2008年5月16日 (20日目)M55, 90Km




数日前まで居たハバロフスクでは、インターネットを自在に使えたわけではなかったので、アップロードする写真が溜まっていた。

でも、セルゲイの自宅には早いスピードのインターネットがあったので溜まっていた写真を昨晩アップロード出来た。しかし、あまりにも量が多かったので夕べは全部をアップロードできなく、残りを今朝起きてからアップロードした。

セルゲイの家は8時位に出る。外は寒く摂氏0度だったが先に進まなくてはならない。セルゲイは仕事場にバスで向うと言う。家の前にはバス停があった。セルゲイと別れる。

別れる前にM55 の幹線道路への行き方を教えて貰っていた。街を北上して、西に向えばそこから南西方向に延びているM55を使ってウランウデ(Улаан-Үдэ)の方角に向う事が出来る。

(左上:セルゲイ) (右上:街中から出て幹線道路を進む)

ウランウデまでは二つの幹線道路があって、北周りと南回りがあり、チタに来る前はどちらを回って進もうか迷っていた。でも、チタに来る前に決心は付いていた。それが例え遠回りになってしまったとしても、大きいほうの道路、M55を進む事にしていた。

ハバロフスクで5泊、電車内で2泊、そしてセルゲイの家で1泊。俺は1週間以上自転車に乗ってなかった。向かい風がひどく冷たく最初の数時間はほとんど進めなかった。久しぶりに乗る自転車は、怠け癖の付いてしまった俺には厳しかった。

チタの街の交通は結構な量だった。乗り合いバスが多く走っていて、道路右側の停留所に頻繁に止まるので神経を使った。幾つかの大きな交差点を超えて、進むと明らかに道は北に向っていた。俺が進まなければならないのは西なのだが、詳しい道路地図が無いので標識のとおりに北に進む。

昨日もそうだったが砂埃が凄い。基本的に風が強いので、砂も小さなゴミも宙を舞っている。街の中心から外れると、交通量もバス停の数も極端に減った。そして、大きな交差点で道は左、西に向けて進んだ。しかし、風の向きは北西からだったので、向かい風には変わりなかった。でも、ウラジオストックから陸揚げされたと思われる車両を輸送する台数は増える。只単に一般車両が減ったのかもしれない。

昼まではあまりにも向かい風が酷く、自分は地の果てに向かっているような気分になった。というのは、向かっている方向の雲は重く黒く、この向かい風の音は序奏曲に過ぎないよ、と言わんばかりに思えた。

汗を以前のようにかいてないので喉を潤すことも無く、あまりにも風が強く一度休憩をしたら動き出すのが大変そうなので自転車を止めて何かを食べようとも思えなかった。

(左上:連邦高速道路M-55、バイカル --- イルクーツク --- チタ)


でも、汗をかいてないとは言えエネルギーの補充だと必要と思い、鉄橋の下で風を避けながらハバロフスクのマーシャ達に買って貰ったチョコレートを食べる。風は遠くからゴミを運んできて、葉っぱ一枚無い木の枝に留まっている。そして家畜の為と思われるフェンスもゴミが溜まっている。今は春。雪は全くないが、もし冬だったら毎日がブリザードなのだろう。シベリアの冬は想像を絶するものなのだろう。

(左上:木の枝にはゴミが留まる)

道は緩やかな登り下りが続く。あるところで貯水池のような池の横を走る。当然、池の水は波立って白くなっている。写真を取ろうと思ったが、カメラをフロントバッグから取り出しただけで、バッグの中から物が飛んで行きそうなので出来ない。

暫く走ると右側の離れたところに民家が綺麗に並んでいる集落があった。俺はその近くにあった店で水やお菓子そしてラーメン等を買う。


道は追い風に変わると、坂道を登っていても楽だった。そして風は強いがハバロフスクに入った日のような冷たい風ではなかったのが救いだ。そしてチタからイルクーツクに向うM55の幹線道路ははM60とは違って、村は避けて造られていたので、村を通る機会が減ってしまった。村を通れば店を見つけられる可能性があるが、村を通らないので店を見つけられない。もし村に入っていって、もし店が無かったら無駄足になるので、いつも躊躇した。


