朝は6時位に起きて準備をする。水をカフェで買って7時には走り出す。150キロの距離は永い。しかし、幸いにも追い風だった。オムスクの市の境界線を超えたのは19時位だった。
今日はカフェを見つけられず、朝食は昼食の時間に近い11時半だった。でも、距離は午前中に稼げた。食事を終えてカフェを出ると、オムスクで泊めてくれる予定になっているターニャからSMS が届き、オムスク市の境界線を超えたら俺から連絡すると返事をした。
カフェは大きな建物の一部で、ガソリンステーション、ホテル、修理工場と色々揃っていた。シベリアの小さな村で出会った数々のカフェとは大違いだ。メニューは各テーブルの上に置かれ、ウェイトレスが注文を取りに来る。レストランに来たような気分だった。いつものようにボルシチ、玉子焼き、マカロニ、アプリコット・ジュースなどを昼食にする。席は相席だった。今日のウェイトレスは愛想がとても良かった。俺の言っていることが理解できないと、何を言っているか分かりません、と言わんばかりに笑ってくれた。俺はこんな人達が好きだ。俺に微笑んでくれたらそれで良い。
相席の男性は一人で来ているようで、いつもの質問、中国人?、どこから?、どこへ?と答えるのがやっとで、他の質問は何も分からない。テーブルからは外の駐車場のトラックや陸送中の日本から輸入された中古車が見える。それらの中古車は牽引されていて、一人の運転手が2台の乗用車を陸送している。後ろで引かれる側の乗用車には、前で牽引する乗用車が跳ねる石を除ける為の板が付いている。陸送している乗用車が傷物にならないよう注意しているのだった。きっとウラジオストックから陸送が始まっていると思うので、オムスクまで行ったとしたら、6500キロ牽引されることになる。その間、舗装路もあれば砂利道もある。この旅行を始めてから、時にはフロントのバンパーを外して牽引される乗用車も見かけた。時には3段重ねの陸送車も見かけた。10トンくらいのトラックに、それよりも小さなトラックを荷台に乗せ、軽自動車をその荷台に乗せていた。そんなトラックは重量もさることながら高さも相当になり、トレーラーと同じ位の高さになる。見るからに不安定だが、俺の目の前を走り抜けていくのでДПС(警察・ハイウェーパトロール) の検問を問題なく通過してきたのであろう。
支払いはカウンターで行い、カフェを出て、その後も快調に時速18キロ位のスピードで走れた。そして16時だったか、スイスから来た自分よりも若干年上のサイクリストと会う。その人と30分から45分位話をした。その人は、5月始めにイスタンブールを出て、既に5700キロ以上走っていた。俺と出発した時期は同じくらいだが、俺は未だ4500キロ位しか走れてない。向かい風と追い風の違いだろう。その人はこれまで殆ど追い風で、いつも時速20キロ位で走って、1日最高は240キロ走ったと言う。夏至に近いのと高緯度なので日が長いからそんな距離が走れるのだろう。その距離は俺が20歳の時に、北米大陸を横断した時、カリフォルニア州バーストー付近からラスベガスまで一日で走った距離に匹敵し、その日は朝5時から23時まで走ったのだった。俺は距離をそこまで稼ぐことが出来るのが羨ましかった。しかし、それよりも追い風がそれ程、影響していることに落胆した。ルートを間違えた。やはりロシアでの滞在日数が短くなっても、リスボンから出発するべきだった。後の祭りだ。もうユーラシア大陸の中央に近づいている。
誰だったか忘れてしまったが、良い事を言ってくれたロシア人が居た。「You are doing the hard way, not too many would try」。それを聞いて嬉しかった。勇気付けてくれた。そして俺は、アルプスのアイガーの北壁登坂とは比べ物にならないのは分かっているが、北壁を征服した英雄と自分を置き換える必要があった。頑張れねばならぬ。
