2008年5月30日 (34日目)M53マーカー:462Km


夕べは日記を書いていたら11時過ぎになってしまったので電灯を消して寝た。予想に反して部屋の中はそれ程冷えなかった。寝袋の中は暖かかった。朝7時くらいに目が覚めたが、このまま起きて外に出たら番犬が騒ぐと思って暫く待ったが、誰も外に出た気配がしないので7時半くらいまで横になっていた。しかしこれ以上は待つべきかと思い片づけて、8時過ぎに小屋を出た。本当なら隣のカフェで朝食を済ませたかったが、俺が小屋に泊まっているのはカフェの人達には何も言ってないようなのと、夕べのその人達は一人も居ないので、そのまま発つ事にした。町の中は結構な人出だった。

幾つかのカフェを見つけたが、どこも気に入らなかったので通り過ぎる。風は冷たく向かい風だった。昨日の風は奇跡のように思えた。未だシベリアに夏は来てない。昨日見た沢山の昆虫はどこへ行ってしまったのか。今日は皆無だ。おまけに町の向こう側には黒い雲が見える。雨が降らなければと願っていたが、雨の粒が顔に時々当たるが、とりあえず昼食までは大丈夫だった。

長距離列車を見るたびに、あれに飛び乗れたらどれだけ楽なのかと思う。どうして自分はこんな事をしているのかと思うようになる。行き交う人の表情は硬く、応援してくれるには程遠い目付きの人が多かった。


それでも時々トラックの運転手などがクラクションを鳴らしてくれる。それが唯一の自分への励ましで、クラクションを鳴らしてくれたトラックが通り過ぎると俺は目一杯手を上げてみせる。全部で60キロくらいある自転車に乗りながら右手を高く上げるのは大変だが、せめてそれ位の返事はしたかった。

汗をかいているので水を飲むために自転車を止めるのも面倒なくらい風が強い。Google のPicasaの写真集で、俺の笑顔しか見てない人には想像できない事だろう。朝食は朝の10時45分位に見つけたカフェに入って取る。お決まりのボルシチ、玉子焼き、パン、紅茶など。ご飯も注文したつもりだったが出てこなかった。注文する際に3回位確認しないといけないかもしれない。カフェの中には乗用車を運搬するドライバが3人居たので、どこでシャワーを浴びれるか聞いたが、返ってきたロシア語の返事を俺は理解できなかった。

カフェを出て暫く走ると悪路になり、舗装されている区間は僅かだった。一度、二人組みの乗用車に止められ写真を撮ってくれた。自分のやっている事に対して価値を見出してくれる人達がいるかと思うとありがたいことだった。
午後2時くらいに見つけたある駅に近いカフェで昼食をと思い、自転車をカフェの中に入れようとすると駄目だと言うので、先に進むと直ぐにもっと大きなカフェがあった。そこでは自転車をカフェの中に入れても何の文句も言われなかった。そしていつもの料理を注文する。

昼食を終えて走り出すが、相変わらず風は冷たく空は曇っている。今日は風と悪路の為に未だ45Km しか走ってない。しかし悪路は当分続いた。でも、ある町を過ぎると、また以前のように良くも悪くも無い道路になった。そして一部は新しい舗装の区間があった。そんな道路はやっぱり走りやすい。

そして道路は線路の隣を走ることもあり、ある時、線路の整備用と思われる一両だけの機関車が俺に汽笛を鳴らしてくれた。俺は手を上げて大きく振ると、それに答えてくれるかのように何度も汽笛を鳴らしながら去って行った。それから5分後くらいには長い編成の貨物列車が通り、さっきと同じように機関士は俺を見つけて何度も汽笛を鳴らしてくれた。また、通り過ぎるトラックの運転手はまるで列車の機関士と申し合わせたようにクラクションを鳴らしてくれている。とても嬉しかった。こんな風の強い日には特に嬉しかった。

悪路を過ぎ今日の走行距離は80Km 位になった所で、先方に一面黒い雲が見えるようになった。雨の粒が時々顔に当たるようになったのと、今日は疲れていたので次のカフェかガソリンスタンドでテントを張りたかった。