夜7時、まだ明るかったがこの先に進んでも、どれくらい先に村があるのか分からないので、道端に止めてテントを張る。今日は結局90キロくらい走った。道路から50メートル程離れた場所に、ケーブル敷設のために掘られたと思われる側溝が道路と平行しており、その砂の山の裏側に自転車が道路から見えないように倒して、その側溝の中にテントを張った。午前中にある店で買ったラーメンがあったので助かった。それをハバロフスクで買ったキャンプ用のストーブでお湯を沸かして食べる。民家から離れ、文字通り野原でのキャンプはこのサイクリングで初めてだ。丘の上には紫色に見える花が咲き乱れている。


(右上:丘の頂上付近には紫色の花が見える)

側溝は深さが1.5メートル程あって、出入りは不自由だったが、その中では風を殆ど感じなかった。側溝の幅はテントの幅と同じくらいで少し窮屈だったが、できるだけ平坦な場所を選んでテントを張る。

心細くはあるが、それよりも心配なのは明朝起きた時に自転車が盗まれずに無事にあるかどうかだ。

2008年5月15日 (19日目)チタ ( Чита́ )、セルゲイ宅


目が覚めると外は靄がかかっている。寒いシベリアの大地は日を浴びて息を吐いているように見える。恐らく外は5度以下だろう。

夕べ、セルゲイと父親は途中の駅で降りていった。電話番号を貰っている。セルゲイはしきりに自宅に寄って行け、と言っていたがチタで俺が電車をおりたら逆戻りしないといけないので無理な事だった。そしてセルゲイは俺のオレンジ色のジャケットが特に気に入ったようで、動物の毛の付いた上等そうな帽子と交換してくれと言う。この帽子だったらどんな寒くても大丈夫、ってな事を言っていたと思う。しかし、俺には帽子は不要で、ジャケットが無くなったらそれは問題だった。

執拗に迫られたが、オレンジ色のジャケットは道路上で目立つので、俺にはこれが必要なんだと身振り手振りで伝えると、最後は諦めてくれた。値段からしたら恐らく10倍位の差があったと思う。セルゲイも父親も高価そうな毛皮のジャケットを着ていたが、こんな派手な色のジャケットを見たことが無かったのかも知れない。

セルゲイたちが降りた駅はどこか分からない。外は真っ暗闇だった。父親は恐らく工事関係の仕事をしているのだと思った。ロシア製のトラック会社カマズ(КАМАЗ)の事を話したら、あんなトラックはトラックでは無い、っていうような事を言っていた。カマズの品質が一般人にも知れ渡っているとは思えないので、俺は勝手に工事関係の仕事に付いているのではないかと思った。

カマズのトラックは確かに故障が多いように思える。幹線道路脇に止められたトラックの多くがカマズだった。でも、輸入されたトラックの数と比べるとカマズのトラックは遥かに多いはずなので、何とも言えない。それにパリダカールのレースではトラック部門で何回も優勝しているそうだ。(追記:後日、カマズの本社のある都市ナベレジヌイェ・チェルヌイ、Набережные Челныを通る。場所はウファとカザンの中間。)

とにかく不思議な親子だった。ハバロフスクとチタの区間はその昔流刑に処された犯罪者が多く住んでいた土地だそうで、どうしてこんな裕福そうに見える親子がそんな所に住んでいるのか。もしかしたら道路工事業を営んでいるのか、と想像は膨らんだ。昨晩のセルゲイの父親は酷く酔っていたが、電車を降りる時には凛々しい紳士に戻っていて、力強い握手をして別れた。

その後、俺は電車に揺られるままに寝る。それから数時間寝てしまったのだと思う。そろそろ電車を降りる時間かと思って身支度を終えると、それから未だ2時間もある事が分かり、何もする事がなくなってしまった。女性の車掌は、俺が何度も時刻表を見に行ったから気付いたようで、「降りる駅になったら教えるから待ってて下さい」というような事を言ってくれた。笑顔を見せなかった彼女だったが、こんな些細な事で急に優しい女性に思えてしまった。


(右上:俺の乗った9号車の車掌の二人、昼夜交代の勤務のようだ)

俺はこれで電車の中で二晩を過ごしたことになる。下車まで時間が余ってしまったので、となりのセクションで座っていたら、ハバロフスクに着くまでに何回も受けた同じ質問をその人達からも受けた。そしてこの人達は皆モスクワに行くなら、このまま電車で行けば良い、というような事を言っている。どうして自転車に乗るんだ? 日本のマシーナ(машина、エンジン、自動車)は優秀なんだから、マシーナで行ったほうが良いんじゃないか、ってな事を言っていたのだと思う。

線路は山間部を進む。そして高度が少し下がったのか、家々の庭にある暖房用に蓄えられた薪が少なくなってきたのが分かった。若しかしたら街に近いので集中温水が張り巡らされているのかもしれないと思ったが、いつもの大きなパイプが見当たらない。

