2008年5月10日 (14日目) M60、ハバロフスク (Хабаровск)、マリーナ宅(3泊目)

夕べはマーシャとマリアの写真を見せて貰って、話が弾んで遅くなってしまった。今回のサイクリングでこんなに遅くまで起きていた事は無かった。

今朝起きてみると9時だった。俺は外が明るくなっているのには気付いていたが、誰も起きる気配がしなかったのでのんびりしていた。

今日はバスに乗って遠出する予定で、バスは10時に出発すると思っていた。しかし、寝ている事に我慢できずに9時に俺が起きると、他の3人も同時に起きた。そして、3人共に慌てだした。

どうやら9時にバスが出発するのに、我々は9時に起きたようだった。水だけ持ってバスに乗り
(マルシュルートカ)に乗って、昨日パレードを見に行ったときに入れなかった博物館の前に行く。青い綺麗な屋根の教会の近くだった。

(左上:マルシュルートカの中、料金表示12ルーブル)(右上:アーニャとマーシャ)

バスを降りて、別のバスが出発する博物館の前まで走る。そして3人は走るのが速かった。あっという間に先に行ってしまった。俺はたった10日間のサイクリングで疲れ果ててしまったようで、足を上げて走るのに大変だった。それは丁度、5キロとか10キロのマラソンの終了後の徒競走のように感じられた。とても彼女達のように走れない。

教会の前から恐らく300メートル位の所に博物館があって、そこには一番若いアーニャが最初に着いた。博物館の隣はホテルのようで、3人はそこの中に入っていって話をしていた。

外に出てくると、バスはもう出てしまったとのこと。バスは15分間我々を待ってくれていたが、5分前に発ってしまった、との事だった。

3人は悔やんでいた。でも、俺にとってはどうでも良かった。俺の為に、あちこちに連れて行ってくれるのはとても嬉しかったが、俺にとって3人は昔からの友達のようで、言葉の分からない土地で、他に頼れる人が居ない俺には一緒に居るだけで楽しかった。

でも、3人は何としても俺をそのバスが向った土地に連れて行きたいようで、あちこちに電話してマルシュルートカに乗って、少し離れたバス停に向った。でも、行ってみると間違いのようで、また別の場所のバスターミナルに向う必要があった。ロシア語が分からなかったら、何も出来ないが、彼女達が居たら何も怖いものは無い。

彼女達と一緒に行動していると、他のロシア人の俺に対する目が以前と違ったのが分かった。それは俺が只単に自転車に乗ってなかったからなのかもしれないが、ロシア人が俺の事を他の人と同じように見ているように思えた。誰も厄介な東洋人だという目では観てなかった。何となくロシア人の中に溶け込めたような錯覚になった。

バスターミナルの駐車場にマルシュルートカが入り、そこで降りた。大型バスが発着するバスターミナルだった。建物の中に入ると、バスの乗車券を売る窓口があり、沢山のベンチが並んでいた。乗車券を買おうとすると、買え無いと言う。バスの中で支払う必要があったようだ。

(左上:バスターミナル内) (右上:バスに乗り込む前)

暫くすると、昨日雑誌のインタビューを取り持ってくれたリーリアが現れ、今日も一緒に行ってくれる事になった。彼女は英語が得意なので、マーシャとマリアとの会話が日本語で成り立たない時には良い通訳になっていた。

朝は何も食べずに飛び出して来たのと、バスが出るまで10分あると言うので俺はバスターミナルの2階のデリで食べ物を探す。俺は肉が嫌いなので、常に肉が含まれてない料理を探す必要があった。そこには作り置きされている料理があって、その中から好きなものを選んで買って食べた。他の4人は食欲が無いのか、飲み物とお菓子くらいしか食べなかった。4人はどう見てもお嬢様育ちのようで、もしかしたらこんな汚い所では食べたくなかったのかもしれない。

昨日のパレードの時にマーシャの両親は体育大学の「先生」だと教えてくれた。マーシャは「教授」と言う日本語を知らないのかも知れない。

マリーナとアーニャは親里を離れて今のアパート(集合住宅)に住んでいるが、実際にはアパートではなく、ハバロフスクの大学に進学する為に両親が買ってくれたのだそうだ。だから3人の家庭はロシアでは裕福な方だと思う。

リーリアには両親の事は何も聞かなかったが、英語がこれだけ出来るので、何故かそれだけで育ちが良いように思えた。

そして決定的なのが4人の言葉遣いだ。俺にはロシア語が分からなくても、彼女達の穏やかな話し方が実に丁寧であるのが分かる。そしてどんな人に対しても礼儀正しかった。彼女達と俺は親子位の歳が離れているが、彼女達の行動を見てどんなに躾が大切か思い知らされる。

