2008年4月28日 (2日目) M60、ラズドルネ (KMマーカ:45位)




このところ連日午前2時くらいに目が覚め、今朝も同じだった。ベッドの中に5時くらいまで入っていた。それから日記を書く。

エフジェニアの息子さんは6時位に起きて直ぐに仕事に出かけた。何かの買い付けの仕事で、今日は中国内の国境近くの町へバスで行くので早く出かけるとの事だった。中国までバスで7時間の距離だそうだ。

エフジェニアは7時くらいに起きて、朝食を用意してくれパンケーキのようなものを頂いた。彼女は仕事に8時に行くとの事で、俺もそれに合わせて出発できるように準備した。外は寒い。だが朝の好きな俺にとっては雨さえ降っていなければ寒さは然程気にならなかった。


エフジェニアの家の前で別れ間際、彼女は俺の写真を撮ってくれた。CouchSurfing.com で俺が最初のビジターだそうだ。俺にとっても彼女の家が最初のホストだった。昨日は朝から一日付き合って貰えてとても嬉しかった。出迎えを期待してなかったのに、港まで迎えに来て貰えたので窮地を凌げた。

別れ間際に俺は彼女にハグをした。俺が彼女に会えてどんなに嬉しかったか彼女には分からないであろう。俺は道中何があるか分からないので、彼女と二度と会えないだろう思ったので、とても親切にしてくれた彼女との別れに感傷的になってしまった。でも彼女は足早に仕事に向って行った。それで良かったのだ。(この時は、エフジェニアとの出会いが、俺の今回の旅に絶大なる影響を及ぼすとは全く分からなかった。)

建物から少し離れたところで自転車の点検をする。昨日は碌な点検もしないで走ってしまったので、念入りに行う。チェーンにはオイルを差す。ネジ類も締めなおして確認。パニアの中の荷物の重さが左右同じになるように物を入れ替える。

自転車の準備が出来た。すると一人の老人が犬を連れて現れた。ロシア語で何か聞いているが、分からない。俺は地図を広げて、モスクワまで行くと伝えると、老人は驚いている。無理も無い。モスクワは9千3百キロ離れている。シベリア鉄道に乗っても6日間の距離だそうだ。

俺が広げた地図は、ロスを発つ前に不動産業を営む鈴岡さんから頂いた地図のカラーコピーだった。荷造りをした時は、この大雑把な地図が役立つかと思ったが、イソップの教えかのように、人の親切を無駄には出来ないと思い、持参していたのだった。一人の老人との話がこの地図のお陰で出来た。

老人の犬は小型犬で綱に繋がれていて、最初は怖がって近づいてこなかったが、俺は手の甲を差し出すと、犬は俺の手の甲に鼻を近づけて臭いを嗅ぐ。それで犬は安心したので、俺は何度と無く頭や背中を撫でた。

さあ、出発だ。泣いても転んでも走り出さないと始まらない。勇んで走り出す。下り坂は問題ないが、寒くて膝が冷えているので酷使したくなく、坂道の登りは髄分と自転車を押して歩いた。幹線に出て、昨日エフジェニアの車から見た景色の立体交差点に差し掛かる。


でも案の定、道を間違えた。思った方向に道が進んでない。俺は東にそれる道に入ってしまった。バス停付近に停まっていたタクシーのドライバに M60 に戻って、ハバロフスクに向いたいと英語で伝えると、英語が分かったようではなかったが、地図を見せると親切に戻り方を教えてくれた。

そして、直ぐにまた道を間違えた。でも、道路わきを歩く人が沢山居たので、若い二人の女性に話しかけて道を聞いた。若くインテリに見えたが、やはり英語は出来なかった。でもこの女性達も親切に道を教えてくれたので、幹線に戻ることが出来た。

ウラジオストックの幹線道路はどこの坂の連続だった。そして行き交う沢山のトラックから吐き出されるディーゼルの排気ガスは日本の幹線道路を思いださせた。登り下りの坂は大変だが仕方ないこと。でも、ディーゼルの排気ガスだけは我慢にならなかった。

M60 の幹線道路を北に進む。この道路標識さえ失わなければ次の都会、ハバロフスクに行ける。そこには別のCouchSurfing.com のメンバーのユリヤが泊めてくれる事になっていた。そこまでは760キロ位なので8日間で行ける距離だ。

