2008年6月20日 (55日目) オムスク、ターニャ宅

夕べは、俺をターニャの家に連れてきてくれた二人の他に、ナターシャというカメラマンが来て、皆で色んな話をした。彼らが夜12時くらいに帰り、俺は少しインターネットをやって、メールの返信などをしてから寝た。

朝はいつものように7時くらいに目が覚める。既にターニャと息子のアンチョン(アルチョン?)は出かける準備をしていた。夕べは食事を頂いたが、結局は食料の買い物に出かけなかったので、朝食には特に何も無かった。二人が出かけた後で、紅茶を入れて飲む。そして午後1時くらいにターニャの友人のオーリャが迎えに来てくれて、買い物に出かけた。

ターニャは俺が着いてから沢山の友人に電話して、自分の世話を出来る友人を探していた。そして友人で英語を話すオーリャが迎えに来てくれたのだった。もし、これが逆の立場だったら、と思うと大変ありがたいことだった。とにかく俺は、来てくれたオーリャにありがとう、と言い続けた。オーリャはご主人と大学か何かのビートルズの同好会で知り合ったと言っていた。英語はターニャと同じで、全く問題がなかった。そんな彼女と一緒に買い物へ行けるのは幸運だった。

(左:マルシュルートカ の中) (右:オムスクの工科大学)


近くのバス停に行く。その辺りはマンションような10階建て以上ある建物が沢山あり、バス停の屋根の大きさは他の村や町のものと変わらないが、バスが縦列に並べるだけのスペースがあり、沢山の人が待っていた。行き交うバスの多くは、天井が高く席は30席くらいの中型のバスが多い。そして直ぐに自分達の乗るバス(マルシュルートカ)が来た。バスに乗るのはハバロフスク以来で、料金は同じようなものだった。一度、バスを乗り換えて、オーリャはスポーツ店に連れて行ってくれた。商店街ではなかったので、俺一人で来れる場所では無かった。店に入ると、自転車、登山、スキーと、様々なものを売っている店で、レインジャケット、レインパンツ、腰に巻く小さなバッグを買い、クレジットカードで3500ルーブル位支払う。ブーツも欲しかったが、サイズや値段が思うように合わないので別の店に行くことになった。

朝食を食べてないので、ピロシキでも食べれたらと思いオーリャに言うと、オーリャは行き交う人にお店を聞いてくれた。一昔前はどこでも買えたが、今は少なくなっていると言う。ロシアを代表する食べ物が都会では入手が難しいのはどういう事なのか理解できない。探し物をしている時は、決まって見つからないものだ。バス停や路面電車の駅近くの小さな店を何件か当たったがどこにも無い。

結局、スーパーマーケットにてジュースや水を買い、スーパーの店員が教えてくれた近くのバス停に並んだ小さな店でピロシキを6つ買う。70ルーブル。きっと電子レンジで暖めたのだと思うが、ピロシキの中が冷えてしまっていた。でも、仕方ない。オーリャは電話の支払いがあるとの事で、俺はその間にピロシキを食べる。

オーリャは戻ってくると、俺が泊めてもらっているターニャの家にもう一人のCouchSurfing のメンバーが来る事になったと言う。その人に会う為に、オムスクの工科大学の前で待ち合わせることになったので、そこへ歩いて向った。その客の名はアレクセイ。25歳でプログラマーで、明日のコンファレンスに参加する為に来るのだと言う。

(左:オーリャ) (右:ターニャ、オーリャ、プログラマのアレクセイ、オーリャの夫・アレクセイ)

アレクセイとは直ぐに合うことが出来た。オムスクの西にある都会で、電車に乗って10時間掛けて来たと言う。そしてその後、直ぐにターニャと合流して、4人でオーリャの自宅に行き、少し休ませて貰った。オーリャの自宅に向う途中、別のトレードセンターの中のマーケットで飲み物などを買った。そのマーケットの前で良く理由が分からなかったが、写真を撮られた。オーリャの知人だったのか、昨日ターニャ宅にに来てくれたカメラマンなのか、一瞬の出来事だったので分からなかった。

