昨晩は恐らく10時半位に寝たのだと思う。日が暮れて間も無く寝てしまった。夜中に一度、電車が駅に止まった時にホームに降りてみた。特に変わりない風景だったが、外に降り立った人はタバコを吸う人が多かった。15分か20分位するといつものように静かに電車は動き出す。暗闇で何も分からないが、夜が明けたらどんなところへ行くのかと思う。俺はこんな旅情が特に好きだ。そして夜は静かに明ける。
(右上:車窓に掲げられた看板には、「ウラジオストック発イルクーツク行き」と記されている)
(左上:掃除をする女性車掌、全乗客の乗り降りの駅を把握しているようだった。)
(右上:通路を挟んだ反対側は向かい合いに二人が座れるようになっていて、その上にはベッドが2段出来る)
その時に気付いたのだが、車掌は全て女性で紺色の制服を着ており、電車の出入り口に付いている階段の上げ下ろしも彼女達の仕事だった。そして乗っている列車が全部で何両編成か分からないが、一つの列車に2人の車掌が担当していて、交代で仕事をしているようだ。ホームには少なくとも8人の車掌が居て数人づつのグループに別れて話をしていた。電車が発つ前は彼女達が最後に乗り込むので、取り残される事はなさそうだった。でも、彼女達の表情は硬く、街中の店番の女性達と同じように笑顔を見せる事がない。
そしてある駅で向かい側の席に一人の青年がやって来た。その青年はズボンを履き替えて直ぐに横になった。どこまで行くのか俺は聞きたかったが、ロシア語が分からない上に、どこの駅で降りると言われてもロシアの地名は全然全分からないので野暮な質問は出来なかった。遂にその人とは挨拶しただけで、午後にある駅で下車した。
そして今度は通路は挟んで右側の一人ずつしか座れない向かい合わせの席には二人の乗客が座る。そして、向かいのベッドにいた青年が降りた後、しばらくすると初老の男の人が座った。他の席(セクション)の人たちと挨拶をする訳でもなく、ベッドの用意をしている。
進行方向の前の右側の一人ずつの席には二人が座る。その人達はパン、干し肉のようなもの、ビール、カップヌードル等を食べている。みんな長距離の電車に慣れているようで、思い思いの食べ物を持ち込んでいる。
ハバロフスクの駅を発つ時にマーシャとマリーナから食べ物の入った袋を受け取ったのだが、きっとマーシャとマリーナも長距離列車に乗った事があったのだろう。そう思うと確かマリーナは西シベリア(ロシアの東西の中央、ノボシビルスクに近い)のアルタイ山脈にハイキングに行った事があると言っていた。きっと電車で数日の距離なのだろう。彼女にそんな経験があったのを嬉しく思う。
俺が電車でチタに移動すると決めた際に、個室にするかどうかを決めなくてはいけなかった。その時に、マリーナは個室はやめた方が良いと勧めてくれた。逆にマーシャは個室の方が安全だと思う、と仲の良い二人の意見は対立してしまった。やはりマーシャは裕福な家庭で育ったのであろう。でも俺は、個室の中では何が起こっているか分からないので、マリーナの勧めるように一般客室を選んだ。そしてその方が安上がりだった。
電車の切符を買う時にもマリーナは余分な費用を払わないで済むように気を配ってくれて、何故か同じハバロフスクの駅の構内の切符売り場なのに安い窓口を探してくれた。どうして切符の値段が違うのか分からない。自転車の荷物がどう扱われるのかに違いがあったのかも知れない。
昨晩もそうだったが、乗客の中の数人がカップヌードルにお湯を入れて自分の席に戻るのを見かける。それを見た俺は、以前買ってあったラーメンを思い出して、ハバロフスクで買ったキャンプ用小型ストーブに付いてきた小さな鍋にラーメンを入れ、列車の後部座席に近い車掌の部屋の前にあった湯沸かし器からお湯を鍋に入れて、5分ほど待ってから食べた。こんな時には美味しいものだ。
今までにウラジオストックからハバロフスクまで走った際に入った店には、大抵ラーメンとカップヌードルが売られていた。このロシアでもカップヌードルは人気のようだ。
ハバロフスクでの最後の夕食の為に買出しに行って気付いたのは、日本からの飲み物。お茶やスポーツドリンク類が沢山並んでいた。それから日本からのお菓子も結構あった。只、その晩の為に購入した板海苔は韓国製だった。日本から輸入されたものもあったが、非常に高いので代用させて貰った。そして韓国の食材も豊富に取り揃えられており、似たようなお菓子も結構並んでいた。
列車から見える景色で不思議なものがある。明らかに古い建物で、壁の一部だけ取り残されているものが多い。それらの全てに屋根が無く、壁は朽ち果てたという感じではなく、明らかに部分的に取り壊したと見えるものが多い。また、火災で使えなくなってしまったという感じも無い。絶対に何かの理由があって取り壊されていると思った。そして、ある地域では、建物の全てが半壊か全壊の状態にあるのに、電柱だけが取り残されている所もあった。その地域が廃墟と化して他の土地へ移り住んでしまったように見える。これは若しかしてペレストロイカの結果なのかと思ったが、そんな事を聞ける人は居なかった。
森の中には沢山の白樺、ベリョーザ(БЕРЕЗА)が見える。そしてさっきは木陰に残雪を見つける。列車の中は暖かいが、外は恐らく摂氏10度以下だろう。あっと言う間に列車は走り去ってしまうが、列車から見る風景は楽しいものだ。
さっきはラジオ放送と思える車内放送があった。でも、30分もすると鳴り止んでしまった。ラジオの無い車内は以前のようにロシア語が微かに聞こえる世界に戻った。
