2008年4月29日 (3日目) M60、ウスリースク (KMマーカ:100位)



今朝も早くから目が覚めてしまった。誰かが起きるのを待ってベッドの中で待つと、朝の7時くらいだった。起きたのは牧師の奥さんで、朝食の準備を始めた。奥さんは英語が不得意のようだったが、俺にはお茶を勧めて下さったのでありがたく頂いた。

建物の外は酷く寒く見えた。神父の息子モーゼが起きてきて、この辺一帯でこの教会の付近は特別寒くなると言っていた。

他の人たちが起きてくるまで日記を書く。皆が揃って朝食を頂く。ご飯、玉子焼き、キムチ、スープ、のり等を頂いた。朝食の後、3人は直ぐに学校に行くと出かけていった。

朝食の後、日記の残りを書いて、それから俺も出る事にした。ボトルに水を頂き、モーゼと写真を撮ってハグして分かれる。モーゼはロサンゼルスに来るかも知れないと言っていた。そしてお互いのEメールアドレスと電話番号は交わした。


教会のメンバーの人達は、教会のあるラズドルネの村から、次の街のウスリースクまで2つの大きな峠があると教えてくれた。普通、乗用車に乗っている人には坂の事は気にならないはずだ。だけど、その人たちが教えてくれると言う事は、きっと大きな山があるのだと思い覚悟した。

村を南北に走る道を北に向う。昨日と同じように体が温まるまで自転車を押して歩いた。とても自転車に乗って登り切れる坂ではなかった。坂の頂上付近から自転車に乗り、直ぐにM60 の幹線道路に出た。

M60 の道路は片側1車線と2車線の部分があった。2車線の道路は比較的に舗装が新しく走りやすかった。でも、1車線の道路は舗装が古いせいか走り辛かった。

登り下りの道が続く。アメリカの中西部、ネブラスカ州やアイオワ州の道路と同じで、小さな起伏が多く疲れる。道路の両側には白樺や他の木々が見えるが単調だった。

丘を登る時は汗をかくので、ジャケットの前のジッパーを開いたり着ているものを一枚・二枚脱いで登り、下りでは汗が一瞬で体を冷やしてしまうので服を着たりジッパーを閉じて下る。

1982年に北米を横断した時に注文して作った自転車だったが、幸運なことに今のところ全く問題は無い。本来ならこの辺で綺麗に掃除して、状況を確認すべきだが怠け者の俺にはその余力が無い。

体は特に問題なさそうだ。現地の水道の水を飲んでも今のところ問題は無い。只、大量に汗をかいているので、下り坂の度にそれが体温を奪ってしまうので注意をしなければいけなかった。上半身は5枚、下半身はスエットパンツを2枚履いていた為か、上半身の汗が異常に多かった。特に腰の辺りはびしょ濡れだ。

道路上では、殆どのトラックドライバが余裕を持って走り去っていく。しかし、中には俺の存在を無視して、間近を勢いよく走り抜けるトラックもあった。そして、登坂車線がある時に、トラックのドライバは俺との距離を空けるために追い越し車線に入ってくれるが、それに我慢できない乗用車が右側の登坂車線を勢いよく抜けて行く事もあった。そんな時は俺はいつも路肩の砂利道の上に出て走った。

しかし、殆どのドライバは自転車に乗る俺に友好的で、クラクションを鳴らして走りすぎる。俺は必ず手を振って応えた。そして、俺との距離を開けて走り去るトラックには手を振った。クラクションを鳴らして行ったわけではないが、距離を開けてくれる事が嬉しかった。走りながら手を振るのは簡単ではないが、そうすることによって、後続の車両も続いて俺との間隔を開けてくれるのだった。

ある峠を登っている途中、水を現す標識が目に入る。駐車場も見える。自転車を降りて、水道か井戸でもあるのだろうと探すが見つからない。ある人に俺は空になった水のボトルを振って見せると、その人は指で階段を下りた場所の森の中を指差してくれた。何があるか分からなかったが、コンクリートの階段を下りると小川が流れていて、緑の屋根の小さな物があった。近づいてみてもそれが何か分からないで、うろうろしていると、ある人が緑の屋根の下の部分にあった小さなパイプを教えてくれた。それは湧き水で、俺はその流れる水をボトルに入れた。