オーリャ宅で飲み食いしていると、オーリャの夫が来て、5人で話をする。全員が英語を理解するので、会話は弾んだ。オーリャと夫のアレクセイはビートルズが大好きなようで、共通の話題があって嬉しかった。ロサンゼルスを離れる前に、友人が歓送のために送ってくれたカードがビートルズの写真だったを思い出す。俺がビートルズが好きなのを知っているその友人は、旅行に出れることがラッキーなんだぞ、とでも言いたそうなカードだった。

金曜日の暖かい昼下がり。ハバロフスク以来の休養だった。実際にはクラスノヤルスクでも、ケメロボでも、ノボシビルスクでも休みの日があったが、これほどリラックスするのは久しぶりだった。何が違うのか。今思うと、先の3都市では男の人からの親切で色々して頂いた。でも、このオムスクと5月上旬のハバロフスク滞在では女の人からの親切だった。基本的に男は女の前でリラックスするのだろう。オムスクのターニャにしてもオーリャにしても一回りも二回りも年下だ。ハバロフスクのアーニャは30歳近く年下だ。そんな年下の女性に俺は母性を感じてしまったのだろうか。女性の優しさとは実に不思議なものだ。

(スーパーの中、冷凍食品、特に果物が多い、マヨネーズの種類が非常に多い)

オーリャの家を後にして、我々5人はマルシュルートカに乗り、ターニャの家に向う。降りてから近くにあったマーケットで夕食の素材を買う。マーケットの中には警備員が入り口に立っていて、俺の持っていた買い物袋はその警備員が教えてくれたロッカーに入れる。店の中は様々な物が整っていて、飲み物もマヨネーズも種類が非常に豊富だった。オーリャがまとめて支払い、全部で500ルーブル位になったので、俺の分として150ルーブルを出した。今思えば、もっと支払うべきだと思うが、あの時は旅行中で残りの行程が半分位残っていたのであれ以上出せなかったのだろう。レジを出てみると、さっき荷物を入れたロッカーは目の前だった。実に都合よく配置されていた。

ターニャの家では女性陣が食事の用意をしてくれたので、チェラビンスクから来たプログラマーのアレクセイに俺はRubu On Rails のIDE を見せてもらった。Rails は素晴らしいウエブサイトの開発環境で、もうPHPのプログラミングには戻れない、と言っていた。俺も、帰ってから試してみたい。

食事を皆で食べる。沢山の人との食事は楽しい。いつもなら、カフェで一人で食べないといけないので、人と一緒に食事できるのは非常に嬉しいことだった。食事の量は少なかったが満足だった。食事の後は、ターニャがアルタイ山脈をハイキングした時の写真や、アレクセイの写真を見せて貰った。本当なら明朝に出発する予定だったが、明晩、真夏の新年会をするので残れば、と言ってくれたので、もう一晩泊めて貰うことにした。シベリアでの新年会は寒くて人が集まらないのだろうか。ターニャは新年会をいつも夏に開くのだと言っていた。愉快な女性だ。


(左:アレクセイ、オーリャ夫妻) (右:ターニャとプログラマのアレクセイ)

ターニャはある企業で英語を教えていると言う。恐らくオムスクでも最大級の会社に勤めているのだろう。学校で教えるよりも時間が短い上に給料が良いのだそうだ。そんな彼女の家には、過去に沢山の CouchSurfing のメンバーが泊まりに来ているようで、その誰もがターニャのホスピタリティ精神に驚いている。俺もその一人だった。

ターニャが忙しい時は、ターニャの友人が客人の面倒を見ているようで、息子のアンチョンもターニャの友人が面倒を見ているようだった。ターニャは自分が忙しくても客人を迎え入れているようで、自分が面倒を見れない時は、友人も喜んでターニャの手伝いをしているようだった。ターニャの家の鍵はターニャ以外に誰かが持っているようで、電話でのやり取りでは、鍵を友人達の手を次から次へと渡っている様に聞こえた。仲間とはこういうものなんだろう。何でも損得の計算をしてしまう自分が恥ずかしい。ターニャとその友人の友情が羨ましい。一見、オムスクの都会社会に飲まれても仕方ないような環境だが、少なくともターニャの回りには友人が親や兄弟と同じように生活していた。