今は軍事基地の横を通ったところだ。その昔、外人の乗った列車だったらカーテンがそんな光景を遮っていたに違いない所だ。兵器車両が沢山見えた。そして、その直後にロシアで初めてハウス栽培用のビニールの被せられたものを見つけた。



そして電車は暫く進む。住宅が沢山見えてきた頃には電車は徐行を始めた。俺が下車するチタの街に入った。電車がチタの駅で直ぐに出てしまうとは思わなかったが、俺は自転車を一番上の棚から下ろし、ベッドとしてそしてソファとして座っていた下からパニアの全てを取り出した。

アパートのような集合住宅も、集中温水のパイプも見え出した。そして車掌は俺の事を忘れずに居てくれた。俺が準備万端なのを見て、一言「次ですよ」と言ってくれたのだと思う。


(右上:左に座る老人とはハバロフスクから二日間一緒だった。)

チタ(Чита)では結構な数の人が降りたと思う。俺は荷物が多いので、何回も乗り降りを覚悟していたら、自分の向かいに座っていた老人が手伝ってくれた。最後に老人の名前をノートに書いて貰ったが読めず、聞いた名前もうまく復唱できず大変な失礼をしてしまった。

電車を降りた横で自転車を組み立て始める。電車は俺が降りてからも20分くらい停車して居たが、静かにホームを出て行った。列車の中にその老人が俺の事を見ていたのが分かったので大きく手を振る。夜の女性の車掌に代わって別の車掌も手を振ってくれていた。朝晩の挨拶さえまともに出来なかったが、何も問題が無かったのは彼女達のお陰だ。二日間ありがとう。

自転車は1時間ほどで組み終えた。途中でセルゲイに電話してみると繋がったので、自分がチタの駅に着いた事を伝えると、午後6時に駅の前の噴水の所で待ち合わせする事になった。横で電話を聞いていたモンゴル人と思われる人は、着いて来なさい、と言うので付いていくと、そこは駅の正面で噴水があった。俺とセルゲイの会話を理解していたのだった。俺にはこんな些細な事が泪が出るほど嬉しかった。

(左上:チタの駅前、噴水前)

セルゲイとは CouchSurfing.com を通して知り合った。ウラジオストックのエフジェニア、ハバロフスクのユーリヤ達と同じメンバーだ。俺はロスを発つ前にセルゲイとは何度かメールでやり取りをした。俺はロシアでキャンプで夜を明かす事がどんな事なのか、そしてキャンプ用のストーブの燃料として何が適切か等とアドバイスを貰っていた。

午前11時半位だっただろうか、近くに居た学生を捕まえて英語で話をすると、鉄道関係の高校生だと分かった。学校の門の守衛に、自転車を学校の敷地内に入れても良いかと聞くと、最初は駄目だと言っていたが、俺が粘ったわけでも無いのに何故か入りなさい、というような感じになったので、俺は敷地内に入れてもらえて、休憩時間に集まった学生に英語で語りかけた。

男子生徒は引っ込み思案ぎみに俺を避けていたが、女子生徒は実に積極的というか沢山集まってきて、「名前は? どこから? どこへ行くの?」といった質問に加え、中にはいきなり「わたしはあなたが好きです!」なんて言い出す女子高生も居た。俺の事をからかっている。でも英語が分かってないのか、ロシア語を英訳したらそんな極端な言葉になるのか、俺にはさっぱり分からない。

生徒に俺は英語のクラスでスピーチしたい、と伝えたと思った。生徒の数人が校舎に戻り、女性の先生が校舎から出てきた。金髪の恰幅の良い英語の先生だった。最初、俺はこの先生と話をしたら教室に行って英語の勉強の大切さをスピーチ出来るのだろう思った。しかし15分もすると「ではさようなら」となってしまった。

いきなりカリキュラムを変えるの無理だったのか、旅行者の俺を教室に入れるのが問題だったのか分からない。クラスルームではなかったのが残念だが、30人くらいの生徒がその先生と俺との会話に生徒は耳を傾けていたのでそれで良しとした。英語が出来ると、俺みたいな旅行者との話が出来る事の楽しさは伝わったと思う。

学校を出る前に生徒にインターネットカフェが近くにあるかと聞くと、500メートルも進むとあると言うのでその方向に行ってみたが、見つけることは出来なかった。

俺はインターネットカフェで時間が潰せたらと思ったが、諦めて駅に戻る。途中、出店でピロシキを買って昼食とした。駅の外は風が冷たくとてもそこで待てる状態ではなかったので、近くの別の建物に入って約束の時間が来るのを待った。

