朝は5時半くらいに目が覚めてしまった。トイレに起きて、もう一度寝ようと思ったが、写真のアップロードが気になってチェックしたら、メールも気になり、そうこうしているうちに眠気も醒めてしまった。
気になった写真のアップロードは全て終えていて、メールはモスクワのいちのへさんからの返事があった。いちのへさんの勤めるモスクワのラジオ局(ロシアの声)にロスの自宅から自転車の部品を送る事に対して承諾を得られた。いちのへさんに断られたら、次を探さないといけなかったので、とりあえず一安心だ。ウラルの山中の登り坂ではフリーウィールから出るカチン、カチン、と嫌な音がしていたのでそれを交換したかった。
昨晩の電話で恵子には、もしかしたらモスクワのロシアの声の事務所に送って貰うことになる事を伝えてあったので、後は発送して貰うだけだ。俺は今回の旅の自転車のスペアパーツとして、消耗品のタイヤ2本、パンクに備えチューブ、そして各種のワイヤ(ケーブル)を持っていたが、フリーウィールは出発時に自宅に置いて来た。重いからだ。今までの経験からして、1万キロ以上走ったら、フリーウィールとチェーンは絶対に交換しなければならない、と思っていたが、それまでその部品をパニアに詰めて走る気はしなかった。でも、どうやらその時期が来てしまったようだ。
ナターシャは6時位に起きたようだが、また寝てしまったようで、7時くらいにイルヤと一緒に起きてきた。朝食を頂き、携帯電話の事を聞いた。俺は10日間ほど前にエカテリンブルグ(Екатеринбург)にてSIM を交換していたが、もうローミングが始まっていたので、SIM を買い換えたかった。
イルヤにその事を伝えると、昨日のバス停の近くにある携帯電話の店が9時に開くので一緒に行こう、となった。でも、実際は俺の英語がうまく伝わってなく、一緒に家を出るけれども、仕事があるので店が開く時間まで待てない、と言う。仕方なくイルヤとナターシャがバスに乗るのを見送った。俺は昨日の教会の前を通り過ぎた時に、昨晩の老婦人の事を思い出した。教会から出てきた若い男の人を捕まえてその老婦人に電話して欲しいと頼んだ。英語が通じなかったが、何とか電話をして欲しい事は伝わった。最初は電話番号が間違っているのか通じなかったが、何回か電話してみると通じて、その若い男の人は、婦人がここに来るから待っているように、と教えてくれたと思った。
只、45分位待ってみたが一向に現れない。仕方なく、今度は若い女性を捕まえて電話して貰うと、やはり電話番号が間違っていると言う。一度は通じたのに、どういう事なのだろう。俺が電話してみても通じない。このままウファを出てしまったら、次の都会まで500キロはあるので、どうしてもSIM を買いたかった。途方に暮れるところだった。
でも、またこんな時にも助けが現れる。教会から出てきた3人の老婦人が色々と話し掛けてきた。そして俺は空かさずSIM を買いたいと伝えた。すると3人の婦人達はバス停の所にあるからそこで買いましょう、と言ってくれた。
そして昨日問題のあった交番のような警察の小屋の近くで、幾つか店が並んだ中にある携帯電話屋に入る。実は昨日もこのお店の若い人に御世話になっていた。昨日、自転車を掃除している時に、恰幅の良い老婦人と話をしている時に、その店員が少し通訳をしてくれたのだった。
10時位だっただろうか、教会の前で逢った婦人3人と一緒に店内に入ると、その青年も居た。そして俺が旅人でSIM を買えない事を知って居たので話が早かった。3人の婦人の一人が、私が買うことにします、と言ってくれたので、俺は代金を支払って登録だけをその婦人にお願いして、難なく新しいSIM を買うことが出来た。全部で100ルーブルだった。SIM 代が無料なのか分からないが、携帯電話のクレジットも100ルーブルだった。
支払いを終えて、婦人達にお礼を言おうと思ったら、3人の姿が無い。バスが来て飛び乗って行ってしまったのか。それとも、昨晩の一件で俺は悪人で、近付くべき旅人でなくなってしまったのか。支払いは現金だったので、ほんの僅かな時間であったはず。バスが来て飛び乗ったのであれば、婦人達は俺にさよなら位言える時間があったはずだ。しかし、仕方ない。
店を出て、直ぐにケメロボ(Кемерово)で御世話になったウラジミールSMS を送り、これが新しい電話番号なので、前回と同じように恵子にこの番号をEメールで伝えて欲しいとお願いした。
ウファの街を出るまでには時間が掛かった。イルヤに教えて貰った道順でウファの中心の道路に出て、その道を南下して、それからベラヤ川 (Белая、ヴォルガ川水系)に掛けられた橋を西に進む必要があった。都会(人口百万人)だけあって交通量が多い。旧型の路面電車が幹線を車と一緒に走っている。極寒の冬で路面が凍結しても、人々の足はこれで確保されているのであろう。
(ウファ、イルヤ宅近く)
(右:このテラスにテントを張って寝る)
大通りに出ると、イルヤに教えて貰ったようにレーニンの壁画が見える。その道を南下する。すると後ろから英語で自転車に乗る青年に声を掛けられた。ウファから西へ300キロ程離れた都市サマラ(Самара) から休暇でウファに来たとの事だった。自転車で一緒に走りながら話をしたが、直に彼の自転車はパンクしてしまった。俺を気遣ってくれて、先に行って下さい、と言う。俺は言われるままに別れた。
