2008年5月01日 (5日目) M60、スパスク・ダルニー(Спасск-Дальний)、ネリ宅



朝はいつものように早く目が覚めてしまうが、7時くらいになるまで横になっていた。廣田先生には朝食を準備して頂いた。

別れの時間が来た。夕べから鼻水がでるようになってしまい、昨晩先生から頂いた風邪薬を飲んだのだったが、先生は心配してその風邪薬の入った一瓶を持って行きなさいと下さった。そして、果物、パン、ジャム、それから地球の歩き方のロシア版を二冊持っているとの事でその一冊も頂いた。俺はロシアの事を殆ど知らずに旅たってしまったので、昨晩俺が先生のその本を貪る様に読んでいたのに先生は気付いたのかも知れない。本は重いが、モスクワの赤の広場以外の観光地を知らない俺にとっては有益なものになると思った。


先生のアパートを出たのが8時半くらいだった。外の気温は8℃。快適な気温ではない。どちらかと言えば寒い。しかし、走り出したら直ぐに汗をかいた。

今日は130キロ走らないといけない。廣田先生の日本語のクラスの生徒のネリさんの自宅に泊まる予定になっていて、ネリさんが住むスパスクまでの距離だ。このサイクリングでウラジオストックを発ってから、一日の走行距離としては最長になる。

午前中は比較的平坦な道が続いた。それから丘陵地帯が続いた。途中、ある村へ入る前に、道路の右側にフォード社製のエアロスターという名のバンが停まっていた。そして左側の前輪のハブから煙が上がっている。タイヤは既に取り外されており、ブレーキやサスペンションが見える。通り過ぎようと思ったが、思い直して戻った。

よく見てみるとアクスルベアリングが壊れている。テーパーローラーを固定するハウジングが壊れていて、どうしようもない。ローラーが欠落していてとても車重を支えられる状態ではない。新品のベアリングが必要だ。でも運転手は家族と思われる同乗者から、どうにかして直せないかとの期待を背負っている。その運転手は数少ない工具を出してきて、直そうとする。アクスルを外せば、その部分を修理工場に持って行って直せる。只、そんな経験はなさそうだ。コッターピンを外さないとアクスルのボルトを外せないことを知らないようだ。コッターピンの事を教えてやると、運転手はボルトを緩めた。しかし、ここまでだ。ディスクブレーキのキャリパーを外さない限り、アクスルの部分だけを取り外すことは不可能だ。でもアーレンキーが必要だが無い。お手上げだ。工具があれば俺には手伝うことが出来たが、何も出来ない。運転手の娘さんと思われる若い女性は英語を少し話したが、会話にはならなかった。仕方なくその場を去る。

後味の悪いものだった。俺は常に取り残される側に居るのだが、今回は彼らを残して先に進まないといけない。仕方ない。

次の村に入ると、わき道に井戸が見えた。井戸に近づくと、それは使われてないものだった。近所の男の人に、どこに水があるか聞くと、待っていろ、とのこと。するとその男性は大きな水のボトルを持ってきて、その水を俺の水のボトルに注いでくれた。スパシーバと言って別れる。ありがたいことだった。

午後、自転車に乗って走っていると、音楽が聞こえてきた。民家が見えるが、そんな遠くから聞こえてくるような音ではなかった。

日本の山奥に行くと、惨事に備えて屋外のスピーカーが備えられているところがあり、それと同じかと一瞬思ったが、とてもそんな風には思えなかった。しかし、その音楽が止まない。何か変だ。自転車を停めてみてやっと分かった。俺の携帯電話の呼び鈴が音楽だったのだ。慌てて、携帯をジャケットから取り出すと、呼び鈴は既に鳴り止んでいた。恐らくロスの恵子から電話であったのだろう。仕方なく走り出すと、5分くらいでもう一度携帯が鳴った。慌てて自転車を止めて電話に出ると恵子だった。

特に問題はないが、次男のクリスの宿題の為に、家の隣の主人リックが工作の手伝いに来てくれていると言う。礼をリックに言うと、リックの長女マーニーは毎晩のように日本語を習いに来ているのだという。リックの奥さんのメグはマーニーの弟二人で手一杯のようだとの事だった。ギブ・アンド・テイクだった。

電話で話をしていると、道端に一台のトラックが停まった。日本から輸入された4トンくらいのトラックで、運転手は降りて自分に近づいて来た。何が起ころうとしているのか分からなかったので、電話を切った。

運転手はロシア語でしきりに何かを伝えようとしているが、全く分からない。俺の英語も通じてない。運転手は身振り手振りで色々言っているが、恐らく運転手が今朝M60 の道路を南に向って行った時に、俺が北に向っているのを見て、配達の帰りに北に道を戻るとまた俺を見つけた、と言いたかったのだと思う。停まってくれて嬉しかった。どこまで行くのかと聞くので、モスクワまで行くと言うと、どうして自転車で行くのだと聞いてくる。


