2008年7月23日 (88日目)M9, 157Km


朝は7時位に起きて準備を始めるが8時を過ぎてしまった。他の部屋で寝ているゴーシェを起こしてお礼を告げて別れる。自転車に乗り出すと8時45分を回ってしまっていた。

モスクワの道は簡単なようで複雑だった。環状線の道路は片側だけで6車線ありおまけに中央分離帯がある。何度か道を聞いて自分が進むべき道を見つけられたが、途中から自動車専用道路になってしまった。道路の標識が普通は青色なのに緑色になってしまい、M-9 の標識の他に小さな絵が付いている。自動車専用という意味だろう。しかし来た道を戻って普通の道路に出たところで、他のルートは全く分からない。危険は承知でそのまま走り続ける。途中で何台かの乗用車はクラクションを鳴らして過ぎていく。危険を教えてくれたのか。


  

更に進むと綺麗な新しい赤い橋を渡る。橋の上には歩道も用意されていたが、幅が狭すぎるので、自転車で歩道を走ることは出来なかった。橋の次はトンネルが待っていた。もう後戻りできない。トンネルは山の中を行くものではなく、川の下をもぐるものだった。橋を作るのよりもトンネルの方が良かったのだろうか。

トンネルを進むと壁には幾つもの監視用カメラが見えた。でも、最初は下り坂だったので勢いを付けて下った。途中で何台もの乗用車が通り抜けていく。トンネルの先方が明るくなり出口が近づいたのが分かり、全力を振り絞り走る。もしかしたらトンネルの監視室から警察か誰かを呼んでいて出口では誰かが待っているかもしれない。出来るものなら、その誰かが到着する前に走り抜けてしまいたかった。

案の定、トンネルを抜けて先に進むと誰も居なく、何事も無かった。取り越し苦労だったのか、気の狂った旅人を許してくれたのか。恐らく後者であろう。その後も何人もの警官やパトカーを見たが何も起こらなかった。こんな時にはこの国の人のいい加減な所に感謝する。日本やアメリカでこんな事をしたら只では済まないだろう。


  

風は殆ど無く距離を稼げた。しかし食事をとりたくてもカフェが中央分離帯の向こう側だったり、何とも入りにくそうだったりと、思うようにいかなかった。正午くらいにある店で買ったミルクや、その先にあった別の店で買ったパンやケフィールを昼食にした。

夕方17時位にカフェを見つけたので夕食とする。KMマーカーはもう直ぐ150キロになろうとしていた。ロシアのビザが4日後に切れるので一時も無駄に出来ない。ひたすらと走ったのだが思いもよらぬ早さだった。カフェでは魚、マカロニとジュースを注文して食べる。食べた後は日記を書いている。

モスクワ近郊に比べるとこの辺の道は狭くなり、片側1車線になってしまった。そしてカフェやАЗС(ガスステーション)はモスクワ近郊には沢山あったが、いつの間にか少なくなってしまった。今晩はどんな所で寝るのだろうか。とりあえず未だ20時なのでもう少し走ろう。

しかし走って見ると少し暗くなり車の数も減りだした。もしどこかの村に入れるとしたら人が外に出ている時間内の方が良いと思い、一つの村を過ぎてから泊まれる所を探した。モスクワからラトビアまではM-9 の幹線道路を利用しているわけだが、M-9 から少し離れた場所に木材や建築材料を売っていると思われる場所と骨組みだけの建物を見つけたのでその村に進む事にした。すると運良く数人がその骨組みだけの建物の前で食事をしているのを見つけた。村に進む道からその人たちの所へ行って話しかけてみると、建築の作業員で4人がウズベキスタンから来ていて、他の3人はロシア人だった。

  

俺が骨組みだけの建物の近くでテントを張りたいと切り出す前にロシア人の一人が夕食は未だですか、と聞いてきた。夕方に食事を取ったが腹は減っていると言うと残り物のプローフを分けて貰えた。そしてコーヒーやジュースなども頂いた。俺の今までの旅の話をすると、いつの間にか今晩はここの泊まれば良いという事になった。そしてロシア人のボスと思われる人は、明日ラトビアの首都リーガに車で行くので一緒に行くか、と聞いてくる。実に世の中は不思議だ。不思議なことが起こるものだ。どうしてこのタイミングでこんな質問が出てくるのか。ビザの期間内に出国する事は願っているが、出来れば自転車で走り切りたい。返事は明日で良いと言ってくれた。