時間は真夜中になってしまったが、Eメールを確認させて貰って寝る。



2008年6月19日 (54日目) オムスク、ターニャ宅


朝は6時位に起きて準備をする。水をカフェで買って7時には走り出す。150キロの距離は永い。しかし、幸いにも追い風だった。オムスクの市の境界線を超えたのは19時位だった。

今日はカフェを見つけられず、朝食は昼食の時間に近い11時半だった。でも、距離は午前中に稼げた。食事を終えてカフェを出ると、オムスクで泊めてくれる予定になっているターニャからSMS が届き、オムスク市の境界線を超えたら俺から連絡すると返事をした。




カフェは大きな建物の一部で、ガソリンステーション、ホテル、修理工場と色々揃っていた。シベリアの小さな村で出会った数々のカフェとは大違いだ。メニューは各テーブルの上に置かれ、ウェイトレスが注文を取りに来る。レストランに来たような気分だった。いつものようにボルシチ、玉子焼き、マカロニ、アプリコット・ジュースなどを昼食にする。席は相席だった。今日のウェイトレスは愛想がとても良かった。俺の言っていることが理解できないと、何を言っているか分かりません、と言わんばかりに笑ってくれた。俺はこんな人達が好きだ。俺に微笑んでくれたらそれで良い。

相席の男性は一人で来ているようで、いつもの質問、中国人?、どこから?、どこへ?と答えるのがやっとで、他の質問は何も分からない。テーブルからは外の駐車場のトラックや陸送中の日本から輸入された中古車が見える。それらの中古車は牽引されていて、一人の運転手が2台の乗用車を陸送している。後ろで引かれる側の乗用車には、前で牽引する乗用車が跳ねる石を除ける為の板が付いている。陸送している乗用車が傷物にならないよう注意しているのだった。きっとウラジオストックから陸送が始まっていると思うので、オムスクまで行ったとしたら、6500キロ牽引されることになる。その間、舗装路もあれば砂利道もある。この旅行を始めてから、時にはフロントのバンパーを外して牽引される乗用車も見かけた。時には3段重ねの陸送車も見かけた。10トンくらいのトラックに、それよりも小さなトラックを荷台に乗せ、軽自動車をその荷台に乗せていた。そんなトラックは重量もさることながら高さも相当になり、トレーラーと同じ位の高さになる。見るからに不安定だが、俺の目の前を走り抜けていくのでДПС(警察・ハイウェーパトロール) の検問を問題なく通過してきたのであろう。


支払いはカウンターで行い、カフェを出て、その後も快調に時速18キロ位のスピードで走れた。そして16時だったか、スイスから来た自分よりも若干年上のサイクリストと会う。その人と30分から45分位話をした。その人は、5月始めにイスタンブールを出て、既に5700キロ以上走っていた。俺と出発した時期は同じくらいだが、俺は未だ4500キロ位しか走れてない。向かい風と追い風の違いだろう。その人はこれまで殆ど追い風で、いつも時速20キロ位で走って、1日最高は240キロ走ったと言う。夏至に近いのと高緯度なので日が長いからそんな距離が走れるのだろう。その距離は俺が20歳の時に、北米大陸を横断した時、カリフォルニア州バーストー付近からラスベガスまで一日で走った距離に匹敵し、その日は朝5時から23時まで走ったのだった。俺は距離をそこまで稼ぐことが出来るのが羨ましかった。しかし、それよりも追い風がそれ程、影響していることに落胆した。ルートを間違えた。やはりロシアでの滞在日数が短くなっても、リスボンから出発するべきだった。後の祭りだ。もうユーラシア大陸の中央に近づいている。

誰だったか忘れてしまったが、良い事を言ってくれたロシア人が居た。「You are doing the hard way, not too many would try」。それを聞いて嬉しかった。勇気付けてくれた。そして俺は、アルプスのアイガーの北壁登坂とは比べ物にならないのは分かっているが、北壁を征服した英雄と自分を置き換える必要があった。頑張れねばならぬ。