綺麗な水か、飲んでも安全な水か分からない。しかし俺は両方のボトルが既に空だったので水を入れる。水を沸かすストーブは持ってない。ストーブの燃料としてロシアで何が入手出来るか分からなかったので持ってこなかった。だが、バクテリアを除去してくれる手動のフィルタだけは持ってきた。でも、結局俺はその水をそのまま飲まざるを得なかったので飲んだが問題なかった。

道路の脇には道標があった。キロメートルを表示している。その数字がどこから始まっているか分からないが、自転車に乗って走る俺にとっては大事なものだ。

M60 を進んで北上すると、ウスリースクの街への分岐点が出てきた。俺はM60 から離れて街に進む。街のサインは丘の上にあって、眼下に街が広がって見えた。坂を下って、最初の多きな交差点で自転車を降りて、教会で逢った韓国人の Jay に電話した。Jay は朝の別れ間際に、電話番号を教えてくれて、ウスリースクに入ったら電話して欲しいと言ってくれていた。

(右上:教会のメンバーと韓国人留学生)


ウラジオストックで買った携帯でJay に電話してみるが通じない。通話の履歴を見ると、ウラジオストックのエフジェニアが彼女の友人に電話した番号が残っていて、その番号の最初には「+ 」が含まれていた。もしかして、と思ってJay の電話番号の前にも「+ 」をつけてダイヤルするとJay が電話に応答してくれた。Jay は俺がどこにいるのか分からなかったので、交差点で5階建て位のビルが近くにあり、その屋上には電話会社の大きなサインがあると伝えると、Jay はそこで10分ほど待って下さい、との事だった。ラッキーだった。電話会社のサインでJay は俺の居場所が確認できた。交差点の反対側にはバス停があり、沢山のバスが出入りしていた。

俺には何の予定も無い。Jay と会って何をするとも決まってない。俺はJay の優しい言葉を頼りにこの街に入ったのだった。そして、ウスリースクに寄った理由の最大の目的は、ロシア連邦から貰ったビザに対する登録だった。ガイドブックによるとロシアに入国して3日間以内に登録する必要があるという。ロシアに入って二日目だったが、出来れば早く片付けてしまいたかった。

Jay は暫くすると6人乗り位のバンでやってきて、車の中には教会の牧師夫婦も一緒に来てくれていた。Jay は俺に、付いて来て下さい、との事だった。俺は遅れないようにJay の車の後ろを付いて走った。5分も走ると街の中心部になり、ある建物の前で停まった。彼らが通う大学だった。

彼らの部屋がその建物の中にあると言うのでJay に手伝ってもらって自転車を3階まで上げる。そこの受付みたいな机に座って居た係りの人にJay は自転車を此処の残していく、とのような事を告げて、彼らの部屋に向った。建物は学生寮だった。ベッドと机、そして洗面所がある小さな部屋だった。すると牧師の奥さんは直ぐに俺に昼食にとラーメンのようなものを作って下さった。沢山の麺の入った美味しいものだった。

食事の後、Jay は他に韓国から留学している友人達を紹介してくれた。そしてその中の一人が、この大学には日本人の教師がいるので紹介すると、大学の教室の別の建物に入って、日本語のクラスルームに連れて行ってくれた。行ってみると日本語の教師、廣田先生がいらした。丁度習字の練習をしていて、先生は俺に習字が出来ますか、と質問されたので、小学生の時に習ってましたと答えると、それは丁度いいので手本を見せて欲しいとの事だった。

(左:ホテルの受付) (右上:廣田先生が教鞭を振るう大学)

でも一緒にいたJay は、ロシアに入ったことを登録するのだったら、早くしたほうが良いだろうと忠告してくれたので、廣田先生とはその場で別れた。しかし、登録するにはハバロフスクに行かないと出来ないだろう、という事になり、俺は教会の人達と、若い韓国人留学生と一緒に駅に向った。若い留学生は駅の窓口でロシア語でやりとりしてくれた。

