寝過ごしてしまったと思ったが、起きたら昨日と同じ午前2時だった。早すぎたのでベッドに2時間位横になり、時が過ぎるのを待った。しかし、それ以上寝ていても寝付けないのは分かっていたので起きて日記を書く。
日記を書き終えると自転車の組み立てを始める。組み立ててみると、大きな問題は無い。失くした部品も無いようだ。組み立てに1時間近く掛かったのだろう。前輪と後輪の横に付けるパニアにも荷物を詰めてみると、随分と余分な荷物を持ってきてしまったと思った。例えば、ソーラーパネル。あったら役に立つのは分かっているが、本当に必要かどうか分からない。パネルを丸めてもかさ張ったが、軽いのがせめてもの救いだ。そんな余分なものを持ってきて、後悔せずに役立ったと言える日が来るかも知れない。
腕時計は無いが、自転車の距離計に時計の機能があるので、日本よりも2時間進めて設定した。それがウラジオストックの時間だ(UTC+11)。その時間に設定すると午前の7時になってしまった。西日本と同じ位の緯度なのに2時間進んでいるので、春の7時にしては暗かった。外は小雨のようで寒そうだった。そして、陸地に近づいたようで明かりが見え出した。しかし、それは未だ遥か彼方に思えた。
外は次第に明るくなり、陸が見え出した。希望は無い。地球の果てに向っている気がする。大袈裟だが、そんな気分にさせる状況だった。せめて青空でも見えたら気持は晴れるだろうが、雲はどんよりと重い。もうここは一年の多くが青空のロサンゼルスではない。フェリーが発った伏木港での青空はもう無い。かつて今までにこんな状態で始まった旅があっただろうか。アメリカを横断したときも、縦断したときも出発はいつも晴れていた。自分が直面した状況を呑まないといけない。俺はロサンゼルスの天気に感化されてしまったようだ。人が恐れたシベリアに向おうというのに、こんな弱気になってしまった。
朝食はいつものように始まる。食事として先ずオートミールに似た物が出てきた。そしてスマッシュト・ポテト、それから茹でたキャベツなどだった。我々の担当の若いウェートレスは、俺が毎回肉だけを残しているのに気付いたのか、同じテーブルのロシア人が伝えてくれたのか、夕べの食事から、俺の皿には肉が出てこなくなった。その替わりに野菜が多く盛られていた。そんな気遣いはとても嬉しかった。
一緒に何度も同じテーブルで食事した3人のロシア人とはこれが最後だ。他に200人近くいるロシア人の中で、一番親しく感じたロシア人だったが、彼らとはお別れだ。
我々の担当のウェートレスは英語を話さなかったが、隣のセクションを担当しているウェートレスは英語が話せて、食事に問題が無いか初めて聞いてくれた。俺は、あなた方のアテンションに感謝していると伝える。
レストランを出てから、インフォーメーション・デスクに向う。そこの居たパーサーは、パスポートを返すのに少し時間が掛かるので待つようにとの事だった。俺はキャビンに戻って、下船の準備をする。暫くすると、船内アナウンスで俺の名前をパーサーが呼んでいる。俺はロシア語が出来ないので、いつも特別扱いだった。インフォーメーション・デスクに行くと、パーサーはロシアの移民局の審査は終えたと言う。一つ難題が去った。
去る4月3日にモスクワからの郵便がロサンゼルスの自宅に届く。ロシアのビザを申請するのに必要な招待状が届いた。インターネット上で探したモスクワの代理店に依頼していて、その現物が届いたのだった。最初はインターネットで探した業者よりも、少なくても日本語でやりとり出来る日本に事務所がある業者を利用して、招待状を入手しようとしたが、どこも良い返事をしてくれなかった。正確には、俺の自転車旅行の為の招待状は取り扱えないとの事だった。無理やりお願いして、先方に迷惑を掛けたらいけない。ある業者はモスクワの提携先に連絡して下さったが、断ってきた。無理も無い。俺には帰りの飛行機の航空券も、ホテルの予約一つも無い。友人も誰も居ない。誰が身元引受人になるものか。
