2008年6月05日 (40日目) クラスノヤルスク、フィヨドール宅


今日は永い一日だった。Fyodor の家に着くまで都会の町中を随分走って、着いたら夜の8時半くらいだったと思う。クラスノヤルスクの町の中では、路肩を走っていた自分の走行をあるバスが接近してきて、路肩とバスに挟まれそうになったので、とっさにバスの横の車体を数回叩いた。それでもバスは走り続け、雨の中ブレーキの効かない自分はバスが通り過ぎた直後にその後ろの道路に転んだ。そして上下のレインギアに穴を開けてしまった。手首が痛んだが怪我は大したこと無かった。バスの運転手は直ぐにバスを止める。万一の為に警察に報告をした方が良いと思ったが、お金で解決しようと思ったのか1000ルーブル(約40ドル)でどうだというような感じだった。その金額ではNorthface のジャケットも買えない。俺は断固として警察を呼んで欲しい思っていたので「ミリーッア」と車掌の女性に大声で言う。

しかし、どうしてブレーキが効かなくなってしまったのだろう。以前にも雨にはよく当たったが今日ほど長い雨は無かったかもしれない。今日は昼食に入ったカフェの前から雨だった。きっと転ぶまで5、6時間はブレーキは濡れっぱなしだったのだろう。これからロシアは雨季だ。クラスノヤルスクの街でブレーキを探す必要があるかもしれない。

朝は6時くらいに目が覚めた。なるべく早くFyodorの家に行きたかったので、早く目が覚めてしまったのだと思う。テントや寝袋を片付けて7時前に納屋を出る。納屋の隣の家に住んでいる人に挨拶をしたかったが誰も起きている気配がしないので、何も言わずにメモを書き残して出ようと思ったが、その前に3匹の犬が吠え出してしまった。すると直ぐにその家の人が出てきたので、起こしてしまったようだった。

ありがとうと伝えると、何を言うか、というような仕草をしてくれた。とてもありがたかった。夕べは彼らが農耕機の修理をしているところで、お決まりの質問に答え、自分はガソリンエンジンだったら修理したことがあると伝えたが、残念ながら伝わって無いと思う。ロシア語が話せないことが辛い。話せたらどれだけ自分の気持ちを伝えられたか。一般の人にとって納屋にテントを張らせて貰う事が大したこと無くても、自分には大きな事だった。犬が吠え止まぬので足早に去った。

村の道の反対側に井戸が見えたので水を補給し、村を出た。そして夕べ食事をしたカフェに入ってみると朝7時からの営業だと思っていたら既に開いていて、夕べのキャッシャーの女性が居た。ピロシキでも買って紅茶を飲んだら走り出そうと思っていたら、店に残っているピロシキには全て肉が入っていたので買えなかった。




空は今日も快晴。只、水平線には雲がどんよりとあった。そして9時前だったと思うがカフェを見つけたので、朝食にいつものボルシチ、玉子焼き、パン、紅茶などを食べる。玉子焼きにはハムが付いてきてしまった。これも大事な栄養と思い我慢して飲み込んだ。ボルシチなどスープは今まで決まって陶器の皿で出てきた。しかし、このカフェは使い捨ての皿だった。初めての事だった。

食べ終える頃に、携帯電話の電池の残量が少なくなっている事を思い出し、昨日の日記を書いている時間に店のコンセントを借りて充電をした。20分位充電してから走り出す。M53 の車道に戻る前に、駐車場の離れた場所からカフェの写真を撮ろうと、少し東に戻った後、自転車の向きを変えようと思ったら不意にも転んでしまった。駐車場の砂利と自転車のフロントが重いので一瞬の出来事だった。左膝を打ってしまう。本当はカフェに戻り少し休みたかったが、いつ Fyodor の家に辿り着くか不安だったので先に進む。



最初は左足は回すことだけで精一杯で、右足だけで漕いだ。そのまま走ったら右足に負担がかかり両方の足が痛くなってしまうのではないかと不安だった。もう気持ちはFyodor の家に2泊させて貰いたいとなってしまっている。でも、結果的にはクラスノヤルスクの街中でバスと接触しそうになり転んだので、左足だけではなく左手も痛んでいたので2泊させて貰うことになった。

左手は親指の付け根辺りが膨らんでいて痛い。痣の様に少し黒ずんだ部分がある。左手の小指から手首に掛けて痺れていて、何とも悪い状況だ。昨日は雨に降られて、指先の無いサイクリング用の手袋を着ける必要があったので、その時に気付いたのだが、そのサイクリング用の手袋はマウンテンバイク用の物のようだ。手の内側に当たるところにクッションが付いているのだが、手袋の外側の小指の部分がクッションになっている。真っ直ぐ横に延びたマウンテンバイクのハンドルを握る時に手の内側に当たる位置だったのだ。



