2008年6月16日 (51日目) M51 マーカー:240 Km


夕べは2段ベッドの上の段に寝袋に入って寝た。暑くて汗をかいていた。膝はつい先日まで冷たい風に悩まされたのだったがそれが嘘のようだった。季節の変わり方が早い。しかし、家の中には蚊が多く、伏木のフェリーに乗る前に高岡の薬局で買った蚊取り用の小さな装置の電源を入れたら、蚊には刺されなかったようだ。夕べ遅くに作業員が何人も帰ってきたようだったが、部屋の外か家の外で話をしていた。少し話し声が賑やかだったが、今までに泊まって来た場所に比べれば良いほうだったと思う。

起きると6時くらいだったが、作業員の何人かは出かける準備を始めたので俺も起きる。そして、俺を泊めてくれた痩せている人は出かけるとの事で別れを告げる。その後、続いて何人もの作業員が出かけるので、その人達と写真を撮る。それから紅茶を頂いてその家を後にする。只、昨日水を全て飲んでしまっていたので、一つのボトルに水を入れてもらってから出た。それから、パンも一つ欲しかったのでそう言うと、沢山のパンを貰った。テントを張ってないので直ぐに出られ、7時には走り出した。



村からM51 への道は砂利道で、雨の後に走った車の轍が多く走りにくく、M51 に出るまでに結構疲れてしまった。そしてM51 に出てからも道は相変わらず良くなかった。でも直ぐにカフェを見つけられたので、そこで朝食を食べる。


携帯電話の残高が少なくなってきたので、カフェの中の機械で課金しようと思ったが、よく分からない。カフェの人は見ているが何も手助けしてくれるような感じではない。でも、運良く後から入ってきた15歳くらいの少年に、携帯を見せて課金したいことを俺が知っている限りのロシア語で伝えた。何かをして欲しいときの「モジナ」、そしてお金は「ジェンゲ」、携帯電話は「テレフォン」。この3つ言葉でその青年は理解してくれて、俺の携帯の番号を聞いてきた。日記に書かれている番号を伝えると、俺の100ルーブル札を機械に入れて課金してくれた。レシートに何か印刷されて機械から出てきたが読めない。でも、俺の携帯電話番号は記されていたので、問題ないと思った。お礼を言うと、少年は足早に兄弟か親が待つテーブルに行ってしまった。俺はいつもの質問に慣れていたので、この少年も質問をしてくるかと思ったが、無かった。課金できたことは嬉しかったが、言葉を交わすことが出来ずに残念だった。


カフェを出ると西の空は雨模様だった。案の定、8時半くらいから雨が降り始めて、午後1時半くらいまで降り続いた。途中ДПС(ハイウェイパトロール)の検問所があった。夕べは暑かったのに今日は雨に濡れてしまい凄く寒い。自転車から降りると身震いするほど寒かった。

ДПСの建物には日差しが少しあったので、その下で休んだが寒くなる一方だったので、建物の中に入った。中は事務所になっていて、制服を着た警官が小さな格子窓の向こう側に見えた。どうやらこの事務所に入った運転手は、書類の不備か確認の為に止められている様だった。とてもトイレを貸して欲しいと言える状況では無かった。

しかし、体は冷え切っているので部屋の中の温もりは何の役にも立たなかった。ヒーターが欲しかった。でも、そのままでは風邪を引いてしまうので、その場に着替えを持ち込んで、俺は構わず全てを着替えた。運良く警官は何も言わなかった。俺がずぶ濡れなのを見ているので、哀れんでくれたのだろう。空の雲は重く当分雨が上がらない。手は悴んでいたが、走ることにした。雨の日は辛い。


俺のレインギアは上下共に古いようで、雨を透してしまっているようだった。下に着ているもの全てが濡れてしまっている。これからロシアだけでなく、ポーランドやドイツでも沢山の雨が予想できるので、次の都会オムスクで新調した方が良さそうだ。今日は靴が濡れないようにクラスノヤルスクの携帯電話の店で貰ったオレンジのバッグを履いて走った。ガサガサと音が煩かったが、具合は良かった。しかし、今朝はパベールに拾ってもらった時のように、よく雨が降り風が強く寒かった。こんな日は走るのを止めたくなる。何のためにこんな思いをして走る必要があるのか。一言、俺はユーラシア大陸を自転車で横断した、と人に言うために走るのか。考えされられる一日だった。