だから俺は日本の業者の方々の迷惑になるかも知れないと、日本の業者を諦めてモスクワの業者を利用したのだった。
その時も未だ本当にロシアに行けるのか半信半疑だった。ビザを貰わないと、ロシアに向うことさえ出来ない。俺は翌日、サンフランシスコのロシア大使館に向った。善は急げと言うが、そんなものではない。旅立つことが出来るかどうかの大分岐点だ。
その昔、植村直己は南米アコンカグアと北米マッキンリー単独登山の許可を取り付けるために苦労したと本で読んだ。何日も何日もアルゼンチン軍指揮官に許可を願い、やっとの思いで許可を取る。単独登坂は許可されないとの事で、山岳部隊の一行として許可を取り付ける。
アラスカの国立公園の管理局でも、簡単に許可が降りず、執念の結果、アメリカ人の山岳パーティの一員として許可を得ている。
俺も何事も努力だと思っている。努力する者に手を差し伸べないのは間違っていると思う。もし不可能という運命だったら、俺は運命を変える必要があった。何としてもビザを貰わないといけない。ビザ無しには何も始まらない。
サンフランシスコに車を飛ばして7時間。大使館の場所は、ダウンタウンよりも、どちらかと言うと金門橋の近くのプレシディオに近かった。10時からの受付には間に合わなかったが、直ぐに場所は分かった。大使館の入り口は二つ用意されていて、ビザの申請用とその他のようだった。ビザの申請用の出入り口には、は監視用のカメラが目立つように取り付けられていて、ベルを押すとドアを押せば開けられる状態を知らせるブザーがなった。ドアを押して、敷地内に入る。建物の外にはロシアの国旗がなびいていた。
建物のドアを開けると、中には既に10人位の人が居た。順番を決める札は無い。ビザ取得の代行業者が何人も居て、そのうちの一人が俺の順番は誰の後、と教えてくれた。ソファと椅子が用意されていて、申請用の窓口は二つあったが、一つしか開いてない。そしてもう一つは受け取り専用みたいで、少し広い窓口だった。
30分くらい待つと、俺の番になった。受付の窓口にビザ申請に必要な書類類を差し出す。ビザ申請書、招待状、顔写真、個人の小切手は受け付けないとの事で会社の小切手、エイズ検査の証明書、日本のパスポート、アメリカの永住権、そして自己紹介だった。
顔写真はサンフランシスコに向う前夜に自宅で撮った。白い壁をバックにデジカメで撮影して、それを近くのKinko に持って行き、そこでプリントして、大きさが適当になるまで何枚もプリントした。顔写真が必要なのは分かっていたが、先に書いたように招待状が本当に来るのか分からなかったので、用意してなかったので、慌てて用意したのだった。
エイズ検査の結果は近くのクリニックから発行してもらったものだった。医師の署名はあるが、こんなものでは通用するのかと心配させられる紙切れだった。
窓口のロシア人の担当者は、今日ビザが欲しいのですか、と確認するので、今日欲しいと答える。パスポートを預けて、一週間後に取りに来るような猶予は無い。ビザが貰えるのだったら、今、この場で欲しかった。
ビザの申請書にも招待状にも、ロシアには商業で行く内容になっている。そして自己紹介(cover letter)には、どんな予定で、どこに行くのか記す必要があった。宿泊先の電話番号やファックス番号も記すように、とインターネット上のロシア大使館のホームページには記されていた。でも、俺には宿泊先など殆ど無い。殆どが野宿になる。ビザの種類は商業でも、正直に自転車で旅行して、極東からラトビアに抜ける行程を書いた。ビザ申請書とカバーレターは正反対の目的が記されているという事だ。でも、俺はアメリカを横断や縦断した時のインタビューを受けた際のコピーも持参していて、どうしても3ヶ月以上のビザが欲しかった。もしどうしても3ヶ月のビザしか許可されないのであれば、担当者に面会を申し込んでも、4ヶ月のビザが欲しかった。俺は、どう切り出したら良いか考えて無かった。とっさに、4ヶ月のビザが欲しいと伝える。すると窓口の担当者は、3ヶ月のビザが欲しいのですか、欲しくないのですか、という強硬な返事だった。俺はとっさに折れた。相談する余地はなさそうだと悟った。俺の思惑は一瞬にして崩れた。
