2008年6月10日 (45日目) M53マーカー:1503Km


しかし、夕べは面白いと言うか世の中の縮図を見たようだった。使用人には何を言っても駄目だが、経営者が一言 OK と言えばそれまでで、問題でなくなってしまう。夕べの事だが、テントを張りたい、とマネージャのような男性とウェートレスに聞くと駄目だと言われたが、きっかけは黄色のシャツを着たアンドレだった。アンドレが先ず俺に話しかけてきて、いつもの質問に答える。他の人と同じようにモスクワまで行くと伝えると少し感銘を受けてくれた。その時にカフェの経営者と思われるセルゲイは奥さんと電話で話をしていて、アンドレは電話が終わるのを待った。

電話が終わると、俺の事をアンドレはセルゲイに話してくれて、セルゲイはまるで友人を泊めるように、俺を2階の部屋に泊めてくれることを簡単に承諾してくれた。アンドレがセルゲイが電話をしているので待ってくれ、と言った時に実は俺は期待していた。何かが起こると。雨の中のテントは耐え難いので俺は屋根の下ならどこでも良かった。しかし、セルゲイは俺に何の質問もせずに、アンドレの言うことをそのまま受け止めてくれたようだった。何とも心広き人達なのか。親切な人達だ。部屋の中には蚊が入ってしまって参ったが、ベッドに寝られたのは嬉しかった。


朝起きてみると小雨が降っていて、早くに出る気はしなかった。カフェの従業員は6時位に起きていて掃除をしていた。7時半位に俺が起きた時にはカフェの掃除は終わっていた。8時くらいには全員が出かけて行ってしまい、その代わりに一人の女性が来た。すると客がカフェに入りだして注文を取り始めたので、俺もいつものボルシチ、玉子焼き、ご飯、紅茶を注文する。食べ終わる頃には小雨も上がりそうだったので走り出す。昨日のセルゲイもアンドレも誰も居ない。礼を言いたくても、夕べの人達は誰も居ない。走り出す。



西の空は薄暗く曇っているが仕方ない。暫く走り、雨の覚悟を決めてレインギアを着る。靴にもビニールバッグを履く。靴のビニールバッグはいつものショッピングバッグだ。今回は初めてそのバッグが簡単に取れないようにテープで巻きつけた。これは都合が良かった。結構長い時間、持続した。

途中、11時か12時位だっただろう、ポーランドから来たという青年に会った。一人で北京オリンピックに合わせて目指していると言う。ロシアのビザは6週間しかないが、そのまま進んでしまうと言う。オーバーステイになるのは間違いないだろう。彼は少しロシア語が出来るように感じられた。そして彼は泊まる時に、村の民家に泊めさせて貰っている言う。それからカフェで食事するお金は無いので民家で調理をさせてもらっていると言う。ロシア語が堪能なのかロシア人と何でも話せるのであろう。




彼の自転車は最新装備で、前輪のハブにはShimano の発電機が付いていた。そのほか、当然だが距離計、パニア、ジャケット、水除けのブーツのカバー、全てにお金が掛かっていた。俺の装備とは比べ物にならなかった。只、替えのタイヤは持ってなかった。俺のタイヤは未だ山が残っているようなので、もしかしたらモスクワまで替えずに済むかもしれない。

彼とは20分くらい話して別れる。別れ間際、彼からジャムを頂いた。1.5リットルの水のボトルにジャムが300cc 位残っていた。彼は、カロリー補給の為にジャムを飲んでいると言う。西から東に進んでいる彼は追い風で、俺とは走る距離は違っても、1日自転車に乗るにはそれなりの体力が必要なのだ。俺はチョコレートをカロリー源として良く食べているが、彼はジャムだった。

頂いたラズベリーのジャムを飲むのに最初は躊躇った。ジャムはパンやクラッカーに付けるものという概念があるので、ヨーグルトを飲むようにジャムを飲めるか気になった。ロシア人は紅茶を飲みながら、ジャムをスプーンに取って飲むと聞いたことがある。そして、そんな心配は一瞬で終わる。試してみるとボトルのジャムはするすると喉を通って行った。美味しい。飲んだ後、水を飲む必要があるかと思ったが、口の中に残った甘いジャムを舌で探すくらい美味しかったので、そんな心配も無用だった。




その後、道は良くなったり悪くなったり。良いところでは路肩が広く走りやすかった。相変わらずの登りと下りだったが、途中からレインパンツを脱いだので苦にはならない。随分と走ったが、林もカフェも無く、今日の距離は100キロを超える。






するとM53の南側に煙の出ている工場があり、道路脇には警備員の小屋があった。この辺でテントを張れたらと思い、警備員に話をしていると、メガネを掛けた中年の男性が「I'm the man.」と話に加わってきた。英語だ。この田舎でも英語を話す人が居た。どうやらこの工場の責任者のようだった。

最初はその辺の空き地どこでもテントを張って良い、と言ってくれた。しかし、周りには寄宿舎の車両が沢山あり、そのうちのどれか若しくはバーニャの建物の中は駄目かと聞くと、良い返事では無かった。暫く黙っていると、先の警備員は工場の東側にある一つの車両のドアを開けてくれた。俺は空かさず此処に寝ても良いかと聞く。するとここで良かったらどうぞ、という感じの返事だった。綺麗ではないが雨には打たれない。警備員は後でマットレスを持って来てくれた。自転車は警備員の小さな小屋に入れて貰うことにした。


その後、責任者らしき人は、どこからか夕飯にとマカロニを器に沢山持って来てくれた。工場にはトラックが10台以上あるので、従業員用の夕食の一部を俺に分けてくれたのだと思う。カフェも店も何もないこのようは場所で、寝るところだけでなく夕食までありつけて、ありがたいことだった。



食事中に近くで落雷があり、その瞬間から停電になった。俺は子供の頃から雷が大好きだった。凄まじい雷の音は、俺には素晴らしいダイナミックレンジの音楽のように思えた。低音から高音まで、そして静粛な瞬間から瞬時にして大爆音へと変わる雷は、オーケストラの演奏にも勝らずにも劣らずだと思う。そして、雷は祖母の思い出でもあった。俺は子供の頃から雷が近づくと軒下で雷が通り過ぎるのを観察していたので、祖母からは家の中に入りなさい、と叱られたものだった。

警備員はお湯を沸かしてお茶を入れてくれると言っていたが、電気が止まりお茶は頂けなかった。俺は寝る場所となった車両に戻り、持っていたキャンプ用小型ストーブでラーメンと茹でて食べる。ベッドにはスプリングがあったが、ベッドの中央が特にへこんでいて、そのまま寝る気になれなかったが、警備員の小屋に戻って自分の空気を入れる薄型のマットを取りに行く気もしなかった。だからそのまま寝ることにした。電気が無いしもう日が暮れてしまっているので寝袋に入るが、時々激しい雷雨になりテントの中でなくて本当に良かったと思った。

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