夕べはテントを傾いた斜面に張ったので、時々目が覚めると寝る場所を直さなければならなかった。これからは極力平らな地面にしよう。7時くらいに起きてみると気温は0度だった。只、近くの池には氷は無かった。片付け始めると寝袋の頭の部分が濡れてしまっていた。そしてテントのフライの外側には沢山の水滴が付いていた。外気の寒さの証だ。湿ったまま片付けてしまうのは気が引けたので、フライ、寝袋、寝袋ライナーを木の枝などに干して、朝食を取りにカフェに行くと、夕べのメニューは出来ないという。売り切れたとは思えないが、そう言うので仕方ない。サリャンカスープ、クレープみたいなもの、パン2切れ、紅茶で100ルーブル位だった。朝食を終えて、テントなどを片付けると9時位だった。
道は路肩が以前より広く舗装の状態が良い区間が長くなったが、向かい風は相変わらずだ。どうやらこれは当分続くのだろう。ラトビアまで60日間の闘いになりそうだ。その後は、少し風向きが変わってくれるだろう。
(風が冷たくゴアテックスの青い手袋だけでは不十分だったので買い物袋の中に手を入れハンドルを握る)
カフェとは書いてなかったが近くまで行って建物の中を覗くと人が座っていたので中に入ると、中には小さなテーブルが4つがあって、殆どの席が埋まっていた。注文はボルシチ、ビーツのサラダ、パンなどを注文した。それ以外に食べられそうな物がなかった。店の外の看板の文字は、何と読んだらいいか分からない。でも、ウランウデの近くで7台のバスを先導していたポールとそのドライバと一緒に入った食堂にも同じ文字だったのではないかと思う。ウランウデのあの店でも肉を包んだ料理が主体だったが、今日のこの食堂も同じだった。今度は他の選択肢があったら他のカフェか何かに入らないと。
店の中で、俺の後から入ってきた人に声を掛けられた。お決まりの質問だったのでそれに答えたら、どこの国から来たかという質問には、俺が答えるよりも先に別の客が日本人だろう、って言ってきた。どうして日本人だと分かったのだろう。
食事が終わるくらいの時に、家族から電話があった。俺が持っているJALのクレジットカードの期限が6月末だと恵子は言う。もう一枚のアメックスは旅の終わりまでは大丈夫だと言うことだった。ここにも準備不足の結果が出る。恵子は医者と相談して肉をなるべく食べて、薬を飲むようにすると言う。ルイスはロサンゼルスの日本語テレビコのマーシャルに出るかもしれないと言う。バスケットボールのチームメイトの父親が日本語テレビ局に勤めていて、何かのコマーシャルの依頼があって出ることになったとのこと。だた、実際に放送されるまでテレビに映るか分からないのだと言う。
ジマという町で水、キュウリの酢漬け、いつものスニッカー(Snicker、チョコレートバー)、そしてドライフルーツを小さく切ったトレイルミックスを買う。約200ルーブル。ガソリンスタンドで買ったのだが、そのサインは以前にも見たこと見慣れたサインだった。店内には女の職員が二人、そして警備員が一人居た。その内の女の子の一人は、俺が店に入るなり色々説明してくれたが、全く何を言っているか分からなかった。俺が東洋人だとは分かるだろうが、俺がロシア語を理解すると思っているのであろう。
ガソリンスタンドの店を出て改めて、向かい風が強く冷たいのが分かる。それでも、ひばりだけが元気良く空高くからさえずっている。まるで自分を元気付けているように、そして少女の語らいのように聞こえることもあった。何週間か前に、チタの町を出た時には、風の音が凄まじく、悪魔の笑いのように聞こえたが、あの風の音はもう今無い。只、冷たい風が痛む左膝に容赦なく当たっている。
今日一日で80Km 以上走ったので、ジマの町を出てからは今晩の寝床を探すと、建築工事の資材置き場なのかフェンスで囲まれた土地があって、その中に小屋が見えたので大声で声を掛けると、ゲートに男の人が来てくれて、続いて若い男の人が二人出てくる。自分がこのフェンスの中のどこかでテントを張りたいと言うと、最年長の男の人はフェンスの外だったら良いと言っていたが、その後で若い一人が俺が自転車に乗っていることに気付いてくれて、フェンスの中でも構わないと中に通してくれた。風を避ける為、煉瓦の詰まれた横にテントを張る。夕食の為にお湯を貰えないかと小屋に行くと、電気ポットでお湯を沸かしてくれた。小屋の中にはさっきの年配の人も居て、その人からはビールを勧めらるままに一杯だけ頂いた。すると一気に回ってしまい、夕食を済ませ、未だ7時前だったが寝ることにした。
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