2008年5月06日 (10日目) M60、 ビキン (Бикин)


夕べはリタの家でもインターネットが出来たが、朝になると出来なくなってしまった。コンスタンティンが仕事に行く前に、少しだけ時間があるというので、彼のラップトップを借りて昨日撮った写真をGoogle のPicasa アルバムにアップロードするが、時間になってしまったので、途中でやめる。

朝食の時にコンスタンティンと話をすると、数年前にアメリカのミネソタ州に行ったことがあるのだという。家族全員が英語を話して当たり前だったのだ。でも、高校生の現役、娘さんのアリーナが一番よく英語を話した。

朝食の後、リタとアリーナと一緒にリタの事務所に行く。そしてそこのPCでアップロード出来なかった写真をアップロードした。

そして、10時位になって、アリーナの通う高校に行って、英語のクラスでもう一度、英語の勉強の大切さをスピーチした。昨日はどちらかと言えば力の入ったスピーチだったが、今日は意気込む事が出来なかった。英語の先生の影響かも知れない。生徒の意欲が足りないように思えた。でも、仕方ない。伝えられる事は伝えた。

いつもなら走り始めて何時間も経過する時間だったが、俺は米ドルのトレベラーズチェック(T/C)をルーブルの現金に換金する必要があったので、リタにどこの銀行へ行ったらいいか聞くと、事務所の女性に一緒に行ってくるよう指示してくれた。

自転車を幼稚園(兼リタの事務所)の建物の2階から降ろして、リタ達に別れを告げる。リタは、また来て下さいと言ってくれた。社交辞令でも何でもいい。俺はその言葉をそのまま受け止めたかった。でも現実的に、また来れたら良いが、その可能性は非常に低いだろう。


銀行はセバーバンク(Сбербанк России)。緑の看板の銀行だった。俺のT/C を換金できる銀行をリタが事前に調べてくれたのか、既に知っていたのか、この銀行がロシアを代表する銀行なので確実だったためか、事務員の女性は何も躊躇わずにこの銀行を案内してくれた。

その女性は、最初面倒くさいな、という顔をしていたが、いざ銀行に来ると親切に銀行員と取り合ってくれた。一人で来たらもっと大変だったと思う。換金できて、その女性と別れる。銀行から西に向って進めばM60 の幹線道路に出れたが、俺はレーニンの彫像写真を撮りたくて、昨日アリーナと一緒に来た町の中央に戻った。俺はレーニンの事はよく知らない。興味が無かったわけでは無いが、ソビエト共産党の最初の指導者というだけで、共産主義に興味ない俺にはどうでも良かった。只、ソビエト=レーニンという式だけはあったので、いつか写真に収めたかったのだ。


写真を一枚撮って、M60 のある町の西に向う。そしてその町の中心から延びた道とM60 が交差する所にはバス停があった。そしてM60 を北上すると、直ぐにリタの夫、コンスタンティンが勤める発電所が見えた。

(左上:一昨晩、リタに会えたバス停) (右上:コンスタンティンが勤める発電所、30周年記念のビルボード)


そして直ぐに警察の検問があった。俺は初めて呼び止められた。ロシア語で何かを言われても困るので、俺は直ぐにパスポートを出した。すると特に何かを探している様子も無く、俺のロシアのビザを確認するわけでもなく、直ぐに行きなさい、という感じだったので、その場を後にした。車を陸送するドライバ達は、皆道路脇に車を止めて、何かの順番を待っているようだった。

(右上:ロシアの各地に、こんな道路用のアスファルトを用意する工場が点在する)


道路は以前と何も変わらない。良い区間もあれば、悪い区間もある。そして、午後には雨に当たった。でも、雨はそれ程長い事続かなかった。そして極東地方(プリモルスキー・クライ、Приморский край)を抜けて、次のハバロフスク地方(Хабаровск
край)に入る。

雨が降ると寒い。風は止むが気温が一気に下がってしまう。レインギアを付けている時は気にならないが、脱ぐとやはり左膝が痛い。気温の下がった為であろう。





道を進み、途中、線路の陸橋を渡ったのだが、新しい陸橋は作りかけで、随分野ざらしにされているようだった。千葉県佐倉市在住の小川さんの言葉を思い出す。一年や二年であちこちの道路が修復される事はないだろうとの事だった。


ビキンの町に近づくと晴れ間が見えるようになった。そして町の南には軍隊の基地があり、塀は高く、閉ざされた門には兵隊が立っていた。旅行者が基地の周りにいるのは不自然と思われて不思議ではないので、脇目もくれず通り過ぎる。

