2008年6月15日 (50日目) M51 マーカー:121 Km


パベールの家で朝食に昨晩スーパーマーケットで買った魚を頂いた。そしてパベールのHino の小型トラックに自転車を乗せて、オムスクに向う幹線 M51 まで連れて行って貰う。別れはいつも辛いものだった。なぜか涙が頬を流れる。気を取り戻し気丈に努めるが、パベールも何故か俺の目を見て話さなくなっていた。M51 との交差点のランアバウトを回った所で、M51 の西向きの道端に止めて貰った。自転車の荷台から降ろして、丁寧にお礼を言ってから走り出す。昨日買って貰った赤い帽子を被って。

するとパベールは俺が自転車を漕ぎ始めると同時に自転車の後ろから押してくれた。こんな事は生まれて初めてだと思う。丁度、自転車の乗り方を習っている子供が親から押さえられながら走り出すようだった。俺の自転車の本当の重さを知っている人は少ない。でも、パベールはウランウデ近くの平原で強風と雨の中、俺を自転車ごと拾ってくれたし、今回もノボシビルスクの街中で自転車をトラックの荷台に乗せていたので、それがどれ程重いかは知っていた。

自転車を後ろから押されるとバランスが崩れるので、思わず「止めて欲しい」と言ってしまう所だった。でも、直ぐにそんな気持は感謝の念に変わった。そして涙がまた頬を伝って流れる。涙を見せたくなかったので、直ぐには後ろを振り返ることは出来なかった。でも少し離れてから振り返るとパベールは手を振ってくれた。俺も振り返す。こうして日記を書いていてもありがたくて涙が出てしまうくらいだ。



オムスクに向うM51 は平坦だとパベールが言っていたが、当にそのとおりだった。一昨日までの登りと下りの坂は無い。平原が広がっている。20、30キロ進むとある地点で行政区域(Regionに)が変わって急に道が悪くなった。そして路肩は無く、路肩には砂利が敷き詰められていて、トラックが近づいた時などは良くその砂利の上を走った。

パベールに買って貰った赤い帽子はあご紐が無かったので、時々行き交う車とすれ違うと飛ばされてしまった。でも、車に踏み潰されること無く毎回取り戻せた。ハンドルには昨日買って貰ったハンドルバーのクッションをナイフで切リ目を入れて、テープで巻いたらこれが結構良かった。手の痺れがこれで治まるかもしれない。

(右上、古くて巨大なヘリコプターがガソリンステーションの横に留まっている)

でも道が悪い為か距離は延びなかった。家族から電話があり、Happy Father's Day との事だった。ありがとう。このところ毎日のように電話できていたので短い電話だった。

しかし、ハンドルにはクッションが出来て楽になった為か道が悪い為か、サドルが気になり始めた。サドルの後ろを止めている幾つものリベットの中で、両端のリベットが浮き上がってしまっている。その上に尻が載ると痛い。ロシアを出たらどこかでサドルを買い換えたら良いかもしれない。


晴天だったが風は強かった。天気だけが良く、悪路のためリベットが当たる尻が余計に痛み、距離が思ったように延びない。午後7時くらいには疲れてしまい、M51 から1キロ外れて村がありそうだったので、その標識のあった道で曲がり村に進む。

最初に見えた家でテントを張らせて欲しいと言うと断られたが、10歳から15歳くらいの4人の子供がどこかに案内するというので付いていくと、老人一人が住む家に着いた。老人は家に泊まっても良いと言っているようだったが、何か様子が変だった。そして暫くすると酒代が欲しいと言い出した。そういう事だったのか。酒代を出しても構わないが、酒飲みに一度金を渡すと次に何を要求されるか分からないので、その老人宅を出ることにした。一瞬、テントではなく屋根の下に寝られると思ったが、問題は起こしたくない。

もう日暮れが迫っていたが、村を出ることにして来た道を戻った。そして、駄目で元々と思い、家の外に居た人に、家の裏にテントを張らせて欲しいとメモを見せると、あっさりと承諾してくれた。しかし、家の後ろの納屋に自転車を入れると、その人は付いて来いと家の中に案内してくれて、2段ベッドの上だったら空いているとベッドを勧めてくれた。とてもありがたかった。そして、先の老人の家を出て良かったと思った。


家は古く綺麗ではなかった。でも、最初に会った人はとても優しくて、他の人に俺を紹介してくれると、直ぐにお茶を入れてくれた。手と顔だけでも洗いたかったので、顔を洗う仕草で「モジナ・バーダ?」と水が欲しいと言うと外の塀に取り付けられた水受けに水を入れてくれた。顔を洗うだけで、どんなに気持が新鮮になったことか。雨は降りそうに無いが、仲間に入れて貰えたのがとても嬉しい。

家の中には二つの部屋があり、奥には2段ベッドが3つ、手前には2つと、10人が寝泊りできるようになっていた。俺が寝ることになった部屋は手前の部屋で、大きなペチカ(暖炉)があった。昔ながらの家のようで、その上では鍋などを乗せて調理が出来るようになっていた。

俺は泊めもらうと決まった段階で、持っているクッキーやバナナ等が夕食と覚悟していた。村の奥には、カフェもマガジン(店)もあったかも知れないが、そこに行く元気はもう無い。でも最初の男の人は、寝泊りしている人が共有していると思われるパンやクッキーを紅茶と一緒に出してくれた。ひもじい思いをしないで済んだ。

距離はあまり進まなかったと思ったが、M51 のマーカーは121 だったので、ノボシビルスクの中心からは121キロ離れていることになる。パベールの家はきっと中心から20キロ位離れていたので、今日は100キロ位を走れたのかもしれない。

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