その人はロシアの都会ではホテルに泊まっていると言う。金銭的に余裕があるのであろう。当面の目的地はイルクーツクで、もしかしたらそれよりも進んで、アラスカに飛んで北米を南下するかも知れないと言っていた。

新品に見える自転車はUnivega のもので、前後の両車輪はディスクブレーキ、そして前輪にはショックアブソーバが付いている。パニア類はドイツ製だと言っていた。ペダルはクリーツ。全てが望ましい装備だ。それらの装備は多少羨ましかったが、自分の自転車には満足している。欲を言えばディスクブレーキと前輪のショックが欲しい。

その人のウエブサイトのURL を聞いて別れる。本当は話を切り上げて早く走り出したかったが、自分がもっと話したい時もあったので、その人が別れを切り出すのを待っていた。

それから風は向きが変わった。向かい風になってしまった。疲れてしまっているので、スピードが上がらない。夕方5時くらいに見つけたカフェで食事を取る。肉は駄目だと伝えると魚があると言うので、言われるように注文した。いつものメニューだが玉子焼きの替わりに魚のフライ等を急いで食べる。

昼前からだったが、低い空をヘリコプターが飛んでいる。軍用のヘリに見えるが、軍事練習には見えない。農業の為か、何かの調査の為と思えた。

先にあったサイクリストも言っていた事だが、オムスクはウラジオストック等と同じように、外国人の出入りが制限されていた閉鎖都市だったそうだ。軍事産業の為だったのかと思うと、ヘリが上空を何度も旋回しているのは、飛行訓練や飛行実験だったかもしれないと思った。

なるべく早くオムスクに入りたかったので精一杯走ったが、オムスクの境界線を越えたのは18時を回っていた。でも、そのサインは他の村や都市のものと比べると小さく、まるで小川のサインのようであった。ソ連が崩壊しても古いサインをそのままにしているのかも知れない。


ターニャからその前にSMS が届き、知人が車で途中まで迎えに来てくれるとの事だった。只、自分がどの方角に進んだら良い分からないので、大きな交差点を超えて現れたガソリンステーションでターニャに電話した。するとCity Center に向って欲しいとの事だった。自分が向っていた道がCity Centerに向っているか確信は無かったが、そのまま進むと、別のSMSが届き、近くのバス停から電話して、そこで待っている誰かと電話を代わって欲しいとの事だった。その場所が分かれば、知人がそこに迎えに行くとの事だった。次のバス停は直ぐに見つかった。10人以上の人が待っていて、お店も併設されていた。若い女性二人に話しかけて、その一人に電話を代わってもらった。ターニャにはその場所が直ぐに分かったようで、俺はその場所で待つ事にした。



バス停には、マルシュルートカ(ミニバス)が次から次へとやって来ては去って行く。酔っ払いが寄って来る。俺は何時でも酔っ払いの格好の話し相手のようだった。それから、まるで娼婦のように派手な服と化粧の女性が次々とバスから乗り降りしている。都会に来た証拠だ。自転車の簡単な掃除をして、日記を書く。

もう来るだろう、もう来るだろうと、日記を書きながら行き交う車に目をやった。どんな車で迎えに来てくれるのかが心配だった。もし近い距離だったら、自転車で迎えに来てくれた知人を追うことが出来るが、もし遠い距離だったら、この都会を追いかけて行くのは非常に難しい。

1時間くらい待ったのだろうか。ターニャから電話があり、知人は俺の事を見つけられないと言う。俺は慌てて自転車を道路から良く見える位置に移動し、バス停の前で目立つように立っていると、バス停の反対側に誰かを迎えに来たような乗用車が見えた。直ぐに俺が分かったのか、Uターンして来た。黒色のToyota のハリヤーだった。運転手はボーリャ、助手席にはアーニャという二人が乗っていた。今晩泊めてもらうことになっているターニャの友人だった。二人とも20代の後半だろう。

