2008年6月07日 (42日目) M53マーカー:1150Km付近


夕べは夕食が遅く寝るのも遅くなってしまった。フィヨドールは昨晩一時くらいに戻ってきた。そのせいか、朝起きたら9時近くだった。キッチンで夕べの残りのパスタを食べて、フィヨドールを起こさないように静かに出発の準備をする。フィヨドールは10時位に起きた。俺は早く出発したかったので素早く準備をして、アパートの前で写真を撮った後、走り出す。いつの段階でテレビのインタビューが決まったか忘れたが、今日は3件のインタビューが待っていた。

しかし、ブレーキが甘い。調整してみると随分と良くなったので、ブレーキを交換する必要はなさそうだ。問題の根源はリムのサイズをオリジナルの650B から26インチに変更してしまっていることだった。カンチレバーブレーキの位置がずれてしまっているので、ブレーキパッドとリムの接着面積が狭くなってしまっている。雨の時はブレーキが効き難くなるため、余計にブレーキレバーを握る力が加わり、鋭角のブレーキパッドは更に鋭角になり、ブレーキが効かなくなってしまったのだと思う。


調整後、走り出すと膝の痛みを感じない。只、立ったり座ったりする時は痛いが、筋肉痛もあるので、実際の膝の痛さはよく分からなかった。時間が経てば治るだろう。左手の痛みは然程でも無い。痺れは残っている。フィヨドールと一緒に走り出して最初のストップはスポーツ店だった。手の痺れを押さえるためにハンドルにクッションになるテープを買いたかったが、その店には無かった。そして、その店の前で、最初のインタビューを受ける。車でクルー3人が到着し、フィヨドールが通訳してくれて英語でのインタビューだった。全部で15分くらいのものだった。

そして、クラスノヤルスクの中心に向けて20分くらい走る。噴水のある広場にて次のインタビューを待つ。次のインタビューワーは金髪の綺麗な女性だった。インタビューの内容は特別ではなかったが、カメラマンの撮影はアイディアに富んでいて、色々な角度から撮影していた。そのインタビューが終わる前に次のインタビューのクルーも到着していた。クルー同士は皆顔なじみだったようで、親しそうに挨拶している。


最後のインタビューはクラスノヤルスクの属するクライ(区)の公共テレビ局だった。ロサンゼルスのAlex の知人が勤めるモスクワのテレビ局と同系列だとのことだった。3つのインタビューワーの中で一番若そうなその女性の質問は他とは異なっていて、自分の旅行、自分のチャレンジを理解されている上での質問だったので、話し手としてははとても嬉しいインタビューだった。

3つのインタビューを一つの都市で受けたのは初めてだった。全てフィヨドールが手配してくれた事だった。フィヨドールのアパートに泊めて貰わなかったらインタビューは実現しなかったと思う。それに彼の自由自在に話す英語が無かったら、俺は自分の気持を素直に伝えられなかったと思う。それにロスを発つ前に送ったEメールのフィヨドールからの返事は、もし不在でもサイクリストの友人が居るのでクラスノヤルスクのどこかに泊まれるから心配無用との事だった。実際にデニスを紹介してくれ、彼女宅や友人宅にも連れて行ってくれた。とてもありがたかった。

自分のインタビューをテレビで見れないのは残念だが、先に進まないといけないので仕方ない。インタビューの後、フィヨドールと一緒に走り出す。

彼は俺を町の端まで送ってくれた。大きな町だったので本当にありがたかった。自分ひとりで走ったら、道に迷いながら相当な時間を費やしたと思う。クラスノヤルスクに入った時には10人以上の人に道を尋ねたと思うが、フィヨドールのお陰で無駄なく町を出られた。



M53 の幹線を進むと、「Красноярск」のサインに赤線で斜線が入っていたものを見つける。市の境界線だ。そこでフィヨドールとは別れる。二晩泊めて貰い、彼の友人を沢山紹介してくれた。おまけに携帯のSIM の購入者にもなってくれた。親切にされればされる程、別れが惜しかった。フィヨドールにしてみれば、CouchSurfing.com のメンバーがまた去って行く、といつもの事なのであろうが、一人旅の俺にとってみれば別れは少し辛かった。ありがとう。

フィヨドールと別れると、それからは緩やかな登り坂で、風は強かったが道幅が広く走りやすかった。フィヨドールは時々この方面にサイクリングに来ると言っていた。丘に登るとクラスノヤルスクの町が一望できる気持ちの良い場所だった。



丘を下ると対抗車線には10数人のサイクリストが登ってきた。手を振って挨拶をする。今日は土曜日だったのだ。曜日を気にすることの無い俺には天気だけが心配事で、晴れたこんな日のサイクリングは気持良いものだろう。


坂を登り下り、何回か繰り返す。道端で休憩していると、5歳くらいの少女とその祖父と思われる老人が近づいて来た。英語は通じない。でも、いつもの質問にいつもどおり答える。少女は俺の大きな自転車にとても興味を持っていて、ロシア語で何か色々言っていたが、祖父と思われるその男性はあやすのに苦労していた。恐らく少女は俺の自転車に乗りたかったのだと思う。少女は近くにで摘んできた黄色の花を自転車のハンドルに付けてくれた。こんな些細な事でも俺は嬉しかった。


途中M53 の北側にはレース場が見えた。Audiのレースカーの看板やら、スポンサーと思われる銀行の看板が見える。そして更に進むと、クラスノヤルスクの空港のサインが見えた。ウラジオストク、イルクーツクと大都市を走ってきたが、どこも空港は何十キロと離れた郊外にあった。



その後のM53 の道路はクラスノヤルスクに入る前と同じようになった。道幅は特別広くも無く、舗装もそれなりのものになった。午後8時くらいにカフェを見つける。その隣にはタイヤ修理工場があったので、そこの人に頼んでフェンスの内側にテントを張らせて貰うことにした。カフェで夕食を済ませ、テレビを見ながら日記を書いたが、俺のインタビューは出てこなかった。


テントを張らせて欲しいと言った時に、修理工場の人は二つ返事で承諾してくれた事が嬉しくて、そのお礼にとアイスクリームをカフェで買って行ったが、作業中だったので食べられたかどうか。今日のM53のKm マーカは増減を何度も繰り返したので、今日どれくらいの距離を走ったのか分からない。


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