2008年5月09日 (13日目) M60、ハバロフスク (Хабаровск)、マリーナ宅(二泊目)



夕べは外の気温とは全く関係なく、部屋の中は温かく熟睡できた。昨晩4人全員が一部屋に寝た。俺だけがソファを広げたベッドで寝た。俺がもし居なければマリーナとアーニャがソファのベッドに寝て、マーシャがエアマットレスに寝たのであろう。見ず知らずの俺に親切にしてくれる3人には感謝だ。

起きてから日記を書く。そして直に3人も起きてきた。朝食の用意をしてくれて、俺を真っ先に食べさせてくれた。ロシアに入って二日目の日の朝に、ラズドルネという村の韓国人の教会で玉子焼きを頂いたが、卵を食べるのはこれが2回目だった。

もし旅行中に調理をする事があればきっと玉子焼きを良く食べたのだろうが、俺には調理道具もないし、ロシアのビザが3ヶ月しかないので急ぐ必要があって、俺はいつも店で買える食べ物だけで過ごしてきた。だから、この女性達の作る料理はとても嬉しかった。

朝食の後、4人でアパートを後にしてパレードを見に行く。1945年5月9日、ロシアがドイツに対して大戦の勝利を宣言した日だそうだ。歴史に疎い俺は日本が敗戦した日よりも早くドイツが降伏していた事だけは覚えていたが、それが日本よりも3ヶ月も早かったとは知らなかった。

外は寒いというので、マリーナの父親のコートを借りて外に出る。階段を下りるのは辛かった。まだサイクリングを始めて850キロくらいしか走っていないが、昨日の疲れもあるだろうが、左膝の痛みもあり階段を降りるのに時間がかかった。

道路に出ると、西に向う。東側には昨日マリーナとマーシャが待っていてくれたバス停があるが、今日は西側の幹線道路に向った。マリーナのアパートのある集合住宅の東側と西側の両方に幹線道路があったのだ。

今まで2枚はいていたスエットパンツだが今日は黒いスエットパンツ一枚だけ履く。ハバロフスクの朝はこの一枚では寒く膝には良くないと思ったが、汚れたグレイのスエットパンツを履いてパレードに行く気はしなかった。これで風邪でもひいたら大変だとも思ったが、雨は降りそうも無く、温かくなるだろうと願った。

でも、幸運にもバス停で待っていると小型の乗り合いバスは間も無く来た。ロシアで初めて乗るバス。マルシュルートカ(Маршрутка)と呼ばれているものだった。小銭を3人のうちの誰かが俺の分も支払ってくれた。10ルーブルか15ルーブル位だったと思う。

10分位バスに乗ってハバロフスクの中心と思われるレーニン広場に近付く。バスは通行止めの為か、先に進まないので途中で降ろしてもらって歩き出す。パレードが丁度始まるところだった。

(左上:マーシャ、マリーナ、アーニャ)


退役軍人が乗ったオープンカーが何台も行く。そして、マーチンバンドや様々な団体のグループがパレードを飾る。行進の終わりのグループには一般人が行進に加わる。その中には旧ソ連の国旗を掲げている老人も居る。中にはベンツのパトカーもパレードに加わっていた。負かした国の車を、その記念日に乗るというのはどういう意味なのかよく分からない。裕福な市警察を誇示するためなのか。俺には不思議に思えた。





我々4人も一般人に混じって続き、レーニン広場から西に向けアムール川の方角に歩いた。道路脇にも様々なグループがパレードの行進に声援を送っていた。郵便局の前には、ハバロフスク市制定150周年記念の黄色いシャツを着た若者がロシアの国旗を振って盛んに何かを叫んでいた。





そしてパレードの行進は青い屋根の大きな教会のある交差点を南に向った。坂道を下って、その先の別の教会の方に向っているのだと言う。我々はその交差点でパレードの行進から外れて、その青い屋根の教会の近くの博物館に行く事にした。でも、博物館に行ってみると、入場券が無いそうで入れなかった。少し待ってみたが、仕方ないので歩いて他の場所に行くことになった。


(右上:運動公園への門)