自転車を詰め込めないことは無いだろうが、どうしようか迷った。ボーリャは別段困った様子は無い。押し込めば良い、という感じだった。でも、車は右ハンドルの日本からの輸入車だったが新車に近い。俺の汚れた自転車を押し込むのは気が引けた。それでもボーリャは自転車をそのまま押し込もうとするので、俺はキャンプの際に使用していたグランドシートを出して、後部席を倒した上に敷いた。そして、その上に自転車を乗せることにした。ボーリャと俺は苦労しながらも自転車を後部座席に納めることが出来て、走り出す。アーニャは俺の方が大きいので助手席に座って下さい、と言ってくれたが、綺麗な洋服を着ている女性を狭苦しく狭い場所に閉じ込めるわけには行かない。俺は倒された後部座席に胡坐をかくように座った。自転車で走れる所は走りたいが、都会は例外だ。都会での走行は何も良い事が無い。

ターニャの客とはいえ見ず知らずの俺をこうして迎えに来てくれる人達の親切には驚く。(でも、後日ターニャ宅で行われた「夏の新年会」で感じたのだが、これは全てターニャがターニャの友人に対する全ての現れだと思った。)

ボーリャはあまり英語が得意では無い様で、道中アーニャと話をする。アーニャはイタリアに仕事で行ったことがあると言う。ずば抜けて優秀か、裕福な家庭の娘さんなのだろうか。アーニャは俺と何か色々話をしたいようだったが、そこまで自由に英語を話せるわけではなかった。でも、そんな気遣いが嬉しかった。普通だったら、友人の客の迎えを、それも急に引き受けてくれるだろうか。さっさと送り届けてしまおうと普通だったら思うのではないだろうか。しかし、二人とも俺を迎えに行った事を喜んでいるように受け取れた。ターニャの客だからなのか、日本人だからなのか、俺が自転車で旅行を続けているからなのか。

City Center の前を通り、アーニャは建物を色々と説明してくれた。オムスクは、シベリアでノボシビルスクに次ぐ大きさだと言う。20分くらいでターニャの家に着く。10階建て位だっただろうか。以前の建物よりも大きく、高かった。そして、自転車を車から下ろすと、建物にはエレベータがあった。ロシアで色々な方々の家に泊めてもらったが、エレベータのある建物(マンション)は初めてだった。自転車をエレベータの中で縦にして上がった。

ターニャの写真は見ていたので分かっていたが、見るからに人の良さそうな女性だった。俺の自転車は掃除を軽くしたが、決して綺麗では無い。だが、構わず廊下に入れて、と言われる。そして、マンションを共有している人が当分戻って来ないので、その部屋を使ってください、と部屋を案内される。

迎えに来てくれたアーニャとボーリャに礼を言う間もなく帰って行ってしまった。その後、ターニャにシャワーを浴びさせて欲しいと言うと、少し笑いながら、ロシアでは通常、夏の2週間くらい、集中温水配水のシステムの修繕の為に、温水の配水を停止すると言う。そして、今が丁度その時で、暖かい水は出ません、という。一瞬どうしようか迷ったが、水のシャワーを浴びさせて貰った。髪の毛を洗うと、砂の色なのか、ディーゼルの排気ガスの色なのか、いつものように紅褐色の水が流れ落ちる。髪の毛を2回も洗うと茶色は消えて普通になる。赤い帽子を被っていてもこれだけ汚れてしまうのだった。

冷たいシャワーを浴びると、ターニャが玉子焼きやスープを作ってくれた。ターニャには4歳の男の子、アンチョンがいる。離婚してしまったのか、旦那さんは居なかった。

シャワーの後、全ての衣類を洗濯して、ベランダに干す。他のマンションを見ると、どこも同じだった。洗濯物が沢山見える。只、日本のマンションとの違いは、ベランダの外側にもガラス戸があること。冬の厳しさの象徴だ。

2008年6月18日 (53日目) M51 マーカー:501 Km



昨晩ガソリンスタンドの裏にテントを張らせてもらった。自転車をテントの近くに置いていたが、寝ている時は自転車が盗まれないかと心配だった。朝起きてみると、自転車は昨晩の場所にそのままあった。7時くらいに走り出す。寒い朝だった。


そして9時くらいにカフェを見つけた。昨日逢ったサイクリストのキリルが言っていたカフェだと思う。バーニャと泊まれる部屋があるようだった。いつものメニューで朝食を済ませる。ソファの近くに電源のコンセントがあったので、携帯の充電をさせてもらった。