M60 の道路わきには小さな店が所々並んでいた。その中の一つに、キャンプ用のテントを飾る店を見つけた。俺はキャンプの時にテントの下に敷くグラウンドシートを買う必要があった。店の中に入る際に、自分の自転車を入れても良いかと英語で聞くと、首を頷くので、店の中に入れる事が出来た。これで安心して買い物が出来る。

店の中には様々な物が並んでいた。キャンプ用品はその一角にあったが、グラウンドシートは見当たらない。店員は4人くらい居たが、誰も英語を話さなかった。でも、俺は、テントの下に敷くもので、テントの生地よりも厚くて丈夫な物が欲しいと言うと、一人のマネージャと思われる人が、付いて来なさいと言う。店の地下に入ると、色んな建築資材が残っていて、その中に何かの商品の宣伝用に作られたサインを見せてくれた。布をビニールのような素材でコーティングされたもので、明らかに水にも耐える素材だった。でも大き過ぎる。その人に切って分けて貰えるかと聞くと、好きなだけ切ったら良いと言う返事だったので、テントに必要な畳2畳分くらいの大きさに切った。

地下にあった不要な物という感じがしたが、幾らか支払おうと思ったら、俺へのプレゼントだからお金は要らないと言う。人の好意に甘える。節約できる費用は節約しないといけないので、助かった。お礼に、鶴の折り紙でもと思ったが、綺麗な紙が見当たない。仕方なくそのまま礼を言って店を出る。

道路脇に車を止めて下りた老人は、水を水道から汲んでいた。俺もそれに倣って水を自転車用の水のボトルに入れた。水道のレバーを押すと水は勢いよく出てきた。どうしてこんなに圧力が必要なのかと思うくらい勢いが良かった。ボトルに入れた冷たい水は美味しかった。日本以外の国で水を飲む時は気をつけた方が良いと言われるが、俺にはそんな言葉はどうでも良かった。水が無ければ先に進めない。下痢をしたらそれはその時だ。


何時だったか忘れたがウラジオストックの街を出て、暫くするとトラックや乗用車が沢山停まっている所に出る。レストランではなく、軽食を提供する店が軒を並べていた。各お店の前にはテーブルと椅子が並べられていた。

それらの店で、魚があるか聞いてみる。どこも英語は通じない。ロシア語会話集から魚「ルイーバ」という言葉を見つけ、何件か当たると3件目の店で魚が見つかった。冷凍にされたものを見せられたが、俺は肉以外だったら何でも良かった。その魚とご飯と小さなサラダで70ルーブルだった。パンは一切れ単位で料金を支払った。ロサンゼルスのコーヒーショップ等ではパンには料金が付いてない事が多く、御替りも自由だったので、これは非常に不思議な料金付けだと思った。

店の前のテーブルは全部埋まっていたので、小さな小道に入り、座れる場所を探すが見つからない。仕方なく、道路脇に座って食べる。紙のように薄い皿とデザート用と思われるフォークでの食事は簡単ではなかった。でも、食べられることはありがたかった。

食べ終えて、道を北へと進む。道は登り下りの連続が続く。何度と無く検問のように警官が立っていたが、俺には全く興味を示さず、むしろ無視されて寂しいくらいだった。


ある町の外れで、道路脇に自転車を止めて水を飲んでいると、ある男の人がレストラン(カフェ)から出てきて話しかけてくる。英語で、お茶かコーヒーを飲みたいかと聞かれる。一瞬、お茶にお金を払うのはどうかと思ったが、さっきの魚を食べたところの料金からしたら然程にならないだろうと思って、幾らかと聞くと、お茶のお金は要らない、と言ってくれた。

その人はアルメニアから来た人で、肉料理のカフェを営んでいたのだった。俺とそのアルメニア人は屋外にあったガゼボのような屋根つきの小屋の中に座ると、その人はウェートレスを呼んで、お茶を用意してくれた。不思議なことにそのウェートレスも英語を話した。彼女は名前を教えてくれたが、難しく忘れてしまった。

冷たい北風を受けて走る俺にとって暖かいお茶はとてもありがたかった。その人は俺がお茶を一気に飲んでしまったので、御替りのお茶と一緒にデザートのケーキもご馳走してくれた。そして別れ間際には、自転車に付けている水用のボトルにも温かい紅茶を入れて下さった。俺はそのアルメニア人にハグして分かれた。走り出して一日目、親切な人々に会えて、俺は幸先良いスタートを切った、とこの時は思った。(この時の思いが間違いだったとは永い事、気付かなかった。)