その人はロシアの都会ではホテルに泊まっていると言う。金銭的に余裕があるのであろう。当面の目的地はイルクーツクで、もしかしたらそれよりも進んで、アラスカに飛んで北米を南下するかも知れないと言っていた。
新品に見える自転車はUnivega のもので、前後の両車輪はディスクブレーキ、そして前輪にはショックアブソーバが付いている。パニア類はドイツ製だと言っていた。ペダルはクリーツ。全てが望ましい装備だ。それらの装備は多少羨ましかったが、自分の自転車には満足している。欲を言えばディスクブレーキと前輪のショックが欲しい。
その人のウエブサイトのURL を聞いて別れる。本当は話を切り上げて早く走り出したかったが、自分がもっと話したい時もあったので、その人が別れを切り出すのを待っていた。
それから風は向きが変わった。向かい風になってしまった。疲れてしまっているので、スピードが上がらない。夕方5時くらいに見つけたカフェで食事を取る。肉は駄目だと伝えると魚があると言うので、言われるように注文した。いつものメニューだが玉子焼きの替わりに魚のフライ等を急いで食べる。
昼前からだったが、低い空をヘリコプターが飛んでいる。軍用のヘリに見えるが、軍事練習には見えない。農業の為か、何かの調査の為と思えた。
先にあったサイクリストも言っていた事だが、オムスクはウラジオストック等と同じように、外国人の出入りが制限されていた閉鎖都市だったそうだ。軍事産業の為だったのかと思うと、ヘリが上空を何度も旋回しているのは、飛行訓練や飛行実験だったかもしれないと思った。
なるべく早くオムスクに入りたかったので精一杯走ったが、オムスクの境界線を越えたのは18時を回っていた。でも、そのサインは他の村や都市のものと比べると小さく、まるで小川のサインのようであった。ソ連が崩壊しても古いサインをそのままにしているのかも知れない。
ターニャからその前にSMS が届き、知人が車で途中まで迎えに来てくれるとの事だった。只、自分がどの方角に進んだら良い分からないので、大きな交差点を超えて現れたガソリンステーションでターニャに電話した。するとCity Center に向って欲しいとの事だった。自分が向っていた道がCity Centerに向っているか確信は無かったが、そのまま進むと、別のSMSが届き、近くのバス停から電話して、そこで待っている誰かと電話を代わって欲しいとの事だった。その場所が分かれば、知人がそこに迎えに行くとの事だった。次のバス停は直ぐに見つかった。10人以上の人が待っていて、お店も併設されていた。若い女性二人に話しかけて、その一人に電話を代わってもらった。ターニャにはその場所が直ぐに分かったようで、俺はその場所で待つ事にした。
バス停には、マルシュルートカ(ミニバス)が次から次へとやって来ては去って行く。酔っ払いが寄って来る。俺は何時でも酔っ払いの格好の話し相手のようだった。それから、まるで娼婦のように派手な服と化粧の女性が次々とバスから乗り降りしている。都会に来た証拠だ。自転車の簡単な掃除をして、日記を書く。
もう来るだろう、もう来るだろうと、日記を書きながら行き交う車に目をやった。どんな車で迎えに来てくれるのかが心配だった。もし近い距離だったら、自転車で迎えに来てくれた知人を追うことが出来るが、もし遠い距離だったら、この都会を追いかけて行くのは非常に難しい。
1時間くらい待ったのだろうか。ターニャから電話があり、知人は俺の事を見つけられないと言う。俺は慌てて自転車を道路から良く見える位置に移動し、バス停の前で目立つように立っていると、バス停の反対側に誰かを迎えに来たような乗用車が見えた。直ぐに俺が分かったのか、Uターンして来た。黒色のToyota のハリヤーだった。運転手はボーリャ、助手席にはアーニャという二人が乗っていた。今晩泊めてもらうことになっているターニャの友人だった。二人とも20代の後半だろう。