そこからアムール川に近い道を北に歩くと運動公園があった。陸上競技場を中心に、大きな敷地に沢山の施設がある。そこに入るには大きな門があったが閉まっていたので脇の小さな門から入る。広場には車両兵器が並べられていて、子供達が群がっていた。戦争とは無縁の小さな子供が何も分からず戯れる。



広場にはテントが沢山あり、それらの下では様々な食べ物が売られていた。また広場の一角では沢山の人が列を作っていた。白い帽子を被った人が居たので、何かの食べ物を配っていたのだと思う。

我々はアムール川が間近に見える所に出る。南の川上には中国の山並みが見える。そして、北の川下には鉄橋が見えた。俺はこの鉄橋を渡ってモスクワを進むのだ。

(左上:マリーナ、アーニャ、マーシャ)

青い屋根の教会の広場に戻り、レーニン広場に戻る事にした。途中、サッポロという和食レストランを見つける。ハバロフスクでは有名なレストランらしい。我々はその近くの地下にあったファーストフードの店に入って食事をした。俺は初めて彼女達に礼をする機会を得たと思い4人分の食事を支払った。でも料金が高い店だったのか、何故か彼女達は遠慮して少なめに注文したように思えた。店の中はお客で一杯で、家族連れには人気な店のようだった。

(左上:アムール川 ) (右上:レーニン広場)

道路わきには沢山の店があり、幾つかのスポーツ店に入ってみたが、自転車のハンドルに巻くテープは見つけられなかった。気が付くと一人仲間が増えている。マーシャとマリーナの友人で名前はリーリヤ。日本語は殆ど出来なかったが、非常に興味があるようで、俺とマーシャの日本語の会話には耳を立てていた。

(レーニン広場、ハバロフスク・クライの庁舎前) (右上:俺、アーニャ、マーシャ、リーリヤ)

それから記念日なのに銀行が開いているのが分かったので、換算レートを確認すると1ドル23.1 ルーブルとの事だった。他の銀行も同じようなレートなのか気になったので、他の銀行も探したが、同じようなレートだった。

レーニン広場に戻ると、民族衣装を纏った人達が集まっていた。子供達の衣装は白が主体で、婦人の衣装は赤が主体だ。違った民族なのか、子供と大人で衣装が違うのだろうか。子供達の写真を撮っていると、責任者と思われる民族衣装を纏った婦人から、子供達と一緒に写真に入って欲しいと頼まれる。俺は背が高いので目立つのは分かるが、どうして俺なのか不思議だった。でも、写真に入って欲しいと言われ嬉しくて、その婦人の他にも何人もの人が写真を撮っていた。



(右上:水色のマフラーはリーリヤ、マーシャ、俺、アーニャ)

その後、リーリヤの知人の雑誌記者のインタービューを喫茶店のような店で受けたのだが、インタビューの前に、マリーナとアーニャ姉妹は自宅に戻り夕食の支度をすると言う事で先に帰っていった。

エクストリーム・スポーツの雑誌の記事にしたいとの事だった。自分では俺のサイクリングは距離が長いだけで特別とは思わないが、やはり一般的にはエクストリームなのだろう。人が俺のやっている事に意味を見出してくれるとは嬉しい限りだ。




しかし、人との繋がりとは実に面白いものだ。ウラジオストックの北の町ウスリースクではその前日に御世話になった韓国人留学生の知人で日本語を教えている廣田先生の生徒がテレビインタビューに取り持ってくれた。そして、それから数日後、ルチェゴルスクではウラジオストックのエフジェニアの友人のリタがテレビインタビューを。そして、ハバロフスクでは、エフジェニアの友人リタの知人の娘さん(マリーナ)の友人(ユーリヤ)が雑誌のインタビューを取り付けてくれた。

どれ一つとっても、一つ何かが違えば結果が全く別なものになると思う。例え何か一つが違っても、俺はそんなインタビューを受けられたのだろうか。只の偶然なのか。これは運命なのか。答えが出ないのは分かっているが、泊めてもらえたり、水やお茶を頂いたり、様々な幸運が続くのが俺には不思議で仕方ない。