ロシア人3人は暗くなる前に早々に帰って行った。そして残されたウズベキスタン人4人と自分は星空の下で話を続けた。そしてその内の一人は歌を歌ってくれた。自分で伴奏しながら上手だった。どんな歌詞だったのか全く分からないが、何となく友達が遠くから来た、というような受け止められた。歌を歌った貰えるのはこれが二度目だった。シベリアのイルクーツクの西のあるカフェでも歌を歌ってくれた人が居て、その人も自分から進んで歌を披露するだけあって上手だった。

コーヒーを何杯も頂き、小さな寄宿舎の中に泊まれる事になった。中には3つのベッドがあり、俺は床に寝袋を敷いて寝れば良いと思ったら、2番目に若い人が自分のベッドで寝てください、と言う。その若い人はベッドがある部屋ではなく、工具が保管されている部屋の中のソファで寝ると言う。俺がそこに寝かせて貰う、と言ったが聞き入れて貰えず、好意に甘える事にする。何ともありがたい事だ。

自動車専用のトンネルを抜け、自動車にクラクションを鳴らされて、モスクワの大都会を無事に抜けられた。あと残されたのは3日間。星空が明日の天気を約束してくれている。

2008年7月22日 (87日目) モスクワ (3泊目)


昨日Voice of Russia の放送局に行った際に自分宛の小包が届くとの事が分かりモスクワに今晩を最後に計3泊することになった。そして今日は泊めて貰っている家で局の山上さんからの連絡を待った。しかしその前にグレゴリー(ゴーシェ)は外出するとの事で一緒に家を出る必要があったので、とりあえず自転車屋に行きスポークを探すことにした。先日1本のスポークを使っているので予備が必要だった。

ゴーシェに自転車屋が集まった区域への行き方を教えて貰ってあったのでそのとおりに地下鉄を乗り継いで目的の駅に行くことが出来た。駅を出て地上に出ると公園の横に沢山の自転車が見えたのでその方角に行くとその一角が自転車店街だった。



バンの横で青空の下で自転車の車輪を調整している職人のような人が居たので自分が必要なスポークを見せると何も言わずに首を振って断られた。スポークを売ってしまったら商売にならないので売らない主義なのであろう。英語が伝われば自転車で旅行しているので多少高くても買いたいと伝えたかったが、表情があまりにも固かったので止めてた。

沢山並んだ自転車店の一つに入ってみると沢山の店員が居た。よく見てみると大きなスペースの中に小さな沢山の店が入っていたのだった。一つ一つの店の店員にスポークを見せるが売って貰えなかった。在庫があるのに売らないのか、在庫があるのかも分からなかった。そして10軒くらいの店をあたったと思う。するとある店員は英語が話せたので説明してみると、店員は店の奥へ行って自分がスペアで持っているものよりも1ミリ位短いものを持ってきてくれた。少し短いが無いよりも良いのでいくらかと聞くと要らないと言う。僅かな金額であるのは知っているが有難かった。

スポークをただで貰うのは気が引けたので何か小さなものでも買おうと見て見るとハンドルの端に付けるバックミラーが100 ルーブルだったのでそれを買うことにした。小さなお店の集まったその場所の中央くらいに支払う場所があり、そこで支払った後でレシートを見せてくれたら商品を渡してくれるという。100 ルーブルを支払おうと思ったら、何故か117 ルーブルだという。税金なのかスポーク代が追加されたのか分からないが言われたとおりに117ルーブル支払った後で、バックミラーをそのお店で受け取った。

そうこうしていると局の山上さんから連絡があって、自転車のパーツが局に届いたとの事だった。これでモスクワを発つことが出来る。フライホイールが上り坂で音を出していても、チェーンが伸びてしまってスリップしていてもそんな事はどうでも良かった。重荷になってしまうがとてもこの時に部品を交換する気にはなれない。ビザの期限を守ってロシアを出国したかった。

