2008年7月20日 (85日目) モスクワ


朝は6時前に目が覚める。皆が寝ていたので日記を書いて静かにしていた。幸いにも夕べは蚊が少なかったので良かった。そして7時前に若い方の人が起きて外に出たので俺も外に出てみると近くで焚き火でお湯を沸かしていた。昨日はスウェットパンツがびしょ濡れになっていたのでお湯を沸かしている近くに立って乾かす。お湯が沸いたところで中に戻って紅茶を頂く。その頃には他の3人も起きてきて俺を含め5人で朝食にパンとパスタのようなものを頂いた。質素だが充分だった。



いつの間にか7時半を過ぎていた。工事関係者の他の人が来てしまって慌てて出る。別に罪悪感は何も無かったが、自分の自転車を工事用道具と一緒に保管してあったので、急いで出てしまった。昨晩暗かったけれど4人の写真が撮れて良かった。

走り出すと空は曇。雨が降りそうな雲だったがとにかく走った。モスクワの中心へ向かう道路は平坦で路肩が広かった。モスクワ市の境界線のサインは質素なものだった。今まで見てきた小さな白い看板にモスクワと書かれていた。終に来た。日曜日だったので朝の交通量が少ないが油断はできない。

途中でマクドナルドとBP のАЗС(ガソリンステーション)を見つけてお店に入った。都会なのでのんびりと買い物は出来ないので、最低限の食料を買って直ぐに出る。都会に来たという感じだった。



走っているといつの間にかM7 のKMマーカーの標識が無くなってしまった。赤の広場に行くには何度か道を尋ねて進んだ。そして終に赤の広場の赤いレンガの壁が見えた時は感動的な一瞬だった。終にモスクワまで無事に来れた。

大した事故も無く体調も崩さず、自転車も無事だ。おまけに今晩の寝床は決まっている。感無量。涙が何故かこみ上げてくる。楽しいことも辛いことも一瞬の間に限りなく蘇ってきた。偶然が偶然を呼び起こし、あの時あの場所であの人に会わなかったらこうはならなかっただろう、と奇跡とも思える瞬間を駆け巡ってきた。

自分は幸運なのか。それともマーフィーの法則どおり、起こるべき事が起こっただけなのか。それともパラレル・ユニバースは本当の事で、俺は無数にある自分のその一面を生きているだけなのか。でも俺はマーフィーの法則もパラレル・ユニバースも否定したい。否定せざるを得ない。起こるべき事が起こったとは思えない。4次元の自分など想像できない。その場その場で受けてきた親切はそんな確立や空想みないなもので片付けられる訳が無い。俺はみんなの力を借りて赤の広場に来れたんだ。

今晩泊めて貰える事になっているグレゴリーからSMS が届き住所を教えて貰った。地図で確認しようとしたが見つけられなかった。近くに東洋人が居たので英語で話しかけるとその中の一人は日本語を話したのでその人にグレゴリーの住所を聞いたが分からなかった。でもその人が一緒のロシア人ガイドの人が直ぐに来ると言うのでガイドが戻るのを待つ。その東洋人のグループは韓国のバレーボールの選手の監督達だった。現役の選手は一人も居なかったが、そこに居た一人は背が高かったので引退した選手だったのだろう。



直にロシア人ガイドが来たがその住所は分からなかった。どうしたものかと考えていると一人のロシア人の男の人が話しかけてきた。その人にグレゴリーの住所を聞くとその方角に行くので一緒に行こう、という事になった。赤の広場を自転車を押しながら歩く。その男の人の名前はまたしてもセルゲイ。セルゲイは英語を流暢に話したので助かった。赤の広場は写真で見ていたのと同じだった。でもここで色々なパレードが行われるかと思うと凄い所に来たものだと我ながら感心した。

赤の広場の西側に歴史博物館の建物があり、その付近にはロシアの道路の基点が記された円盤が石畳のあり、皆競ってその上に立って写真を撮っている。俺もセルゲイに頼んで一枚近くで撮って貰う。セルゲイと歩きながら建物の横のウィンドウを覗いてみるとPOLA の文字が目に入る。シャネルと並んで高級デパートに店を構えていた。先に進むとセルゲイは近くに和食の店があるのでそこで食べようと言うので行ってみると、自転車を安全に置けるような場所が無い。するとセルゲイは自動車の駐車場の係りの男の人に何か話して自転車を預かって貰う事になった。不安だった。自転車を預けたくない。人相が良くない。今まで親切にしてきてくれたロシア人と全然違う人種に思えた。でも貴重品は常に身につけているので最悪の状態は免れるのでセルゲイに続いて和食の店に入った。