寒い北風の中を走るのは確かに辛い。左膝が壊れてしまうのではないかという不安も確かにある。しかし一度、人の笑顔に触れたら、不思議と辛い事を忘れて自分は幸運だと思える。俺は極度に楽天的になってしまったのかとも思ったが、そうではないと思う。俺が既婚であっても、一人の男と見て近付いてくる女性もいるだろう。しかし、分からない。分かっているのは良い人が多いと言う事だ。俺は何に感謝したらいいのか。誰か教えて欲しい。

インタビューの後トローリーに乗ってマーシャは俺を自転車店に連れて行ってくれた。しかし、祭日の為か店は既に閉まっていた。俺は左膝の事もあり数日休む事を決めていたので、マリーナはまた明日来ましょう、と言う。自転車店から歩いてもう一度アムール川の辺に戻った。今朝の時よりも沢山の人が居た。マリーナと二人で歩いていると、とても昨日会ったばかりの女性とは思えなかった。マーシャは英語よりも日本語が得意で、俺は彼女に分かるように少しゆっくりと分かりやすく話した。彼女の日本語はロシア語のアクセントがあり少し変だが、日常の会話には全く問題ないくらい良く日本語を話した。

青い屋根の教会の近くから別の教会まで歩いて行くと、そこには戦死者を奉るような記念碑があり、今日は記念日とあり花やろうそくが供えられていた。

その近くでバス(マルシュルートカ)に乗り、マリーナとアーニャのアパートに向う。朝バスに乗った場所の道の反対側で降りる。

アパートに入ると、アーニャはアーニャの携帯電話をPCに接続して、インターネットが使えるようにしてくれた。俺はEメールを読んで幾つかの返信を書いた。マリーナは、俺のMTS の携帯の料金の事を調べてくれて、プランを変更してくれた。俺は受信は無料と思っていたが、実は有料でその為に、ハバロフスクで元々泊めてもらう予定になっていたユーリヤに電話しようと思ったときには残高が無くなってしまい電話できなかったのだった。マリーナは、今後は相手の携帯電話会社がMTSの場合は1分2ルーブル、他のネットワークの場合は8ルーブルと教えてくれた。

夕食は昨日と同じように沢山の皿が食卓を飾った。俺は女性に囲まれて食事をしたわけだったが、俺には彼女達が昔からの友達に思えた。親子のように年の離れた年下の若い女友達なんてありえないが、不思議と親近感があった。

夕食の後、マリーナは俺の衣類を洗濯してくれた。洗濯が始まった後で、俺は未だ一度も洗ってないオレンジ色のジャケットも洗濯機の中に入れた。暫くすると、マリーナは洗濯機の中にオレンジ色の俺のジャケットを見つけて、「どうして色物の服が洗濯機の中に入っているの~!?」というような事をロシア語で叫んだ。これに俺には可笑しくて仕方なかった。マリーナに俺が入れたと説明すると、「他の衣類にオレンジ色が付いてしまうでしょ?」と言ったが、俺はそれでも構わないと答えた。俺にとって、白いTシャツや下着がオレンジになっても、それはどうでも良い事だった。マリーナも直ぐに理解してくれて、それもそうだ、と二人で大笑いした。

マリーナとマーシャは去年日本に行った時の写真を沢山見せてくれた。彼女達がどんな歓迎を受けたのか俺には分からない。でも、俺を歓待してくれる彼女達の仕草からしたら、きっと嬉しい思い出が沢山あるのだと思った。

2008年5月08日 (12日目) M60、ハバロフスク (Хабаровск)、マリーナ宅



今日は、今回のサイクリングで一番永い一日だった。でも、最高の日になった。
(追記:結果的に5ヶ月のサイクリングでも一番永い日になった。)

今日の終点、ハバロフスクで泊めてもらったのは、ウラジオストックのエフジェニア(ジェナ)の友人でルチェゴルスク (Лучегорск)に住むリタの友人の二人の娘さん達が住むアパートだった。

ウラジオストック市:エフジェニア(4/27泊)
ルチェゴルスク町:エフジェニアの友人・リタ(5/4・5/5泊)
ルチェゴルスク町:リタの友人夫婦
ハバロフスク市:リタの友人夫婦の娘さん、マリーナとアーニャ(5/08泊)