すると大通りにはマクドナルドの看板が見える。疲れていたらお茶でも飲んだかも知れないが、未だ走り出して時間が経ってないのでそのまま通り過ぎる。そして大きな公園を右手に見ながら、大きなバスターミナルを越える。道端に果物や花を売る店があったので、止まってみると、何とデーツ(ナツメヤシ)があった。これには実に驚いた。デーツは暖かい地方の食べ物、という先入観があったので、初夏のロシア、それもウラル山脈に近いところで出会うとは。
一週間ほど前に蜂蜜を買ってまだ残っていたが、これを逃したらいつまたデーツが買えるか分からないので、重くなるのを覚悟して売り子が持っていたビニール袋の半分くらい詰めて貰った。すると、隣にいつの間にか俺の事を写真に撮っている初老の男の人が居た。自転車に跨っているので旅人とは直ぐに分かったのだろう。
いつもと同じ質問であった。少し英語を理解するようで、ウラジオストックから来たと伝えると、よくここまで来たなと微笑んでくれた。嬉しい一瞬だった。
ベラヤ川の橋は長かった。歩道を自転車で進んだのだが、砂利が多く後輪が滑る。おまけに風が強くて、突風が吹いたら転んで欄干から落とされやしないかと気を使った。橋の西端になると砂利はなくなっていたが、それでも後輪が滑る。変だと思ったら、俺もパンクをしていたのだった。後輪の空気が少なくなっていた。
(ベラヤ川の橋)
道端に自転車を横にして、この旅の最初のパンクを修理する。修理用のパッチを旅行中に何回貼ることになるのか気になっていたが、不思議な事に今まで5千キロ位一度もパンクしなかった。ドイツ製のタイヤのお陰だ。
スペアパーツと工具の入った袋を前輪のパニアから出してから、後輪のクイックリリースのレバーを押してフレームから後輪を外す。そしてチューブを取り出してスペアのチューブと交換した。チューブの修理はしない。パッチを貼って修理していたら走る時間が短くなってしまうからだ。
手押しのポンプを使って空気を入れて直ぐに走れる状態になった。小さく頼りなさそうなポンプだったが、昔のものと違って非常に効率よく出来ているようで、空気を入れるのも早かった。修理を終えて走り出すと、どうもブレーキの具合が悪い。雨の中を走り続けたわけでも無いのに効かない。仕方なく、また自転車を降りてブレーキの調整をした。
パンクの原因は恐らく路面電車の線路だと思う。今回の旅で線路を自転車に乗ったまま走り抜けたことは無かった。線路を横切る道路だが、ロシアでは線路と道路の隙間が大きすぎる。俺の体重と荷物の重さでは線路を乗り上げるような形になってしまい、チューブを傷める(パンクの)可能性があったからだ。
でも今日は交通量が多かったのと、出会ったサイクリストと短い時間であったが一緒に走ったので、線路で止まるのが面倒だったので、線路を走りぬけてしまった。あれは失敗だった。恐らく俺もそのサイクリストと同じ場所でパンクしたのであろう。
都会のウファではラッキーにもイルヤ宅に泊めてもらえて嬉しかったが、警官から賄賂を要求された事が非常に残念で、変な思い出の街になってしまった。朝、携帯電話のSIMをイルヤと一緒に買いに行けると思っていたら、時間がないので行けないと直前に言われ、気が動転した俺はイルヤとナターシャの写真を撮ることさえ忘れてしまった。大失敗だった。
ウファの街の東端にあった警察のチェックポイントを過ぎると、途端に幹線道路M7の路肩が狭くなってしまった。ウファの街中は交通量が多かったが、路肩が広い分、走るのは苦労しなかった。しかし、街を出た途端に状況が変わった。どの都会も同じ事か。
朝方、携帯電話のSIMを買った為に出発が遅れ、おまけにパンクまでしたので距離が延びないうちに夜の7時になってしまった。ちょっとした大きさの村のカフェにトラックが既に何台か止められていたので、俺はここで泊めされて貰うことに決めた。24時間営業のカフェだった。アメリカのデリみたいに食べ物が乗った皿が並べられていて、いつもの量の食事を取る。カフェの中は未だ早い時間だったので客は数人しか居なかった。テレビもあって、店の人はその椅子に座って寝れば良い、と言ってくれたが、俺には横になる必要があり、外の駐車場の近くにでもテントを張ると伝える。
(右:このテラスにテントを張って寝る)
カフェの中のテーブルで食事を終えた後、お茶や他の飲み物を飲み、日記を書きながら夜が更けるのを待った。すると一人のドライバ(カフェのお客)がクラスノヤルスクのテレビで俺を見たと言う。結構な人が俺のインタビューを見ていたのだ。クラスノヤルスクは1500キロ以上離れているので、そのドライバは相当な距離を行き来しているのに違いない。
家族から電話が来たら寝ようと思ったが、電話が無い。10時位になってから外に出てテラスのような軒下にテントを張らせて貰うことにした。これで雨の心配は不要だ。
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