朝起きて荷物と自転車はそのままにしてカフェに行き玉子焼き、マカロニ、ケフィール等を食べる。
小屋に戻ると昨晩泊めてくれた老人が自分の自転車を小屋から出すのを手伝ってくれた。何と親切な人かと思ったが、直ぐにその理由が分かった。その人は首に指を当てて喉元を指で弾いた。酒代が欲しいのだった。今までロシアを旅行していて、泊めたお礼にお金を要求される事が無かったので、気分的にはやりたくなかった。でも、ビール2本分位をあげた。不足なのは分かるが、でもそれ以上はあげなかった。とにかくこんなロシア人は初めてだった。
M5の幹線道路に出て走り出す。霧が濃くて遠くが見えない。でも、少し坂を登ると霧よりも上の高度になったので、雲海を見ているような景色に変わった。その後は登り坂が続いた。ウラル山脈を奥に奥に進む。ウラジオストックからノボシビルスクまで続いた登りと下りの連続ではなく、この辺りの道は登り坂が長い距離で続いた。途中立ち止まっては水を飲む。昨日発ったチェラビンスクのアレクセイに買って貰ったバナナがあって良かった。それからアレクセイの奥さんのマーシャの母親から作って貰ったピロシキも未だ残っていたのでそれを食べる。
山間部のためか道の状態は良くない。その上に道幅が狭い。そして土曜日なのに行き交うトラックが目立った。過去にどれだけの事故があったか気になるくらい交通量が多い。途中、登坂車線用のレーンが出来て登りは2車線になるが、その距離は僅かなので安全とは程遠い状態だ。道路の状況からして、滞在期間の限られたビザを持ってロシアを自転車で走るには全く適していない。違うルートを選ぶべきだったかもしれないと後悔しても仕方ない。全てがこれで良いのだと言い聞かせ走る。
(右上:ウラル山脈の長い登り坂が続く)
登り坂の頂点と思われるある峠で出店が見える。何かの標識が道路脇にそびえていた。それが更なる高地へ続く峠なのか、今日の最高地点になるのか分からなかったので、俺は一休みすることなく走り続けた。峠の道はそれからも登りが少し続いたが直ぐに下り坂が続く。それがアジアとヨーロッパの大陸分水嶺だと分かったのは随分峠を下った後だった。
この峠付近から自転車の後輪のフリーホイールから気になる音が出るようになった。
(追記:競輪などの自転車は後輪のギア(スプロケット)は後輪に固定されており、ギアが回れば後輪が回り、ペダルを漕がずにいても惰性があった場合は後輪が回るのでペダルも必然的に回る機構になっている。それを直結しないようにペダルと後輪を自由にしたのがこのフリーホイールで、自転車で最高の発明だと思う。また多くのフリーホイールは複数のギアを持ち合わせ、大きくそして歯数の多いギアは登り坂に、小さく歯数の少ないギアは下り坂や平坦な道に使えるようになっている。)
(追記:競輪などの自転車は後輪のギア(スプロケット)は後輪に固定されており、ギアが回れば後輪が回り、ペダルを漕がずにいても惰性があった場合は後輪が回るのでペダルも必然的に回る機構になっている。それを直結しないようにペダルと後輪を自由にしたのがこのフリーホイールで、自転車で最高の発明だと思う。また多くのフリーホイールは複数のギアを持ち合わせ、大きくそして歯数の多いギアは登り坂に、小さく歯数の少ないギアは下り坂や平坦な道に使えるようになっている。)
嫌な音だ。登り坂の負荷が掛かる時にしか音が出てない。100キロ近い俺の体重、そして70キロはあると思う自転車と荷物。フリーホイールの中の小さな部品に全ての加重が掛かる。北米の横断時の距離をもう超えてしまっている。
(追記:いつのサイクリングでも俺の恐れている事は後輪のスポークが折れることと、そしてこのフリーホイールが壊れる事だった。パンクは当たり前。車のトランクに積んでいるスペアタイヤと同じで、必ず起こる事を前提にしている。だからパンクしても常に直ぐに修理できるよう物理的にも精神的にも準備が出来ている。スポークが厄介なのは折れたスポークを交換できても、車輪のバランスを完璧に取る事が出来るかどうかの不安。そして一番恐れていたのがフリーホイールで、それを交換する以外に修理の方法が無い事。)
(追記:いつのサイクリングでも俺の恐れている事は後輪のスポークが折れることと、そしてこのフリーホイールが壊れる事だった。パンクは当たり前。車のトランクに積んでいるスペアタイヤと同じで、必ず起こる事を前提にしている。だからパンクしても常に直ぐに修理できるよう物理的にも精神的にも準備が出来ている。スポークが厄介なのは折れたスポークを交換できても、車輪のバランスを完璧に取る事が出来るかどうかの不安。そして一番恐れていたのがフリーホイールで、それを交換する以外に修理の方法が無い事。)
