綴りに似た看板が見えたので、市の庁舎が集まっている場所の案内があったので、そのまま進む。そして携帯のSIM を替えたかったので 携帯会社のMTCの看板を探す。その看板があった建物は市の中心のようで、周りは結構な自動車とバスが行き交っていた。

店に入り、SIM を替えたいと伝えるとその店では販売して無い様で、店の若い女店員はMTC の事務所に歩いて案内してくれた。例え数ブロックしか離れて無くても、とてもありがたかった。MTC の事務所で、SIM のプランを変えるかSIM を替えたいと伝えると、結果は駄目だった。ロシアに在住の人しか購入できないそうだ。

ウラジオストックからロシアに初めて入った時のこと。港に迎えに来てくれて一泊させてくれたエフジニア(ジェナ)が俺の携帯電話を買う為に、彼女のパスポートを使っていたのを思い出した。旅行者の俺はSIM を購入出来ないことをジェナも知らなかったようで、ジェナは携帯のお店に入った時に彼女自身のパスポートを持ってなくて、一度家に帰ってもう一度その店に行ってやっと携帯電話とSIM を買うことが出来たのだった。

結局今日は MTC の事務所ではローミングが1分当たり8.8ルーブルになることを教えてもらい、とりあえず200ルーブル支払い、マイナス分があったので残高は100ルーブル位になった。恐らくこの1分8.8ルーブルがウラジオストックを出た時のレートに近いと思った。

そして、まだ道を間違えていることに気付かず西へ西へと進んだ。只、途中 Kmマーカーが2、3、4と一桁になってしまったので変だとは思ったが、バス停で待つ人にクラスノヤルスクはこの方角かと聞くと、そうだとの返事が返ってきたのでそのまま進んだ。すると十字路の交差点になり、標識ではクラスノヤルスクは左と出ていた。左に曲がり進むとやはり Km マーカーの数字が変だったので街を振り返り煙突を探すとそこで始めて遠回りをしている事に気付いた。恐らく今日は15Km 位遠回りをしてしまったのだろう。暫く進むとT字路になり、クラスノヤルスクは右にとの標識が出てきた。M53に戻れ、マーカーは848位だった。今日は120キロ位進みたかったのだが、カンスクの街を出てしまい恐らく次のカフェは当分出てこないだろうから夕食を食べれないと思ったのと、日が暮れてしまったので林の中にテントを張って寝ることにした。蚊が多かったので長袖のレインジャケットを着てテントを張る。テントの中で非常食のクラッカー、ラーメン、バナナ等を食べる。道路からそう遠くないので静かでは無いが大丈夫だろう。

さっきまでロシア空軍機と思われるジェット機が何機も離着陸を繰り返していたが、練習を止めたようで静かになった。もし夜間の訓練も行われたら、騒音でとても寝ていられない場所だった。ジェット機は垂直尾翼が2枚のF14みたいな飛行機だったので、恐らくミグかスホーイだったんだろう。テントを張る前、空軍基地の横を走っていた時に、M53の道路から滑走路は見えなかったが、道路よりも低く削られた窪みに飛行機の格納庫が見えた。写真に収めたかったが、どこでどんな監視をされているか分からないので、写真の為に旅行を台無しにしたくなかったので撮らなかった。

それから、沢山の種類のレーダーが見えた。大きいのや小さいの、そして小さいレーダーは回転ではなく首を振っていた。その小さなレーダーの首ふりの周期は、2秒間隔くらいで物凄い大きな音が一緒に聞こえた。レーダーが音を出すわけが無いと思ったが、周期が同じだったので不思議だった。そのレーダーを後に走り去ろうとすると、いきなりジェット機が離陸していった。レーダーと同期の取れていた音は、恐らくジェット機が離陸前にエンジンの調整を行っていたのであろう。スロットルを開けたり閉めたりしていたのが、丁度レーダーの首振りと同じ周期だったのだ。垂直尾翼には映画「トップガン」で見たのと同じような赤い星が描かれていた。

左手は相変わらず痺れているが、左膝は問題ない。

2008年6月02日 (37日目) M53マーカー:753Km

朝、目が覚めると7時45分位だった。慌てて準備したが、出発したのは9時近かった。8時くらいには夕べ親切にしてくれた弟の人が来て、仕事に行くからと挨拶してから出かけていった。走り出すと直ぐにガソリンスタンド(АЗС、アゼス)があり、そこで買い物をしようと思って近づくと、店員の若いブロンドの女性は俺をカフェが見えるところまで案内してくれて、そこで食事をしたら良いと教えてくれた。その店員は俺が日本人かと何度もイポーニャ?(ЯПОНИЯ)を繰り返した。まるで日本人だから親切にしてもらえているような気がした。

