2008年5月07日 (11日目) M60、ヴャーゼムスキー (Вя́земский)



夕べもまたラッキーにも屋根の下に寝る事が出来た。日本やアメリカだったら消防署内に泊めて貰えるとは思えないが、ビキンという町の消防署の建物の中の一室で寝袋に入って寝た。

朝は6時の消防署内のアナウンスで目が覚める。荷物を片付けて7時くらいに消防署を出る。紅茶でも頂いてから出発したかったので、英語が分かるアレクサンダーに聞いてみたが何故か良い返事ではない。俺は直ぐに欲張ってはいけないと思い直し、礼を言って建物の外に出た。そして消防署の前にてまた写真を撮った。

消防署の前の道を東に進み、直ぐにM60 の幹線道路に出た。自転車の水のボトルの中身は少なくなっていて、道路脇に水道があったのを思い出して、本来は北に向わないといけないが、少し南に戻って水をボトルに入れてから、北に向けて走った。そして、消防署の前の道を横切る時に、その方向を見ると、職員が俺が北に向うのを見守っていたかのように、立って俺の方を見ていた。俺は大きく手を振った。何とも優しい人達なのか。緊急事態が起こらない限り、彼らは待機する事が仕事なので時間は沢山ある。でも、見知らぬ旅行者の俺をを見送ってくれた事がとても嬉しかった。彼らも手を振って答えてくれた。小さな友情のように思えた。



ビキンの町の北の外れにはカフェがあった。そして大型トラックが止まっていた。夜をその駐車場で明かしたのであろう。「中野倉庫運輸」と日本の会社名を書いたトレーラーもあった。



ウラジオストックを発ってから、左足の膝は朝の早い時間は調子よかった。でも、時間が経つにつれ痛むようになっていた。夕べもルチェゴルスクのリタから貰った軟膏を塗ったが、今日も同じだ。

道路は相変わらずだった。でも綺麗に舗装されている区間もあった。朝は空に雲が多く無かったが、午後には雨に当たる。そして午後3時半くらいには、一時的な大雨に当たり、道路脇にあった広い駐車場で雨宿りをする。駐車場には何もないが、その回りには比較的大きな木があったので、その下に入って雨宿りする。


その駐車場には50歳くらいの女性が野菜を売っていた。でも、その女性も大雨の為に木の下に逃げ込んでいた。そして夕立のような大雨は15分くらいで小雨になった。そして俺はその女性が魔法瓶のような物を持っていたのを先に見ていたので、近付いてお茶かコーヒーでも売っているものだと思って、「チャイ(紅茶)?」と聞くとそうだと言った。チャイが幾らか分からないので、持っていたコインを手のひらで広げると、その女性は7ルーブル分のコインを取った。

こんな寒い日、それも雨の中で野菜やお茶を売るのは面白くないと思う。その女性と俺はこの瞬間、お互いに大変だろうと思ったのだろう。小さなコップのお茶は直ぐに飲み干した。俺はお替りが欲しく、カップを突き出し手の平にもう一度小銭を乗せて出した。するとその女性は、首を横に振ってお金は要らないという。そのままお湯を継ぎ足してくれた。お礼を言って、俺は2杯目を直ぐにまた飲み干した。たった7ルーブルの事だったが、親切にして貰ったような気がして俺はとても嬉しかった。



雨が上がると晴れ間が見えた。ある村に入った時に、子供が俺の後を追いかけて来た。俺は少年達の名前を聞いたがよく分からない。仕方ないので手帳に名前を書いてもらった。そして、後から集まってきた4人を写真に収める。


昨晩のビキンの消防署に続いて、今晩はヴャーゼムスキーという町の消防署に泊めて貰える可能性があった。ビキンのアレクサンダーは、ヴャーゼムスキーの町の消防署に友人が勤めているそうで、その友人に連絡をしておくとの事だった。

町の名前の入った立派なサインが見えて俺はヴャーゼムスキーの町に入った。このサインの道端でも中年の女性が野菜を売っていた。


M60 の幹線道路は北に延びている。でも、ヴャーゼムスキーの町は、どうやら道の西側に延びているような気がした。そして、一番大きいと思われる道を西に進んだ。幸運なのか神の導きなのか、赤い屋根の建物が現れる。近付くとそれが消防署だと直ぐに分かった。大きな町では無いが、全く無駄なく消防署に着いてしまった。

アレクサンダーの友人が誰か分からない。でも、俺は建物の外に立っていた署員に、無理やり英語で、自分は日本人で今晩此処に泊めて欲しい、と伝えたが全く理解してもらえなかった。返事は、「何でもいいから何処かへ行きなさい」、といような返事だった。俺が今日此処に来る事が伝わってない。二人目の署員にも同じだった。