書類を提出して、300ドルの小切手を渡すと、座って待ってくださいとの事だった。どれくらい待ったらいいかですかと聞くと、30分位です、との返事。
いつの時も待つ側の時間は永いものである。もしビザが下りなかったら、書類をもう一度書き直せば許可されるものなのか。一度、却下されたら一定期間申請が出来ないのか。300ドルの小切手を出したが、それは返金されるのか。不安が一杯だった。
俺の名前が呼ばれると、窓口の担当者は、俺の日本のパスポートとアメリカの永住権を揃えて返してくれた。ビザが下りたのか返事が無い。担当者は俺のパスポートのページをめくり、ここにビザがありますと、見せてくれた。感激の一瞬だった。俺の不安をよそに、商業ビザが3ヶ月おりた。4月27日からと7月26日と記されている。欲を言えば4ヶ月でロシアを自転車で走って横断できる距離と考えていたが、行けないよりも遥かに良い。
この瞬間にロシア行きが決まった。後はウラジオストックに行って、入国審査だけが問題だ。入国審査で、自転車を持ち込む商業ビザを持つ日本人が受け入れられるかが問題だった。
話は戻るが、パーサーは移民局の審査が終えたと言う。残るは税関が問題かと思った。船を下りるタラップの前、インフォーメーション・デスクの前には沢山の人が順番を待っていた。タラップの所には、制服を来たロシア人が立って、一人一人のパスポート等を確認していた。
キャビンに戻り、自転車や荷物をインフォーメーション・デスクの前に持ってきた。そして列の最後に並んだ。しかし、パーサーの指示だったのか、制服を着た女性が俺を呼んだので、列を割り込んで先に進む。誰も文句を言わなかった。その女性は俺のパスポートを見て、下船しなさい、首を振った。俺は疚しいことは何も無い。只、目的とビザの種類が合致しないだけだと、自分に言い聞かせて平静に努めた。先ずは自転車をタラップを伝って下ろす。そして、自転車から外してあったパニアを2回目に降ろす。
ウラジオストックの、そしてロシアの地を踏む。感激も何も無い。不安で一杯だ。雲は低く、みぞれで、寒い。素早く自転車にパニアを取り付けて、ロシア人の後を追う。
そして比較的大きなビルに入る。すると深緑の制服を着た職員が、Russian Citizen と英語で書かれたサインの方に来るように手招きする。何故か俺は間違っているとは思わなかった。間違いでも何でも良い。これが最後の砦だ。ここさえ超えてしまえば俺のものだ。
再度、平静に努める。俺の前に並んでいた人の行動を見張る。移民局の審査は終えたとパーサーは言っていたが、ここでもパスポートを確認している。恐らくこれが本当の入国審査で、船の上での検査は、只単に、書類が整っているかだけのものだったのであろう。
前の人の審査は5分位だった。俺の番が来た。世紀の瞬間だ。ロスから成田まで飛行機で、成田から伏木まで電車とバスで、そして伏木からフェリーでやっとウラジオストックまで来れた。ここで帰れ、と言われても困る。入国させて貰えないと困る。