自転車をその建物の中に入れたが、特に誰も文句を言う人は居ない。そして沢山の椅子があって、それはそこでロシア語会話集を見たり、地球の歩き方のロシア編を読んだりしたが、長続きはしなかった。二日間の列車の旅に疲れていたわけではないのに、何故か何もする気にならなかった。


(左上:レーニンの銅像) (右上:セルゲイの自宅にて)

チタの街は乾燥していた。風が強く、常に砂埃が舞っていた。そしてここにもレーニンの銅像がある。その広場は特に広かった。

5時まで駅の待合室で待っていて、それからは寒かったがセルゲイを噴水前で待った。セルゲイは6時過ぎに現れ、自宅まで歩いて10分くらいの距離だった。集合住宅の中で、ここでも自転車を持ち上げて階段を登った。

セルゲイは母親と二人で生活していて、母親は病気という理由で一晩だけだったら問題ないだろうと俺を泊める約束をしてくれた。

夕飯の前にインターネットを使わせてもらい、メールを幾つか返信して、セルゲイが作ってくれた夕飯の後は、溜まっていた写真のアップロードを行った。セルゲイはコンピュータの仕事をしているとの事だったが、給料は月に400ドル位だと言っていた。安すぎる。でも、地方都市のチタでは平均的な給料だと言っていた。

セルゲイは日本のアニメに特に興味があるようで、コンピュータの残されている沢山のアニメを見せてくれた。セルゲイは日本に行きたいようだが、ビザの問題もあるし、宿泊代が高すぎるので難しいだろうと言っていた。

外は寒そうだったが、今日もこうやって屋根の下で寝る事が出来た。有難い事だ。セルゲイに感謝。

2008年5月14日 (18日目) ハバロフスクとチタの間(列車内2泊目)


昨晩は恐らく10時半位に寝たのだと思う。日が暮れて間も無く寝てしまった。夜中に一度、電車が駅に止まった時にホームに降りてみた。特に変わりない風景だったが、外に降り立った人はタバコを吸う人が多かった。15分か20分位するといつものように静かに電車は動き出す。暗闇で何も分からないが、夜が明けたらどんなところへ行くのかと思う。俺はこんな旅情が特に好きだ。そして夜は静かに明ける。



(右上:車窓に掲げられた看板には、「ウラジオストック発イルクーツク行き」と記されている)

(左上:掃除をする女性車掌、全乗客の乗り降りの駅を把握しているようだった。)
(右上:通路を挟んだ反対側は向かい合いに二人が座れるようになっていて、その上にはベッドが2段出来る)

その時に気付いたのだが、車掌は全て女性で紺色の制服を着ており、電車の出入り口に付いている階段の上げ下ろしも彼女達の仕事だった。そして乗っている列車が全部で何両編成か分からないが、一つの列車に2人の車掌が担当していて、交代で仕事をしているようだ。ホームには少なくとも8人の車掌が居て数人づつのグループに別れて話をしていた。電車が発つ前は彼女達が最後に乗り込むので、取り残される事はなさそうだった。でも、彼女達の表情は硬く、街中の店番の女性達と同じように笑顔を見せる事がない。

そしてある駅で向かい側の席に一人の青年がやって来た。その青年はズボンを履き替えて直ぐに横になった。どこまで行くのか俺は聞きたかったが、ロシア語が分からない上に、どこの駅で降りると言われてもロシアの地名は全然全分からないので野暮な質問は出来なかった。遂にその人とは挨拶しただけで、午後にある駅で下車した。

(左上:左側が俺のベッド) (右上:天井の紺色の荷物には分解した自転車が入っている)

そして今度は通路は挟んで右側の一人ずつしか座れない向かい合わせの席には二人の乗客が座る。そして、向かいのベッドにいた青年が降りた後、しばらくすると初老の男の人が座った。他の席(セクション)の人たちと挨拶をする訳でもなく、ベッドの用意をしている。

進行方向の前の右側の一人ずつの席には二人が座る。その人達はパン、干し肉のようなもの、ビール、カップヌードル等を食べている。みんな長距離の電車に慣れているようで、思い思いの食べ物を持ち込んでいる。