朝は署員のビリヤードで遊ぶ音で目が覚めた。朝早かったが、日記を書く時間が出来て良かった。

朝7時くらいだっただろうか、署員全員が壁際と消防車の前とに向かい合うように並んだ。朝礼が始まって、直ぐに予行演習になった。恐らく毎朝の練習のようだった。サイレンがけたたましくなり、殆どの署員は各消防車に乗り込んで、何人かは消防車が直ぐに出られるように大きなドアを開け、数人は監督なのかその様子をストップウォッチを片手に見守っていた。


練習が終わりアンドレ達に別れの挨拶する。泊めて貰えるだけで充分だったので、水も紅茶も求めずに足早に消防署を後にする。発ったのは8時くらいだったと思う。

気温は7度。朝はいつものように霧だった。気温は中々上がらず、温かくなったのは午後だった。

朝のM60 の幹線道路は空いている。霧の中をトラックを飛ばす事が出来ないので、どのドライバも朝はゆっくりなのだろう。


今日はハバロフスクまで行かないといけなかったので、永い一日になる事は分かっていた。だから、先ず食べ物を店(マガジン)で買う。ヴャーゼムスキーの消防署からそれ程離れてない場所にあった。その店の中は、全ての商品が格子で遮られていて、店員は格子の向こう側に居た。俺には珍しい光景だったので、写真を撮っても良いか、と聞くと駄目とは言わなかったので、店内の様子を撮る。


道は、相変わらずの登りと下りが続いた。そして、道路が一時、平坦になったと思ったら、林が、木が極端に少なくなった。そして、それから見事に風が吹き荒れた。冷たい北風だった。そしてその北風は結局夜まで続いた。



風の抵抗になるのは分かっているが、デジタルカメラの電池が無くなりかけていたので、ソーラーパネルをサドルの後ろに広げて、充電をした。これで充電は2回目だ。ソーラーパネルを広げた時には、もしかすると雨に変わるかもと思ったが、暫く雨は降らなかった。でも夕方5時くらいに雨が降り出したので、ソーラーパネルを丸めてパニアに戻す。

朝の10時くらいから、今日ハバロフスクに泊めて貰うことになっているユリヤに電話するが、応答が無い。今晩本当に泊めて貰えるのか確認したかった。何度も何度も電話するが、応答が無い。その替わりに、ロシア語と英語のアナウンスがあって、この番号は一時的にロックされていると言う。

昼くらいにお店を見つけて、スナックを買って、それから携帯電話の課金もして貰った。英語が全く通じなかったが、お店の若い女性は親切にしてくれた。しかし、その後で、ユリヤの携帯電話に電話してみたが、やはり同じだった。


ユリヤは学校へでも行っていて、携帯の電話の電源を切っているのだろうか、と最初は思った。でも、何度電話しても同じなので、ウラジオストックのエフジェニアに電話してみたら、彼女との電話は通じたが、ユリヤとの電話通信は俺の携帯電話に問題があると教えてもらった。

左の膝が痛む。2枚のスエットパンツを重ね着しているが、冷たい北風は容赦なく吹き付け、午後になっても気温が上がらない。冷たい風を遮る為に買い物のビニール袋を裂いて、両膝に巻きつけた。最初は具合が良いと思ったが、長く続かなかった。直に左膝はまた痛み出してしまった。

(追記:この日のこれ以降の写真は無し。自分が大変な時は写真が撮れないのだった。)

午後3時位だっただろうか、先に行くトヨタ製の乗用車が路肩に止まった。日本からの輸入車で、右ハンドルだ。俺はその車を横目に見ながら先に進んだ。すると右側の運転席のドアが開いたので、ドライバは煙草でも吸う為に降りるのだろうと思って通り過ぎた。

しかし、またまた不思議な事が起こる。後ろから女性が日本語で「なおとさん」叫ぶ。自転車を止めて振り向くと23、24歳と思われる女性がその運転手と一緒に歩いてくる。俺はこの二人を知らない。でも、先方は俺の名前を知っている。何が何だか分からない。どういうことなんだ。