制服を着た女性の審査官とは僅かな隙間で目を見て確認する。彼女は一言、英語で、パスポートと言った。俺から審査官の肩から下は見えない。只、審査官からは天井にあるミラーで俺の背中も見えるようになっている。俺の自転車が見せているはずだ。パスポートには商業ビザがある。どう考えるのだろう。俺のビザの申請書にはモスクワにも行くことになっている。彼女にはそんなデータへのアクセス権があるのだろうか。多少の不安はあったが、以前のような不安ではなかった。まな板の鯉だ。審査官が何をしているのか全く分からないので、待ち時間は永く感じられた。でも、審査官は何も言わずに何かにスタンプを押して、俺のパスポートを返してくれた。
そして、先に進む。税関だ。さっきの審査官とは、うって変わって、今度は広い部屋に制服が何人も待機している。3つのグループに分かれていて、それぞれに上級の審査官と思われる担当者が居た。その中で一番若い審査官に呼ばれる。先に進むと、どこかの旅行案内にあった税関の申告書が目に入る。
他の二つのグループの審査官は年配なのに、この審査官は若かった。どうやら、この審査官だけが英語を理解しているようだった。そして、俺は通関の申告書を渡された。そして、ロシア語の用紙だったが、その審査官は親切に、どこには何を書くのか教えてくれた。そして、俺の所持金を聞かれたので、5000ドルと答えておいた。
そして用紙の裏には、一台の自転車を記入する。そして小型のコンピュータを持っていると伝えるが、それは書かなくて良いと言う。何でそんな物を書く必要があるのだ、と言わんばかりだが、害を蒙るのは俺なので、買きたいと言うと勝手にしろ、という感じだったので、コンピュータも追加する。それからソーラーパネル、テント、寝袋などを記入した。
審査官は、用紙に沢山のスタンプを押した。そして、俺が勝手に記入できないように空白のスペースには線を書き入れた。通関の時間は10分くらいだった。
そして、俺は同じフェリー「ルーシー号」で来たと思われるロシア人の後を付いて進むと、部屋の外に出た。これで入国審査の全てが終わったのだった。永いこと心配した入国審査だったが、無事に終えた。一悶着あるかもと覚悟していたので、あっさりと終わって助かった。ロシアの旅行がこれで始まる。大陸横断への旅行が始まる。
全ての入国審査が終わり、ドアを開けて部屋を出ると、沢山の出迎えの人が居た。恐らく俺が乗ってきてルーシー号の乗船客の出迎えだと思う。
出迎えの人達の周りには二つのドアがあった。俺は英語で、「どのドアが電車の駅への出口ですか?」と聞いたが、誰も返事をしてくれない。仕方ないので、何のサインも無いドアで、何度か人の出入りが見えたドアを開けてみる。果たしてそれが俺の望んでいる出口へのドアかどうか分からないが、少なくても制服を着てない人が出入りがあるので、俺が行っても問題ないと思った。そしてそこには狭い通路と数段の階段があって、それを降りてその先の別のドアを開ける。
そこはビルの外側で、線路が沢山あり電車の駅はその線路の反対側だった。自転車を持ち上げて線路を越えても良かったが、大変そうだったので止める。
建物から出てきたドアから中に戻り、さっきの部屋に戻り、今度はもう一つのドアを開けて、階段を登る。通路も階段も行き交う人が少なかったので、自転車を持って移動する俺には好都合だった。1階登ると、そこには小さな店が並んでいた。これが一般的な出口だろうと直ぐに分かった。そして俺は公衆電話を探した。自転車を押しながら移動する俺を誰もが不思議そうな顔で見ているのが分かる。
公衆電話は見つからない。でも、先方から一人の婦人が近づいて来るくる。ほんの一瞬の出来事だったが、俺のこの困った状況を聞いてくれそうな感じがした。そしてそれは、直ぐに今晩泊めてくれる予定になっているエフジェニアだったらどんなに嬉しい事か、との願いに変わった。そして婦人は俺の名前を聞いてきた!何と言うことか。CouchSurfing.com のメンバーで、今晩泊めてくれる予定になっているエフジェニアだったのだ。願っても無かったのに迎えに来てくれていたのだった。俺は、まるで無抵抗の少女を抱くように自分からエフジェニアに抱きついてしまった。無意識に近い状態だった。嬉しくて堪らなかった。