暫く走るとカフェが出てきた。カフェの大きな駐車場の外れには工事の人達が居て、そのうちの一人にテントを張りたいと言ったらOK してくれた。どこにテントを張ったら良いか空き地を見てみると、どこも大丈夫なのだが、雨が近づいているので屋根が欲しかった。物置みたいな建物があったので、その中に寝ても良いかと聞くと、その物置の隣の小屋の中に寝たら言いといってくれた。ありがたいことだった。カフェで夕食を済ませて小屋の近くに戻ると、全部で6人くらいの人がまだ仕事をしていた。

疲れていたはずだったのに、夕食の後、夕立は去ったのと、小屋に泊めてくれるのが嬉しかったので、俺も少し砂利を運んだりスコップで地を均す手伝いをした。欲を言えばこの後、風呂にでも入りたかったが仕方ない。でもどこで入れるか分からなかった。この小屋には一人の老人がいつも寝泊りしているようで、その人はソファに、俺は荷物が乗っていた少し高い位置にあるベッドのような台の上に寝る。風呂に入りたい。頭を洗いたい。小屋の中には蚊が飛んでいる。一匹だけなら良いが、もし何匹も居たら明朝には大変な事になっているかも知れない。

皆は作業を夜の10時位に終えて、今は11時だがやっと暗くなり始めた。老人はペチカに火を灯してくれた。昨晩は寒くなかったが、今日の天気でも今晩はペチカがあるので大丈夫だろう。小屋に泊まることを許してくれた作業の親分と小屋の番人の老人は、俺の自転車を物置の中に入れてくれて鍵も掛けてくれた。小屋の隣にはバーニャの壁だけの部分が出来上がっていて、作業の親分は、もしここにもう一度来ることがあったらバーニャに入ったら良いと言ってくれた。誰も皆優しい人ばかりだ。


2008年5月29日 (33日目)M53マーカー:384Km


夕べは早く寝たのだがテントを叩く音で起こされた。もう朝なのかと思ったら未だ暗く、小屋でビールを一杯勧めてくれた年配の男の人だった。酒を飲もうという誘いだった。ありがとう、と言った後で断ってまた直ぐに寝る。

朝は7時に目が覚めるが寒い。テントの中は10度位だが外は冷たかった。そしてテントの天井のフライには霜が付いていた。やはり5月末とは言えここはシベリアだ。もう直ぐ6月で短そうな夏も直ぐそこなのに朝晩は冷える。準備を終えて走り出すと8時半くらいになった。しかし不思議な事が起こった。風が南から吹いている。ラトビアまで風は向かい風だと思っていたが、やはり気圧によって南から吹くことがあったのだ。高気圧が通り過ぎたのか、低気圧の始まりと言う事だろう。



カフェは暫く無かった。やっと11時過ぎに見つける。600メートル先にカフェあり、との看板があった。しかし、そこには素っ気無い工事中の建物に「入り口」とだけサインが書かれていた。建物の奥を見てみると確かに入り口のドアがあり、開けてみると小奇麗なカフェだった。いつものボルシチ、玉子焼き、ご飯、紅茶で112ルーブル支払う。只、食事の前に手を洗ったのだが、洗面所の壁に取り付けられた小さな水のタンクには上から下が見えるようになっていて、その水の上にはボウフラの死骸が浮いていた。川の水を汲んできたのか、溜まり水なのかと一瞬思ったが気にはならなかった。

カフェの中は俺一人だったが、内装は繁盛していると思われる装いだった。食後、少しゆっくり休みたかったが、風向きが変わる前に少しでも先に進まねばと思いカフェを出る。カフェを出てみると未だ南風が吹いている。そして風は冷たくなかった。

旅行を始めて1ヶ月が過ぎたが、今まで蜜蜂を見たことが無かったと思うが、今日は何度も見た。昨日までの冷たい北風の為に昆虫を見ることが無かったのか、暖かくなったので皆一斉に出てきたのだろうか。今日の風は向きが時々変わった。風向きが変わったのか道の方角が変わっただけなのか分からない。正確分からないが、西風の時もあったと思う。そうだとすると高気圧の中を素早く通り過ぎてしまった事になるが、結局今日一日は暖かかった。午後は、半そでのTシャツ一枚で走りとおした。

途中の村で、一部は舗装されてない区間があったが、坂を登ると舗装に戻った。その区間だけ低地だったので水害の為に舗装されたないのだろうか。

しかし、今日まで砂利道を走ってもガラスの破片が沢山落ちている路肩を走ったりしたが、まだパンクが一度も無い。素晴らしいタイヤだ。少し高かったがインターネット上で推薦する人が多かったのでこのタイヤを選んだのだが正解だった。