俺の目的地はポルトガルだが。この数日の間、何人ものロシア人に行き先を聞かれてポルトガルと答えたが、誰も理解している様子が無い。俺はポルトガルのことを「ポルトガーレ」とロシア語で言うのは分かったが、そう答えても誰もそれは何かも間違いであるような顔をしていた。ところがモスクワと答えると、そうか、それは大変な距離だ、という反応になった。でも、その先のモスクワの先のゲルマンやフランセに行き、ポルトガーレに行く、と言っても、皆が困った顔をしている。だから俺は面倒な「ポルトガーレ」行きを「モスクバ」行きに替えただった。(モスクワではなくモスクバ)

この手の質問の答えにいつも困った。妻の恵子を含め、殆どの人が同じ質問をしてくる。「どうしてそんなことをするのか?」。理由など何も無い。行きたいから行く、ただそれだけだ。

チャレンジだとこの運転手に伝えようとしたが、理解できてない。マラソンやエベレスト登山を例に挙げたが、それとこれは違うだろう、というような返事が帰ってくる。俺は自転車に乗った旅行者だ。旅行者がどうしてチャレンジしなければならないのか。無理も無い。俺は彼の写真を撮った後、分かれる。

そして、暫く走ると、今度はトヨタのSUV が俺の左側にゆっくりと走ってきて近づいて来た。俺は路肩に入って停まると若い運転手も車を停めて、右側の座席から窓越しに英語で、どこへ行くか、どこから来たかと質問をしてきた。先のトラックドライバと違って、英語の会話には問題なかった。俺がモスクワを目指していると伝えると、俺のやっている事は素晴らしいことだと感銘してくれて、幸運を願う、と言ってくれた。そしてレッド・ブルというアメリカのブランドの栄養剤のようなドリンクを下さった。先のトラックの運転手と違って、俺のやっている事を理解してくれたのが俺には嬉しかった。


その後、道は以前のように登り下りが続いた。こんな道は疲れる。しかしペダルを漕がないと大陸の西側には着けない。ペダルを一回転させれば1メートる進むと言い聞かせた。もしその1メートルが正確だとしたら150万以上回転させないと着けない距離だ。気の遠くなるような数字だ。桁数も多すぎる。しかし一度決めたからには進まないと。千里の道も1歩から。一歩一歩、一回転一回転進まないといけない。


ネリさんの家のあるスパスクに近づいたのは午後8時くらいだった。夕闇が迫っていた。町に入る前に警察のチェックポイントを記す看板(ДПС)があった。信号は無かったが町の一番大きな交差点のようで、警官が4、5人立って行き交う車両を止めていた。しかし、その中の二人はレーダーガンを持っていたので、スピード違反の車両も止めていた様だった。一人の背の高い警官が近づいて来たので話を少しした後で写真を撮った。

交差点の南東の角は警察、南西の角にはタイヤを修理する工場があった。看板の文字が読めないが、工場の前に止められて乗用車がジャッキアップされているので、タイヤの交換か修理をしているのだろう。


その後で、俺はネリさんに電話した。するとネリさんはその交差点で30分くらい待って下さい、との事だった。20分くらい待っていると、ネリさんは父親の運転する小型トラックに同乗して現れた。実に人の良さそうな父親だった。俺の自転車をトラックの荷台に乗せて、走り出すと、ネリさんは俺に今晩、家の中に泊まって下さいと言ってくれた。

元々、俺は夕べ泊めて頂いた今朝ウスリースクの廣田先生に、ネリさんの自宅の裏庭にでもテントを張らせて欲しい、とお願いしてあったのだった。そして先生からは、ネリさんの家でテントを張っても良い、と返事を貰っていた。でも、ネリさんは俺を家の中に泊めることを父親から既に承諾を得ていたようだった。

助かった。綺麗な夕焼けで雨は降りそうに無いが、家の中に泊めて貰えるのはとても嬉しかった。でも、この家の中に泊まって下さい、との言葉は俺を歓迎する始まりだったと気付たのは家の中に入ってからだった。

ネリさんの家に向う前に、俺は店によって貰った。廣田先生が教えてくださったロシア語、マガジンだ。店の中のものは全てがカウンターの向こう側だった。ネリさんが手伝ってくれて、俺の欲しい物全てを買うことが出来た。練り歯磨き、使い捨ての髭剃り、ビスケット等を買った。

ネリさんの家はスパスクの中心から少し離れていて一軒家だった。そして、必要な着替えなどをパニアから取り出してネリさんの家に入る。家の車庫の近くには大きなセントバーナード犬が居た。俺は犬に触りたかった。犬は尻尾を大きく振り、ネリさんの父親に抱きつくようにはしゃいでいた。でも、ネリさんの父親は、構わないで欲しい、という感じだったので、俺は犬に愛嬌を振って家に入る。土間があった。そして、鶏の雛がの声が聞こえ、挨拶に出て来てくれたネリさんの母親は、雛の籠に掛けてある毛布を持ち上げて籠の中を見せてくれた。20羽くらい居ただろうか。何れ卵を産む雌鳥になるか、食にされるのであろう。