山上さんと局の近くで待ち合わせることにした。自転車店街の近くの地下鉄の駅に戻り、地下鉄を乗り継いで昨日の夕食を取った近くの駅に行ってから山上さんにSMSを送った。電話は通じなかった。山上さんからの返事を待っている間、今朝は昨晩買ったパンやバナナを食べただけだあったので駅近くのKiosk にてヨーグルトとパンを買って食べる。



暫くすると山上さんから電話がありその後に直ぐに会えた。菅さんも一緒に来てくださり、昨日は会えなかった他の日本人の職員の方も一緒だった。夕食でも一緒に出来たら良かったが、山上さんは約束があるそうで4人でアイスクリームをマクドナルドで買って、近くの美術館の前に行きそこで写真を撮ったりした。一人の夕食は寂しいので一緒に出来たらと思ったが皆予定があったのか駅で菅さんとその女性と分かれる。分かれる前に駅の前には沢山の人が集まっていて、何か無料で飲み物を配布していたので他の人に倣って一瓶を貰う。直に山上さんの知人も現れるが、一緒に夕食できるような感じでは無かったので郵便物の事やビタミンを一緒にさがしてくださった御礼を言って分かれ、赤の広場に歩いて向かう。ゴーシャは21時位に家に戻るとの事だったので時間を潰す必要があり、地下鉄に乗って帰ると早すぎるので歩くことにした。

途中で赤の広場の周りの庭や守衛など普通の観光客のように何枚もの写真を撮る。一昨日はセルゲイを一緒に足早に赤の広場を出てしまったが、時間が余っているのでのんびりと見て回る。ゴーシェの家の近くの地下鉄の駅の店では何回と無く買い物をしたが、今度はゴーシェのアパートの近くの店にて、パンやモールスのジュースを買って食べる。シベリアで美味しかったモールスのジュースとは違ったがそれなりに美味しかった。ゴーシェのアパートは道路から入るドアに鍵があって建物に入れないのでゴーシェが戻るのを外で待っていると、ゴーシェの妹のボーイフレンドが来たので一緒に入れてもらう事が出来た。

ビザは明日から4日間しか残ってない。もし今日パーツが届かなかったら電車でモスクワを出るかヒッチハイクをする必要があったが、4日間残っているので600 キロの距離を走れば何とかロシアのビザの最後の日に出ることが出来る。スポークを修理して間もないので、車輪が大きく狂っていたらまた直ぐに折れるのは分かっている。夏の日は長いが、雨でも降られたらどれだけ進めるか分からない。明日は月曜日。モスクワの大都会の渋滞をうまく脱出できるか。手持ちのルーブルが残り少なかったり不安材料は他にも幾つもあった。でも今諦める必要は無いので行ける所まで行こう。諦めるのは何時でも出来る。

2008年7月21日 (86日目)モスクワ (2泊目)


今日は「ロシアの声」放送局でのインタビューだった。朝7時前に目が覚めたが、昨晩遅くまで起きていたので二度寝をしたら10時くらいに恵子からの電話で目が覚める。モスクワに無事に着いた事を伝える。俺がどんな思いでモスクワに着いたかは知らない。誰にも理解できないし想像も出来ないだろう。電話を切った後はインターネットで写真を送ったりメールを確認したりした。

そしていつの間にか12時半を過ぎていたので急いで近くの地下鉄の駅に向かう。その地下鉄の駅は終点の駅と聞いていたので、プラットホームに入って来た電車にとりあえず乗ったが、車内にあった路線図が全く読めない。間違っていたら嫌なので確認の為に次の駅で降りたら、放送局に行くには偶然にもその駅で乗り換える必要があった。


その駅で駅員に英語でどのラインに乗ったらいいのか聞いたのだったが、俺の英語が通じてなかったのか交差しているホームの階段を何度も昇り降りする結果になった。同じ駅員に同じ質問をして双方が逆の事を言っていたので、片方がいい加減な返事をしていたのか、俺の言っていることを間違って聞き取ったことになる。駅の名前だけが駅員に伝わっていたと思うが、都会の駅員は冷たかった。そしてようやく確信がもてたところで、オレンジ色のラインに乗って放送局に向かう。