自転車を詰め込めないことは無いだろうが、どうしようか迷った。ボーリャは別段困った様子は無い。押し込めば良い、という感じだった。でも、車は右ハンドルの日本からの輸入車だったが新車に近い。俺の汚れた自転車を押し込むのは気が引けた。それでもボーリャは自転車をそのまま押し込もうとするので、俺はキャンプの際に使用していたグランドシートを出して、後部席を倒した上に敷いた。そして、その上に自転車を乗せることにした。ボーリャと俺は苦労しながらも自転車を後部座席に納めることが出来て、走り出す。アーニャは俺の方が大きいので助手席に座って下さい、と言ってくれたが、綺麗な洋服を着ている女性を狭苦しく狭い場所に閉じ込めるわけには行かない。俺は倒された後部座席に胡坐をかくように座った。自転車で走れる所は走りたいが、都会は例外だ。都会での走行は何も良い事が無い。
ターニャの客とはいえ見ず知らずの俺をこうして迎えに来てくれる人達の親切には驚く。(でも、後日ターニャ宅で行われた「夏の新年会」で感じたのだが、これは全てターニャがターニャの友人に対する全ての現れだと思った。)
ボーリャはあまり英語が得意では無い様で、道中アーニャと話をする。アーニャはイタリアに仕事で行ったことがあると言う。ずば抜けて優秀か、裕福な家庭の娘さんなのだろうか。アーニャは俺と何か色々話をしたいようだったが、そこまで自由に英語を話せるわけではなかった。でも、そんな気遣いが嬉しかった。普通だったら、友人の客の迎えを、それも急に引き受けてくれるだろうか。さっさと送り届けてしまおうと普通だったら思うのではないだろうか。しかし、二人とも俺を迎えに行った事を喜んでいるように受け取れた。ターニャの客だからなのか、日本人だからなのか、俺が自転車で旅行を続けているからなのか。
City Center の前を通り、アーニャは建物を色々と説明してくれた。オムスクは、シベリアでノボシビルスクに次ぐ大きさだと言う。20分くらいでターニャの家に着く。10階建て位だっただろうか。以前の建物よりも大きく、高かった。そして、自転車を車から下ろすと、建物にはエレベータがあった。ロシアで色々な方々の家に泊めてもらったが、エレベータのある建物(マンション)は初めてだった。自転車をエレベータの中で縦にして上がった。
ターニャの写真は見ていたので分かっていたが、見るからに人の良さそうな女性だった。俺の自転車は掃除を軽くしたが、決して綺麗では無い。だが、構わず廊下に入れて、と言われる。そして、マンションを共有している人が当分戻って来ないので、その部屋を使ってください、と部屋を案内される。
迎えに来てくれたアーニャとボーリャに礼を言う間もなく帰って行ってしまった。その後、ターニャにシャワーを浴びさせて欲しいと言うと、少し笑いながら、ロシアでは通常、夏の2週間くらい、集中温水配水のシステムの修繕の為に、温水の配水を停止すると言う。そして、今が丁度その時で、暖かい水は出ません、という。一瞬どうしようか迷ったが、水のシャワーを浴びさせて貰った。髪の毛を洗うと、砂の色なのか、ディーゼルの排気ガスの色なのか、いつものように紅褐色の水が流れ落ちる。髪の毛を2回も洗うと茶色は消えて普通になる。赤い帽子を被っていてもこれだけ汚れてしまうのだった。
冷たいシャワーを浴びると、ターニャが玉子焼きやスープを作ってくれた。ターニャには4歳の男の子、アンチョンがいる。離婚してしまったのか、旦那さんは居なかった。
シャワーの後、全ての衣類を洗濯して、ベランダに干す。他のマンションを見ると、どこも同じだった。洗濯物が沢山見える。只、日本のマンションとの違いは、ベランダの外側にもガラス戸があること。冬の厳しさの象徴だ。
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