夕食と言うか遅い昼食だったので、5時過ぎにに見つけたカフェに入った。ここでも客は誰も居なかったので躊躇ったが、この次のカフェがどこにあるか分からないので食事を取ることにした。ボルシチ、プローフ、玉子焼き、紅茶などを注文して135ルーブルを支払う。ボルシチとパンが最初に出てきた。その後に、プローフが来たので玉子焼きは、と聞くと理解できないロシア語の答えが帰ってきた。俺は肉は食べないと伝えると同時に、ボルシチの中に残された肉を見せると、納得したように玉子焼きを出してきてくれた。どうしてこんな結果になるのか理解に苦しむが、でも今思えばロシア語の分からない旅行者は困ったものだと思われたに違いない。申し訳なかったが、玉子焼きを後で出してくださった事には感謝だ。

今日は久しぶりに何人もの人に呼び止められた。一人のドライバは俺を二日前に見たという。一人はモスクワ近くまでトヨタのCarina を陸送する人。ある村では酒を一緒に飲もうと声を掛けられる。どこの国でも酔っ払いは陽気だ。自転車乗るのを止めて、ここに座って飲もうと誘ってくる。ありがたいことだが、笑って手を振って走り去る。

夕方は路肩に止められた車の横で休憩していた3人組に呼び止められる。母親と息子と友人と思われた。その人達からはトマト、キュウリ、大きなパン等を頂いた。もしその人達が近くに住んでいるのであれば、泊めて貰えないかと聞いたのだが、家は近くでは無いと言っていたので、お礼を言って分かれる。

先に進むとM53から少し離れた所にガソリンスタンドとその隣にはカフェがあり、その裏にでもテントを張れないかと一周するが、とても蚊が多く立ち止まっただけで無数の蚊が寄ってくる。それに線路も近かったので、諦めM53に戻りもう少し走る。すると道の南側にカフェが見えたので主人と思われる人にテントをフェンスの中に張りたいと言うとOK だったので、カフェで夕食をもう一度食べる。ボルシチ、ご飯、玉子焼き、キャベツのサラダ、紅茶などで156ルーブル支払う。

カフェの前には修理中のトラックが止まっている。トランスミッションを降ろして、修理を路上でしていている様子だが、部品が足りないのか途中で修理を中断しているように見えた。ふとパリダカのレース中、砂漠でエンジンのヘッドを外したHino のトラックの事を思い出した。どこでも同じだ。修理の必要がったらそうするしかない。


食事を済ませた後、テントを張ろうとしたら、さっきの主人と思われる人は、裏の小屋に泊まれば良いと言ってくれ、その小屋の中にベッドの様な台の上に寝ることが出来た。ロシアのビザの期限があるのでとりあえず急ぐ必要があり、テントを張るのは問題ないが片付けるのに時間が掛かるので嫌だった。だからこんな様に寝床を提供されると例えどんな所でも嬉しかった。

昨日から左手が痺れている。今日は夕べ程ではないが、昨日冷たい向かい風の為に走るのが精一杯でハンドルを握る場所を頻繁に変えなかったのが問題なのだろうか。

膝は相変わらず冷えると痛む。日本を発ってから一ヶ月、状況は変わってないと思う。とりあえずこのままで悪化しなければそれで良いと思う。

もう風呂に4日間入ってない。入りたいのだがどこに行ったらシャワーがあるのか分からない。今晩泊めて貰ったカフェの裏の建物にはバーニャは無いようだ。2重に履いているスウェットパンツは汗臭い。下に履いている黒のNorthface のスウェットパンツは何日も履いたが、日本を発ってから未だ一度も洗ってない。次の大きな都市のクラスノヤルスクに着いたら洗濯したい。

このカフェに居た4人の男の人は、自分がモスクワに向っていると言うと、この町がウラジオストックからモスクワまでの丁度中間だと教えてくれた。とすると、残り4500キロなのかもしれない。今日のように毎日100キロ進めば45日でモスクワだ。これから雨が多くなるはずなのでペースが落ちてしまうだろうけど、何とか50日位ではモスクワに行きたいところだ。天気を運に任せ頑張ろう。