その際に只一つだけ位置の分かった駅があった。Китай-город、中国人街がモスクワの中心街にもあるのだと思った(これは帰国後に間違いだった事が分かる。Китай-городは赤の広場の直ぐ近くで、中国人街ではなくビジネス街だった。)これが唯一理解できたもので、これを偶然にも基点にできたので問題なく路線を乗り換えることが出来た。神経を研ぎ澄ましている時にはこんな偶然が起きるものだ。度重なる偶然は奇跡としか言いようが無い。

オレンジ色の路線に乗り換えて、駅を出て地上に出たところでいちのへさんの指示通りに放送局で待ってくれているいちのへさんに電話した。文字通り左も右も分からない俺にいちのへさんは駅まで迎えに行てくれる約束になっていた。美人アナウンサーに会えるのは心が弾む。

ラジオ局は今は「ロシアの声」 になってしまったが、その昔は「モスクワ放送」だった。俺が中学2年の時に人生で最初に受け取った国際郵便がここから送られて来たのだろう。シンプルな絵葉書であったが衝撃的であった。その時は東京のモスクワ放送の支局に受信状態と放送の内容を報告してその返事が葉書でソ連から届いたのだった。その昔はBCL (Broadcasting Listener )というラジオ放送を聞いてそのラジオ局に聞いた内容を報告するような事が活発で、AMのラジオでニッポン放送の直ぐ隣の周波数で簡単に聞ける放送局がモスクワ放送だった。あの頃の俺には社会主義が何で、プロパガンダが何であるか分からず無心で海外からの、特に音楽に耳を傾けた。そんなラジオ放送局の本局がここにある。ハバロフスクの支局で岡田和也さんからモスクワに行ったら是非立ち寄って下さい、とは言われていたがまさかその時は実現するとは考えてもなかった。


電話の後、いちのへさんは直ぐに駅まで迎えに来てくださった。写真のとおりチャーミングな方だった。一緒に放送局の入ったビルまで歩き、ロビーのセキュリティーをいちのへさんと一緒に通って局に入り、様々な方を紹介して頂いた。日本人の人と会うのは久しぶりだった。インタビューの前に階上のカフェで、予めいちのへさんが用意している質問に答え本番に臨んだ。

ハバロフスクでは日本人スタッフは岡田さんだけだったが、モスクワには4人の日本人のアナウンサーの方がおり全員を紹介して頂いた。それからモスクワには別の岡田さんが居た。もう既に40年以上勤務しているとの事。昭和40年代にモスクワに来た計算になる。どのような苦労があったのだろうか。何故か自動的に苦労があっただろうと想像した。それからロシアの声の日本語課の責任者と日本語課の他のスタッフも紹介して頂いた。ロシアに居ながらロシア人が流暢な日本語をその人達が使うのが奇妙だった。

15時からあるスタジオに入って、他の番組の収録を見せて頂いた。男性アナウンサーの菅さんの日本語には特に驚きが無かったが、他のスタッフとのやりとりをロシア語で流暢に話していたのが非常に印象的だった。菅さんは舌をかんだ時には直ぐに「イズミニーチェ」とロシア語で謝った。アメリカのアナウンサーのように間違いを誤魔化そうなどという事は無かった。同じ日本人として誇りに思った。その間髪入れない日本語とロシア語の操りが素晴らしかった。

その後、16時から自分のインタビューが始まった。いちのへさんはハバロフスクの岡田さんと連絡を取り合っていたので俺が何をしているのか理解されている。そしてカフェで打ち合わせと質疑の他に雑談をしているのでハバロフスクからの道順や旅の状況を大雑把に把握されていたのでインタビューは瞬く間に進んでしまう。そして気が付いたらインタビューは終わってしまっていた。これで終わってしまうのか、って思うくらい早く片付いてしまった。思うように答えられなかった質問が幾つもあったが仕方ない。

インタビューの様子を収録する部屋はガラス張りでその外では数人が様子を伺っていた。そのうちの一人のロシア人の女性スタッフは俺の話に聞き入っていたようで、インタビューの後で俺の話の内容を日本語で誉められてしまった。話し方を誉められた訳が無い。話の内容がその女性スタッフにとって嬉しかったのだと思う。インタビューの内容は9月に放送される予定との事だった。