手の痺れはきっと数日経てば治ると思ったが、今日クラスノヤルスク市街で転んだ時に出来た痛みは当分続くであろう。今朝カフェの駐車場で転んだ時の左膝の痛みは午後には殆どなくなっていたのに、クラスノヤルスク市街で転んだ後はまた痛むようになってしまった。でも、旅を中止するような大事には至らなかったので良かった。

結局バスの運転手にはレインギアの代金として2500ルーブル(約100ドル)貰った。Northface のジャケット代の半分にしかならないが仕方ない。バスの車掌が書いた何だか分からないロシア語が書かれた書面にサインをした。パスポート番号を渡したわけでもなかったので、俺を追跡するのは不可能だと思ってサインをした。恐らくこれ以上の請求はしない、と言う内容だったのであろう。

以前から思っていたのだが、レインギアのGoretex は役に立ってない。ジャケットもパンツも裏側には滴り落ちる水滴が沢山付いて、レインギアの内側の服も濡れてしまっている。Goretex の機能が何年したら劣化するのか気になった。

クラスノヤルスクの街は大きかった。Fyodor の家に着くまでに、道歩く人に何度も何度も道を尋ねた。やっとの思いで着き、SMSを送ると自宅に1時間で戻るとの返事が直ぐに来た。近くで屋台を並べて野菜や果物を売る店があったのでバナナを買う。都会のせいか、今までよりも安かった。そのお店の近くに店があり、中に入って買い物をしたかったが店には出入り口以外の窓がなく、自転車を店の中から見えない場所にしかない置けなかった。でも、何かを飲みたくて店の外に自転車を置いて店に入り、コーラだけを買って出てきた。それらをFyodor のアパートの公園で食べていると丁度、彼が車で戻ってきた。会えてよかった。

Fyodor にはSMS で「アカデムグロドック(Академгородок) 」とクラスノヤルスク市内で聞けば分かるはずだと教えて貰っていたが、果たして辿り着いたところが本当にFyodor のアパートなのか彼に会うまで不安で仕方なった。

アパートの周りは木が多くどこでもキャンプできるが、屋根の下に寝られると思って今日一日雨の中を、そして膝や手首を労って走ってきたので、もしこれで彼のアパートに泊まれなかったらと思うと辛かった。だから、彼が車から降りて自分の方に向って着てくれた時は本当に嬉しかった。大袈裟だが救世主のように見えた。とにかく永い一日だった。

建物は9階建てだったので、何階まで自転車を持ち上げないといけないのかと思ったが、運良くFyodor のアパートは3階だった。俺の自転車は雨で特に汚れていた。しかしFyodor は快く俺の自転車をアパートの中に入れたら良いと言ってくれた。そしてシャワーを浴びたら良いと言ってくれた。何と優しい人なのか。俺は洗濯もしたいと言うと、バケツで洗ったら良いと教えてくれた。俺をアパートに入れてくれると、彼は直ぐに出かけて行ってしまった。俺をアパートに入れてくれるために戻ってきてくれていたのだった。ありがとう。

シャワーを浴びて、洗濯を始めるとFyodor が戻ってきた。今度は、Fyodor の彼女の家に行って夕食を食べようと言う。そして、彼女のアパートには洗濯機があるとの事で、Fyodorは洗濯物を持って行こうと言ってくれた。近くのマーケットに行き、Fyodor は彼女の家で一緒にアイスクリームも食べようと思いと言うので、俺は自分がこの数日間食べる物と一緒にそのアイスクリーム代も支払った。泊めて貰うことへの代償としたら安すぎるが、これくらいの事をさせてもらわないと、と思った。

彼女のアパートに行くと、Fyodor よりも彼女は年上のようだったが綺麗な女性だった。イルクーツクのイレーナのように品のある女性だった。そして夕食にはお店で買った魚のフライやら出して頂いたサラダなどを食べる。その後には皆でアイスクリームを食べた。夕食が終わり、彼女の娘さんが使っているPCであるゲームが出来ないと言うので、少し見てみたが直せなかった。

そして、彼女の家を出た後、Fyodor の友人宅に連れて行って貰った。そこに居た女性3人とは少し英語で話が出来た。その内の一人、アーニャは一週間後にモスクワに引っ越すと言う。出身はべラルースと言っていた。Fyodor は俺の疲れを悟ったのか気遣ってくれて家路に着く。Fyodor のアパートに戻り、洗濯物をバスルームに干す。Fyodor はインターネットを使いたいかと聞いてくれたが、俺は明日使いたいと伝えて寝る。

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