今までに、こんなに風の向きを気にした事は無い。北米アメリカを横断した時は進行方向が東だったので気にならなかったのだろう。生まれ育った群馬県は空っ風が有名で、確かに冬に自転車に乗るのは辛いものがあったが、このシベリアでそんな過去を思い出すとは思わなかった。南の風という歌が無かったかと、ふと思うと松田聖子の歌にあったような気がした。好きでもない曲なのにどうして思い出すのだろう。

今日は沢山の昆虫を見たが、蜂が付きまとうように飛んでいく。まるで「あなたはどこへ行くの?」と話しかけてくれているようだった。そして道路工事の為にゆっくりと走っている大型車両のドライバは通り過ぎるときに軽くクラクションを鳴らして挨拶して行く。笑顔で手を振ったが、こんな事は今回の旅行中に一度も無かった。自転車に乗りながら笑顔になれなかった。冷たく吹く風と闘う自分には笑顔が無かったと思う。昨日までの冷たい風がもう吹かないことを願うばかり。モスクワが待っている。必ず行かなければ。

2008年5月28日 (32日目)M53マーカー:279Km


夕べはテントを傾いた斜面に張ったので、時々目が覚めると寝る場所を直さなければならなかった。これからは極力平らな地面にしよう。7時くらいに起きてみると気温は0度だった。只、近くの池には氷は無かった。片付け始めると寝袋の頭の部分が濡れてしまっていた。そしてテントのフライの外側には沢山の水滴が付いていた。外気の寒さの証だ。湿ったまま片付けてしまうのは気が引けたので、フライ、寝袋、寝袋ライナーを木の枝などに干して、朝食を取りにカフェに行くと、夕べのメニューは出来ないという。売り切れたとは思えないが、そう言うので仕方ない。サリャンカスープ、クレープみたいなもの、パン2切れ、紅茶で100ルーブル位だった。朝食を終えて、テントなどを片付けると9時位だった。


道は路肩が以前より広く舗装の状態が良い区間が長くなったが、向かい風は相変わらずだ。どうやらこれは当分続くのだろう。ラトビアまで60日間の闘いになりそうだ。その後は、少し風向きが変わってくれるだろう。

(風が冷たくゴアテックスの青い手袋だけでは不十分だったので買い物袋の中に手を入れハンドルを握る)


カフェとは書いてなかったが近くまで行って建物の中を覗くと人が座っていたので中に入ると、中には小さなテーブルが4つがあって、殆どの席が埋まっていた。注文はボルシチ、ビーツのサラダ、パンなどを注文した。それ以外に食べられそうな物がなかった。店の外の看板の文字は、何と読んだらいいか分からない。でも、ウランウデの近くで7台のバスを先導していたポールとそのドライバと一緒に入った食堂にも同じ文字だったのではないかと思う。ウランウデのあの店でも肉を包んだ料理が主体だったが、今日のこの食堂も同じだった。今度は他の選択肢があったら他のカフェか何かに入らないと。

店の中で、俺の後から入ってきた人に声を掛けられた。お決まりの質問だったのでそれに答えたら、どこの国から来たかという質問には、俺が答えるよりも先に別の客が日本人だろう、って言ってきた。どうして日本人だと分かったのだろう。

食事が終わるくらいの時に、家族から電話があった。俺が持っているJALのクレジットカードの期限が6月末だと恵子は言う。もう一枚のアメックスは旅の終わりまでは大丈夫だと言うことだった。ここにも準備不足の結果が出る。恵子は医者と相談して肉をなるべく食べて、薬を飲むようにすると言う。ルイスはロサンゼルスの日本語テレビコのマーシャルに出るかもしれないと言う。バスケットボールのチームメイトの父親が日本語テレビ局に勤めていて、何かのコマーシャルの依頼があって出ることになったとのこと。だた、実際に放送されるまでテレビに映るか分からないのだと言う。

ジマという町で水、キュウリの酢漬け、いつものスニッカー(Snicker、チョコレートバー)、そしてドライフルーツを小さく切ったトレイルミックスを買う。約200ルーブル。ガソリンスタンドで買ったのだが、そのサインは以前にも見たこと見慣れたサインだった。店内には女の職員が二人、そして警備員が一人居た。その内の女の子の一人は、俺が店に入るなり色々説明してくれたが、全く何を言っているか分からなかった。俺が東洋人だとは分かるだろうが、俺がロシア語を理解すると思っているのであろう。