3人で話を始めると、その女性は日本語で自分の名前はマーシャと言った。ハバロフスクに住む友人宅に今晩泊まって下さい、との事だった。夢のような話だった。俺は元々ユリヤの家に泊めてもらう事になっていたが、ユリヤとは電話で連絡がつかないので、どうしたものかと悩んでいたのに、まるで棚から牡丹餅が落ちたようだった。

マーシャと一緒の男性はセルゲイ。(追記:この時は、このセルゲイと数日前に逢っていた事に気付かなかった。)

マーシャの友達の名はマリーナ。マーシャとマリーナの電話番号を教えてもらう。そしてマーシャは、「車にのってハバロフスクに行きましょう」と言う。俺はこの時、車に乗せてもらうなど以ての外、と思った。

3人で立って話をしていると冷たい風が容赦なく吹き抜けていく。俺はこの可愛らしい女性が寒かろうと思って「ごめんなさい」と日本語で言うとマーシャは、「私はハバロフスクで育ちましたから大丈夫です」と言っている。でも、オーバーコートを着たマーシャの肩は窄んでいた。

そして、恐らくハバロフスクまでそれ程の距離では無いと思ったので、「俺は急いでハバロフスクまで走っていくから早く車に戻って下さい。多分5時間位で着くから。」と、誘いを断った。これが大きな間違いと気付くのは日が沈んでからだった。5時間とは言ったものの、本当はもっと早く着けると思っていた。

(追記:この時、マーシャとセルゲイがどうして車で通りかかったのか俺は知らなかった。)

マーシャとセルゲイが先に行く。冷たい北風は弱まらなかったが、俺の気持の中では北風はもう冷たくなくなっていた。ハバロフスクの都会でテントを張らなくて済む。屋根の下に寝られる、と思っただけで凄く嬉しかった。

ハバロフスクに近付いた時には、もう日は落ちてしまっていた。不味い。俺は懐中電灯も何も持ってない。暗闇の中を進まないといけない。夕闇の道を進むとハバロフスクの入り口のサインが見えて、本当だったら記念写真でも撮りたいところだが、そんな余裕は無かった。

俺はひたすら走った。そしてハバロフスクのサインを超えて、最初のお店に入って、携帯電話の課金を試みた。店内に課金用の自動販売機があって、それを使えば出来ると店員は言っているが当然全てがロシア語表示なので、課金できない。呆れた若い女性の店員は、結局手伝ってくれ100ルーブルを課金した。でも、俺の携帯にはその表示が無い。課金されてない。俺の携帯はどうしてしまったのかと思った。

不思議な事にいつでも困難な事に逢うと誰かが助けてくれるのだった。俺の携帯電話が鳴るのだった。俺は電話できなかったが、受信は出来ていたのだった。ハバロフスクで待っているマリーナからの電話だった。

俺は、マリーナの家に着くのが相当に遅れそうだったので、それを電話で伝えたかったのと、マリーナの家がハバロフスクのどの辺なのか知りたかったので、マリーナにもマーシャにも電話していたのだったが、二人の電話は応答が無かった。だから、マリーナから電話があった時には、嘘のようなことが現実に起こったと思った。

マリーナは俺に今の場所を教えて欲しい、と言う。周りは暗闇で何も読めない。でも、丁度お店から出てきた10歳と12歳くらいの姉と弟の兄弟と思われる二人に携帯を代わってもらった。でも、マリーナには俺の居場所が伝わらなかった。

でも、マリーナとマーシャは、俺が来るまで道に出て待っているからと言う。俺はハバロフスクの詳しい地図を持ってない。俺がどこに居るのかも分からず、待たれたら困ると思った。温かい夜だったら良いが、10度は切っている。とりあえず道を進んで見ることにした。マリーナは「インスティチュート・コントーレを目指して来て下さい」と言う。

俺は走った。電灯が無いので暗闇を走った。途中、立体交差があった。分岐点だ。これを間違えたら、全然違う方角に進んでしまう。でも、おれは真っ直ぐに進んだ。もし間違っていても、もうそれは仕方ないと思った。体力の限界がきたら、どこにでもテントを張れば良いと思った。