冷たい風の中を走っていても汗はかく。Tシャツの下着、長袖の薄手の化繊のシャツ、長袖のセーター、長袖のジャケット、そして長袖のレインジャケット。5枚を重ねて着て走る。登り坂では服を脱ぎ、下り坂では服を着る事を繰り返した。

夕方になり、M60 から東に外れた所に村があるのが見えた。もう疲れていたので、その辺に泊めてくれる安宿はないかと思って、ある民家を訪ねる。英語が分からるとは思わなかったのでロシア語会話集に書いてあるものを見せると、この辺には無いが、M60 の反対側だったらある、というような返事だった。

M60 の幹線から外れて村に入ったのだったが、反対に進まないといけない。数キロ損をしてしまった。西に向って、M60 を横切り、民家が見える方向に進む。疲れていて、どこでも良いからテントを張りたかったが、走り出して一日目、どこかに泊まりたかった。

道を進むと、店の前に10人位の高校生と思われる男子が居たので、会話集を見せると、もっと先に進んだら良いと言う。彼らが俺の事をからかっているとも思えたが、その道は北に向っているので、そのとおりに進む。

すると13歳くらいと8歳くらいの男の子二人が小さなバイクに乗って近寄ってきた。全く何を言っているのか分からなかった。でも、会話集を見せると、北に向ったら良い、とさっきの男子達と同じことを言って先に行ってしまった。

アパートのような集合住宅の一角にはお店が見えた。でも、店に行く気にはなれなかった。暗すぎる。店に入っている間に自転車を盗まれたら大変だ。

長い急な登り坂があり、俺は途中で自転車を降りた。とても自転車に乗って登り切れる距離ではなかった。自転車を押しながら進むと、さっき小さなバイクに乗った二人の子供がまた現れる。その辺りには珍しく建物の上に十字架が建っていた。そして直ぐに別の二人の青年が歩いて現れた。「アンニョンハセヨ」。会釈した彼らから聞こえた第一声だった。韓国語だ。俺は英語で日本人です、と答えると、二人は英語で、今晩は私達の教会に泊まって下さい、と言う。奇跡かと思った。どうしてロシアのこんな小さな村で韓国人に逢うのか。

教会に向って歩くと、いつの間にかさっきの二人の子供は居なくなってしまった。この二人の子供に俺は救われた。その子供の二人が俺の事を韓国人と間違えて、教会に駆け込んでくれていたのだった。

教会は大きな建物で建築中のようだったが、所々修復されたような箇所のある建物だった。教会の中の車庫に自転車を入れて、中に案内された。階段を登り、ダイニングのような大きな部屋をとおり、今晩俺が使っても良いベッドに案内された。その部屋には誰も寝泊りして無いので、自由に使ってくださいとの事だった。

そして直ぐにダイニングに案内されて、夕食を頂いた。教会には8人位の韓国人が寝泊りしていて、その人達の夕食は済んでいたのだったが、一人の韓国人男性の奥さんが、直ぐに色々なものを出してくださった。久しぶりに食べるキムチは特に美味しかった。(その男性は牧師だった。)

自分の食べたものくらい片付けるつもりだったが、疲れているでしょうからゆっくりして下さい、と気遣ってくれた。

夜の8時には夜の礼拝が始まった。皆、韓国語の聖書を手にしている。カトリックかプロテスタントか俺には分からない。でも子供の頃通った教会での礼拝を思い出した。実に35年振り位だ。常に牧師は、今日は何章の何を読みます、と朗読を始めた。この礼拝でも同じだった。

礼拝が終わると、神父の息子のモーゼはシャワーを浴びる手順を教えてくれた。温水ヒータは無い。電気のコンセントの付いたコイル状に2回ほど丸められたヒータを、水の溜まった大きなバケツに入れて水を温めるのだった。浴室の気温は低く寒かったが、シャワーを浴びれるとは思ってなかったので嬉しかった。

今日、着ていたもの全てがびしょ濡れ。Nike のTシャツだけが特別早く乾く素材だったので、唯一ドライなのはそのTシャツだけだった。着ていたものを全て2段ベッドの手すりなどに干した。

それから夜の11時位までモーゼと英語で色々な話をする。自分は幸運なのか。不思議なことに親切にしてくれる人が次から次へと現れる。無宗教者の俺でも神に感謝したくなった。

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