10時半くらいに走り出すが、コンクリートの道路は平坦に見えるが、2メートル間隔くらいで波を打っていて走り辛かった。でも、空は晴天。気持ちが良い天気だった。

朝のカフェで買った水は炭酸が入っていた。ボトルはいつもの青いボトルだったので何も疑わずに買って、蓋を開けてみたら、プシュー、と音をたてたのに驚いた。


今日は家族から電話があった。次男のクリスは、自分がロシアの3分の2位進んでいるのかと聞いてきたので、そうだと答える。恵子はあるお客さんから小切手が届いているが、俺個人名宛のチェックだと言う。その人の姉からも寄付を既に頂いていたので、寄付だと直感した。後でお礼のメールを出さないといけない。その人は日本人でもない、親戚でもない、只仕事上のお付き合いをさせて頂いている方だ。でも、この瞬間から親友だ。お金を頂いたから親友になるというのも変な話だが、とても嬉しかった。ロスを発つ前には、何人かの方々からも餞別を頂いていた。応援してくれている人がいると思うだけでも頑張らねばと思ったのだった。


昼飯はガソリンステーションと一緒になっているカフェで食べる。ここも愛想が悪かった。いつものメニューで100ルーブル位を支払う。

今日はひたすら走ったと思ったが、距離はそれ程でもなかった。夕方5時くらいに見つけて入ったカフェに居た客は、次の都会のオムスクまで150キロ位だと言っていた。今日その場で走るのを止めたら、明日は長い距離を進まなくてはならないので、もう少し走ることにした。60キロ先にはカフェがあるとの事だった。


しかし、今日走り終えてみると、オムスクまでは150キロの距離だった。教えてもらった距離は少なめだったのだった。明日は長い一日になる。

夕方のカフェでは、いつものボルシチ、玉子焼き、マカロニ、紅茶などを食べる。そしてそこから夜まで走らないといけないので、甘そうなお菓子を買う。60キロ先のカフェまで行きたかったが、KMマーカー501付近にカフェが現れた。カフェの裏に農家があったので、そこにテントを張らせて貰いたかったが、そこでは断られる。カフェに行って聞きなさいとのこと。仕方ないので、カフェに戻り、カフェで偉そうな人で、外で肉を焼いている人に、バーニャーの小屋の中に泊めさせて貰えないかと聞いたら、あっさりと了承してくれた。バーニャは時々使われいるようだったが、今日はお湯を炊かないようだった。

寝られる場所が決まり、自転車をバーニャの中に入れさせて貰い、そのカフェにてもう二度目の夕食を取る。そして食事の後、日記を書きながら紅茶を飲むが、7ルーブル。35セント程度だった。全てが良心的。俺がこのカフェに着いた時には、大型のバスが何台も停車していた。その理由が分かったような気がした。


2008年6月17日 (52日目) M51 マーカー:378 Km

夕べは早く寝たせいもあり6時位に起きて、7時位には走り出す。朝起きた時には小雨だったが直ぐにレインギアを着なくてはならなかった。空は全体に雨雲が広がり、簡単に雨が上がりそうに無かった。

風は強くて冷たい。シベリアに春は来たかと思っていたが、容赦なく吹く風は冷たかった。自分に課された試練なのか。それとも、何も考えずに旅に出た罰なのか。俺の神様への願いはこの冷たい雨を止めて欲しい事だった。苦しい時の神頼みだった。

10時くらいに見つけたカフェでいつもの食事を取る。ボルシチ、マカロニ、玉子焼きなどを食べる。水を売っていたが1リットルの小さいボトルだった。雨が降っていると汗は余計にかいているようだった。

カフェの外の日差しの下で昨日のように全てを着替える。たった3時間で全てが濡れてしまった。クラスノヤルスクで転んでジャケットが多少破れていたが、それよりもゴアテックスが全く機能してないのが問題で、ジャケットもパンツも上下共に内側が濡れてしまっている。次の都会のオムスクで上下共に買い換えないとだめだろう。