家族からは幸か不幸か電話は無かった。雨の日には電話にも出たくない。そしてこんな辛い日は色んな事を思い出すのだった。特に昨日のパベールが自転車で後ろから押してくれた事が鮮明に思い出され、雨が頬を流れるのと一緒に涙が流れる。そしてフロントのバッグに入っている Hiro さんから貰った高野山のお守りを思い出した。Hiro さんだけではない。多くの人が応援してくれている。途中で諦めるわけにはいかない。今、出来る限りの事をやらないといけない。

ДПСで着替えた際には少し厚着をしたので暖かくなり、少し走りやすくなった。それでも、道は相変わらずの凸凹で、走り心地は悪い。そして午後1時半にカフェを見つけて入る。

いつものご飯、玉子焼き、ボルシチ、紅茶などを昼食にした。こんな日は遠くまで走れるわけがないので、ゆっくりと食べていると雨は小雨になる。そしてカフェを出る頃には殆ど上がったので、レインギアを着ないで走る。サドルの両端のリベットは痛い。ゴムか何かで補強というか被せないと、このままではどこまで行けるか分からない。雨が降らなければ悪化しないだろうか。。。ロシアはこれから雨季のようなので困ったものだ。

レインギアの他にサドルもオムスクで買ったほうがいいかもしれない。ハンドルに巻きつけたカバーは役立っていると思う。しかし、今日の終わりに気付いたのだが、右側のブレーキレバーの付近はハンドルテープのようにずれてしまっている。右手の方に相当な力が加わっているようだった。カフェを出て暫く雨は降らなかったが、西の空には入道雲があり、その雲の下には黒い雲があった。束の間の晴れ間があったが、雨がまた降ってきた。左膝は冷えてしまったのか痛い。でも、いつもの痛みに近いのでまた暖かくなったら治るだろう。只、左手の薬指と小指の痺れは治らない。痺れるようになってからは、走りながらハンドルから手を離して、拳を握ったり開いたりしてはいるが、どうしたものか。

パベールに買って貰った帽子は今日の雨の中で特に役立った。帽子の日差しで雨が直接メガネに当たらないので良かった。パベールに買って貰ったジャムは空のビニール袋に全てを入れる。そして、袋の下の角に小さな穴を開けて空の水のボトルに搾って入れた。ジャムを飲むのではなく、パンに付けて食べるのに都合よかった。

M51には次の町への距離の案内が無い。標識には「M51 Omsk」とあるが何キロなのか分からない。オムスクのタニヤに今度の金曜日くらいに着くだろうと伝えてあるので、もしそれよりも早く着くのであれば、その旨を伝えないといけない。

夕方、2度目の雨の後、トレイラーが道端に落ちてしまっているのを見た。工事用のトラクター2台で引き揚げていた。雨の為にスリップしたのか居眠りなのか。イタリア製のIVECO のトラックだった。フロントガラスは外されていた。ドライバを救出するために外されたのであろうか。


少し足止めを食ったが、俺には何も出来ないので走る。道は平坦だが、走り心地が悪いのには参った。時々、道は良くなるのだが、大半が悪い。

こんな平坦な道が続くと、ほんの僅かな登り坂が気になるようになった。ウラルの山は登りが続くのであろう。そして、その後、他の国ではどんな道になるのだろう。

夕食はKM マーカー240位にあったカフェで食べる。そして日記を書いている間にコーラを買って飲む。最近、よくコーラを飲むようになった。あれだけ炭酸飲料を飲むのが苦しかったアメリカ横断時の事が嘘のようだ。お店のお客にオムスクまでの距離を聞くと450キロ位だと言う。もしそうだとすると4日間で走るには少し急がないといけない。明朝は早く出よう。カフェの横にあった古い建物の中にテントを張らせて貰う。建物の中は汚れていて気になったが、雨に打たれるよりは良い。テントの外には相当数の蚊が居たが問題ない。



しかし、それにしてもこのM51 には店は無いし、村も通らない。道は平坦だが、俺の旅には不向きな道だと思った。外の近いところで自家用発電のエンジンの音が聞こえる。カフェはそれ程大きくないので、200か300ワット位の小さい発電機だろう。午後9時半くらいに寝る。

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