例え、公衆電話が見つかったとしても、ルーブルを持ち合わせてない。小銭も無い。電話の掛け方さえ分からない。そんな状況でエフジェニアに会えたことをとても幸運に思えた。その事を彼女に伝えると、英語の問題だったのかどうか分からないが、自分は当然の事をしてます、と言わんばかりだった。
俺はこの時に初めてロシアに来たと実感した。不安も当然のように消えた。何と素晴らしいことか。商業用のビザで、自転車を押して下船してきた俺をロシア連邦は受け入れてくれた。二人で港湾の建物を出て、下に線路が走っている橋を渡る。小雨でどんよりした雲はどうでも良かった。只、嬉しかった。
エフジェニアのSuzuki の小型SUV は橋を越えた所にある駐車場に停めてあった。右ハンドルの日本からの輸入車だ。彼女は自転車を車に乗せられないかと言う。無理だ。タイヤを外しても、分解しない限り入らない。彼女に俺は自転車で後を付いて行くと伝え、駐車場を出る。
道路を行き交う車は日本からの輸入車が多い。そして、路面電車が走っている大通りを進むエフジェニアを追いかける。坂があったが、エフジェニアは時々車を停めて待っていてくれた。そして大通りから離れて小さな道を進む。途中アメリカのブランドのオイルの広告を見つける。恐らくトラックか乗用車の修理工場の宣伝だろう。線路の下をくぐって、アパートのような建物が沢山見える場所を進み、海が見える所で、エフジェニアは車を停めた。駅から15分くらい走っただろうか。彼女の家の前に着いた。オーシャンフロントと言えば聞こえが良いが、北国のオーシャンフロントは風が強く冷たかった。無理も無い。ここは札幌と同じ位の緯度だ。4月下旬とはいえ春とは思えない。
エフジェニアは、住んでいるのはこの上です、と言う。俺は、エレベータはありますか?と聞いた。愚問だった。でも、彼女は質問に答えず、黙って階段を登るので、俺も自転車を持ち上げて登る。するとエフジェニアは息子を呼んでくれて、俺の自転車を持ち上げるのを手伝ってくれた。幸運にもその息子も英語を話せた。3階に自転車を持ち上げて、彼女のアパート風マンションの中に自転車も入れる。家の中は暖かかった。玄関口にあったベンチに俺は座らせて貰って少し休んだ。もう大丈夫だ。このロシアの都会でテントを張らずに済む。今晩寝る場所は確保できた。疲れが出たのだと思う。
少し休ませて貰った後、エフジェニアの娘さんの部屋に案内された。娘さんは日本に留学中で、今日はその部屋を自由に使って下さい、との事だった。広い部屋に一つのベッド、大きくも小さくも無い箪笥と机が置かれていた。さすがに女の子の部屋で綺麗に片付けられていた。
俺はベッドに横になると、数時間寝てしまった。寝ている間に訪問者があったようで、数人の女性の声が聞こえたが起き上がる必要も無いし、その気力も無かった。
そして午後3時位に起きると、エフジェニアは簡単な食事を用意してくれた。鮭の切り身、蜂蜜、パン、そして紅茶を頂く。全てが美味しかった。
俺はエフジェニアに米ドルをルーブルに交換したいのと、携帯電話を買いたいと伝えると、車で連れて行ってくれるという。左側の席の助手席に座り、10分位でスーパーマーケットのような所に着く。その建物には小さなお店が入っていて、その中で米ドルのトラベラーズチェックをルーブルに変換できた。銀行の出先なのか分からないが、一人の職員が中に居て、比較的簡単にルーブルに交換してくれた。
そして携帯の店に行くと、その時にロシア人以外は携帯電話を買えないことが分かった。でも、エフジェニアは彼女の名前で買えるので、一度家に戻って彼女のパスポートを持って出直しましょう、と言ってくれた。パスポートを取りに戻り、また店に戻り、俺は携帯電話を買う事が出来た。一番安いものだったが、別に問題は無い。電話を受けられればそれで良かった。