カフェを出て走る。手は冷えてしまっているが、指の先までカバーする青の手袋は内側もずぶ濡れで、冷たくて付けていられなかった。とにかく、金曜日にオムスクに着くようにするには頑張って走らないといけない。今朝出かける時は、150キロ位走れたら良いと思った。でも結局、今日の終わりにはオムスクまで267キロになっていたので、結構すすんだ。



昼は朝食からあまり時間が経ってなかったが、次に見えたカフェで食べる。ロシアを旅行していて今まで時々あったのだが、このカフェのキャッシャーも愛想の無い女性だった。大半のキャッシャーは、外人の俺のロシア語が分かり難そうだったが、愛想良くしてくれたがこんな店もあるのだった。悪い事にあたると、今まで普通の状態が良く感じられるのだった。

カフェの中には昼食時だったので客が多く、20人以上が居た。空いているテーブルは無かったので、警官の制服を着た人に合席をお願いすると快く座らせてくれた。ノボシビルスクのパベールは、ノボシビルスクを西に進むと魚が名物の地域があるので、そこでは是非魚を食べたら良いといっていた。どこの事か分からなかったが、M51の南側には小さな湖が時々見えていたので、淡水魚を食べるのだろうと思った。

カフェでは、揚げた魚が何種類かあったので、切り身になっている大きい魚の切り身を注文する。重さを量って料金を計算していた。公平なのはありがたかったが、量り売りは共産主義の遺物なのかとも思った。カフェを出る時には数人の人から質問を受けた。カフェの中は綺麗でテレビもあり、トイレは綺麗だった。そして、カフェの入り口に止めて置いた自転車は客人の目を引いた。








カフェを出て走り出すが風が強くて大変だった。湖の見えるところで、車のボンネットに布切れを敷いてその上に並べられた魚を売る商人を見つける。最初は200ルーブルと言っていたが高いなと思っていたら直ぐに100ルーブルに下がったが、どうやって食べたら良いのか分からないので、半額に下がったが買わなかった。





しばらく走ると、サンクトペテルブルグから自転車に乗って来た老人と会う。チタまで行くと言う。どんなに早く走ってもチタまで3週間は掛かる距離だろう。こんな変速ギアも無い質素な自転車と装備で、そんな距離を進むのかと思うと、自分の装備は豪華そのものだった。老人は英語が分からなかったので直ぐに分かれた。



それから10分もするとまた別の自転車乗りに会う。今度は自分よりも若い青年、キリルだった。モスクワからウラジオストックまで行くと言う。変速機は付いていたが、フリーウイールのギアの歯は一枚を除いて全て折られてしまっていて、固定ギアだった。どうしてそんな事をしたのか理解に苦しんだ。でも、自転車を立て掛ける場所が無い時の為に、比較的丈夫な幹の木の枝を上手に切って自転車のスタンドにしていた。俺もスタンドが欲しかった。ロシアの道路脇にはとにかく座る場所が無い。そして当然だが自転車を立て掛ける物も無かった。だから俺は、自転車で走るのを止めても跨いだままで休憩をよくしたものだった。

キリルはテントも寝袋も持っていたので、どんな所にキャンプしているかと聞くと、道路から100メートル位離れた所によくテントを張っていると言う。ハバロフスクの人たちと、クラスノヤルスクのフィオドールから危険な虫が居るから注意するように言われていたので、俺は草むらにテントを張るのには気が引けていたが、キリルはそんな事は一向に気になっていないようだった。



キリルと分かれた時に、次のカフェは30キロくらい先だろうと教えて貰っていたが、もう既に夜の8時半だったので、今日そのカフェには辿り着けない。でも何かしら無いかと走る。そして暫くするとガソリンスタンドがあった。




その近くにはカフェがあったが空き家だった。ガソリンスタンドに戻って、その敷地内にテントを張らせて欲しいと聞くと小屋の中に寝ても良いと言う。でも、小屋の中を覗いたら、ギアオイルの臭いで我慢できなかった。小屋の中にはエンジンやトランスミッションの部品が散乱していた。結局、ガソリンスタンドの裏にテントを張らせてもらって寝る。カフェではスナックしかなく、空腹を満たすものは売ってなかった。仕方なく、持っていたクッキーや果物、そしてラーメンを生で食べる。