2008年6月29日 (64日目) エカテリンブルグ、セルゲイ宅


朝早く外で少女達の声で目が覚める。日曜日の朝なのに早くから集まったものだと思ったら、建物の中には入ってこないで、どこかへ行ってしまった。まだ6時だったので俺はそのまま寝続けた。建物の鍵は外から掛けられているので、俺は昨晩の背の高い女性を待つ必要があった。

7時前に準備を始める。しかし、一向に誰も来る様な気配が無い。仕方ないので、夕食の残りを食べたり、自転車の後輪のタイヤを交換したりした。自転車の距離計は4750キロを示している。60日が経過していたので、もう少し走っていたと思ったが、途中10日間くらいは休んでいるので平均したら一日の走行距離は100キロ近くになる。タイヤはこの旅で始めての交換だ。アメリカを横断、縦断した時は2000キロ位毎に交換していたので、このドイツ製のタイヤには驚く。更に驚くことに、前後共に未だパンクを一度も経験してない。ロシアの道端は良くない。とにかくビール瓶などガラスの破片が多い。それなのにパンクをしてない。俺は、出発前にパンクの修理を何回するだろうかと恐れていたが、いつの間にかパンクをしないのは当たり前、と変わっていた。

夕べ出して貰ったジュースも、サラダも大半を食べてしまった。早く走り出したいが、誰も来てくれない。そして10時前にやっと背の高い女性の母親と思われる人が窓越しに見えた。俺はドアの戸を叩いて、俺が中に居ると伝えると、直ぐにドアを外側から開けてくれて、驚いている。その母親らしき女性はロシア語で話しかけてきたが、その中で「ボリショイ」だけが理解できた。背の高い女性は来なかったのか、というような事を言っていたのだと思う。背の高い彼女は日曜日なので寝坊をしてしまったのか、6時位に集まった少女達を連れてどこかへ行ってしまったのか、分からない。でも、1日閉じ込められたわけではないので、問題ではない。母親らしき女性は、申し訳ない、というような事を言っていたが、俺にとっては夕べの雨の中、公共の建物の中に泊めて貰えたのはとても嬉しく素晴らしいことだったので、俺はひたすらスパシーバを繰り返すしかなかった。

遅れた時間を取り戻したく急いでいたので、その母親らしき女性の写真も撮らずに出てしまった。出来るなら今度はロシア語を習ってから、お礼に何か持ってまた会いに来たい。

(この建物の中に泊めてもらう) (左の建物のある場所に通じる道)

走り出すと気分が良い。道路は凸凹だったり、スムーズだったりといつもと同じだった。でも、夕べの親切、晴天、多少の追い風と全てが良い。道は登りと下りが続くが、以前のような急な坂ではないので気持が良い。



12時前だったがカフェを見つける。いつものメニューだが、玉子焼き、マカロニ、紅茶を注文する。早く走りたかったのでそれだけにした。女主人のような人は、非常に愛想が良かった。店内の写真を撮りたいと聞くと、どうぞ、というような返事だったので、彼女とウェートレスを含め、店内も撮る。外見からは想像できないくらい綺麗な店内だった。



今日は120キロ位走らないといけない。次の都会、エカテリンブルグを目指す。昨晩、ケメロボのウラジミールとSMS でやり取りした際に、ウラジミールは俺にエカテリンブルグでの宿泊先を探してくれると約束してくれたが、落雷の為にインターネットが使えないので、分かり次第SMSを送ってくれるとの事だった。そして、今朝SMSがあり、セルゲイという人の携帯電話を送ってくれた。それはセルゲイにSMSを送り、泊めて欲しいと伝えると、直ぐにOK の返事が来たので、俺は夜遅くになってしまっても、エカテリンブルグまで行きたかった。



追い風が1日中吹いていて、気持ちよく進んだ。しかし、午後3時くらいだったか、左を走り抜けるバスから何かが投げ捨てられた。明らかに俺を目掛けて投げられたものだったが、幸運にも当たらなかった。黄色に塗られた中型のスクールバスからだった。あれがもし目にでも当たったと思うと腹が立った。そのまま走り出すと、次の村にそのバスは停車していた。俺はバスの前に自転車を立て掛けてバスを止めて、抗議した。引率と思われる大人が数人バスの中に座っていて、少なくとも一人の女性の一人は俺の英語を理解していたと思われるが、知らん振りだった。10数人の生徒が軍服のような制服を着ていた。引率と思われる大人の数人は俺を力尽くで降ろそうとしたので、諦めて降りた。逃げるように立ち去るバスの後姿を撮る。

