2008年6月01日 (36日目)M53マーカー:660Km


朝起きると今日も晴天。これで二日連続だ。寝袋などを片付けて朝食の為にカフェに行くと未だ準備中だった。数人の客が座っていたが、注文を取る気配ではない。小屋に戻って自転車をカフェの入り口の近くに移動。そしてカフェに戻ると客は減っていたが、注文は取ってくれた。今までのカフェがそうだったが、朝食にはスープを出さないようで、玉子焼き、ご飯、紅茶と軽い朝食になった。走り出すと道は良かったが、直ぐに悪路になった。でも、朝だったので元気に進めた。悪路なので行き交うトラックは徐行していてドライバと目が合うようになり、自分から手を上げてみると、相手も快く応えてくれた。


暫く舗装路を走ると路肩に間隔を空けて小屋を見つけるようになる。一つや二つではなく沢山あった。誰も居ない小屋の一つを覗くと、火を起こした後がある。でも、このシベリアでこんな小屋で冬を越せる訳が無いので、どうして小さな小屋が道端にあるのか不思議だった。でも、30分もその光景を見ながら走るとその理由が分かった。クランク型に曲がった道の片側は広くなっていて、そこにはサモワールで沸かした紅茶、クランベリージュースに似た色のジュース、そして松の実などを売る人々を見つけた。小屋はその為のものだったのだ。西のクラスノヤルスク方面から東のイルクーツク方面に向っているトラックの運転手は、悪路と舗装路の境界のこの場で疲れ癒していたのだろう。道がクランク型に曲がっているのは、舗装路を平行して造っているためだった。

2週間ほど前に電車で移動した区間のハバロフスクからチタまでは、2004年に当時のロシアの大統領プーチンは、その区間をアムールハイウェーとしては開通を祝ったが、当時は未だ殆どが舗装されてなかったそうだ。この辺の区間はチタから2000キロ位西になるが、恐らくドライバにとって舗装が熱望されている区間なのだと思う。そしてシベリアハイウェー全線が舗装されるには5年単位の年月が必要に思えた。



出店の人は、松の実を試食したらと差し出してくれたので頂いたが特段のことは無かった。でも、クランベリージュースに似た色のジュース(KORS)はとても美味しかったので、大きいボトルを買う。ジュースは完全に解けて無い。冷凍していたのだろう。果たして冷凍庫に入れて保管しているのか、山中のどこかで自然に冷凍になるのか興味があったが、当然自分のロシア語ではそんな質問は出来なかった。旅行中ジュースよりも水を買って飲むことが多く、安いジュースを買っても美味しいと感じることは無い。イルクーツクの西の町、アンガースクでお世話になったセルゲイの経営する中華料理店で頂いたグレープフルーツジュースも美味しかったが、今日のKORSもとても美味しいかった。


(黒いシャツのドライバはモスクワまで行くと言っていて、実際にこの数日後にまた会うことになった)


(現在の道と平行して造られている新しい道路)


悪路は40キロくらい続いたと思う。村で、駅の近くで水を運んでいる人が居たので井戸があるのかと思って進むと、地上には出てない囲いだけの井戸の小屋を見つけた。老人が近くに居たので水を頂けないかと聞くと、近くに居た少年が水を汲んでくれた。井戸から道に戻ろうとすると、その少年は老人達に気付かれないようにお金をせがんだ来た。でも、俺はお金をあげなかった。今思えば僅かでもあげるべきだったのかと思うが後の祭り。





随分走ると一部の道は新しい舗装になった。そして古い看板ではあったがMOTELと英語のアルファベットで書かれた所があったので近づくとそこはレストランが沢山並んでいた。きっと何処かに宿泊施設もあるのだろう。そこの警備員は意地悪く自分の自転車は車と同じ場所に置いてから来い、と言う。自転車にはスタンドが無いのでどこかに立て掛けないと駄目なのに。仕方なくレストランの並んだ建物の端に自転車を置いて幾つかの店を覗くと、今までのカフェではなくレストランだった。それらのレストランで食事を取ると警備員が居たとしても、自分からは自転車が見えなくなってしまうので、並びのお店で売っていたピロシキを4つ買って昼食にする。そして小さなタオルとりんごを買う。

だが、ピロシキを食べ始めてみると肉が入っていることに気付く。失敗した。値段が安かったので勝手に野菜が入っているものと勘違いしていた。「ニエット・ミャーサ」と言って、自分は肉を食べないと言うと、お店のその女性は快く他のピロシキに替えてくれた。そして替えてくれただけではなく、差額も僅かだったが返してくれた。替えてもらったピロシキにはキャベツが入っていた。どうして中身の肉とキャベツを明確に区別してないのか不思議だった。ロシア語が出来ないことを悔やんだが仕方ない。厳しい警備員の印象が強く楽しい昼食では無かった。

(水を家まで運ぶのは子供の役割のようで、よく見かける光景だった)

走り出すと、行政区域が変わる標識があった。ロシアでは日本のように、ある区域は県ある区域は府、と呼び名が違っていた。アメリカに戻ってロシアの事を改めて調べると、ロシア国内のの区分としては小さな共和国、クライ、オブラスト、オークルク、ラヨン等いろいろあって、恐らく人口数や面積によって区分が違うのだと思う。

それから暫く登り下りが続き、夕方にはまた道が悪くなった。埃がまって大変だった。ある小さな村で、少年が水を運んでいるので聞いてみると、少年は小屋を指差してくれた。水は冷たくとても美味しかった。少年達の写真を撮って分かれる。その村の終わりにあった線路を越えると、マガジンとは書いてないが店らしい小屋があったので入ってみると、いつものマガジン(雑貨屋)だった。バナナは無ったので洋ナシ、ラーメン、棒アイスなどを買う。10日ほど前の寒さが嘘の様に暑かったので、アイスは気持ちよかった。客の老婦人と店番の若い女性を写真に撮る。以前もそうだったが、多くの女性が写真に入りたがらない。理由を知る術は無い。


埃の道を登ったり下ったり、やっとのことで町に入った。もう寝る場所を探す必要があったのだが、それまでの村はどこも駄目だった。テントを張れる様な場所には思えなかった。このタイシェットという町に入って、直ぐに家の外で農耕機を修理している人々が居たので、その人達にテントをこのフェンスの向こう側に張らせて貰えないかと聞くと、最初は駄目だと言っていたが、その中の一人が付いてきなさいと言う。付いて行くとそこにテントを張ったら言いといってくれた。そしてテントの準備を始めると、兄弟が現れてテントを止めてバーニャの中で寝たら良いと言ってくれた。夕食にはラーメンを食べる。カフェを見つける前に寝る場所が決まったので仕方ない。その後、その家の弟の人はカップにコーヒーを入れて持ってきてくれた。とてもありがたかった。それから、洗面用の水をタンクから汲んでくれたり、バーニャには電灯があったがスイッチが壊れているらしく電灯の付け方等、色々親切にしてくれた。そして寝る前には紅茶も入れてくれた。会話にはならなかったが、人とは何と親切なんだろうと思った。

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