17時過ぎには近くのカフェ(デリカテッセン)にて、いちのへさん、菅さん、山上さんと俺との4人で食事をした。今までは道路わきのカフェだったので食事は大抵150 ルーブル位と安かったが、そのデリカテッセンには美味しそうな料理が並んでいたので欲張って皿を沢山取ったら400ルーブルになった。食事中は3人の方に自分の旅に興味を持ってくれて話を聞いて貰えたので嬉しかった。Metro の地下鉄の駅で分かれる。モスクワで自分一人で地下鉄に乗れるとは非常に考えにくい事だと思った。それもまるで自分の裏庭のように。

2008年7月20日 (85日目) モスクワ


朝は6時前に目が覚める。皆が寝ていたので日記を書いて静かにしていた。幸いにも夕べは蚊が少なかったので良かった。そして7時前に若い方の人が起きて外に出たので俺も外に出てみると近くで焚き火でお湯を沸かしていた。昨日はスウェットパンツがびしょ濡れになっていたのでお湯を沸かしている近くに立って乾かす。お湯が沸いたところで中に戻って紅茶を頂く。その頃には他の3人も起きてきて俺を含め5人で朝食にパンとパスタのようなものを頂いた。質素だが充分だった。



いつの間にか7時半を過ぎていた。工事関係者の他の人が来てしまって慌てて出る。別に罪悪感は何も無かったが、自分の自転車を工事用道具と一緒に保管してあったので、急いで出てしまった。昨晩暗かったけれど4人の写真が撮れて良かった。

走り出すと空は曇。雨が降りそうな雲だったがとにかく走った。モスクワの中心へ向かう道路は平坦で路肩が広かった。モスクワ市の境界線のサインは質素なものだった。今まで見てきた小さな白い看板にモスクワと書かれていた。終に来た。日曜日だったので朝の交通量が少ないが油断はできない。

途中でマクドナルドとBP のАЗС(ガソリンステーション)を見つけてお店に入った。都会なのでのんびりと買い物は出来ないので、最低限の食料を買って直ぐに出る。都会に来たという感じだった。



走っているといつの間にかM7 のKMマーカーの標識が無くなってしまった。赤の広場に行くには何度か道を尋ねて進んだ。そして終に赤の広場の赤いレンガの壁が見えた時は感動的な一瞬だった。終にモスクワまで無事に来れた。

大した事故も無く体調も崩さず、自転車も無事だ。おまけに今晩の寝床は決まっている。感無量。涙が何故かこみ上げてくる。楽しいことも辛いことも一瞬の間に限りなく蘇ってきた。偶然が偶然を呼び起こし、あの時あの場所であの人に会わなかったらこうはならなかっただろう、と奇跡とも思える瞬間を駆け巡ってきた。

自分は幸運なのか。それともマーフィーの法則どおり、起こるべき事が起こっただけなのか。それともパラレル・ユニバースは本当の事で、俺は無数にある自分のその一面を生きているだけなのか。でも俺はマーフィーの法則もパラレル・ユニバースも否定したい。否定せざるを得ない。起こるべき事が起こったとは思えない。4次元の自分など想像できない。その場その場で受けてきた親切はそんな確立や空想みないなもので片付けられる訳が無い。俺はみんなの力を借りて赤の広場に来れたんだ。

今晩泊めて貰える事になっているグレゴリーからSMS が届き住所を教えて貰った。地図で確認しようとしたが見つけられなかった。近くに東洋人が居たので英語で話しかけるとその中の一人は日本語を話したのでその人にグレゴリーの住所を聞いたが分からなかった。でもその人が一緒のロシア人ガイドの人が直ぐに来ると言うのでガイドが戻るのを待つ。その東洋人のグループは韓国のバレーボールの選手の監督達だった。現役の選手は一人も居なかったが、そこに居た一人は背が高かったので引退した選手だったのだろう。



