2008年5月11日 (15日目) M60、ハバロフスク (Хабаровск)、マリーナ宅(4泊目)


目が覚めると、いつものように俺が一番早く目を覚ましたようだった。そして俺が起きて、ごそごぞ日記を書いたりしていると他の3人も起きてきた。マーシャが作ってくれた朝食を頂く。

そして俺はハバロフスクに来てからずっと気になっていた事をマーシャとマリーナに聞く。どうでも事だが、俺にとっては大事な事だった。それは、俺がハバロフスクに金曜日の晩に着いた時のことで、マーシャとマリーナはどれくらいバス停で待っていたのか、どうしても聞きたかった。

これは俺の癖とでも言えるのだろう。どうてもいい事を、そして聞かなければ言い結果に終わる事があったとしても、これが俺の好奇心の一部なのかもしれない。

マーシャとマリーナはそんな俺の質問に嫌がらずに答えてくれた。バス停に俺が現れる30分ほど前から、バス停の並びの待合室のような所で待っていて、俺が自転車に乗って現れる数分前からバス停の外に出て待っていた、との事だった。それが本当なら、俺がバス停に近付いた時に、道を渡って迎えてくれた事の辻褄が合う。もし二人が1時間も2時間も寒い外で待っていてくれたとしたら、とても申し訳なかったので、どうしても知りたかった。聞いたところで、正確な事を覚えているか、答えてくれるか、分からないが俺は聞いてしまった。例えそれが嘘だとしても、俺は少し気が楽になった。答えが何れにしても心優しい娘さん達だ。

今日はある中学の先生の作業室に伺う事になった。そしてそこの向う途中で、薬局によって貰った。そこではリップクリームと、バセリン、それから膝に巻く包帯を買った。アメリカを発つ時も日本を発つ時も、時間に余裕が無く、装備の準備は最低限のものしか用意しなかった。

そしていざサイクリングを始めると、思いも寄らない寒さで唇はガサガサになり、ビニールの買い物袋を引き裂いて風除けの為に膝にそれを巻いても、寒い時はどうにも膝が痛んだ。包帯を巻けば、それだけ血行が悪くなるので、気をつけないといけないのは分かるが、冷えると一段と痛んだので包帯も買った。

それから、眼鏡屋にも寄ってもらった。昨日突然メガネのフレームが真ん中で折れてしまったので、替わりを作らないといけない。宝石屋かどこかで溶接をして貰えれば安上がりだと思い近くの眼鏡屋を当たったが、どこもそんな事をしてくれない。後で思ったのだが、そんな事をしていたら、フレームが売れないので当たり前だ。でも、気に入ったフレームが無いので、店を後にする。

(左上:マーシャが作ってくれた朝食) (右上:ビクターとマーシャ)


日曜日なのに学校の体育館と書かれた建物のドアは開いていた。入って奥に進むと小さな教室のような作業室のような部屋のドアがあり、その一つを開けると、50代後半と思われる先生、ビクターが居た。ビクターは理科の先生だそうで、その作業室の中には様々な石が飾られていた。そして驚いた事にアンモナイトの化石も持っていた。時間があると、ハバロフスク地方や極東地方を歩いて採取しているとの事だった。そして、ある時ビクターは息子達を連れて金山に向った時には、小さな金の塊を見つけたそうでその時の写真を見せてくれた。

写真は他にも沢山あって、衛星写真もあった。間違いなくソビエトの時代の衛星から撮影されたと思われる古いものだった。恐らくソビエト崩壊後に、こんな機密写真に誰も価値を見出せずにビクターの所に集まったのであろう。恐らく収集家にしてみれば、喉から手が出るような代物だと思う。

(左上:金塊を持つビクターの息子達) (右上:衛星写真を持つマーシャとマリーナ)


ビクターは、他にも木の化石やマンモスの牙など、色々と珍しいものを見せてくれた。でも、ビクターの趣味は、収集した石を元に絵を作る事だった。ハンマーや鏨(たがね)を使って石を砕き、グラインダーで形を整えて磨きかける。非常に丹念な作業だ。

