マリーナが予めタクシー会社に予約してくれていて、タクシーは4時過ぎには来てくれていた。自転車を飛行機に乗せたように梱包して、パニアは前輪用と後輪用の別々にまとめる。荷物をタクシーのバンに乗せ、マーシャとマリーナと3人で乗る。タクシーには途中で眼鏡屋に寄って貰い、昨日注文したメガネを受け取り、直ぐに駅に向う。
駅に着くと、誰かが荷役を呼んでくれて、自転車を含む全ての荷物を4番のプラットホームまで運んでもらう。駅の入り口にはリリーアも来てくれていた。そしてアーニャはそれよりも先に来て待っていてくれたそうだ。電車の乗客は殆どが乗車済みで、ホームに残っているのは煙草を吸う人と、我々の5人だけだった。マーシャとマリーナに手伝ってもらって、自分の席を確認する。椅子の下には荷物を収納できるスペースがあり、貴重品はそこに入れる。そして、自転車の袋は天井の棚に収める。3人ずつ向かい合わせに座ることができ、ベッドは片側に3段あった。そして、マーシャとマリーナは、どこで買ってきたのか一つの買い物袋に一杯の食べ物を持って来てくれた。(追記:もしかしたらアーニャかリリーアが先に買っておいてくれたのかも知れない)
見ず知らずの俺を家に5泊させてくれて、おまけに別れ間際にはお土産も用意してくれた。人はどうしてこんなに親切になれるのだろうか。自分の身勝手な旅行の為に迷惑を掛けてきた自分が恥ずかしい限りだ。
プラットホームに残っていた乗客は皆乗車してしまった。別れの時が来た。4人を抱擁した後で列車に乗り込む階段を登ると、見せてはいけないはずの泪が止まらない。俺の乗る列車の担当と思われる女性のコンダクターに泪を見せて恥ずかしい思いだったが、込上げてくる泪は止まらない。泪を流す弱い男というよりも、感情に流され溢れる泪を抑えきれない自分の姿を見せるのが嫌だった。幸いにも4人の若き娘さん達は誰も泪を見せないでくれた。4人は笑顔で見送ってくれた。4人の中には笑顔を造ってくれた人も居たであろう。でも俺が泪を流しているので気丈で居ざるを得なかったのであろう。一番若いアーニャは列車が走り出すと、一緒に走ってホームの端まで来て俺の事を見送ってくれた。辛い別れだった。
4人の姿が見えなくなり、紺色のユニフォームと帽子を被ったコンダクターは小窓を閉める。ハバロフスクの皆とお別れだ。俺の泪は多くの乗客の目にさらされた。ロシア人にも引けを取らない東洋人の大男が若い娘に泪を流す。非常におかしな光景だったと思う。
ハバロフスクでは色々な人々に御世話になった。誰に何と感謝したら良いのか。休養は取れた。親切にして下さった方々の期待を裏切らないように、何が何でもポルトガルまで行かなければならない。この方々の期待に応えないといけない。ロシアの声でのインタビューでも伝えたが、当に Never give up!
