2008年6月22日 (57日目) P402、79 Km


夕べは俺が最初に寝てしまったので、当然俺が一番早く起きる。各部屋を見るとキッチンを含め4つの部屋に12人が寝ていた。俺だけが一つのベッドを一人で使っていたのだった。キッチンに寝てしまっている人達を見たら申し訳なかった。幸いにも今は夏。薄着で毛布もタオルも掛けないで寝ている人達は酔いの勢いで寝てしまったのか、毎年そうなのかは分からない。

殆どの人は9時半くらいまで寝ていた。大きなメガネを掛けているほうのオーリャは仕事に行くと先に出て、俺は近くの24時間営業の大きなデパートのようなスーパーマーケットのような店に行く。バスの中から何度も見えた店なので、大通りに面していて迷うような場所ではなかった。ノボシビルスクでパベールに連れて行ってもらった店と同じ名前の店で、食料から衣料、雑貨、自動車のタイヤまで売る店だ。ノボシビルスクの店よりも小さかったが、俺には好都合だった。日曜日の朝。大きな駐車場には車が少ない。



俺は2日前の小さな村の道路作業員の寄宿舎と思われる家に泊めて貰っ時に、小さなタオルを忘れてきてしまった。夜、顔を洗わせてもらってそのまま忘れてきてしまっていたので、これからロシアにも夏が訪れると思い、汗を拭うタオルが必要だった。実際にはもしバーニャに入れてもらってもそのタオルを使うわけだ。他に、石鹸、自転車のサドルのリベットを覆うパッチ、それからスエットパンツの裾を止めるバインダーのような物も買った。そしてターニャには泊めてくれたお礼にコーヒー豆を、息子のアンチョンにはM&M のチョコレートマーブルを買う。持ち歩いているVisa カードが使えたのでそれで支払う。

買い物を済ませてターニャのマンションのエレベーターで上に登り、降りてみるとターニャのマンションの入り口は2重になっていた。俺はいつも誰かと一緒に出入りしていたのでそれに気付かなかったのだ。一つ目の施錠された入り口のドアは、2つか3つのユニット毎に設けられていて、そのドアの内側にさらに各ユニットごとのドアが施錠されているのだった。


最初のロックは番号を押すだけのものだったので鍵は不要だが、組み合わせが分からない。誰か出てくるような気配ではないので、仕方なくターニャの携帯に電話して開けてもらった。既に起きていたようだったので良かった。Penta で買ってきたコーヒー豆をターニャは喜んでくれて、アンチョンはずっと以前からM&Mを買って欲しいとせがんでいたそうで、これを息子は喜ぶだろうと言った。直ぐにアンチョンを呼び、差し出すと喜んで食べていた。二人に喜んで貰えてよかった。

キッチンでは誰かがマカロニを作ったので、俺もそれを頂き、出発の準備をする。本当は正午前に出たかったが結局14時くらいになった。皆に別れを告げてターニャのマンションを後にする。3泊お世話にはなったが、特別な思いは無かったので、以前のように別れは辛いものではなかった。

只、日曜日で全員が休みなので寛いでいるのを見ると羨ましくなってしまった。俺は丸二日休んだので休み癖が付いてしまったようだった。でも、サイクリングは自分が決めたことで、俺の写真を見て、俺が楽しんでいると思ってくれている人達が居るので頑張らなければならない。

ターニャのコンピュータで、オムスクの街の出方を教えてもらっていたので、比較的スムーズに郊外に出られた。でも、強い向かい風だった。全然進まない。


途中、カフェを見つけるが休まなかった。17時くらいに見つけた店で、菓子パンのようなものを買って食べる。15ルーブルと極端に安かった。でも、食べてみると値段相応のパンだった。でも、栄養分だと思って食べてしまう。


20時半まで走るがカフェは無い。でもチュメインに向う幹線P402から少し離れた場所に村を見つける。数人の人にノートを見せて泊めて欲しいと尋ねるが誰もOK しなかった。そんな俺の行動を遠くから見ていた3輪の農耕機に乗った若者は、こっちに来なさいと言う。どこかテントを張らせて貰える場所を案内して貰えるかも知れない思い、着いて行く。すると、そのある家の前に止まり、ここが自分の家で、バーニャがあるからそこに寝たら良いと言ってくれた。田舎の一軒家。家の周りでは鶏が鳴くようなどこにでもあるような家だった。只、家の周りは綺麗になっている。案内されたバーニャを見ると、とても田舎のバーニャとは思えないくらい綺麗になっていた。母屋から離れているバーニャの建物は、二つの部屋に分かれていて、サウナの部屋と着替え室となっている。その着替え室が比較的大きくて、ソファが置いてあり綺麗に毛布が掛けてあった。部屋の窓際には小さな花も飾られていた。床も綺麗だった。


青年は英語が出来なかったが、会話集の本を使って少し話をした。俺が日本人だと分かると、この青年は急に態度を変えた。そしてポルトガルまで行くと伝えると、途中のポーランドにも行くのか、と何度も何度も聞いてきた。この青年はまるでポーランドに行きたい、戻りたいと言わんばかりだった。その後、青年は紅茶、ピロシキ、そして牛乳を出してくれた。俺はこの青年が日本人に友好的だったのが嬉しかった。

有り得ない事とは思ったが、1940年代、在リトアニア、カウナスの杉原千畝元領事からビザを貰って生き延びた子孫なのかも知れない。俺がもし車でポーランドを目指していたら、何か持っていける物を預かっても構わないが、申し訳ないが自転車には何も積む余裕が無い。

(追記:1920年日本人がポーランド人孤児をシベリアから救出を読む。俺には知らない事ばかりだった。)

その青年は農作業の後だったようで、直ぐにバーニャに入った。そして、その後に、その青年の奥さんが入った。夫婦とも20代後半だと思う。小さな子供はバーニャに入れないのだろうか、1歳くらいの赤ん坊は一緒に入らなかった。その後、奥さんは入って下さいと、俺にバーニャを勧めてくれた。遠慮なく浴びさせて貰った。オムスクの都会で暖かいシャワーを浴びれず、20軒くらいしかない小さな村で暖かいシャワーを浴びれるとは思いもよらなかった。バーニャの中も綺麗だった。全てが整頓されていて気持ちよかった。

寝る前に、青年は俺の自転車は外に置かないでバーニャの中に入れたら良いという。タイヤに付いた土が落ちてしまうので躊躇っていると、構わないから入れて良いという感じだったので、入れさせてもらった。田舎で農業を営んでいる青年とは思えない。でもこんな青年に逢えて良かった。P402の道路からこの村が見えた時には、どこかでテントを張れたら良いと思っていたので、簡単な食事も頂けた上に、屋根の下に寝られる。ありがとう。

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