携帯電話は、受信が無料で、電話を掛けると1.75 ルーブルとの事だった。150ルーブル分を買って、SIMカードも使えるようにしてもらった。
俺はロスを出る前に、ソーラーパネルの発電は12.6 ボルトにステップダウンするようDCDCコンバータを取り付けていたので、自動車のシガレットライターから携帯電話を充電する為のアダプタを買いたかったが、その携帯の店には無かった。エフジェニアはどこで売っているか店員に聞いてくれたようで、我々はその店に向う。車で僅かの距離だった。そして、そこは中古の携帯電話も売る店だった。アメリカには中古の携帯電話を売る店が無いので少し驚いた。そして、シガレットライターのアダプタを買って、その並びにあった本屋で極東地方(プリモルスキー・クライ)の地図も買った。
これで準備万端だ。不足している石鹸やシャンプーなど小物は未だあるが、あとはどうでも良い。
お店を後にして、エフジェニアはビーチに連れて行ってくれた。夕方が近づいていたが、寝る場所は決まっているので何も恐れるものは無い。街を北に進み、ある道を左に曲がり東に進んだ。そして少し坂を登って下ると、海が見えた。寒い。エフジェニアは、昨日雪が降ったので山に雪が沢山残っているのだと言う。山から吹き降ろす風は冷たく、ビーチを歩く人は10人位しか居なかった。でも、肉料理の店等が客を待っていた。ビーチを散歩してみるが、風が冷たく10分ほどで戻ることにする。道行く人に記念写真を撮ってもらった。伏木の港を出てから始めての写真だった。
ビーチからは、来た道を戻り、途中で清水を水のボトルに汲んで帰る。そこでは同じように水を汲んでいる人が10人くらい居たので人気の水のようだ。我々はボトルを3つしか入れなかったが、中には10個位のボトルを持っている人も居た。エフジェニアは、この水で飲むお茶は特に美味しいと言っていた。
幹線に戻ると、エフジェニアは俺に、明日はこの道を北に進めばハバロフスクに行けると教えてくれた。嬉しいアドバイスだった。自転車の旅行にとって、道を間違えるのは大きな痛手なので、道の雰囲気がつかめたので助かった。
エフジェニアは警察官を教育する部署で働いているそうで、もし検問か何かで止められても、殆どの警官を知っているから何も心配要りません、等ととても頼もしいことを言っていた。
エフジェニアの家に戻る際に、ウラジオストックの幹線道路の交差点を幾つか通る。自転車に乗っている人は一人も居ない。高速道路のようにみんな飛ばしていくが、料金所は無い。道路には坂が多く、立体交差が幾つもあった。
家に戻ると、エフジェニアは直ぐに夕食の準備をしてくれた。味は馴染み深いものでは無かったが、暖かい部屋の中で、誰かと一緒に食べられることが、とてもありがたかった。そしてシャワーも浴びさせてもらった。それからロサンゼルスの家内に電話して、携帯電話の番号を伝えた。これで恵子からの電話を受けられる。
エフジェニアはSkype を使って、日本にいる娘さんを呼び出した。名古屋の大学で勉強しているそうで、娘さんとは日本語で挨拶をした。Skypeの電話を切ると、エフジェニアは俺を夜の街に案内してくれると言う。非常にありがたかった。恐らく殆どの旅行客が喜ぶ事だったのだろうか、俺にはそんな余力は無かった。本当なら車の中で寝てしまったとしても行くべきだったと思うが、俺は断ってしまった。でも、本当に嬉しかった。初めて会う異国の人をこんなに歓迎してくれるとは、下船する時には全く想像できなかった事だ。
さあ、明日から本番だ! 1万6千キロ離れたユーラシア大陸の西の端を目指して。
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