ハバロフスクに着いた5月8日の夜、とても寒かったのに文句一つ言うことなく文字通りに温かく迎えてくれた3人。後で分かったのだが、マーシャとマリーナの二人がバス停で俺を迎えてくれたのだったが、本当はアーニャも迎えに行こうとしたそうだったが、夕食の準備の為に家に残って居たとの事だった。こうして日記を書いていても泪が止まらない。淋しくないと言えば嘘だが、別れが淋しいのではない。何が俺の泪を流しているのだろう。
今朝、JAL の機内誌にて紹介されたロシアの声のハバロフスク支局の岡田さんの記事を読んだ。その記事のコピーは昨日のインタビューの時に頂いた物だった。読み終える頃には何故か泪が流れていた。マリーナが起きてきて一緒に朝食を食べている時に、俺が鼻水をすすっているので病気かと気遣ってくれたので、俺は正直に岡田さんの記事を読んで泪が出てしまった、と答えた。
岡田さんはペレストロイカの前、1989年にソ連に移り住んでいた。その頃の日本と言えば、バブルで金が余っていたはず。日本での生活には何も不自由も無いはずの岡田さんは、敢えてソ連に渡った。物欲に囚われず自分の信念を貫く岡田さんには頭が上がらない。尊敬に値するとか言うものではない。一人の人間としてやらなくてはいけない事をする岡田さんは俺には神様のような存在だ。ロシアの声を日本で聞いているリスナーの数は限られているはず。それでも自分のやりたい事を全うしようとしている岡田さん。そんな人にこの旅で逢えたのは大きな収穫だった。
そんな岡田さんの事をマリーナに伝えたが、俺の気持は理解できてない。当たり前だ。
列車がハバロフスクと発って一時間もすると泪は枯れ、落ち着きを取り戻す。列車に揺られて日記を書いている。窓の外は実に穏やかな日に見える。先週の寒波が嘘のようだった。列車の中は温かく、周りは当然ロシア語の世界。ハバロフスクの皆に会うまでは、ウラジオストックからロシア語の世界だったのに、日本語での生活が5日間もあると、ロシア語だけの世界が不思議だった。このままモスクワに行けるのだったら行ってしまいたい気持はある。途中で降りる予定のチタはきっと寒いに違いない。
列車はハバロフスクを発ってから初めて駅に止まる。当然アナウンスも何も無い。反対側の列車が動き出すと自分が乗っている列車も動き出した。反対側の列車に乗った中国人らしき若者が手を振る。俺も手を振り返した。どこへ行くのだろう。旅行者なのだろうか。ハバロフスクまでか、それともウラジオストックまで行くのだろうか。
列車が動き出して気付くと、誰かが煙草を吸っている。列車の中で喫煙できるとは思っていなかった。後ろの席の人たちの煙草の煙だったので、臭い2日間になりそうだ。でも自転車の旅行とは比べものにならないくらい列車の中は快適だ。外がどれだけ寒いのか温かいのか分からない。どこからか聞こえてくる歌は英語の歌だった。
この日記を書くことと窓の外を見る事の他に何もする事が無い。マーシャにSMSを送って感謝の意を伝える。携帯の残高が20ルーブルになってしまったので、そのうちに送れなくなるだろう。
ふと思った。ふーてんの寅さんの映画を最初から最後まで一本も見た事がないが、確かどの町でも何かをやらかして旅を続けていたと思う。もしかしたら俺もそれに近いことをハバロフスクでして来たのだろうか。しかし、マーシャが今仕事をしていなくて時間があったとしても、どうしてこんなに親切にしてくれたのだろう。妻子持ちの自分に興味があったとは全く考えられない。人に親切に出来る彼女達の性格はやはり生まれ育った環境からなのだろうか。
忘れないうちに書いておくが、マーシャもマリーナも9月生まれ。マリーナは1986年生まれ。アーニャは1989年、ロシアの声の岡田さんがハバロフスクに来た年と同じだと言っていた。マリーナとアーニャの両親は5月4日に泊まった町、ルチェゴルスクに住み、父親は発電所のエンジニア、母親は学校の先生。マーシャの両親は体育大学で教えていて、年に一度位はコンファレンスの為に海外に出掛けていると言っていた。
夜8時半になろうとしているのに日は未だ昇ったまま。確かハバロフスクに入った日は9時位に暗くなってしまったと思っていたが、もしかしたらその時に既に10時近かったのかもしれない。
後ろの列は4、5人のロシア人の男が酔っ払っているようで話し方がゆっくりなのが分かる。中国人のカップルが前の方にいるようで、彼らはカップヌードルにお湯を入れるために、列車の後ろにあった湯沸かし器の所へ行き来する。
俺の席の向かいには初老の男の人が一人。俺の側には俺が一人。通路を挟んで右側にある座席は小さな机に向かい合うように一人ずつの座席があり、そこれには2段のベッドが出来るようになっている。
窓の遥か彼方には自動車かトラックが巻き上げていく砂埃が見える。これがシベリアのハイウェーだった。ハバロフスクの人々のアドバイスを聞いて正解だったと改めて彼らに感謝。もし、自転車で強硬していたら、恐らく後悔していたと思う。でも道路は時々しか見えなかった。線路は殆ど山間部を縫ってシベリアへ向う。極東地方を離れ、二晩寝ればシベリアだ。
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