暫く走ると、バス停が左手に見えた。20人位の人がバスを待っていたので、俺は近付いて、「グジェ・インスティチュート・コントーレ?」と叫んだ。すると酔っ払いが、指を一本立てて、1キロと言っている。でも、他の人の小さい声では、10キロとも聞こえた。

俺は只単に願った。1キロであることを。坂を登る。暗闇の中、東に向っているのか、北に向っているのか分からなかったが進んだ。1キロ進んでもインスティチュート・コントーレはない。数キロ進んだが、出てこない。やはり10キロと言った人が正しかったのか。でも、俺は道路脇に人を見つけては、「インスティチュート・コントーレはどこ?」と聞くと、誰もが真っ直ぐと答えてくれたので、先に進んだ。

でも、田舎道のように街灯が無いわけではなく、所々に街灯があり、街の様子が少しだけでも分かって、俺は街の中を進んでいる気がした。

そして信号のある交差点付近で携帯電話が鳴った。マリーナからだった。俺がどこへ行ってしまったのか心配している。俺は不味いとは思ったが、4人の若い男が乗っている車に近寄って、携帯を渡してマリーナと話して貰った。悪い輩だったら俺の携帯をそのまま持って走り去ることも出来る。でも、あの時の俺にとっては、他に手段が無かったので、携帯を取られてしまっても構わないと思った。

でも、助手席の青年はマリーナと少し話しただけで、俺の携帯を直ぐに返してくれた。マリーナは俺に、もう少しだから頑張ってと言う。運転手にも彼女にも俺がどこにいるか分かったようだが、俺にはあと100メートルなのか1キロなのか分からなかった。とりあえず電話を切って走る。

近い事には間違いない。大きな通りなので間違えようが無いだろうと思った。そして別のバス停に近付いた。暗闇の中、二人の女性が道を横切るのが見えた。二人とも背が高く若く見えた。俺は、道を渡ったその二人がマーシャとマリーナであることを願った。しかし、それが二人だと分かるまで時間が掛からなかった。二人は俺に手を振っている。俺も嬉しくて嬉しくて手を振った。そして近付いたらそのうちの一人は7、8時間前に会ったマリーナだった。嬉しい瞬間だった。二人がこの寒い中をどれだけ外で待ってくれていたのか分からない。ありがたい、等と簡単に片付けられる事ではなかった。

マリーナは、マーシャの事を紹介してくれて、3人で歩いてマリーナの家(アパート)に向った。俺の事を寒い中、待ってくれて大変だったと思ったが、二人は俺が無事にハバロフスクに着いた事を嬉しく思ってくれているようで、俺はとても嬉しかった。

マリーナのアパートは4階だった。マーシャよりもマリーナの方が体格が良く、マリーナは自転車を4階に上げるのを手伝ってくれた。俺の体力は限界に近かっただろうが、階段を登って4階に自転車を上げた。アパートのドアはマリーナの妹アーニャが開けてくれて我々を迎えてくれた。その時、既に夜10時を回っていた。

ここから、マーシャとマリーナとアーニャの3人の女性に俺は歓待を受けるのだった。俺はまずシャワーを浴びさせてもらった。4日振りのシャワーは気持ちよかった。シャワーから出ると、3人は食事の用意をしてくれていた。狭いテーブルには所狭しと沢山の皿が乗っていた。3人とも俺が来るのを待っていたのだった。

マーシャとマリーナは友人で、二人ともハバロフスクの大学で日本語を勉強していた。だから、アーニャには我々の日本語の会話は分からない。でも、全員が英語を理解していたので、俺は疲れていたのに時間を忘れて色々な話を3人にした。あっという間に12時を回ってしまったので、皆寝る事にした。明朝は、パレードがあるので一緒に行く事になった。

アパートには大きめの寝室が一つしかない。でも、彼女達は既に空気の入ったマットレスを敷いて、彼女達3人が並んで寝れるように準備してあり、俺には部屋の中に一つだけあったベッドを使って、と言ってくれた。

俺はベッドの上に寝袋を広げ、寝袋に入った瞬間、数秒で寝てしまったようだ。