2008年6月04日 (39日目) M53マーカー:950Km付近

昨晩は林の中でのキャンプだったので蚊が多く大変だった。素早く寝袋とテントを片付けて7時くらいには走り出す。しかし体調が悪いのか思うように距離が進まない。気が付くと向かい風だった。快晴、しかし強い向かい風だった。そして今日は2回の雨に当たった。最初はレインギアを付けてから10分くらい走ったところでガスステーションの小屋の近くで雨宿りした。2回目は夕立で一気に物凄い勢いの雨が降ってきたため、レインギアを着る前に全身殆どズブ濡れになってしまった。雷が遠くに見えたが、自分の進む方角では無いと無視していたら、空は然程暗くないのに何故か一気に雨が降ってきた。

一回目の雨は、雨宿りをして1時間ほど待った。2回目の雨は着ていた服を乾かすのに、これもまた1時間ほど休んだ。


朝食は8時半くらいに見つけたガスステーションの一部のカフェにて、キャベツのサラダ、ボルシチスープ、マカロニ、玉子焼き、パン、紅茶などを食べる。昼食はガスステーションの並びにあった比較的大きなカフェに入ろうと思い、自転車もカフェの中に入れるが、自転車を外に出すように言われてしまった。外に自転車を置いたら、カフェの奥にあるキャッシャーから遠くて見えなくなってしまい、昼食は大事だと思ったが、自転車の方がもっと大事だったのでそのまま出る。食欲は多いにあったが、ここで旅を終わりにしたくなかったので仕方ない。



午前中、ある小さな村への分かれ道の前に、ロシア製のよく見るバンの運転手が止まって話しかけてきた。何かを食べたいか?というような感じだったので食べたいと返事すると、お金がどうのという事を言っていたが理解できない。年配のメガネを掛けたドライバは直ぐにバンに戻る。バンにはХлеб(フレッブ、ロシア語で食パン)と書かれていたので、もしかしたら食パンでも俺に売りたいのか、それともあまりの食パンでも分けてくれるのかと思った。するとドライバは手ぶらで戻ってきて、100ルーブル札を一枚下さった。最初は何だかよく分からなかった。でも、その人の良さそうなドライバは、少し戻ればАЗСの近くにカフェがあるので、そこで食べたら良いと教えてくれた。


このドライバは俺がどこから来てどこへ行くかも知らない。日本人か中国人かモンゴル人かも分からないはずだ。どこかで以前にあったことは無いと思う。何も話すことが出来ず御礼は一言、「スパシーバ・バリショーエ」で終わってしまった。名前をメモ帳に書いて貰いたかったが、急いでいるようだったので写真だけ収めて別れてしまった。こんなこともあるのだ。何と嬉しいことか。当然、金額はいくらでも良い。10ルーブルでも20ルーブルでも良い。自分を応援してくれているその気持ちがとても嬉しかった。

でも、戻ってカフェにて昼食にするには未だ早過ぎたので先に進む。道は南に向っていたが、風は向かい風だった。そして、大きなカーブの曲がり道で、先方から重機をトレーラに載せたトラックを誘導していたパトカーは、俺を見つけてサイレンを鳴らしてパトカーの運転手と助手は手を振りながら去っていった。俺もそれに応えて手を振ったが、一人旅の俺にとってはとてもありがたいことだった。誰かが俺のことを見てくれている。気にしてくれている。応援してくれている。しかし、そのカーブを曲がると北西に道は進んでいたが酷い向かい風になってしまった。


そして、2度目の雷雨に当たる。一瞬で大雨になったので、レインギアをパニアから取り出す前に結構濡れてしまい、着た時には大雨で自転車に跨ることが出来なかった。でも、雷雨は直ぐに去っていった。ずぶ濡れの全身。次に出てきたАЗСにて服を全て着替えて、乾かすことにした。АЗСの裏で、下着もTシャツも全て着替えた。そして石の上に濡れてしまった服を広げてある程度乾くまで待った。АЗСでは食事の替わりに1リットルのペプシを飲む。糖分と水分の補給と思って買って飲んだ。АЗСの周りを手入れをしている老人に「スコルカ・キロメーター・カフェ」(Сколько километров в кафе)と聞くと21キロ先だと教えてくれた。

昼食抜きだったので大変だった。Km マーカーを見ながら、あと何キロ、あと何キロと数えながら進む。老人の言うとおりに丁度21キロ先にカフェとАЗСが並んだ場所を見つける。交差点のコーナーにАЗС、そしてその並びにカフェが5件くらい並んでいた。肉料理の店と他には普通のカフェがあり、そのうちの一つのカフェに入る。いつものボルシチ、玉子焼き、パン、紅茶などを食べる。そして、食事の後、ピロシキを5つ程買ってその場で食べる。珍しくカフェには家族連れが居た。両親と幼い姉妹の4人だった。旅行中なのか、それとも近くの村の住民か。カフェは決まってトラックや中古車のドライバしか居なかった。幼い姉妹の仕草を見ていると、当たり前だが子供は子供だった。食事の後にアイスクリームを買って貰って喜んでいた。


食事の後、もう夕暮れが迫っていたのでテントを張る場所を探した。そのАЗСがあった交差点から村に通じる道を進む。すると農耕機を修理する数人を見つけたので道は無かったが草むらを自転車を押してその人達の所へ歩き進んだ。その人達にテントを張りたいと言うと直ぐにOKしてくれた。只、近くに大きな倉庫とも家畜小屋とも思われる建物があったので、その中でも良いかと聞くと、どこでも良いよ、というような返事だった。その建物に入ると、一部を馬小屋として、そして殆どは農耕機の格納の為にあるようだった。テントを馬の近くに張る。馬2頭で、母親と子馬のようだった。馬は時々、大きな鼻息を出すが、大きな倉庫の人気の無いところよりも動物が近くに居たほうが安全だ。




テントを張ってからも少し明るかったので外で農耕機を修理している作業を見る。どうやらエンジンを降ろす作業をしているようだった。農耕機の隣にはクレーンを後ろに積んだトラックがあった。そのクレーンを使ってエンジンを降ろそうとしていたのだが、そのトラックがまたあまり調子よくなく、アイドリングの状態ではクレーンが使えず、エンジンを吹かしながら操っていた。

夕方、クラスノヤルスクのフィオドー(Fyodor)にSMSを送って、明日の夕刻にはクラスノヤルスクに入れると伝えた。フィオドーとはロスを発つ前からCouchSurfing.com を通して連絡してあり、いつでもどうぞ、と返事をくれた親切そうな青年だ。SMSを送ってから暫くすると今日は返事があったので安心した。これで明日泊まる場所が確保できた。もし返事が無かったら大きな街の中で途方にくれてしまうところだった。ありがたいことだ。

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