列車の中は時には物凄く静かでまるで新幹線のように長いレールが使われているようだった。でも、殆どの場合は日本の列車のようにゴトン・ゴトン、ゴトン・ゴトンとレールの継ぎ目の音と振動が伝わってきた。
列車は古い日本のものに似ていた。木枠の窓。暖かい車内。子供の頃に乗った列車を思い出す。只、ここはロシア。ハバロフスクでは沢山の人に親切にして貰い、日本語を話す事が多々あった。ロシアに来てもう2週間になるが未だロシアに居るように思えない。これは自分のロシアに対する期待と想像が違っていたからなのだろうか。それとも、旅を重ねるうちに異国の変化というものに馴れてしまったのか。
地球の歩き方のロシア編には、ロシアのGDP(国別)は韓国よりもオランダよりも高いそうだ。しかし、列車が通り過ぎる村々の建物はバラックのようなものが多かった。貧富の差が激しいと言う事だ。ハバロフスクのスーパーマーケットで買出しをした時に見つけたアボカドは2個で670ルーブル(約30ドル)。イチゴに至っては一粒が数ドルになる値段が付けられていた。一般庶民には手の出ない値段で、マーシャもマリーナもアボカドは食べた事が無いと言っていた。
さっきは、たまたま町の駅に列車が止まって居る時にロスの家族から電話を受けた。列車での移動中は電話を受け取れないと思っていたので連絡が取れて良かった。ハバロフスクとチタの区間は電車、若しくはヒッチハイクして移動しようと考えていて、家族にもそう伝えたあった。結局ハバロフスクの人達が電車で行った方が良いとアドバイスしてくれたのでそうした。ヒッチハイクでの危険性を考えると、電車での移動を選んだ事に恵子は満足していた。
次男のクリスは二日間学校を休んだとの事。早く良くなって欲しい。恵子はクリスの面倒で外出が儘ならず、隣の家のリックやメグ、そしてマービスタ小学校の友人ネッドやPJ に御世話になっているとの事だった。
列車は進む。永遠に続くかと思えるような森の中を進む。外には残雪が増えている。とても寒いところへ来てしまったようだ。でも此処は冬のシベリアではない。何とかなるだろう。1987年に北米を縦断した時も、北カリフォルニアのラッセンの山の上には雪が沢山残っていたのを思い出す。その時も山を降りたら雪は無くなった。
これも忘れないうちにと思って書くのだが、マーシャやマリーナ曰く、ロシアの首都モスクワの住民は、極東地方の事を何も知らないとの事で、ハバロフスクの事も知らない人が多いと言う。そしてモスクワの人々はハバロフスクの街の中を熊が歩いているのだろう、と揶揄する事が多いという。因みに、極東地方の旗にはウスリー・タイガーが、極東地方の北に位置するハバロフスク地方の旗には熊が描かれている。
ある駅に停車した際に隣のセクションに青年とその父親が乗ってきた。青年の名前はセルゲイ。セルゲイに英語は話せるかと聞かれ「Yes」と英語で答える。でも、彼は殆ど出来なかった。Yes の返事の後には、もしかしたら話し相手が出来るたかと一瞬思ったが、会話できる程度ではなかった。でも、姉か妹が日本とシンガポールに行った事があり、それだけで親しくなってしまった。まあ正確には酔っていたからだと思うが。
その親子が列車に入ってきた時、他のロシア人達が持っているようなバッグではなく、高級なバッグを持っていたので少し気になっていたが、やはり裕福な家族のようだ。
次の駅でホームに降りると、その親子の知人アレクセイが丁度同じ便に乗っていたようで、親しそうに話をしていて、後で俺にも紹介してくれた。その後、俺はセルゲイに携帯の残高が少ないので課金したい事を伝えると、売店に一緒に行ってくれたが、そこには課金する為のカードを売ってなかった。
(左上:セルゲイとアレクセイ) (右上:セルゲイと一緒に)
(右上:アレクセイと一緒に) (右上:男性は暑がり、女性は寒がり?気温は10度位)
列車に戻り走り出してからは、その親子が我々のセクションに来て座り込み、俺がロシア語を理解してないのを忘れたかのように長い間、一方的な話をしていた。途中、冷えては無かったがビールを貰ったり、紅茶を箱ごと、そして紅茶に入れるミルクも貰った。
移動の為だけだったら自動車という選択があっただろうに、どうしてこの親子は列車に乗って移動するだろう。俺は気になって仕方なかった。でもそんな事は聞けなかった。
(右上:酔っ払っているセルゲイの父親と一緒に)
車窓からは時々M58の幹線道路の様子が伺えた。舗装されている区間と、砂埃が巻き上がり明らかに砂利道の区間がある。M58の土手は綺麗に整っている箇所が沢山見えた。只、通行している車両は極端に少ないようだ。もし俺が自転車に乗ってこの区間を走っていたら、村と村との間隔も長く、きっと淋しいサイクリングになったと思う。でも俺はこの列車に乗って2100キロの移動となる。もし砂利道を走ったら一日100キロ進むのは難しいので、絶対に3週間掛かる距離を電車で進むことになる。砂利道を永い距離進むと自転車のタイヤのスポークが折れやしないかと心配だったが、これで心配無用だ。
そして、これでロシアのビザを延長する必要もなくなり大きな問題は解決する。きっとチタから西に向けて自転車に乗ってラトビアの国境に行けると思う。
外の景色は更に寒そうになっている。川には氷が張っていて残雪が増えてきた。山火事の煙と思われる霞のようなものが漂っている。
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