2008年5月02日 (6日目) M60、キーロフスキー、セルゲイ宅




朝がいつの間にか訪れていた。昨日まで早く目が覚めてしまっていたのに、今日は起きてみたら、ネリさんも彼氏も、ネリさんの両親も、全員が朝食を済ませていた。慌てて準備すると、ネリさんの母親が朝食を準備してくれた。

朝食が終わりソファーに腰掛けると、ネリさんの横に居た猫が俺に近づいて来て、俺の膝に乗ってきた。可愛いものだ。俺はロシアの猫にも好かれたようだ。

出発の準備をしていると、ネリさんは緑色の箱を持って行って、と差し出してくる。食べ物が入っているとこのとで、ありがたく頂いた。

ネリさんの家を発ったのは朝8時半くらいだった。夕べと同じようにネリさんの父親の小さなトラックの荷台に自転車を乗せてもらい、昨日拾って貰った場所まで送ってもらった。


今日はウラジオストックのエフジェニアの友人、セルゲイの自宅に泊めてもらう事になった。(はっきりと思い出せないが、恐らくネリさん宅で食事をしている際に、エフジェニアに書いてもらったセルゲイの電話にネリさんが電話してくれて、泊まれる事になったのだと思う。)

ネリさんと別れて1時間ほど走ると、ネリさんの母親から電話が鳴る。俺はネリさんの家に忘れ物をしてしまったのだった。何か袋に入っている、と言っているが思い出せない。ネリさんの父親が車で持っていくので待っていて欲しいとの事だった。

フェンスに囲まれた場所の前で待つ。そのフェンス内の敷地は資材置き場のようで番犬が居た。俺がいるのに気付いて吠えている。番人のような人が出てきて、話をするが何も通じない。でも、日本から来た、と言うことだけは伝わったようで、犬が吠えてはいたが、俺がその場で待つことに対して何も言わずに、戻っていった。

15分ほど待っただろうか。ネリさんの父親が現れる。黒いビニール袋を持ってきてくれた。それを見て俺はやっと思い出した。夕べ店によってもらって買い物をした時のものだった。俺は、ネリさんの家に入った時に、キッチンのドア近くにそれを置いて、その後、まったく気付かなかったのだった。ネリさんの父親にもう一度ハグして分かれた。その中身の物も、金額的にも大したこと無かったが、俺はこんな親切が本当に嬉しかった。俺はネリさん家族に本当に歓迎されていたと感じたのだった。


ネリさんの父親は、この先の交差点を左に曲がるように、と教えてくれたので、俺はそのとおりに左(北)に向って進む。少し進むと舗装された道は終わった。砂利道になってしまった。

プーチンがまだ大統領だった2004年2月、大統領はチタとハバロフスク間の高速道路の開通を宣言した。これでモスクワからウラジオストックまで高速道路が貫通したのだった。実際には高速道路とは名ばかりで、シベリアの中部と、このチタとハバロフスク間のには舗装されてない砂利道があるとの事だった。

チタとハバロフスク間の現地の住民は、宣言の一年前からその区間の新しい道路を使用していたことを大統領は知らず、その発表は不機嫌なものだったらしい。

実際にその区間を乗用車で2007年に通過した千葉県佐倉市在住の小川さんの話では、チタとハバロフスク間の2300キロは7割方舗装されてないとの事だった。小川さんからは冗談のようにマスクを持参した方が良いかも知れないとアドバイスを受けていた。小川さんは加えて、ウラジオストックとハバロフスク間にも舗装されて無い区間が少しある、との事だった。

覚悟は出来ていた。しかし、実際に砂利道が見えた時、俺の希望は無残に消えた。進むしかない。小川さんが通過して一年も経過しているので状況は良くなっているかと思ったが甘かった。もしかしたら近くに舗装された道路があるのではないか、とも思ったがトラックが行き交うのを見ると、この道が幹線のようだった。