結局、アゼスでは何も買わずにカフェにて玉子焼き、ボルシチスープ、パン、紅茶を朝食にする。卵4つでも92ルーブルと安かったが、何故か最後に10ルーブルを追加していたので、間違って無いかと聞くと、2回目も同じように10ルーブルを追加していた。質問が出来ないので、そのまま支払う。後で思ったのだが、トイレの使用料だったのかも知れない。トイレは使ってないが、食事の前に手を洗っていたので、そう思われたのだろう。以前、水洗トイレを備えてるカフェではその料金を記す看板を掲げてあったが、このカフェでは看板も何も無かった。

道路のM53は町の中で何度となく曲がり、途中学校の前に出た。フェンスの向こう側で手を振る子供が居たので近づくと丁度先生が出てきて、子供は校舎に戻ってしまい、話も出来ず写真も撮れなかった。その後、踏切があり長い列車が通るのを待つ。

その後、当分の間は道が良かった。登り下りはあったが、比較的新しい舗装だった。そして12時位だったかまたカフェがあったので昼食とした。朝食から数時間しか経過してないが仕方ない。道路の両脇にカフェがあったが、右側(東北側)の古いカフェに入った。客は自分ひとりだった。いつもの玉子焼き、ボルシチスープ、ご飯、ジュース等を昼食とする。




そこから道路は良い状態だったが行政区のクライ(КРАЙ)が変わった後、警告のような標識があり、728Km から 838Km を記していた。もしこれが100Km の悪路の警告だったら、と嫌な予感がしたが、案の定それからは悪路が続いた。ある小さな町に入ってから、店でシャンプー、洗剤、ラーメン、ジャム、バナナ等を買う。そして今日もアイスクリームを買う。それから少しすると、町を出る前に雨が降ってきてしまった。風は北からの冷たい風で、このまま長い雨になったら嫌だったので、アゼスの屋根の下で日記を書いて待つことにした。

待っていると、ガソリンを入れに来たお客でホンダのオデッセイに乗った人が近づいて来たので挨拶をする。その人のジャケットには日本のオートバイのパーツのブランドの刺繍が入っていたので、バイクに乗るのかと聞くとそのとおりとの事で、仲間意識が芽生えたのか、名前と電話番号を教えてくれた。いつもの事だがありがたかった。

雨が上がり走り出す。町の前の踏み切りの下に井戸を見つけたので、踏み切りで番をしている女性に水を井戸から貰いたいと言うと、どうぞ、という感じだったので水を貰った。いつものように、冷たい水は美味しかった。
昨日の事だが、客車を引く機関車に向けて手を振ると汽笛を鳴らしてくれた。俺は客車に向けて片手で手を振り続けると、その中には両手を振ってくれる人が見えた。それがどんなに嬉しかったことか忘れられない。

町の店の中では、昨日コールス(KORC)のジュースを買った時にその場に居た黒いシャツを着た大柄なそしてメガネを掛けたドライバとまた会った。店の外に止めてあった俺の自転車を見つけて止まって店に入って来てくれたのかも知れない。外には昨日の黄色の大型トラックが止まっていた。昨日の話ではモスクワまで10日間と言っていたので、随分ゆっくりだとは思ったが、これ程ゆっくりとは思わなかった。俺が先に店を出て走り出すも、当然だがその直ぐ後に黄色のトラックはクラクションを鳴らして行ってしまった。

今朝は息子のルイスから電話があり、自分のお金でIpod Nano を買ったが、ルイスのPCでは新しいITune が使えないらしい。俺の使ってないラップトップのPCを使うように伝える。昨日のバスケットボールの試合では18点と、チームの中で一番多く得点したという。頑張っているようだ。クリスは友人のハリソンの家に誕生日会に呼ばれて不在だった。

雨宿りをしていたが、一向に止みそうな気配がないので雨の中を走る。その後も雨は止まずある村に入ったら雨は更に強くなった。空は明るいのに不思議だった。1時間くらいだろうか、走り続けると雨は上がった。村の空き家に入って泊まってしまおうと思ったが、どこの空き家も雨宿り出来る状態ではなく、どこも雨漏りしていた。どこにしようか決めかねている時に雨は上がった。そこから少し走ると別の村に入る。店の人にどこかテントを張りたいのだが、と聞くと店の横か裏に張ったら良いと言う。

テントを張らして欲しいと一言伝えたかったので建物の中に入ってみると、そこは警察のような重圧な感じだった。でも 廊下を歩いている人の目付きを見たら少し変だったので、もしかしたら精神病棟だったのかも知れない。誰も応対してくれそうに無いので仕方なく道に出て、その建物の道路の反対側の家の外に居た老夫婦に納屋に寝ても良いかと聞くと、最初は庭だったら構わないという感じだったので、塀の中に入れて貰い、納屋を見せてもらうと、テントを乾いた土の上に張れるのでここに寝たいと言うとすんなりOKしてくれた。夕食には数日前に貰ったパン等が残っていたのでそれを食べる。