そして電車賃として1600ルーブル、そして自転車は余分に掛かるとの事だった。電車に乗って明朝にハバロフスクに着けば、入国してから三日という期限に間に合う。でも、もしかしたらこの街でも登録できないのだろうか、という事になって駅を後にした。

Jay は俺を連れて韓国の企業が所有するホテルへ連れて行ってくれた。そこで話をしてもらうと、午後2時を過ぎてしまっているので、今日の登録は出来ないとの事だった。でも、このホテルで登録してくれるとの事だったので、ハバロフスクに電車で行かなくて済むのが分かった。

今度はJay は大学に俺を連れ戻してくれた。そして、先の廣田先生に登録の事を聞くと、先生はウラジオストックの日本大使館に電話してくださったが、土日が3日間に勘定されるのか明確な答えは得られなかった。でも先生のお陰で、俺は自分のパスポートのコピーや、入国時に記入された登録の為の用紙のコピーを取ってもらえた。

廣田先生と再度別れて、韓国人留学生達にも別れを告げた。自転車に乗り、さっき連れて行って貰ったホテルに向った。しかし碁盤の目のような道並みの為に道を間違えてしまった。全く分からない。Jay に教えてもらったのは「5+ 」というスーパーに向って、そこを右に曲がる事だった。右に曲がったらホテルがあるのかと思っていたが、いつの間にか川の橋が見えてしまい、行き過ぎたことに気付く。Jay に電話してみたが、電話に出たのはJay 出は無かった。牧師の奥さんだったかも知れない。彼女は俺に居場所を聞くがそれが答えられない。通りすがりの人に携帯電話を渡して代わって貰うと、ロシア語での話があって、直ぐに電話は終わった。

そしてその人は、この先の右側にホテルがあるので、直ぐ分かるというような事を言った。でも、俺はそのホテルではなくて、他のホテルだと伝える。でも伝わってない。俺はJay が連れて行ってくれたホテルの外の看板にはロシア語で書いてあった。しかしキリル文字を読めない俺には何と書いてあったのか分からないが、確か「パラダイス」とか言っていたのを思い出して伝えると、その人はこの道を戻って、右(北)に進めばいいと教えてくれた。

言われたように道を北上すると、見慣れた広い道があった。そして突き当たりにホテルが見えた。ホテルに入ると受付があった。一泊したいと伝えると話が通じない。どうしたものかと思ったら、そこはサウナの受付で、ホテルは2階だった。自転車をホテルのロビーの中を押しながら進み、自転車を持ち上げて階段を登る。

受付はサウナの受付とは正反対で質素な受付だった。一泊1300ルーブル、約60ドルだった。クレジットカードで払いたかったが駄目だったので現金で支払う。部屋に案内され、俺はその後、サウナに入った。日本の公衆浴場のよう大きく気持ちよかった。

サウナから出て、俺は歩いて5+ スーパーマーケットに行く。夕食の為の食料と、スナック、果物等を買った。全部で250ルーブル位になった。決して安くない。ホテルに戻って、部屋でそれらを食べた。

ベッドに横になりながらロシア語のテレビを見ていたら、いつの間にか寝てしまっていた。そして誰かがドアをノックする音で目が覚める。ドアを開ける前に英語で Who is it? と聞くと、日本語で廣田です、と返って来た。廣田先生には俺の携帯番号は伝えてあったが、どこに泊まるかは決まってなかったので伝えて無かった。でも、先生は韓国人の人たちに俺の宿泊先のホテルを聞いて訪ねて下さったのだった。

先生は俺に、明朝ハバロフスクの日本領事館に電話して、登録の事を確認した方が言いと忠告の為に俺のホテルまで来て下さったのだった。先生はウラジオストックの領事館の人と電話で話したようで、その時には、俺の自由気ままな自転車旅行に強い懸念を抱いている、と言われたそうだ。廣田先生とは、先生のロシアでの生活感、そして俺の昨日と今日の出来事を何時間か話した。

しかし、嘘のような出来事が次から次へと起こるものだ。ラズドルネで出会ったバイクに乗った少年のお陰で、俺は廣田先生から色々教えてもらう事が出来た。

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