2008年7月21日 (86日目)モスクワ (2泊目)


今日は「ロシアの声」放送局でのインタビューだった。朝7時前に目が覚めたが、昨晩遅くまで起きていたので二度寝をしたら10時くらいに恵子からの電話で目が覚める。モスクワに無事に着いた事を伝える。俺がどんな思いでモスクワに着いたかは知らない。誰にも理解できないし想像も出来ないだろう。電話を切った後はインターネットで写真を送ったりメールを確認したりした。

そしていつの間にか12時半を過ぎていたので急いで近くの地下鉄の駅に向かう。その地下鉄の駅は終点の駅と聞いていたので、プラットホームに入って来た電車にとりあえず乗ったが、車内にあった路線図が全く読めない。間違っていたら嫌なので確認の為に次の駅で降りたら、放送局に行くには偶然にもその駅で乗り換える必要があった。


その駅で駅員に英語でどのラインに乗ったらいいのか聞いたのだったが、俺の英語が通じてなかったのか交差しているホームの階段を何度も昇り降りする結果になった。同じ駅員に同じ質問をして双方が逆の事を言っていたので、片方がいい加減な返事をしていたのか、俺の言っていることを間違って聞き取ったことになる。駅の名前だけが駅員に伝わっていたと思うが、都会の駅員は冷たかった。そしてようやく確信がもてたところで、オレンジ色のラインに乗って放送局に向かう。

その際に只一つだけ位置の分かった駅があった。Китай-город、中国人街がモスクワの中心街にもあるのだと思った(これは帰国後に間違いだった事が分かる。Китай-городは赤の広場の直ぐ近くで、中国人街ではなくビジネス街だった。)これが唯一理解できたもので、これを偶然にも基点にできたので問題なく路線を乗り換えることが出来た。神経を研ぎ澄ましている時にはこんな偶然が起きるものだ。度重なる偶然は奇跡としか言いようが無い。

オレンジ色の路線に乗り換えて、駅を出て地上に出たところでいちのへさんの指示通りに放送局で待ってくれているいちのへさんに電話した。文字通り左も右も分からない俺にいちのへさんは駅まで迎えに行てくれる約束になっていた。美人アナウンサーに会えるのは心が弾む。

ラジオ局は今は「ロシアの声」 になってしまったが、その昔は「モスクワ放送」だった。俺が中学2年の時に人生で最初に受け取った国際郵便がここから送られて来たのだろう。シンプルな絵葉書であったが衝撃的であった。その時は東京のモスクワ放送の支局に受信状態と放送の内容を報告してその返事が葉書でソ連から届いたのだった。その昔はBCL (Broadcasting Listener )というラジオ放送を聞いてそのラジオ局に聞いた内容を報告するような事が活発で、AMのラジオでニッポン放送の直ぐ隣の周波数で簡単に聞ける放送局がモスクワ放送だった。あの頃の俺には社会主義が何で、プロパガンダが何であるか分からず無心で海外からの、特に音楽に耳を傾けた。そんなラジオ放送局の本局がここにある。ハバロフスクの支局で岡田和也さんからモスクワに行ったら是非立ち寄って下さい、とは言われていたがまさかその時は実現するとは考えてもなかった。


電話の後、いちのへさんは直ぐに駅まで迎えに来てくださった。写真のとおりチャーミングな方だった。一緒に放送局の入ったビルまで歩き、ロビーのセキュリティーをいちのへさんと一緒に通って局に入り、様々な方を紹介して頂いた。日本人の人と会うのは久しぶりだった。インタビューの前に階上のカフェで、予めいちのへさんが用意している質問に答え本番に臨んだ。

ハバロフスクでは日本人スタッフは岡田さんだけだったが、モスクワには4人の日本人のアナウンサーの方がおり全員を紹介して頂いた。それからモスクワには別の岡田さんが居た。もう既に40年以上勤務しているとの事。昭和40年代にモスクワに来た計算になる。どのような苦労があったのだろうか。何故か自動的に苦労があっただろうと想像した。それからロシアの声の日本語課の責任者と日本語課の他のスタッフも紹介して頂いた。ロシアに居ながらロシア人が流暢な日本語をその人達が使うのが奇妙だった。

15時からあるスタジオに入って、他の番組の収録を見せて頂いた。男性アナウンサーの菅さんの日本語には特に驚きが無かったが、他のスタッフとのやりとりをロシア語で流暢に話していたのが非常に印象的だった。菅さんは舌をかんだ時には直ぐに「イズミニーチェ」とロシア語で謝った。アメリカのアナウンサーのように間違いを誤魔化そうなどという事は無かった。同じ日本人として誇りに思った。その間髪入れない日本語とロシア語の操りが素晴らしかった。

その後、16時から自分のインタビューが始まった。いちのへさんはハバロフスクの岡田さんと連絡を取り合っていたので俺が何をしているのか理解されている。そしてカフェで打ち合わせと質疑の他に雑談をしているのでハバロフスクからの道順や旅の状況を大雑把に把握されていたのでインタビューは瞬く間に進んでしまう。そして気が付いたらインタビューは終わってしまっていた。これで終わってしまうのか、って思うくらい早く片付いてしまった。思うように答えられなかった質問が幾つもあったが仕方ない。

インタビューの様子を収録する部屋はガラス張りでその外では数人が様子を伺っていた。そのうちの一人のロシア人の女性スタッフは俺の話に聞き入っていたようで、インタビューの後で俺の話の内容を日本語で誉められてしまった。話し方を誉められた訳が無い。話の内容がその女性スタッフにとって嬉しかったのだと思う。インタビューの内容は9月に放送される予定との事だった。

17時過ぎには近くのカフェ(デリカテッセン)にて、いちのへさん、菅さん、山上さんと俺との4人で食事をした。今までは道路わきのカフェだったので食事は大抵150 ルーブル位と安かったが、そのデリカテッセンには美味しそうな料理が並んでいたので欲張って皿を沢山取ったら400ルーブルになった。食事中は3人の方に自分の旅に興味を持ってくれて話を聞いて貰えたので嬉しかった。Metro の地下鉄の駅で分かれる。モスクワで自分一人で地下鉄に乗れるとは非常に考えにくい事だと思った。それもまるで自分の裏庭のように。

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