バスターミナルの2階のデリでは、数日前にビキンの消防署で頂いた料理プローフがあったのでそれを中心に惣菜を買って食べる。安いのに結構美味しかったが、ビキンの消防署で頂いたプローフの方が美味しかった。

あるバスがターミナルに入り、それに乗ることになった。時間は正午を回っていた。マーシャはバス代は400ルーブルだと教えてくれた。約16ドルだ。でも、バスドライバに500ルーブル札を渡すと100ルーブルのお釣りは貰えなかった。それをマーシャに伝えると、マーシャは持っていた100ルーブルを俺にくれた。マーシャのお金だったら俺は要らない、と伝えたが受け取らなかった。何が起こっているのか分からないが、何かの時にそのお金を使おうと思って引き下がっておいた。

バスの中は半分くらいが埋まっていた。バスの窓から流れる景色は特別綺麗ではなかったが、4人と遠出できたのが嬉しかった。マーシャが持っていたチョコレートや、マリーナが持ってきた果物などのバスの中で食べた。俺は元来バスや電車の旅が大好きで、今日はバスの遠足のようで目的地に付かなくても良いと思えるくらい愉快なものだった。

バスに乗って1時間半位過ぎたと思う。ある林の中の交差点でバスは止まり、4人はここで降りましょう、と言う。道路脇には何も無い。案内も無ければ村の名前を現す看板も無い。あるのは幹線道路から延びた道だけ。

でも、きっと4人はバスの運転手の言葉を信じて、ここで降りましょう、と言ったのだと思うから、まあ大丈夫だろう。何が起きても俺には何も問題ない。

最初のうち4人の娘さん達は快調に歩いていた。しかし、それも15分位過ぎると足取りが変わってきた。俺の足取りもそうだっただろう。いつになったら目的地に着けるのか分からない。俺はマーシャに、誰でもでも良いから車を止めて、目的地がどれくらい遠いのか聞いて欲しい、と伝えた。暫くしてから反対方向から小さなトラックが向ってきた。そのトラックを止めて彼女達が話をしていると、トラックは U ターンして5人を乗せて目的地の村まで連れて行ってくれる事になった。

運転手は一人だったので、助手席にアーニャとリーリアが座り、マーシャとマリーナと俺が荷台に座った。マーシャは荷台の真ん中に座るというので、俺は運転席と助手席の近くに進行方向とは逆に座るように言った。最初はその意味が分からなかったようだったが、トラックが走り出してブレーキを掛けた時に理解して貰えた。

その小型トラックは5分も走ると村に入って、その外れで降ろしてくれた。リーリアが運転手にチップを渡そうとしたが、運転手は受け取らずに走り去ってしまった。たった5分位の距離だったが、歩いたら大変な距離に思えた。

そして村の中の博物館の前に着くと、ハバロフスクから乗る予定だったバスはもう帰るところだった。我々はこれで帰りのバスを自力で探す必要が生まれたのだが、我々5人はそんな事は気にならなかった。そこにはもう一台の青いバスが止まっていたので、運がよければそれに乗れるかも知れない。

(左上:アムール川の辺の博物館前) (右上:博物館の入場券)

近くにあった博物館に入った。5人分で225ルーブルだったので、当然だが俺が支払って皆で入ってみると、それ程大きなものではなかったが、その地で生活を営んだ原住民の生活用品を見る事ができた。

その博物館の中は、展示場と演技場があり、演技場では客席に子供が10数人集まっていて、舞台では大人の女性が歌を歌ってくれた。博物館の隣は、学校が併設されているようだった。テラスのような所で外を見ていると、俺のメガネのフレームが突然真ん中から割れてしまい壊れてしまった。ロスを発つ前にレンズだけは交換したのだが、10年近く同じメガネのフレームを使っていたので仕方ない。明日にでも眼鏡屋に行って直すか新しいメガネを作らないといけない。とりあえず、フレームはテープで留めておいた。



博物館を出て小川を渡って15分くらい歩く。その途中、恵子から電話があって、次男のクリスが熱を出してしまい、今まで4年間小学校を休まず通っていたけれども、熱があるので学校を休ませると言う。俺には何もして上げられない。早く元気になって、とだけ伝える。

我々は記念碑を見つけて、今日の目的地に辿り着いた。そして、そこを流れるアムール川の辺には沢山の石があり、そこに動物などが沢山刻まれていた。中には仮面を被ったような顔もあった。川の水は少なく、川岸に並ぶ沢山の石が顔をだしていた。我々は無邪気な子供のように、石に刻まれた彫刻を探した。カメラはリーリアと俺が持っていたので、皆の写真も撮った。