砂利道の道路だけでも嫌なのに、午後は小雨がずっと続いた。雨の中のサイクリングは何も面白く無い。しかし、雨宿りできる建物や場所があるわけでもなく、低い雲は晴れそうに無い。幸いにもレインジャケットだけでも走れる程の小雨だったので助かった。

午後3時くらいだっただろうか。一台の右ハンドルのトヨタ車が路肩に止まった。そして、中年の女性が降りてくる。俺に何か用があるようだが、見覚えの無い婦人だ。英語は通じなかったが、話が始まると、何とウラジオストックのイフジェニアの友人だと分かった。

彼女は車からサーモを持ってきてくれて、温かい紅茶を飲ませてくれた。サイクリングとしては面白くない雨の中の走行だったので、声を掛けてもらった上に、紅茶やバナナも頂いて俺は嬉しかった。そして俺は果物を無性に食べたかったので、頂いたバナナは特に美味しかった。

今晩泊めて貰う予定になっているセルゲイの奥さんなのか、姉妹なのか分からない。でも、キーロフスキーの町に入ったら最初のАЗС(ガソリンステーション)からセルゲイに電話するように言われた。

その女性と別れると雨は強くなった。レインパンツを履いて、跳ねる水を除ける為に靴にはショッピングバッグを履いた。雨の中、道は相変わらずだった。登ったり下ったりの連続。いつかこんな道を好きになる時が来るのだろうかと思った。

やっとの思いでキーロフスキーの町の南に着いた。АЗСの屋根の下に入って雨に濡れないようにしてからセルゲイに電話した。しかし、セルゲイは俺の英語を全く理解していなかった。そしてセルゲイは電話を切ってしまった。俺はどうしたものかと思った。果たして、先の女性が言ったように俺がキーロフスキーの町の南から電話する事を知っていたのだろうか。しかし、俺はその場を立ちたくなかった。雨も止みそうに無い。

すると10分もすると一台のトヨタのSUV が現れて、男の人が出てきた。セルゲイだった。俺は会えて嬉しかった。もし会えなかったら、この雨の中、どこかテントを張る場所を探さないといけなかった。でも、これで濡れずに寝る場所が確保できた。

セルゲイは、自転車を車の後ろに入れよう、というので二人で押し込んだ。本当ならセルゲイの車の後を走って行っても良かったが、雨も降っているし、遠いかも知れないので、セルゲイの思うようにしてもらった。


セルゲイの家は、町の中心から東に延びた道を進み、丘の上にあった。敷地は大きく、家も大きい。家の中は外見とは違って随分と内装にお金を掛けて綺麗になっていた。俺はさっき会った女性が後で来るのだろうと思っていたがそんな気配は無い。セルゲイが一人でこの大きな家に住んでいるのかも知れない。

セルゲイと俺は一緒に夕食の準備をした。冷蔵庫にあった野菜や等を使って素早く夕食を作ってくれた。そして二人で食べた。夕べのネリさんの家でもそうだったが、トマトとキュウリのサラダが特に美味しかった。

夕食の後、セルゲイは俺にシャワーを浴びたいかと聞いてくれた。俺は願ってましたとばかりに、浴びたいと答える。シャワーの水は、家の外にある水のタンクからバケツに汲んで来た。そして調理用のストーブの上にバケツを置いてお湯を沸かした。俺は温まったバケツを持ってバスルームに行ってシャワーを浴びた。とても気持ちよかった。

セルゲイは内装の工事を含め、多くの工事を自分で施したようで、色んな話をした。実際には英語が通じなかったので、持っているロシア語の会話集の後ろにある簡単な辞典を使って話をした。

特にセルゲイは、アメリカや日本での燃料(エネルギー)の値段に興味があったようで、プロパン、ケロセン(灯油)、ソーラーパネルなどの事を質問してきた。ロシアでの生活は燃料代が相当の割合を占めるはずなので、セルゲイはそんな事に興味があったのだろう。何時の間にか夜11時くらいになってしまったので、寝る事にした。

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