モスクワでのホテルの宿泊代の値段は世界的にも高額なのは知っていたので、そんな街での和食はどんな値段なのか心配にもなった。でもセルゲイには道案内して貰っているので自分がご馳走しても良いと思って入る。店の中は日曜日の昼なので客が少なかった。店の中の雰囲気は東洋風で、店員も東洋風の服装だった。メニューを見てみると英語でも併記されていたのでシーフードのチャーハンを簡単に注文できた。そしていざ支払おうと思ったら、セルゲイは自分が支払うと言う。安くなかったので支払おうと思ったが、セルゲイは拒んでさっさと現金で支払ってしまった。セルゲイは以前にモスクワの日商岩井の事務所に勤めていたそうで、恐らく日商岩井の方々から受けた親切を俺に返してくれたのだろうかと勝手に想像した。



レストランを出ると、セルゲイは地下鉄に乗ろうと言う。俺には今晩の寝床が決まっているし、泊めてくれることになっているグレゴリーは夜9時に家に来て欲しいと言っていたので時間を潰す必要があったので願ったり叶ったりだった。地下鉄のトークンを買って貰い、エスカレーターを降りる。エスカレーターに人が乗る板は全て木製だった。冬のモスクワは雪に埋もれ建物中は雪が解けて通路は湿ってしまうはずなのに何故木製のエスカレータなのか不思議だった。勿論動力の伝わる箇所は金属だろうが、なんとも不思議な感じだった。まるで宮崎駿の映画の中の産業革命の一幕のようだった。そしてそのエスカレーターは長かった。安全対策のためかエレベーターの係りの女性が一番下のブースの中に座って監視していた。



地下鉄の通路は見事な造りだった。誰かがモスクワの地下鉄の通路は美術館のようだ、と言っていたのを思い出す。絵画や彫刻が至る所にある。天井に吊られたシャンデリアも大きく見事だった。アメリカに住んでいるとロシアは今でも敵対国であり良い事を言う人が居ないので自分が昔思っていたソ連の事をすっかりと忘れてしまっていた事に気づく。社会主義の中で極寒の地とも言える国に生まれた偉大な芸術家が多い事を思い知らされた。



セルゲイと地下鉄に一緒に乗り彫刻が沢山ある駅で降りてまた赤の広場の駅に戻る。するとセルゲイは自分の車があるから街を案内するという。本当に有難かった。セルゲイの車は日産のブルーバードのような車種だった。モスクワで日産車に乗れるとは嬉しかった。セルゲイはガガーリンの大きな記念碑(像)やら色々なものを説明してくれた。そしてモスクワ大学の近くへも連れて行ってくれた。特徴のある建物だった。そしてその近くに車を止めて見晴らしの良い場所にも連れて行ってくれた。セルゲイとの記念写真を撮って貰い、そこで売っていた絵葉書を買う事も出来た。

セルゲイに自転車が置いてある和食のレストランの近くまで連れて行ってもらい、俺はセルゲイに言われるように100ルーブルを駐車場の人に支払おうと思ったら、自転車を置いた場所にその係りの人も自転車も無い。まずい、と一瞬思ったが、奥からその係りの人が出てきた。どうやら自転車をもっと安全な場所に移動してくれていたようだった。もしかしたら俺が戻ってきてチップを確実に貰える様に見えない所に移動したのかも知れなかったが、自転車が無事だったのでよかった。駐車場から出て見るとセルゲイが自動車の中で待っていたのが見えた。俺の事を最後まで見届けてくれていたのが特に嬉しかった。見ず知らずの旅人にここまで親切にしてくれるというのは何なのだろうと思った。きっと日商岩井の方々がセルゲイをした事をセルゲイは俺にしてくれたのであろう。

セルゲイと分かれる前に、今晩止めてもらう事になっているグレゴリーの家の凡その住所は教えて貰ってあったので、分かれてからその方角に進む。セルゲイ曰くグレゴリーの家の近くにある地下鉄の駅は、最近出来た地下鉄のある路線の終着駅との事だった。駅近くの店で今晩の夕食を買って、近くの公園で食べてグレゴリーの家に行く時間を待った。公園は綺麗になっていて日本の公園のようだった。

約束の夜9時になりグレゴリーの家に行って、3階までいつものように階段で自転車を持ち上げてた。グレゴリーの家族は両親と妹の4人家族のようだったが、誰も俺が泊まる事に対して何も気にしてないので、俺は気が楽だった。5部屋くらいあるフラットで、その中の空いていた一部屋を使わせて貰う事になった。これで明日行われる予定になっているのロシアの声でのインタビューに行ける。ラジオ局の名前は変わってしまったけど35年も前に聞いていたラジオ局にインタビューして貰える事とは。まるで嘘のような事が明日起こる。間に合って良かった。

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