そして30分位してから帰宅する為、とりあえずまた博物館の建物に戻る。その際に、民家の前で倒れている人を見つけた。でも、こんな風景は実は村に入った時にもあった。俺は最初、病気か怪我をして倒れてしまったのか思ったが、4人が何も言わないので、外で昼寝でもしてしまったのかと思った。でも2回目に見た時は、その理由が分かった。横になっている人は手に瓶を持っている。酔っ払いだ。アルコール中毒者だろうと思った。

博物館の近くに止まっている青いバスは誰も乗ってないので、出発する気配が無い。このバスが今日何処かへ行く可能性も分からない。俺以外の4人はあちこちに行ってどうやってハバロフスクに戻れるか手段を考えてくれた。そうこうしているうちに、トヨタのバンに乗った家族が幹線道路まで乗せてくれる事になった。本来なら7人乗り位だが10人位が乗り込んだ。運転手はこれで警察に見つかったら問題なので、幹線道路に出たら、また別の車を探すようにと言った様だった。とりあえずありがたかった。

そして、ハバロフスクから乗ったバスを降りた交差点でトヨタのバンから降ろしてもらった。夕闇が近付く中のヒッチハイクは誰も面白くなさそうだった。俺は、何としてもヒッチハイクしてハバロフスクに戻らないといけないので、道端で手を振った。この時に初めてロシアでのヒッチハイクは手を斜め下に下げる事に気付いた。手を上げて止めるのではなかった。

ヒッチハイクの条件としては女4人男一人と人数が多いので悪い。でも、俺でもできる事なので明るく振舞って、行き交う車に合図する。中々止まってもらえなかったが、15分位過ぎたのだと思う。博物館の近くに止まっていた青いバスが現れた。マリーナとアーニャ姉妹はしきりにバスを止めようとしたが、バスは交差点で徐行したものの一時停止もしないで、走り去ってしまった。バスガイドがマイクを握っていて、バスを止めないように運転手に指示しているように見えた。乗客の中にはどうして止まらない、という顔をしている人も居たが、バスは容赦なく通り過ぎる。

アーニャは酷く怒った。実はアーニャは博物館の前に留まってそのバスに乗せてもらうためにトヨタのバンに乗せてもらうのは反対だったのだ。でも、もう遅い。バスは走り去ってしまった。

でも、運良くそれから10分もしないうちに、比較的新しいトヨタのバンが止まってくれた。先のバンと同じように右ハンドルの日本からの輸入車だ。リリーアが話を付けてくれて、ドライバのアレクセイはハバロフスクまで連れて行ってくれるとの事だった。アレクセイは、ハバロフスクに住む親戚か兄弟の家に行く途中のようだった。

(右上:アレクセイの車に乗せてもらう)

4人の若い女性を相手にアレクセイは色々な話をするのではないかと思ったが、物静かな青年だった。アレクセイは常に女性達の話の聞き役だった。途中、乗せてもらえなかった青いバスが路肩に止まっているのが見えた。どうして止まっているのか最初分からなかったが、アレクセイ曰く、故障しているとのことだった。

俺はこんな小さな出来事だが運命とは実に不思議なものだと思う。もし青いバスに乗せて貰っていたら、我々はその場に足止めを食ってしまったであろう。

我々はアレクセイのお陰で無事にハバロフスクの街に戻れた。朝、一度バスを乗り換えたバス停で降ろしてもらい、リリーアがアレクセイにガソリン代を渡しているようだった。俺も支払うと言ったが、リリーアは受け取らなかった。アレクセイの写真を撮って別れる。

そのバス停からバスに乗って、マリーナのアパートに戻る。リリーアは家に戻る為に、別のバスに乗った行った。

昨日から何度と無くバスを乗り降りしたが、今晩バスを降りた場所は、二日前に最初にマーシャとマリーナと会った場所だった。そのバス停には、携帯電話の店があり、そこでは携帯に課金できるので、昨日インターネットを使わせてもらったのと今日も少しやりたかったので、とりあえず100ルーブルを渡して課金してもらった。

昨晩はマリーナとアーニャが夕食を用意してくれて、今日はマーシャの番だった。全て野菜の食事にしてくれた。どれも美味しかった。

夕食の後、マーシャとマリーナに俺は今まで撮った写真を観てもらった。そして、この時初めて色々な事が明らかになった。マリーナの両親と妹は1週間ほど前に泊まったルチェゴルスクに住んでいる。そしてマリーナは両親から俺がハバロフスクに向っていると聞いていたそうだ。

マーシャは、友人のガリーナとセルゲイがルチェゴルスクの北の道端で俺と逢って写真も撮っていて、俺がハバロフスクに向っていることを彼らから聞いていたそうだ。

そして、ふとした時にマリーナとマーシャは俺の事をお互いが知っている事に気付き、ハバロフスクに俺が来たらマリーナの所に泊まって貰おうと決めていたのだった。

運命、そして人との繋がり。世の中は不思議なことばかりだ。どうしてみんなこんなに優しくしてくれるのか。

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