俺はこの町でテントを張らないといけないのか、と思った。でも、テントでも良かった。どこか野原ではない所でテントが張れればそれで良かった。そして、消防署の脇の駐車場に入るところで、この中に入ってまた誰かに聞いてみようかと躊躇していると、昨晩、アレクサンダーがプリントしてくれた写真の事を思い出した。

近くに居た別の人にそれを見せて話すと、「あなたは一体誰?」、というような質問が返って来た。でも俺の英語も当然通じない。昨晩アレクサンダーからプリントを貰った時は嬉しかったが、荷物になってしまうので有難迷惑だった。でも、この瞬間は、わざわざプリントする為に自宅かどこかへ行って来てくれた事に感謝せずには居られなかった。

そうこうしているうちに、何とアレクサンダーの友人、アンドレが現れたのだった。そしてアンドレは、テントを張る事に付いては問題ないから、とりあえず建物の中に入って下さい、と案内してくれた。何とも嬉しい瞬間だった事か。

俺は町の地図も無いのに消防署を見つける事が出来た。しかし、誰も俺の事を隣町のビキンから知らされている感じではなかったので、途方に暮れる所だった。しかし粘った甲斐があったのか、そういう運命なのか、ビキンのアレクサンダーの友人であるアンドレと会えた。

これで最低でもテントはフェンスの中に張れるだろうと思った。そして、あわよくば屋根の下に寝られたらと願った。アンドレは、建物の中で消防車が止めてある場所に案内してくれて、俺はそこに自転車を置いた。ビキンの消防署よりも職員も多く、建物も大きかった。そしてそこには三菱製の消防車があった。新潟県加茂市からの贈り物だそうだ。

(左上:左ハンドルの消防車) (右上:左がキャプテン、右がアンドレ)

暫くして責任者のキャプテンが登場する。英語が分からないので、アンドレが通訳してくれて、キャプテンは俺が健康診断書を持ってきたか、と聞いてきた。アンドレは通訳しながら上司に呆れて苦笑いをしていた。そんなものを持っている訳が無く、無いと言うと、何も返事が無い。

でも俺はここで出て行け、と言われても困るので、とっさにパスポートを出して、ウスリースクの警察でロシアでの滞在が始まった書類を見せた。それがどれだけの意味があるか俺には分からないが、俺には他に提示する書類が無かった。

でも、キャプテンは他に何も要求せずに、俺が署内に泊まる事を許可してくれた。後でアンドレは、キャプテンは軍隊上がりなので特に煩い、と笑いながら言っていた。

そして、アンドレは俺が今日寝る場所を案内してくれた。司令室のような部屋で、無線と電話が沢山並んでいる机があって、そこのソファのようなものが二つあり、その一つを使って下さい、との事だった。

そして、待合室では数人が夕食の準備をしていた。食事の用意は若い人の役割、と思ったら、年配の人も手伝っていた。そして、その年配の人の作ったプローフという料理を一緒に頂いた。(後で、モスクワ在住のいちのへさんに教えて貰ったのだが、それはウズベキスタンの料理だそうだ)



4、5人の座れるテーブルで、俺は料理と一緒に紅茶も頂けたので嬉しかった。食事の後、プローフを作ってくれた人は、外に来て自分の乗用車を見て欲しいとの事だった。そして、トヨタ社製のARDES という車には温度計の表示があるのだが、外気温を表示する方法が分からない、と言う。俺はマニュアルがあるか、と聞いたが無いとの事で、色々試したが外気温の表示には切り替わらなかった。ヘルプできずに残念だった。

アンドレと同じ位の歳の職員と俺は2階の事務所に行き、コンピュータに保存されたビデオを見せて貰った。アンドレの友人でノボシビルスクに住む消防士から貰ったビデオとの事で、消火の記録ビデオだった。

アンドレと一緒に2階に行った職員は、俺にヘルメットをプレゼントしてくれると言う。俺が自転車に乗る時にヘルメットを被ってないので、これを被ったら安全だと気遣ってくれた。しかし、消防士用のヘルメットは頑丈過ぎる。重い。これを被って一日自転車に乗ったら、首が疲れてしまうほどの重さだ。御礼を言って断ると、それじゃあこの懐中電灯をあげる、と言う。しかし、それも大きくて重すぎるので、丁寧に断った。



俺は様々な人から親切にされているのが不思議でたまらなかった。どうして人はこんなに親切なのか。不思議な事ばかりが起こる。


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