そうこうしているうちに、他の男性がやってくる。先生の友人だそうで、俺が来る事を知って、そのまた友人の写真家から写真を預かってきたという。何とも嬉しい事か。5日ほど前に止めてもらったビキンの消防署の時もそうだったが、多くの人が俺にお土産を持って来てくれる。俺は有名人でも何でもない。俺に媚を売っても何にもならない。人の親切や友情というのは不思議なものだ。

(右上:右端の男性が写真を持って来てくれる)

(下の写真は、その男性が持って来てくれたプロの写真家が撮影したもの)
(右上:青い屋根の教会、コムソモリスク広場)
(左上:白い教会とラジオ局などが入った建物) (右上:アムール川の夕陽)
(右上:ここでもアサヒビールが飲まれている)

写真は実に見事な物ばかりだった。でも、俺は貰ってもそれをロスの家に送る事は出来ても、それを持って走る事は出来ない。でも、その人はその人の友人から写真を託されていたので、マーシャとマリーナは数枚だけ頂いたら、というので6枚だけを頂く事にした。彼の写真を撮ると足早に作業室を出て行った。その人はハバロフスク周辺で撮影された全部を俺に持って行って欲しかったようだったので申し訳なかった。でも、そんな彼の気持は嬉しかった。

ビクターはその後、石の加工方法を見せてくれた。そしてそこにあったフレキシブルなシャフトのドリルの電源は何とPC のパワーサプライだった。そこからは5V と12V を取せるのだが、-12V もあるので、24V のモータを使っているのかも知れない。石を削るのである程度の電圧は必要であろう。パワーサプライの横にはつまみがあって、電圧を調整して回転数を調整できるようになっていた。中々なものである。


それからビクターは、ロシアの西側のラトビアに行ったら、首都のリーガに姪御が居るのでもしそこに言ったら電話してみたら良いと電話番号を貰った。そしてビクターの作業室を出る。


体育館の建物の外に出てから直ぐにマーシャは、空手の大会に行く予定だったけれど忘れてしまった、と言って少し悔やんでいたが、俺はビクターと会えたので楽しかったと伝えた。もし空手の大会に行ったら、ロスで空手着などを販売している猪田さんの会社「KI」の空手着を着ている人がいるかも知れないと思ったが仕方ない。

そしてリリーアさんが登場して、マーシャとマリアの4人で歩いて公園に向った。子供向けの遊園地で、そこではロシアで人気のあったキャラクターが飾られていて、日本で最近人気だと言う。そこの近くにあった大きな建物の中で夕食にピザを食べようとなった。でも、俺は我侭を言わせて貰って、ピザに反対した。ロシアに来てイタリア料理のピザは食べたくない。

(左上:体育館建物の表札) (右上:子供向けの公園内にて)


我々はバスに乗って青い屋根の教会があるコムソモリスク広場の近くに向う。そこの近くのデリで夕食を食べる。大きな建物で、一階はお店がありレストランは2階だった。中は綺麗になっていて、食事も美味しかった。

食事の時に、リリーアはラジオ局に勤めている事を教えてくれて、明日ラジオ局の日本人のディレクタに俺の事を話してみて、インタビューに興味があるか聞いてくれるとの事だった。そして、リリーアは帰っていった。

(デリの中にて)

また3人になった我々は歩いて日本領事館の建物の前を通る。大きな建物だった。駐車場で建物の写真を撮ろうと思ったら、警備員が近寄ってきて、写真は駄目との事だった。マーシャは日本語のスピーチコンテストの為に、ここに何回か足を運んだそうだ。

そして戦没者慰霊碑のある広場に向った。碑には沢山の人の名前が刻まれている。そしてその隣の建物でリーリアは働いているとの事だった。そして、その隣は白くて大きな教会があった。もう暗くなってしまったので、我々の他には誰も居なくなってしまった。バスにのって自宅に戻る。

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