2008年5月04日 (8日目) M60、ルチェゴルスク(Лучегорск)、リタ宅


昨晩はあまりよく眠れなかった。テントから少し離れた場所で何人かが長い事、話をしていたからだ。そして話が終わると雨に変わった。恐らく雨になったので話が終わったのだろう。

小雨が降る朝だった。朝の雨は嫌いだ。大嫌いだ。気分が滅入る。例えそれが必ず青空に変わると分かっていても。しかし、世の中とは不思議なもので、雨が好きだと言う人がいる。俺には理解できない。

寝袋に暫く入っていたが起きてみると、靴がテントの外にある。失敗した。何年ぶりかのキャンプだったので、基本的なことを忘れてしまっていた。濡れた靴を履く気にはなれない。しかし、これが乾くのを待つわけにはいかない。仕方なく濡れた靴を履いてテントの片づけを始める。

テントの近くには昨晩、英語で色々話したアレクセイの車があり、その中から彼が出てきた。車の中で寝たのかもしれない。アレクセイは、昨晩のように建物の中に案内してくれて、温かい紅茶を入れてくれた。そしてアレクセイは、隣の部屋で寝ていたキャプテンのような人を起こした。起きてきたキャプテンからはビニールの小さな袋を貰った。おれはそのビニールに靴下を履いた足を入れて、その足で靴を履いた。ビニールの中の足は蒸れるが、濡れるよりもましだ。

幸運にも自転車を建物の中に入れさせて貰ったので、他の物が濡れてないのが救いだった。もし外に置いていたら、間違いなく革のサドルは雨を沢山含んでいた事だろう。

寝袋、(空気が入る)マットレス、テント、グランドシート、テントでキャンプする装備一式を片付ける。これには1時間掛かった。アレクサンダーは俺が片付けている最中に話しかけてきて、これからどこかへ出かけると言う。別れる前に、彼は名刺サイズのカレンダーをくれた。友情の証なので嬉しかった。これだったら最後まで持っていける。

片づけが終わって、建物の中でお湯を貰ってカップヌードルを作りたかったが、キャプテンのような人は英語が分からない。好きにすれば良い、というような事を言ったので、お湯を貰ってカップヌードルを作って食べた。その時に、ロシア語で何かを言っていたが何か分からなかった。申し訳なかった。俺は本当にロシア語を勉強しないで旅立ってしまった事を後悔した。

朝8時くらいになると職員と思われる数人が現れた。建物の横で彼らとも写真を一緒に撮った。小雨は霧雨に変わっていた。

(左上:空港の職員)(右上:コチキと呼ばれる草木が湿地帯に広がる)

今回のサイクリングで走り出してまだ1週間も経ってないが、二日ほど前から左膝が少し痛かった。気温が下がると顕著だ。でも、温かくなると気にならなくなるので、時期に良くなるだろう。

しかし、険しい登り坂が続くと弱音を吐きたくなる。膝を理由に自転車に乗るのを止めたい。家に帰って温かい部屋でゆっくりしたい。ジャンクフードでも何でも良いから自由に食べたい。フレンチフライを食べたい。ポテトチップを食べたい。普段、避けている食べ物が食べたくなる。炭酸飲料も普段は飲まないが、こんな時には不思議に飲みたくなるのだった。体が Crave しているようだった。

しかしそんな弱気は峠を越して下り坂になると一気に吹っ飛んだ。そして、また登り坂。思いは当に走馬灯のようだった。そんな思いとは関係なく天気は味方だった。朝の小雨は止み、晴れ間が時々見れた。冷たい風だが、雨よりも100倍良い。

道路の状態は時々酷く、俺は時には道の真ん中を走った。それとは反対に、今までの橋はどれも古いものが多かったが、真新しい橋もあった。実に極端だった。




ある小さな村で、老人が家の前で立っているのが見えた。老人に井戸から水を貰いたいと言うと、老人は水のボトルを家の中に持って行き、冷たい水を入れてきてくれた。何よりも美味しく感じた。老人は家の前のベンチに腰を下ろすので、俺も並んで座った。俺は水のお礼に、持っていたアーモンドを袋から出して渡した。従兄弟の留美ちゃんが東京駅に会いに来てくれた時に持って来てくれたものだった。一流シェフが作った入手が難しい代物だと言っていた。

老人は最初は心配そうだったが、表情は美味しい、という顔に変わった。何かロシア語で言っていたが理解できなかった。すると老人は、また家に戻り今度は緑色と赤色に塗られたゆで卵を食べなさいと持って来てくれた。復活祭(イースター祭)の卵だった。それはウラジオストックのエフジェニアの家で頂いたゆで卵と同じようなものだった。

エフジェニアが教えてくれたように、卵の先がお互いがぶつかる様に持って、どちらか割れてへこんでしまった方が負け、という仕草をしたら、老人はうなずいた。老人の写真を撮って、礼を言って別れる。

老人と別れると道端にまた別の井戸を見つけた。でも、ワイヤの先にはバケツが無く、俺は水の入っていたプラスティックのボトルをワイヤの先に付けて垂らしてみた。しかしやはり水は殆ど汲めなかった。プラスティックのボトルは浮いてしまって水を汲めない。でも、さっきの老人から頂いた水がまだあるので、先に進む。