ハバロフスクの駅を発つ時にマーシャとマリーナから食べ物の入った袋を受け取ったのだが、きっとマーシャとマリーナも長距離列車に乗った事があったのだろう。そう思うと確かマリーナは西シベリア(ロシアの東西の中央、ノボシビルスクに近い)のアルタイ山脈にハイキングに行った事があると言っていた。きっと電車で数日の距離なのだろう。彼女にそんな経験があったのを嬉しく思う。

(左上:車両の一番後ろにあった湯沸かし器) (右上:電車の時刻表)

俺が電車でチタに移動すると決めた際に、個室にするかどうかを決めなくてはいけなかった。その時に、マリーナは個室はやめた方が良いと勧めてくれた。逆にマーシャは個室の方が安全だと思う、と仲の良い二人の意見は対立してしまった。やはりマーシャは裕福な家庭で育ったのであろう。でも俺は、個室の中では何が起こっているか分からないので、マリーナの勧めるように一般客室を選んだ。そしてその方が安上がりだった。

電車の切符を買う時にもマリーナは余分な費用を払わないで済むように気を配ってくれて、何故か同じハバロフスクの駅の構内の切符売り場なのに安い窓口を探してくれた。どうして切符の値段が違うのか分からない。自転車の荷物がどう扱われるのかに違いがあったのかも知れない。

昨晩もそうだったが、乗客の中の数人がカップヌードルにお湯を入れて自分の席に戻るのを見かける。それを見た俺は、以前買ってあったラーメンを思い出して、ハバロフスクで買ったキャンプ用小型ストーブに付いてきた小さな鍋にラーメンを入れ、列車の後部座席に近い車掌の部屋の前にあった湯沸かし器からお湯を鍋に入れて、5分ほど待ってから食べた。こんな時には美味しいものだ。

今までにウラジオストックからハバロフスクまで走った際に入った店には、大抵ラーメンとカップヌードルが売られていた。このロシアでもカップヌードルは人気のようだ。

(左上:湯沸かし器のある場所の反対側で車掌の部屋とトイレのドア)

ハバロフスクでの最後の夕食の為に買出しに行って気付いたのは、日本からの飲み物。お茶やスポーツドリンク類が沢山並んでいた。それから日本からのお菓子も結構あった。只、その晩の為に購入した板海苔は韓国製だった。日本から輸入されたものもあったが、非常に高いので代用させて貰った。そして韓国の食材も豊富に取り揃えられており、似たようなお菓子も結構並んでいた。

列車から見える景色で不思議なものがある。明らかに古い建物で、壁の一部だけ取り残されているものが多い。それらの全てに屋根が無く、壁は朽ち果てたという感じではなく、明らかに部分的に取り壊したと見えるものが多い。また、火災で使えなくなってしまったという感じも無い。絶対に何かの理由があって取り壊されていると思った。そして、ある地域では、建物の全てが半壊か全壊の状態にあるのに、電柱だけが取り残されている所もあった。その地域が廃墟と化して他の土地へ移り住んでしまったように見える。これは若しかしてペレストロイカの結果なのかと思ったが、そんな事を聞ける人は居なかった。

森の中には沢山の白樺、ベリョーザ(БЕРЕЗА)が見える。そしてさっきは木陰に残雪を見つける。列車の中は暖かいが、外は恐らく摂氏10度以下だろう。あっと言う間に列車は走り去ってしまうが、列車から見る風景は楽しいものだ。

さっきはラジオ放送と思える車内放送があった。でも、30分もすると鳴り止んでしまった。ラジオの無い車内は以前のようにロシア語が微かに聞こえる世界に戻った。

列車の中は時には物凄く静かでまるで新幹線のように長いレールが使われているようだった。でも、殆どの場合は日本の列車のようにゴトン・ゴトン、ゴトン・ゴトンとレールの継ぎ目の音と振動が伝わってきた。

列車は古い日本のものに似ていた。木枠の窓。暖かい車内。子供の頃に乗った列車を思い出す。只、ここはロシア。ハバロフスクでは沢山の人に親切にして貰い、日本語を話す事が多々あった。ロシアに来てもう2週間になるが未だロシアに居るように思えない。これは自分のロシアに対する期待と想像が違っていたからなのだろうか。それとも、旅を重ねるうちに異国の変化というものに馴れてしまったのか。

地球の歩き方のロシア編には、ロシアのGDP(国別)は韓国よりもオランダよりも高いそうだ。しかし、列車が通り過ぎる村々の建物はバラックのようなものが多かった。貧富の差が激しいと言う事だ。ハバロフスクのスーパーマーケットで買出しをした時に見つけたアボカドは2個で670ルーブル(約30ドル)。イチゴに至っては一粒が数ドルになる値段が付けられていた。一般庶民には手の出ない値段で、マーシャもマリーナもアボカドは食べた事が無いと言っていた。