ガソリンスタンドの店を出て改めて、向かい風が強く冷たいのが分かる。それでも、ひばりだけが元気良く空高くからさえずっている。まるで自分を元気付けているように、そして少女の語らいのように聞こえることもあった。何週間か前に、チタの町を出た時には、風の音が凄まじく、悪魔の笑いのように聞こえたが、あの風の音はもう今無い。只、冷たい風が痛む左膝に容赦なく当たっている。

今日一日で80Km 以上走ったので、ジマの町を出てからは今晩の寝床を探すと、建築工事の資材置き場なのかフェンスで囲まれた土地があって、その中に小屋が見えたので大声で声を掛けると、ゲートに男の人が来てくれて、続いて若い男の人が二人出てくる。自分がこのフェンスの中のどこかでテントを張りたいと言うと、最年長の男の人はフェンスの外だったら良いと言っていたが、その後で若い一人が俺が自転車に乗っていることに気付いてくれて、フェンスの中でも構わないと中に通してくれた。風を避ける為、煉瓦の詰まれた横にテントを張る。夕食の為にお湯を貰えないかと小屋に行くと、電気ポットでお湯を沸かしてくれた。小屋の中にはさっきの年配の人も居て、その人からはビールを勧めらるままに一杯だけ頂いた。すると一気に回ってしまい、夕食を済ませ、未だ7時前だったが寝ることにした。


2008年5月27日 (31日目)M53マーカー:188Km


7時半くらいに起きると外は寒く5度位だった。寒かったが準備をして走り出すと既に8時半位になっていたと思う。俺が林の中にテントを張ったのはフェンスの向こう側には気付かれなかったようだ。

10時位にカフェを見つけ入ると、中には人懐こいモンゴル系に見える人達にそのテーブルに座るよう勧められたのでそのテーブルに座る。一人は警官だと言っていて、今日は休みのようで朝から友達とウォッカを飲んでいる。俺への友情の証としてもう一人の男は立って歌ってくれた。俺の旅が非常に面白く思えたようだ。食事の後、自転車のボトルに水を入れてもらってカフェを出る。全部で一時間くらいを要したと思う。ただ酒に酔っていたのか、同じモンゴル系として歓迎してくれたのか、俺の旅に共感してくれたのか。理由は何でもよかった。テーブルに呼ばれて一緒に食事できたことがとても嬉しかった。


外は相変わらずの向かい風だった。西から東に向ったらどれだけ楽なことか。でも逆のルートでヨーロッパ諸国からロシアに入ったら大変だったかもしれない。欲しい果物は無いし、言葉は通じない。でも俺は西に向っているので、それらの問題は少なくなると期待したい。少なくとも英語はもっと通じるようになると思う。




午後3時くらいにカフェを見つけたので入って昼食とする。家族から電話があるかもしれないと思ったが無かった。プローフ、ボルシチ、玉子焼き、紅茶で100ルーブル位だった。そのカフェの中には沢山の客が居たが、どの客も冷たい目だったので、朝食のように楽しくはなかった。カフェを出る際に昨日と同じキャラメルのスニーカーを買ってから出る。道路は随分と良くなった。でも、時々デコボコになるが、少し広い舗装はせめてもの救いだった。


登り坂の途中、Toyota のCamry のタクシーがパンクの為に路肩に停車していた。ホイールを止めているラグナットを緩めることが出来ず立ち往生。工具箱はあったが、中身はどれも役に立たなかった。何とか助けたあげたいと思って、トランクを開けてもらうとそこにはプロパンのタンクがあった。ガソリン車ではなかったのだ。こんな田舎でもプロパン車があるとは意外だった。まあ、タクシーだから少しでも燃費の良い車で無いと商売にならないのであろう。トランクの中はタンク以外は殆ど何も入ってない。暫くすると仲間と思われるもう一台の車が来たが、工具が足りなくて直ぐに行ってしまった。俺もこの状態では何も出来ないので先に進む。


今日はツバメを二羽見た。冷たいこのシベリアの地にもやっと春が訪れたようだ。そして昨日は久しぶりに蝶を見つけ、今日も見ることが出来た。俺は北上しているので暖かくなっては無いが、春は近いようだ。それから今日は大きなトラクタが畑を耕すのも見えた。種を蒔く準備なのだろうか。