(老人は梅のようなピンクの花をサクラと言っていた)



(追記:この日の晩に泊めて貰う家へは、いつ、どの段階で連絡していたのか忘れてしまった。)





ウラジオストックのエフジェニアの友人リタが住む町に近づいている気はしたが、標識が無い。日本やアメリカのように次の町への距離が表示されてない。時には何キロと表示されているが、その数は多くは無かった。

リタが住む町の名前の綴りは分かるが、読めない。当然発音できない。でも、暫く走るとその町の大きなサインがあった。町に入った。どこかでリタに電話する必要がある。バス停から電話して欲しいとの事だったので、バス停を探すが、町の南のバス停の回りには民家が少なかったので、通り過ぎる。

そして、工事中の道路を迂回して、町に近づくと自動車の修理工場とカフェが並んだところの前にバス停を見つける。町の中心ではなかったが、これよりも進んでまた戻るよりも良いだろうと思ってリタの自宅に電話する。するとリタの主人が電話に出て、何か言っているが理解できなかった。でも何となくリタは家を出てバス停で待ってます、というような感じがしたので、それを英語で伝えると、「Yes」との返事が返ってきた。

でも、俺が立っていたバス停には人影が無い。近くを歩いていた人を止めて、バス停がこの先にあるかと聞くと、1キロ程先にあるとの事だった。自転車に乗って先に進む。

しかし、バス停もリタは見つからない。仕方ないのでウラジオストックのエフジェニアに電話する。すると彼女は、その辺の人に聞いてみて欲しい、との事だった。無理も無い。彼女には俺がどこに居るのか見当が付かない。

更に先に進み、二人の男性が歩いているのが見えたの呼び止めて、リタとその人たちとで電話で話して欲しかったので俺の携帯を渡すと、何故か電話できなくなってしまった。携帯電話の残高がなくなってしまったのかも知れない。でも、その二人のうちの一人はその人の携帯で、リタに電話してくれたが、電話は応対がなかったようだった。しかし、間髪入れずに俺の携帯が鳴る。エフジェニアからだった。その男性に電話を渡すと、俺の居場所が伝わったようで、町の中心のバス停は更に先だった。街灯も無い暗闇で、今にも雨が降りそうで、何とも心細い状況だったが、その男性達に会えた事で俺は救われた。

そして集合住宅の中にある広場に出る。暗闇でよく分からないが大き目のバス停のようだった。すると二人の婦人が俺に向って歩いてくるのが分かった。俺は英語で「リタですか?」と聞くと、その内の一人が「Yes」と答えた。会えてよかった。そしてもう一人の婦人は日本語で「こんばんは」と挨拶してくれた。このロシアの田舎で日本語を耳にするとは思ってもいなかったので、少し驚いたが、俺はそれよりもリタに会えたのが嬉しく、日本語で挨拶した婦人には感心する余裕が無かった。その婦人は挨拶だけに来たようで、直ぐに家路に就いた様だった。

リタと俺は歩きだして、リタは幼稚園の建物に案内してくれた。そして、その自転車を持ち上げて2階に上がる。部屋に入るとそこは当に幼稚園の教室だった。リタにトイレの場所を聞いて、俺は手と顔を洗った。俺にはそれだけで生き返るようだった。

暫くするとリタの主人、コンスタンティンが現れる。でも彼は、店に行くとの事で直ぐに出かけてしまった。後になって分かったのだが、コンスタンティンは俺の為に食べ物を買ってきてくれたのだった。

リタからは名刺を頂く。ロシア語の名刺だが、TV 局向けの放送番組のプロダクションを経営しているとの事だった。さすがにエフジェニアの友人だ。俺は最初、幼稚園の先生かと思ったが、教室の一角がリタの事務所のようで、コンピュータが何台と置かれていて、ビデオの編集が出来るようになっていた。俺はその中の一台のPCを使わせてもらってメールが届いていることを確認できた。でも、日本語のフォントが入ってないので、内容は読めない。

その後リタは、今晩泊まるのはこの教室の中でも我々の家でも構いません、と聞いてきた。俺はもし此処に泊まったら俺は一人になるのか、と聞くとそのとおりだと言う。一人で寝るのは気楽で良いが、招かれているのかも知れないと思って、リタの家に泊めて貰う事にした。そうすれば、色々な話を出来るチャンスがあると思った。

コンスタンティンの車、右ハンドルのトヨタ社のカローラのステーションワゴンに3人が乗って、彼らの家に向う。家には娘さんのアリーナが居た。全員が英語で話が出来た。紅茶を入れて貰い、その後で俺はシャワーも浴びさせてもらった。二日前に入ったばかりだったが、もの凄くリフレッシュされた。

家の中には大きなリビングがあって、そこに寝袋を広げて寝る事になった。そしてネットワークケーブルがあって、それに接続すればインターネットが出来るとの事だったので、俺は自分のラップトップを使って、日本語のメールを読む事が出来、グレンドーラの小山さんから届いていたメールに返信する事が出来た。

ロシアでのサイクリングを始めて1週間が過ぎる。何も問題は無い。全てがうまく収まっている。と言うよりも、何から何まで幸運が続くのが俺には不思議だった。

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