さっきは、たまたま町の駅に列車が止まって居る時にロスの家族から電話を受けた。列車での移動中は電話を受け取れないと思っていたので連絡が取れて良かった。ハバロフスクとチタの区間は電車、若しくはヒッチハイクして移動しようと考えていて、家族にもそう伝えたあった。結局ハバロフスクの人達が電車で行った方が良いとアドバイスしてくれたのでそうした。ヒッチハイクでの危険性を考えると、電車での移動を選んだ事に恵子は満足していた。

次男のクリスは二日間学校を休んだとの事。早く良くなって欲しい。恵子はクリスの面倒で外出が儘ならず、隣の家のリックやメグ、そしてマービスタ小学校の友人ネッドやPJ に御世話になっているとの事だった。

列車は進む。永遠に続くかと思えるような森の中を進む。外には残雪が増えている。とても寒いところへ来てしまったようだ。でも此処は冬のシベリアではない。何とかなるだろう。1987年に北米を縦断した時も、北カリフォルニアのラッセンの山の上には雪が沢山残っていたのを思い出す。その時も山を降りたら雪は無くなった。

これも忘れないうちにと思って書くのだが、マーシャやマリーナ曰く、ロシアの首都モスクワの住民は、極東地方の事を何も知らないとの事で、ハバロフスクの事も知らない人が多いと言う。そしてモスクワの人々はハバロフスクの街の中を熊が歩いているのだろう、と揶揄する事が多いという。因みに、極東地方の旗にはウスリー・タイガーが、極東地方の北に位置するハバロフスク地方の旗には熊が描かれている。

ある駅に停車した際に隣のセクションに青年とその父親が乗ってきた。青年の名前はセルゲイ。セルゲイに英語は話せるかと聞かれ「Yes」と英語で答える。でも、彼は殆ど出来なかった。Yes の返事の後には、もしかしたら話し相手が出来るたかと一瞬思ったが、会話できる程度ではなかった。でも、姉か妹が日本とシンガポールに行った事があり、それだけで親しくなってしまった。まあ正確には酔っていたからだと思うが。

その親子が列車に入ってきた時、他のロシア人達が持っているようなバッグではなく、高級なバッグを持っていたので少し気になっていたが、やはり裕福な家族のようだ。


次の駅でホームに降りると、その親子の知人アレクセイが丁度同じ便に乗っていたようで、親しそうに話をしていて、後で俺にも紹介してくれた。その後、俺はセルゲイに携帯の残高が少ないので課金したい事を伝えると、売店に一緒に行ってくれたが、そこには課金する為のカードを売ってなかった。

(左上:セルゲイとアレクセイ) (右上:セルゲイと一緒に)

(右上:アレクセイと一緒に) (右上:男性は暑がり、女性は寒がり?気温は10度位)

列車に戻り走り出してからは、その親子が我々のセクションに来て座り込み、俺がロシア語を理解してないのを忘れたかのように長い間、一方的な話をしていた。途中、冷えては無かったがビールを貰ったり、紅茶を箱ごと、そして紅茶に入れるミルクも貰った。

移動の為だけだったら自動車という選択があっただろうに、どうしてこの親子は列車に乗って移動するだろう。俺は気になって仕方なかった。でもそんな事は聞けなかった。


(右上:酔っ払っているセルゲイの父親と一緒に)

車窓からは時々M58の幹線道路の様子が伺えた。舗装されている区間と、砂埃が巻き上がり明らかに砂利道の区間がある。M58の土手は綺麗に整っている箇所が沢山見えた。只、通行している車両は極端に少ないようだ。もし俺が自転車に乗ってこの区間を走っていたら、村と村との間隔も長く、きっと淋しいサイクリングになったと思う。でも俺はこの列車に乗って2100キロの移動となる。もし砂利道を走ったら一日100キロ進むのは難しいので、絶対に3週間掛かる距離を電車で進むことになる。砂利道を永い距離進むと自転車のタイヤのスポークが折れやしないかと心配だったが、これで心配無用だ。

そして、これでロシアのビザを延長する必要もなくなり大きな問題は解決する。きっとチタから西に向けて自転車に乗ってラトビアの国境に行けると思う。

外の景色は更に寒そうになっている。川には氷が張っていて残雪が増えてきた。山火事の煙と思われる霞のようなものが漂っている。