夕べは夜半に頭痛で目が覚めた。幸いにも薬類の入っているバッグをテントの中に入れていたのでバッファリンを水で飲むと、いつの間にかまた寝てしまった。そして朝起きると寒かった。6月とはいえ未だ朝晩冷え込むのだった。シベリアの冬は想像出来ないくらい寒いのであろう。
テントのフライの内側は水滴が沢山付いていた。そして7時だが日は出ている。しかし、眠いのと寒いのとで、7時半くらいまで横になっていた。フライを乾かしたかったので、隣のカフェで朝食を済ませる。今日の水、2リットルも一緒に支払う。食事を終えて日記の続きを書いていると、注文してないのにウェイトレスは紅茶を持って来てくれた。きっと女主人が気を使ってくれたのだろう。カフェを出る際には、丁寧に礼を言って出てくる。と、言ってもいつもの「スパシーバ」の前に「バリショーエ」を付け加えただけだったが。
テントを片付けて出発すると9時くらいだった。修理工場の人にも礼を言って分かれる。M53 の道路は片側2車線の綺麗な舗装の区間と、古く舗装の状態の悪い区間があった。そしてある時、トラックの運転手は止まって、俺の自転車をトラックに乗せてやる、と言ってくれた。恐らく殆どのロシア人には、俺が大変な事、あるいはどうして自転車でこんな場所を走っているのか、と思ったのだと思う。確かに楽ではないが、これは挑戦の一つなので人の親切に応えてられない。丁寧に断った。
昼食前に幾つかのカフェを見つけたが、午後1時過ぎにM53 から100メートル位道をそれた所に建つカフェに入ることにした。自転車を乗る自分を見つけて12歳くらいの男の子が近づいて来て、その男の子が映っている写真を俺にくれた。裏に住所が書いてあったので手紙を出さないといけない。昼食の内容はいつもと同じ、ボルシチ、玉子焼き、パン、紅茶などを食べる。只、村のカフェでドライバーを対象にしてないのか、50ルーブルと安かった。
昼食を終えて自転車に戻って携帯を見ると、電話があったことを伝える表示があった。恐らく家族からの電話だったと思う。10分早く食事を終えていたら電話に出れたが仕方ない。昼食の後は、前輪のタイヤのチューブを入れなおしてみたが、結局バランスは以前と同じだった。遅い時は問題ないがスピードが上がると次第に前輪のバランスが悪くハンドルが振れてしまっていた。もしかしたら、リムを変えないといけないのかも知れない。
カフェを出て暫く進むと、道路の反対側で自転車の修理をしている人を見つける。ロシア人とは思えなかったので英語でHello と大声で2回言うと、気付いて振り向いた。近づくと老人だった。ウクライナの(首都)キエフから200キロ位離れた町を4月25日に出て、ここまで来たと言う。多分、英語とウクライナ語とロシア語の混じった会話だったが、何とか理解できた。老人は、これから更に東に進み、イルクーツクまで行くという。老人の自転車のフレームは古かったが、リムは新調されたものだった。只、タイヤは丸坊主だった。水のボトルは一つ、2リットル位の容器だ。空気入れはフレームに取り付けられていた。しかしクランク、ペダル、サドル、どれをとっても粗末なもので、よく1ヶ月半もこれで来れたものだと思った。
でもこの老人はデジタルカメラではなく、首から提げたビデオカメラを持っていた。老人のウクライナ語かロシア語での語らいで自分をビデオに収めてくれた。そして二人で同時に収まる為にセルフタイマーでも撮影していた。俺の旅は挑戦だが、老人は旅を楽しんでいるように見えた。ハバロフスクでロシアの声のインタビューを岡田和也アナウンサーから受けた時の言葉が思い出される。人はどうして旅をするのか...。同じ自転車旅行する者として色々話をしたかったが、先を急いだ。
暫く走ると村が見えてきて、水が欲しかったのでM53から離れて村の道を進む。すると井戸があったので水を汲んでいると老婦人がやって来て、どうして外部の者が水を取るのだ、というような事を言う。直ぐに出て行きなさい、という感じだったので、立ち去ろうとすると道の向かいの家から男の人が出てきた。その人は自転車の旅行者だから良いではないか、というような事を言ってくれたのだと思う。老婦人は面白くなかっただろうが、バケツに汲んだ水を俺のボトルに入れてくれた。礼を言うとまるで老婦人は、礼は要らない、とっとと出て行け、水が欲しければカフェでも店でも買え、と言ったのだと思う。
まあ、仕方ない。今までは、どこの村でも誰かが水を汲んでいたので、水が欲しいと「モジナ・バーダ」と言えば、皆誰も快く勧めてくれたのだったが、今日は井戸の付近に誰も居なかったので、勝手に汲んだのが悪かった。向かいの家の男性に礼を言うと、その人はどういたしましてと「パジャールスタ」と答えてくれたのが救いだった。
また暫く走って M53 は一度大きく曲がって、その後に出てきたАЗСではコーラを買って飲み、その後、アチェンスクの町を後にする。道はその後、T字路になっているが標識が無い。左か右か、進んだら良い道が分からない。すると丁度Honda のバンで Transit の紙をリヤウインドウに貼り付けた車が通り過ぎたので、大声で次の大都市の名前「ノボシビルスク」と言うと、ドライバは手招きしてくれた。スパシーバと大声で礼を言い、同じ道を進む。すると直ぐに標識が出てきて、間違ってないことを確認できた。そしてM53 は左に曲がり、それから10キロ位走っただろうか。大型バス7台が勢い良く通り過ぎていく。もしかして、バイカル湖付近(ウランウデ付近)でお世話になったパベールの仲間がまた来たか、と願った誰もクラクションを鳴らさずに通り過ぎた。それらのバスもTransit の紙を張っていたので何処かに陸送中とは分かったが、どこまで行くのかは分からない。未だ日は落ちてないので彼らも未だ数時間は移動するのだろう。
その後で見つけたАЗСとカフェが並んだ所でテントを張らせてもらおうと思い、カフェの人に聞いてみると駄目だと言われた。仕方なく先に数キロ進むと村が見えたので村にM53 を離れて村への道を進む。最初に見つけた人達にテントを張っても良いかと聞くと、駄目だと言われる。その人の家はフェンスがあり、庭も広かったのでOK してくれると願っていたが駄目だった。俺が困ったなと一瞬黙っていると、その人達は何かを話し出して、結局その向かいの家のフェンスを開けてくれて、そこのテントを張ったら良いと言ってくれた。
俺はテントを張る準備をしていると、さっき話した人達の中の一番若い男の人が来て、パン、ピロシキ、キュウリとハムとスメタナの入った美味しいスープを持って来てくれた。どういうことなのだろう。自分が腹を空かしているのを見抜いていたのだろうか。いつもの事だが、ロシア語が出来たらどんなに良かったかと悔やむ。確かに日は落ちてしまい、周りに店は無い。大変ありがたく頂いた。
明朝はこの家のニーナとかいう人が帰ってくるので直ぐに出て行ったほうが良い、というような事を言っていた。その不在宅の庭は蚊が多くて苦労しそうだったので、バーニャの入り口の狭い場所にテントを張る。雨の心配は無用だったのでフライは付けず、明朝早く片付けられるようにした。他人の敷地とはいえ、案内してくれた先程の若い人や最初に話をした老人に何と礼を言って良いのか。ありがとう。
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