また、小さな村にの入り口には野菜を売る4人の女性が居たので写真に収める。シベリアの人口密度が低い区域を脱したのか、農作物が出来る季節になったのだろうか。一人の老婦人は写真に入るのを拒んだ。往々にしてロシアの女性は写真に入りたがらない。特に年配の女性は顕著だ。






8時くらいにカフェを見つけ、近くにテントを張って良いかと聞くと、OK との事だったので、いつものメニューの玉子焼き、ボルシチなどを食べる。カフェの裏には空き瓶や空き缶を保管しておく小屋があり、その中だったら雨を凌げるので、カフェに戻りそこの中でも良いかと聞くとこれもOK してくれた。


これからクラスノヤルスクまで向かい風は続くのであろう。頑張ろう。皆が応援してくれている。ここで終わりにするわかにはいかない。左膝は相変わらずで、冷たい風が当たると痛む。でもきっと暖かくなれば問題なくなるだろう。

2008年5月26日 (30日目)M53マーカー:99Km


朝は9時にセルゲイが迎えに来てくれた。俺はまだ乾いてなかった洗濯物をそれまでに片付けていた。セルゲイはレストランで朝食を食べて下さいという。レストランに戻るとリタに玉子焼きとご飯を作って頂いた。セルゲイは行くところがあるというので写真を撮って分かれた。また、セルゲイは自分はビジネスマンだからと笑って言っていたので、どこか他にも仕事場があったのだろう。そして発とうと思ったら、レストランの事務所の中のPCでインターネットが出来るとの事だったので、イルクーツクでアップロード出来なかった写真をアップロードさせて貰うことにした。

只、そのPCにはデジカメで使っているSDカードを読み取るスロットが無かったが、セルゲイの娘さんマーシャは自宅まで戻ってアダプタを持ってきてくれた。その後、アップロードを試みたがスムーズで無かった。あれこれ苦戦しているうちにマネージャのリタが地元テレビ局に連絡してくれ、インタビューを受けることになった。インタビューワーとカメラマンの二人が来てくれ30分くらいの撮影だった。インタビューワーは若い女性で英語が話せたが、リタが時々間に入ってインタビューを終えた。レストランの外と中での撮影だったのでセルゲイ達には良い宣伝にもなったと思う。マーシャ曰く、明朝のテレビ放送だと言う。ウスリースク、ハバロフスクに続き、残念ながら俺はまたしても自分のインタビューを見ることが出来なかった。


その後で、レストランの職員は昼食にサーモンのフライ、野菜のあんかけ、サラダ、スープ等また沢山の食事を用意して下さった。その後、銀行に行く必要があったのでどの辺かと聞くと、マーシャが近くの銀行に連れて行ってくれた。トレベラーズチェックを300ドル分両替した。手数料は3%だった。もう午後2時を回っていたので、今から走る気がしない。もう一泊したらと言われたら、そうしたと思う。もう一泊させて欲しかった。こんな優しい親切な人達の所から離れたくなかった。でも俺には先に進む必要がある。苦しいが発つことにした。するとセルゲイが丁度戻ってきたので、挨拶できて良かった。ありがとう、セルゲイ。





アンガースクの町を出るのは簡単だったが、向かい風は強かった。全然進まない。幾つかの小さな町を通り過ぎる。甘いものが欲しく、店でキャンディーか何か買いたかった。9時近くまで走って店を見つけたので、その付近にテントを張れたらと思い、店の外で警備に当たっていた人にメモを見せた。イルクーツクのエレーナに書いてもらったもので、この付近でテントを張っても良いですか、と書かれたものだ。しかしその人は一言、駄目だと言った。そこから少し進むと10歳くらいの子供が二人遊んでいたので、話しかけてみる。メモを見せると、この辺の林の中だったらどこでも大丈夫だろう、といった返事が返ってきた。

そこから少し走り、あまりにも向かい風が強かったので林の中でテントを張ることにした。持っていたラーメンを二つ同時に作る。お湯が沸くのに15分くらい掛かった。林の向こう側はフェンスがあり、監視等が見えた。そして時々スピーカーからの声も聞こえた。フェンスの向こう側に何があるのか気になったが、こんなところで問題を起こしたら大変なので、素早く静かにテント入って寝ることにした。この町の集合住宅は入り口に検問があり、他の町の作りとは違っており、今までに無い緊迫感があった。しかし、テントを張った林の中は、M53 の道路上とは全然違い風は殆ど感じられなかった。