(左:逃げ出すスクールバス) (右:久しぶりに中央分離帯がある道を走る)

こんな事は生まれて初めてだと思う。サイクリングしていて、犬に追いかけられた事や、トラックのドライバに罵声を浴びることはあったが、物を投げられるとは思ってもいなかった。メガネが割れた訳でもないのでラッキーと思いたかったが、子供の悪ふざけだとしても非常に不愉快な出来事だった。

とにかくエカテリンブルグへと急ぐ。途中、ある村で店を見つけてビスケットなどを買う。店の中は広く色々な物を売っていた。しかし、入り口で会った酔っ払いに金をせびられる。お金はあげなかった。シベリアを抜けてからこんな事が増えたような気がする。


道路はエカテリンブルグに近づくと中央分離帯が出来て、片側2車線になる。そしていつの間にかエカテリンブルグの看板が出てくる。意外に早く着きそうだった。

泊めてもらえる予定になっているセルゲイのSMSでは市内に入る前に、警察のチェックポイントがあるので、そこを左、南下する必要があった。そして、俺は郊外のДПС(警察・ハイウェーパトロール) の検問を通り過ぎた。そして道で立っている人に道を聞くと、よく分からないと言うので、セルゲイに電話して話して貰うと、さっきのДПСを南下しなくてはいけなかったのだ。

2キロ位を戻る事になったが、走っていると路肩にロシアのラダ社製の小型乗用車が止まった。車から二人が降りてくるので俺も止まった。最初は誰なのか分からなかったが、話を聞いていると二日前に夕食を食べたカフェで会ったドライバだった。偶然とは実に不思議なタイミングで起こるものだった。そのドライバはエカテリンブルグに住んでいて、一緒の女性は奥さんだった。モスクワは西なのに俺は来た道を戻って東に向っている。不思議そうだったが、説明が出来ない。早くセルゲイの家に行きたかったが、止められて嬉しかった。実に人の良さそうな夫婦だった。


その夫婦と別れて、直ぐにДПСが見えてきて、その道を南に進む。そして最初に出てきたバス停からSMS を送ると、迎えに行くが道路と平行して走っている線路を越えて道を進んで欲しいとの事だった。複線の線路には踏み切りが無い。道があるのに。自転車を持ち上げて、線路を越える。暫くするとセルゲイはジョギングしながら迎えに来てくれた。俺は自転車で、セルゲイはジョギングをしながら家に向った。

セルゲイのアパートは2階だった。そして直ぐにシャワーを浴びさせて貰った。オムスクの時と同じで都市全体が、夏の温水設備の点検の為に温水の配水が止まっていた。でも、俺は冷たい水のシャワーを浴びた。その後、卵を焼いてもらったり、黄色く色の付いたクスクスのような食べ物などを夕食に頂いた。セルゲイには14才位の息子がいて、若くて綺麗な金髪の奥さんが居た。建設機械の情報誌を発行しているそうで、明朝はその事務所に伺うことになった。俺は携帯電話のSIM カードを買いたかった。

セルゲイの息子の部屋でインターネットをやらせて貰う。数日前の都会、チュメインでは写真をアップロード出来なかったので、アップロードしたり、Eメールの返事をする。エカテリンブルグからモスクワまでの道路がGoogle の地図では不明だったのと、セルゲイも詳しくなかったので、遠回りを決めてチェラビンスクに向うことにした。そこに向えば幹線道路を通ってモスクワまで進めるが、もしエカテリンブルグから北西のペルミに進むと、その先のカザンまで幹線道路を進めるか分からず不安だった。それよりも遠回りでも確実で、多分泊めてくれるであろうチェラビンスクに住むアレクセイにも会いたかった。

インターネットのWikipedia では、チェラビンスクからモスクワまで1855キロ。そして、モスクワからラトビアの国境まで610キロ。そして、ここエカテリンブルグからチェラビンスクは200キロ。問題が無ければロシアのビザの期限内にロシアを抜けられる計算だ。

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