幾つかのカフェを通り過ぎる。山の中でも携帯電話が使えるエリアがありSMSが届く。チェラビンスクのアレクセイの弟のマキシムからだった。電話が使えるようになった時点で電話を欲しいとの事だった。電話してマキシムの友人が住むバカル(Бакал) には5、6時間で着けるだろうと伝えた。マキシムはその旨を友人に伝えておきますと言ってくれた。そしてバカルの町に入ったらバス停でもう一度電話して欲しいとの事だった。マキシムといいその友人の親切。全てがとても有難い事だった。
少しでも早く着けるように走ったが登り坂が多く距離は延びない。午後に反対側から来たサイクリストに逢う。セルビアから出発して北京オリンピックに間に合うように走っているとの事。34日前に出発して既に4300キロ走っているという。どう見てみ60歳代の二人。そのスピードでよくこれたとも思ったが、東向きなので納得も出来る。
バカルの町への道はサッカ(Сатка)という町を通り抜ける必要があった。M5の幹線から北にそれる。分かれ道付近にあった標識にはサッカへは4キロ、バカルへは26キロとある。サッカの町は何かを掘削しているようで周りの山が詰まれた小石で高くなっている。(追記:菱苦土石、マグネサイトの掘削が盛んとのこと)
(左上:トラックが走るのがM5の幹線道路、俺は右へ曲がりサッカへと進む)
サッカには湖が近くにあり、その周りを進む。重工業の大きな工場があり、その近くにはとても古そうな教会もあった。そして町の外れに駅を見つけるが、駅とは名ばかりで回りには何もない。一日一便あるのかと思った。町の中は登り坂と下り坂の連続だった。その昔、馬車が駆け抜けたとは思えない程、急な小さな坂が多かった。ある坂を登っている時に、乗用車に乗る青年二人に呼び止められた。中国人か?どこから?どこへ?と、いつもの質問と同じだったが、彼らのカメラに収められる事は嬉しい事だった。M5の幹線道路から外れるサイクリストは非常に少ないはずなので珍しい事だったのであろう。辛い登り坂も彼らと逢えた事で気が紛れる。
(左上:サッカの駅前)
(右上:バカルの町のビルボード、その中の立体交差付近にバス停がある)
バカルもサッカと同じように何かを掘削しているようで盛り上げられた丘が見える。バカルの町に入る前に急な登り坂が続き大変だったが、19時40分に町のバス停に着く。向こう側とこちら側のバス停には計20人位の人が待っていた。注目している。どうして東洋人の自転車に乗る旅行者がこの町に来てしまったのか、といった目だ。よそ者扱いの目だが、慈悲さえも感じられる。今にも多くの人が俺に手を差し伸べようとしているのを感じた。俺は間髪入れずに携帯でマキシムに電話する。バス停の観衆は英語の会話を聞いて安心したようだった。会話が理解されたとは思わないが、町の中心のバス停なので待ち合わせをしている、と悟ったのだろう。
10分も待っているとアリーバが迎えに来てくれた。眼鏡を掛け東洋人の趣きをした顔をしている。英語は全く通じなかった。でも、分かる質問だけに答え、アリーバのアパートに一緒に歩く。村とも町とも言えない大きさだが、集合住宅があり、彼女のアパートは5階建ての建物で、いつものように最上階だった。バカルの町に入る前の登り坂で疲れてしまっていたので、5階に自転車を持ち上げるのは大変だった。
アパートの中はとても綺麗だった。汚れた自転車を入れるには申し訳なかった。そしてアリーバは「この自転車は半分に曲げられますか?」と言う。自転車の事は知っているようだが、俺の自転車はそんな余分な機能は無い。部屋の窓際にはベランダが見えたので、ベランダまで持ち上げて、自転車はそこに納められた。アリーバは夕食の準備もしてくれていた。チェラビンスクのアレクセイからメッセージが届いていたのか、マカロニが主体でチーズや小魚を含む炭水化物とカルシウムを沢山含むメニューだった。食事の後はシャワーを浴びる事が出来た。
夕食の時はアリーバの写真をテレビで見せてもらい、俺がシャワーを浴びている時は俺の撮った写真を見てもらった。チェラビンスクの湖付近で、アリーバとその友人家族の写真が多かった。
シャワーを出てみると、テレビの前にあったソファーはベッドに変わっていて、いつでも寝られる状態になっていた。そしてアリーバはこれから仕事に行くと言う。どこの馬の骨か分からない俺を一人残してどうして出掛けられるのか。全く話が通じない。ロシア語会話集を取り出して聞き質してみると、医者でも看護婦でも無い。やっと救急看護の仕事だという事が分かった。
大陸分水嶺の山々を超えるのは楽ではなかったが、腹一杯になり、おまけにシャワーも寝床も提供された。快適だ。アリーバと連絡をしてくれたマキシムを含め、俺は誰に何と感謝して良いのか。M5の幹線道路から離れ、遠回りをしてサッカとバカルと進んで来た。遠回りをして良かった。
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