俺は時間が遅くなってしまったので、皆食事は済んでいるものだと思った。でも、実はネリさんの家族全員が俺の事を待っていてくれたのだった。食卓には沢山の食事が並んでいた。チキンが料理されていたが、肉が嫌いだと伝える必要があった。申し訳なかった。しかし、他に沢山の料理が山盛りになっていたので、俺は沢山頂いた。特に好物のトマトのサラダは美味しかったので沢山頂いた。食卓にはネリさん、ネリさんの両親、ネリさんの彼氏、そして俺。5人での食事は楽しかった。一つだけ和食の調味料があった。チューブに入ったハウス社の黄色い練り辛子だ。これをロシアでは「ワサビ」と呼んでいるそうだ。誰かが訳を間違えたのか、意図的だったのか。

食卓には小さめのコップが置かれていて、ネリさんの父親は俺にビールを飲みたいか、と聞く。今でもそうかもしれないが、その昔、日本の飲み屋や食堂ならどこにでもあったような小ぶりなコップだった。そのコップにビールを半分ほど入れて貰い、乾杯する。俺は一気に飲んだ。俺にはビールの味が分からないが、ひとくち目はとても美味しかった。するとネリさんの父親はもう一杯、もう一杯と沢山注ぐのだったが、3杯目には限界だった。130キロの走行で疲れていたのも理由だろう。ネリさんの母親はアップルパイを召し上がれと勧めてくれた。俺は勧められるように頂いた。これも美味しかった。恐らく全てが手作りの料理で、もしかしたら材料の殆どが裏庭で取れたものだったかもしれない。

ネリさんの母親は、インターネットの接続に問題がある、と言うのでPCを見せてもらった。母親はクレジットカードと同じ大きさのカードを持っていて、それにはログオンの為のID とパスワード、そしてプロバイダへ接続する際の電話番号が記されていた。購入された金額によって接続時間を制限されている前払いのカードのようだった。

PCのモデムは発信するが、先方のモデムが応答してない。ハンドシャイクが始まらないようだった。携帯電話で記された番号に電話するとモデムからは返答がある。しかし回線上の雑音の問題か、それともモデムの設定の問題か。俺はもう少しトラブルシュートしても良かったが、ネリさんの母親は疲れている俺に気遣ってか、もう結構です、と何度も言い続けていたので、俺は途中で止めた。それからネリさんの母親は何かの苗木を見せてくれた。小さな鉢に植えられていたが大きくなったら売るのだと言っていた。

俺はシャワーを浴びたかった。でも、誰もシャワーを浴びる感じではなかったのでシャワーは浴びれなかった。トイレはシャワーを浴びる場所の奥にあった。その場所の上には、廣田先生のアパートにあったような温水ヒーターが取り付けられていた。バスタブは無い。

夕食が済むと、ネリさんは小さな箱に入ったものを俺にプレゼントしてくれると言う。箱を開けてみると白い皿で、皿には綺麗な絵が書かれていた。俺は喜んで受け取った。しかし、この皿は重すぎる。これをポルトガルまで持って行けない。下着一枚の重さを惜しんで持ち物を減らしているのに、どうしたものか。

ネリさんとは日本語での会話を試みたが、英語での会話が楽だった。それとは別に驚いたことに、ネリさんの両親は、俺とネリさんの会話に耳を傾けていて、ネリさんが理解できない言葉を母親は理解していた。どこで英語を習ったのか俺には聞けなかった。聞く必要も無かった。母親には教養があったという事で十分だった。

ネリさんは日本語のほかに中国語も習っていた。そしてテレビでは、日本のアニメ、セーラームーンというものをロシア語の吹き替えで見ていたそうだ。

家の中がどんな造りか分からなかったが、俺はネリさんの父親が案内してくれた部屋の中のベッドを使わせて貰うことになった。部屋の中には運動器具が置いてあり、ネリさんの父親は使いたければ使って下さい、と言ってくれるが、俺にはそんな余力は無く、ビールの酔いも手伝って、夜の静けさを知ることなく寝付いてしまった。

俺はこの日、ネリさんの自宅の裏庭でテントを張る予定で、どんな家なのか想像しながら走って来た。大きな家なのか小さい家なのか、山に近いのか、フェンスはあるのか、色々想像した。でも、どんな建物でも良いから屋根の下に寝られたら最高だと願ってもいた。

着いてみると、ネリさんの家族全員が歓迎してくれた。夜遅くに食事を始めたのに、誰も嫌がらずに全員が俺を気遣ってくれた。食事だけに付いて言えば、初めて会う俺の為にこれ程の食事で歓迎してくれた家族はなかったと思う。家を見れば裕福でないのは分かる。俺はネリさんの両親が出来る最高の歓待を受けた。実に不思議な事が次から次へと起こるものだ。

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