直にロシア人ガイドが来たがその住所は分からなかった。どうしたものかと考えていると一人のロシア人の男の人が話しかけてきた。その人にグレゴリーの住所を聞くとその方角に行くので一緒に行こう、という事になった。赤の広場を自転車を押しながら歩く。その男の人の名前はまたしてもセルゲイ。セルゲイは英語を流暢に話したので助かった。赤の広場は写真で見ていたのと同じだった。でもここで色々なパレードが行われるかと思うと凄い所に来たものだと我ながら感心した。

赤の広場の西側に歴史博物館の建物があり、その付近にはロシアの道路の基点が記された円盤が石畳のあり、皆競ってその上に立って写真を撮っている。俺もセルゲイに頼んで一枚近くで撮って貰う。セルゲイと歩きながら建物の横のウィンドウを覗いてみるとPOLA の文字が目に入る。シャネルと並んで高級デパートに店を構えていた。先に進むとセルゲイは近くに和食の店があるのでそこで食べようと言うので行ってみると、自転車を安全に置けるような場所が無い。するとセルゲイは自動車の駐車場の係りの男の人に何か話して自転車を預かって貰う事になった。不安だった。自転車を預けたくない。人相が良くない。今まで親切にしてきてくれたロシア人と全然違う人種に思えた。でも貴重品は常に身につけているので最悪の状態は免れるのでセルゲイに続いて和食の店に入った。

モスクワでのホテルの宿泊代の値段は世界的にも高額なのは知っていたので、そんな街での和食はどんな値段なのか心配にもなった。でもセルゲイには道案内して貰っているので自分がご馳走しても良いと思って入る。店の中は日曜日の昼なので客が少なかった。店の中の雰囲気は東洋風で、店員も東洋風の服装だった。メニューを見てみると英語でも併記されていたのでシーフードのチャーハンを簡単に注文できた。そしていざ支払おうと思ったら、セルゲイは自分が支払うと言う。安くなかったので支払おうと思ったが、セルゲイは拒んでさっさと現金で支払ってしまった。セルゲイは以前にモスクワの日商岩井の事務所に勤めていたそうで、恐らく日商岩井の方々から受けた親切を俺に返してくれたのだろうかと勝手に想像した。



レストランを出ると、セルゲイは地下鉄に乗ろうと言う。俺には今晩の寝床が決まっているし、泊めてくれることになっているグレゴリーは夜9時に家に来て欲しいと言っていたので時間を潰す必要があったので願ったり叶ったりだった。地下鉄のトークンを買って貰い、エスカレーターを降りる。エスカレーターに人が乗る板は全て木製だった。冬のモスクワは雪に埋もれ建物中は雪が解けて通路は湿ってしまうはずなのに何故木製のエスカレータなのか不思議だった。勿論動力の伝わる箇所は金属だろうが、なんとも不思議な感じだった。まるで宮崎駿の映画の中の産業革命の一幕のようだった。そしてそのエスカレーターは長かった。安全対策のためかエレベーターの係りの女性が一番下のブースの中に座って監視していた。



地下鉄の通路は見事な造りだった。誰かがモスクワの地下鉄の通路は美術館のようだ、と言っていたのを思い出す。絵画や彫刻が至る所にある。天井に吊られたシャンデリアも大きく見事だった。アメリカに住んでいるとロシアは今でも敵対国であり良い事を言う人が居ないので自分が昔思っていたソ連の事をすっかりと忘れてしまっていた事に気づく。社会主義の中で極寒の地とも言える国に生まれた偉大な芸術家が多い事を思い知らされた。



セルゲイと地下鉄に一緒に乗り彫刻が沢山ある駅で降りてまた赤の広場の駅に戻る。するとセルゲイは自分の車があるから街を案内するという。本当に有難かった。セルゲイの車は日産のブルーバードのような車種だった。モスクワで日産車に乗れるとは嬉しかった。セルゲイはガガーリンの大きな記念碑(像)やら色々なものを説明してくれた。そしてモスクワ大学の近くへも連れて行ってくれた。特徴のある建物だった。そしてその近くに車を止めて見晴らしの良い場所にも連れて行ってくれた。セルゲイとの記念写真を撮って貰い、そこで売っていた絵葉書を買う事も出来た。

セルゲイに自転車が置いてある和食のレストランの近くまで連れて行ってもらい、俺はセルゲイに言われるように100ルーブルを駐車場の人に支払おうと思ったら、自転車を置いた場所にその係りの人も自転車も無い。まずい、と一瞬思ったが、奥からその係りの人が出てきた。どうやら自転車をもっと安全な場所に移動してくれていたようだった。もしかしたら俺が戻ってきてチップを確実に貰える様に見えない所に移動したのかも知れなかったが、自転車が無事だったのでよかった。駐車場から出て見るとセルゲイが自動車の中で待っていたのが見えた。俺の事を最後まで見届けてくれていたのが特に嬉しかった。見ず知らずの旅人にここまで親切にしてくれるというのは何なのだろうと思った。きっと日商岩井の方々がセルゲイをした事をセルゲイは俺にしてくれたのであろう。

セルゲイと分かれる前に、今晩止めてもらう事になっているグレゴリーの家の凡その住所は教えて貰ってあったので、分かれてからその方角に進む。セルゲイ曰くグレゴリーの家の近くにある地下鉄の駅は、最近出来た地下鉄のある路線の終着駅との事だった。駅近くの店で今晩の夕食を買って、近くの公園で食べてグレゴリーの家に行く時間を待った。公園は綺麗になっていて日本の公園のようだった。

約束の夜9時になりグレゴリーの家に行って、3階までいつものように階段で自転車を持ち上げてた。グレゴリーの家族は両親と妹の4人家族のようだったが、誰も俺が泊まる事に対して何も気にしてないので、俺は気が楽だった。5部屋くらいあるフラットで、その中の空いていた一部屋を使わせて貰う事になった。これで明日行われる予定になっているのロシアの声でのインタビューに行ける。ラジオ局の名前は変わってしまったけど35年も前に聞いていたラジオ局にインタビューして貰える事とは。まるで嘘のような事が明日起こる。間に合って良かった。

2008年7月19日 (84日目)ノジンスク、M7 750Km




朝は7時前に起きる。そして日記を書いているとIrena が起きてきてコンピュータを使わせて貰えた。モスクワで泊めて貰える家を探すのと、メールの返事を書いた。朝食には以前にも食べたことがあるお粥のようなものを頂いた。外は小雨。でも、もう一日の猶予も無いので雨でも何でも進まないといけない。只、モスクワの泊まる場所を探す必要があったので、10時半位までメールの返事を待った。しかし誰からも泊まっても良いとの返事は無かった。出発の準備をすると11次位になってしまった。アンチョンに地図を見せて貰って、幹線のM7 への戻り方を教えて貰った。イリーナは一度どこかに外出したが戻ってきた後で一緒に昨晩自転車入れた車庫に行く。イリーナは俺が道を間違わないように夕べ走ってきた大きな通りまで一緒に来てくれてそこで分かれた。急いでいたので彼らの写真を撮るのを忘れてしまった。失敗してしまった。



走り出すと街の中は今朝の雨のためか道路が濡れていたが大した事は無かったのでレインギアは着ないで走る。街を出てM-7 に出るとその後は快調に走れた。街の中は交通量の多いし、道を間違えないように気を遣うので郊外を走るのは楽だ。それにウラジミールはちょっとした都会なので郊外の道路は路肩が広く走りやすかった。当分の間、登り下りが続いたが追い風だったので距離を稼げた。途中の村で昨日と同じヨーグルトを買う。20ルーブルと昨日よりも3ルーブル高かった。それを飲んでいる時に近くに止めてあった他人の自転車を見ると何処かで買い物をしてきたように見えた。きっと別のお店があるのだろうかと思って見ていたら2件隣もお店だった。M-7 から入り込んでいたのにこんな所にお店が並んでいるとは驚いた。2件目の店にはバナナがあったので5本買う。18位ルーブル。シベリアから比べると、暖かくなったせいもあるるだろうが、バナナの値段は下がる一方だった。途中でロシア製で、フロントのサスペンションがリーフスプリング、そして音の煩いエンジンのよく見る小型トラックとトレーラーの事故を見る。以前から思っていたのだが、事故を起こしたロシア製の小型トラックの運転手は特にマナーが悪い。事故の相手のトレーラーはジャックナイフしていて、登り坂の路肩に落ちてしまっていた。この朝の事故とは別に夕方にも事故を見たが 、これにもロシア製の同じトラックが絡んでいた。その型のトラックの数は多いのだろうが、トラックをサンダルで運転する人達なので基本的になってない。

別の所では右折するインターチェンジがあり、右側のレーンで真ん中を走っていて、後ろから車が来るか見て見たらルノーの新型のトラック(トラクター)が来たので右に除けようと思ったら、運転手は手で先に行って、と合図している。俺は嬉しくて手を何度も上げて礼を伝えるとそ のトラックの運転手はクラクションで答えたくれたのでもう一度手を上げて答えた。こんな親切なドライバーも居るのだ。何度手を上げたか分からなかったが本当に有難かった。



昼食にはトラックが沢山停まっていたカフェに寄って玉子焼き、キャベツのサラダ、マカロニ、ジュースなどを130ルーブル位で食べる。食事の後、洗面所の水を水筒に入れて走り出す。比較的に平坦な道が多かったのと、追い風が続いたので良く進む。只、いつもの夕立が来て、一つ目は見送るというか避けられたが、二つ目は雨宿りの為に雨を待ったが、一向に降る気配が無いので走り出すと途端に雨が降り出した。レインジャケットと靴にビニールを履いて走る。雨の中をとにかく走る。トラックの一部は容赦なく俺の直ぐ左横を走り抜けて行くが、水溜りなどでは大きく左に除けてくれるドライバーも沢山居て有難かった。雨は直に上がったがレインギアを着けたまま走る。M-7 はNoginsk の街への道が分かれた。標識どおりに進んだら今回はバイパスではなくて本線だった。

21時位で少し暗くなり始めたのと、体力も落ちているので何処かで夕食を取れる、そして泊まれる場所を探したが中々見つからない。すると道路工事の為の車線変更があり、工事用車両と小屋が見えた。そこに二人が立っていたのでテントを張りたいと、伝えるが直ぐに良い返事は無かった。駄目で元々と思って小屋を指差してあの中に泊めて欲しいとメモ帳の一ページを見せると、その二人のうちの一人は小屋に行き暫くして戻ってきた。すると運良く泊まっても良いとの返事だった。自転車を中央分離帯のガードレールの上まで3人で持ち上げて小屋に行くと、寄宿舎としての小屋と、工事用道具を保管している小屋があり、自転車は工事道具の小屋に保管して貰えた。



寄宿舎の小屋に入ると2段ベッドが両側に二つ、そして正面に1段のベッドが一つ、普通だったら5人が泊まれる6畳間位の小屋だった。小屋の中には実際は4人が寝泊りしていて、殆どがウズベキスタンから来ているようだった。日本だったら出稼ぎとして扱われるのかも知れないが、実際の事は分からない。移住しているのかも知れない。小屋の中ではプローフのような米の料理とパンや紅茶を頂いた。有難かった。自分のスウェットパンツは夕立の雨でずぶ濡れ。小屋に入る先の二人のうちの一人が俺でも着れる大きなジーンズを貸してくれた。丈は短かったが濡れているスウェットパンツよりも100倍良かった。俺は腹が減ったとは言ってなかったが、残り物であったとしても夕食を用意してくれたり、空いていた一番大きなベッドを貸してくれたりと、俺がずぶ濡れで空腹で疲れているという状態であるか直ぐに感じ取れて貰えたので嬉しかった。食事の後は俺が撮った写真をみんなに見て貰い、静かに更ける夜を空腹ではなく屋根の下でそれもベッドで寝る事が出来た。 明日はモスクワだ。恐らく30キロ程度の距離だろう。昨晩と今朝イリーナの家でモスクワで泊まれる場所は無いだろうかと何人かにメールを送ってあったのだが、20時くらいにモスクワのグレゴリーから泊まっても良い、とのSMS が届いたので、寝床の心配は無用だ。待ちに待った赤の広場が直ぐそこだ。9千キロ離れたウラジオストクを発って約80日。途中1500キロ位は電車だったが、良く走ったものだ。雨が降っても嵐が来ても間違いなく明日中にはモスクワだ。沢山の親切に支えられてよく此処まで来たものだ。