そして道の北側にカフェと思われる店と広場を見つけるが、雰囲気が良くない。広場はまるで屋外劇場のようになっていたが、何か変なので通り過ぎる。そして中学生位の男子3人が歩いていたので、テントを張れる場所を聞くと、最初は何か教えてくれそうだったが、タクシーが後ろから近付いているのに気付くと、タクシーを止めて何か質問をした後、タクシーに乗り込んでどこかへ行ってしまった。こんな田舎町にタクシーが走っていて、そしてお金も持ってないであろう中学生がタクシーに乗って行ってしまった。不思議な光景だった。

お陰で、中学生からは何も聞けず、俺は先に進んだ。すると、道の東側に、ビキン・トランスポーテーションと読めそうな会社の看板を見つける。もしかしたら、アメリカのトラック輸送会社のBEKIN と何か関係があるのだろか。でも綴りが違う。只の偶然か。

M60 の西側の離れた場所に運動場が見えたのでそこの行ってみたが、具合が良くない。まだ明るかったのと、余りにも人目に付きやすい場所だったので諦めて他を当たることにした。

しかし腹も空いて来たのでM60 に戻って、店を見つけたので、そこで果物やヨーグルトやスナックを買う。そして支払う段階で、ビニールの袋は必要かと聞かれたので欲しいと伝えると、料金が数カペイカ(カペイカはルーブルの百分の一)上がった。この店では買い物の袋の値段も支払う必要があった。

そして、俺は道の西側にあった学校と思われる建物の近くに行った。もしかしたらテントを張っても大丈夫そうな所があるのでは、と思ったがフェンスで囲まれていた。学校の敷地に入って、そこに居た老人に話しかけてみると、その老人は建物の中に入っていってしまった。すると老婦人が現れ話しかけると、何も聞かないうちに、何処かへ行きなさいという仕草でフェンスの外に追い払われてしまった。

学校から自転車を押して歩きながらテントを張る場所を探していると、消防署の前で煙草を吸っている男の人数人が見えた。俺は通り過ぎようと思ったが、彼らは俺の事をじっと、見ているのでチャンスと思って話しかけた。英語は誰も分からなかった。でも、俺はテントの真似をすると、ロシア語でテントの事を「パラッカ」と言う事が分かった。そして、パラッカを消防署の後ろの空き地に張っても良いかと聞くと、構わないという感じだったので、裏に回って人目に付きそうに無い場所を選んで、そこのテントを張ることにした。

でも、まだ明るいので、自転車をそのままにして、ロシア語の会話集を持って消防署の職員がいるところへ戻った。そして、色々な話をしていると、英語の分かる若い職員、アレクセイが現れた。アレクセイは、俺に自転車を消防署の敷地の中に入れて、そこでテントを張ったら良いと言ってくれた。俺は直ぐに言われたとおりにした。そして、建物の裏にテントを直ぐに張った。そして、さっき店で買った食べ物を夕食とした。

その後、アレクセイは消防署の中を案内してくれた。消防車のタイヤは特別に大きく、悪路でも突き進める車両だと物語っている。タイヤには空気量を調整する機構まで付いていて、軍事車両に近い装備だった。

そしてそれらのトラックの前で、署長を含めて皆で記念写真を撮った。俺はこんな歓迎を受けるとは思ってなかったので、嬉しくて紙を一枚貰って折り紙で鶴を折った。そして、その羽の上には英語で、「皆さんの健康と安全を祈ります」と書いて署長に渡した。署長は英語が分からなかったので、アレクセイが訳すと、署長は喜んでくれた。健康第一、安全第一はどこでも同じだった。


そして職員と一緒に建物の中の待合室でお茶を頂き始めると、アレクセイは署長から言われ、俺を建物の中で寝るようにと、体力のトレーニングルームを案内してくれた。折り紙の一羽の鶴が俺を幸運を与えてくれた。しかし、どうしてこんなに物事がうまく運ぶのか。俺はラッキーなのか、何なんだろう。

直ぐに外に張ったテントを片付けて、俺は言われるようにトレーニングルームのマットに寝袋を敷いた。



アレクセイはどこかへ行ってしまったかと思ったら、さっき撮った写真をプリントして持って来てくれた。恐らく消防署にはカラーのプリンタが無かったので、自宅かどこかへ戻ってプリントしてくれたのだと思った。俺にとってはカラーのプリントはそれ程価値があるものとは思えなかったが、恐らく彼らにとっては大変貴重な物だと感じた。
(追記:俺はこの時、このプリントが明日どんな結果を及ぼすか知る余地も無かった。)

職員は遅くまでゲームを講じたり談話していたが、俺は先に休ませて貰った。

0 件のコメント: