2008年7月04日 (69日目) M5、チェルナヤ・リェーチカ (Черная Речка)


朝は6時半くらいに一度起きたが、眠かったのでもう一度寝てしまった。起きた時にはもうマーシャの母親は仕事に出掛けてしまっていた。散々御世話になっていたのに最後の挨拶が出来なかった。

8時に起きた時にはマーシャとゼーニャ(アンチョンの彼女)がキッチンで紅茶を飲んでいた。
俺も一緒に座らせて貰って、朝食にパンやチーズ等を頂いた。今日はアレクセイも早く起きてきた。そして、ゼーニャは徹夜でデザインの仕事をしていて、それが仕上がったそうで出掛ける準備をする。

朝食の後はインターネットをやらせて貰う。アレクセイの実家はチェラビンスクから西にあり、その区域に住むアレクセイの弟の友人知人に連絡してくれていて、俺が今晩泊まれそうな家を探してくれていた。しかし、返事が無かったので、俺はHospitality Club (hospitalityclub.org)のメンバーを見つけたので泊めて貰えないかとメールを送った。

それから準備をしていたら出発は12時になってしまった。水をボトルに入れて貰い、マーシャから沢山のピロシキを貰い、アレクセイのアパートを出る。アレクセイは大通りまで送ってくれた。別れ間際、「ロシア人にどうなって欲しいか」とアレクセイは質問してきた。

俺は答えに困ったが、ロシア人が自由に旅行できるようになって欲しい、と伝える。俺の返事の声は震えていた。今にも泪が零れそうだった。今の世界は非常にアンフェアだと付け加えもした。自分は日本に生まれ自由にロシアを旅行できる。しかし、自分を歓迎してくれている一般ロシア人は自由に旅行が出来ない。

イルクーツクで御世話になったイリーナ。ケメロボで御世話になったウラジミール。オムスクのターニャ。そしてこのアレクセイ。挙げたらきりが無いが、みんな俺よりも遥かに優秀な人達だ。でも、自由旅行は制限されている。どの星の下に生まれたか、などと占いではよく使われる言葉だが、当にそのとおりだ。生まれた場所が違うだけで人生が変わる。それが運命というものか。アレクセイを抱擁して分かれる。走り出したら途端に泪が出てきてしまった。俺に出来る事は何も無い。俺に出来る事は感謝する事だけだった。本当にありがとう。

チェラビンスクのM5 の幹線道路に出る前にブレーキが効かないので調整をする。クラスノヤルスクでもそうだったが、永い事、雨の中を走った後は調整する必要があった。今日は少し強めにネジを締め付けた。

キオスクのような小さな売店が並んだ通りで、帽子を探した。ノボシビルスクのパベールに買って貰った帽子を失くしてしまったのでその替りが欲しかった。でも、大きさが合わなかったり、帽子のつばの具合が気に入らず買わなかった。



アレクセイに教えて貰った通りを曲がり、ウファに向けて進む。幹線道路なので交通量が多く、歩道を少し走ったりしたが、殆ど車道を走って街を抜ける。雨が途中降ったが、街を抜ける頃には青空が見えたので、これでまた良い思い出の街になった。もし雨のままだったら、雨の中を走る辛い思い出になってしまう可能性があったので良かった。




途中、何度も止まってマーシャの母親が作ってくれたピロシキを食べる。途中、道路工事の区間があり、舗装は終わっているが線引き等の仕上げが残っている区間があり、そこは自動車の通行が閉鎖されていたが、俺はそこを走った。気持ちよかった。自動車を気にしなくて済むのと、スムーズな路面の上を走るのは非常に楽だった。これがモスクワまで続いていたら、なんて思ったが、そんな道路は直ぐに終わってしまった。そして幹線道路だけあって、交通量が非常に多い。あるトラックの運転手は、道路を開けろと言わんばかりにクラクションをけたたましく鳴らして行く。でも、90% のドライバは親切に俺を避けて通って行ってくれる。


多少の登り下りはあったが、以前のように短いものではなく長い坂だったので少しは楽だった。それと風は追い風だったので助かった。


夜9時位にミアースという町との分岐点に差し掛かり、広い敷地を持つ何かの工場の中の敷地にテントを張らせて貰おうと思って、警備員に聞いてみると、責任者のような人に聞いてくれてOK してくれた。でも、俺は夕食を未だ食べてなかった。ちょっと先にカフェがありそうだったので、そこに進んだ。そしてカフェの並びにあった自動車部品のお店の人に、同じようにテントを張りたいと伝えると、他の人を呼んでくれた。現れた人にテントを張りたいと伝えると、300ルーブルで夕食と明日の朝食とバーニャを提供するとの事だった。寝る場所と食事とサウナで300ルーブルは安い。でも、俺はそこでお金を支払ったら何を次に要求されるか分からないと思ってその話には乗らなかった。そして幹線道路から少し離れた場所に鉄のパイプで作られた質素なゲートがあり、俺がそのゲートを潜って入ろうとしたらその人から入るなと止められてしまった。この村には何かがあるような気がした。

エカテリンブルグのセルゲイの事務所の職員が面白い事を言っていた事を思い出した。その人は、村には入らないようにした方が良い、と言っていた。俺はそれまで小さな村の人達にどれだけ親切にされてきたか分からない。だからこの青年は何を言っているのか、とその時は思った。でも、これが彼の懸念していた事だったのかもしれない。村の入り口はゲートが降ろされ、通行人を村の住民が常に監視している。ノボシビルスクの郊外の村でも、同じようにゲートに囲まれた村があったが、そこは制服の監視員が居た。村の中に何があるのか興味があったが、触らぬ神に祟りなし、と思いその場を離れる。

仕方なくカフェに近付くと、駐車場の警備員が居たので聞いてみると、警備員の小屋に泊めてくれると言う。小屋の中に自転車を入れて、ベッドの上に寝袋を敷いて寝られる事になった。小屋に鍵を掛けてもらい、俺はカフェに行って夕食に魚、マカロニ、サラダ、ケフィール等を食べる。

夜の10時過ぎに家族から電話があり、足の痙攣の事を調べてくれたそうで、やはりカルシウム不足で痙攣を起こす事があると言う。俺は努めて乳製品を摂ることにした。

数日後に到着するであろう次の都会、ウファに住むイリヤからSMS が届き、イリヤの家の区域の名前や方角を教えて貰った。街の中心からの方角を教えてくれたのはチェリャビンスクのアレクセイに次いで二人目だ。街の中心から北東のようだ。


2008年7月03日 (68日目) M5、チェリャビンスク (3泊目)


朝は6時半くらいに起きたが外は雨。起きてからマーシャの母親とは会話が成り立たなかったが、気遣ってくれて、もう一泊しても良いよ、というような事を言ってくれたと思う。そして俺は、好意に甘えてもう一泊させて貰いますと伝えた。朝から雨に降られると自転車で走る気は起こらない。朝食にペロシキや紅茶などを頂く。

直にアレクセイとマーシャも起きて来て3人で話をした後、マーシャはハイキングの写真を見せてくれた。オムスクで泊めてくれたターニャと同じようにアルタイ山脈の写真だった。アレクセイとマーシャがハイキングを楽しむ人で良かった。自分のサイクリングが大変なのを理解してくれている。

雨は正午くらいに上がった。でも、俺は既にもう一泊をお願いしてあったので、もう一日休む事にした。アレクセイは自宅でプログラミングの仕事をしていた。俺は日記を書く。

数日前に泊めて貰ったエカテリンブルグに住むセルゲイから、この映画を見て欲しいとあるファイルをPCにコピーしていたのだが、それを3人で観る。

最初は宗教の偶然の話。次はニューヨークで起きた同時テロの話。次は金融関係とかで発生している様々な偶発的な出来事。全てがロシア語だったので、俺には何を言いたいのか皆目検討が付かない。全てが何かのドキュメンタリ映画やニュースからのコピーで、全ては切り貼りで作られたように思えた。

でも、アレクセイはその映画を見た後で、NYの同時テロは米国政府が仕組んだ仕業だろう、と言った。映画の内容を見たら、そうなるのかも知れない。誰が誰の為に作った映画なのか。もしかしたらタリバンが作ったものなのか、俺にはその方が気になった。

映画の途中マーシャは教会の牧師の誕生日カードに日本語でお祝いの一言を書いて欲しいと言うので、在り来りだったが「お誕生日おめでとうございます」と記した。

映画の後は、メールを返信したり、明日以降の地図を確認したりした。モスクワまでの距離は1680キロ位のようだ。モスクワからラトビアの国境まで約800キロ。合計約2500キロを23日間で走ればいい計算だ。頑張って走れば、ラトビアに抜けるまでの全行程を走り切れるかも知れない。

今日は一日中を家の中で過ごす結果になった。夜の10時位に家族から電話があり、明日はアメリカ独立記念日の祭日で、知人の小山さん宅に呼ばれているとの事だった。

夕食はマーシャの母親がサラダ、ポテトや魚の料理を作ってくれた。色々な話が止まらず、結局寝たのは午前2時を過ぎていた。

2008年7月02日 (67日目) M5、チェリャビンスク (二泊目)


朝は6時半くらいに起きる。夕べはアレクセイの奥さんマーシャの母親に洗濯をして貰っていたが、乾いてないのでもう一泊させてもらう事にした。朝食にピロシキなどを頂き、午前中はインターネットをして写真のアップロードなどを行った。そして10時前にはアレクセイの携帯電話を借りて、壊れてしまった自分の携帯からSIMを抜いてアレクセイの携帯に入れて、家族からの電話を待った。すると、やはり電話があり、恵子は昨日俺に電話していたとの事だったので、アレクセイから電話を借りて良かった。エカテリンブルグで買ったSIM なのでこのウラル地方に滞在する間は通話料を気にせずに受信できる。電話を切った後で、メールをやったりした。

(左上:マーシャとアレクセイ)
(上:チェラビンスクの中心になる歩行者天国にある銅像)


昼過ぎにアレクセイの家を出て、チェラビンスクの街を案内して貰った。街の中心に向う前にアレクセイの事務所に立ち寄る。職員が6人くらい居た。アレクセイはその中で一番若いくらいだが、その会社の代表だが社長ではなく、プログラマの指揮を執るのが仕事と言っていた。

アレクセイが職員と何かを話している時に、俺はコンピュータを使わせて貰うと、偶然にもケメロボで御世話になったウラジミールとチャットで話が出来た。2時間の時差があるので丁度良かったらしい。エカテリンブルグで御世話になったセルゲイの事やこの数日の状況を伝えた。

アレクセイの事務所を出て街の中心に向う。古いビルが沢山あるが、新しいビルの建設もあちこちに見受けられた。今までロシアの都会を見てきて建設ラッシュのようにも感じる。

川岸や歩行者天国のような区域を歩く。店が沢山並んでいてそこには携帯電話の店があり、以前にマーシャがその店の店員の対応が良かったのでそこで買ったとの事で、俺たちはその店に入って壊れた携帯と同じ機種を俺は購入した。

アレクセイ曰く、以前、店員は無愛想な店が多かったが、最近では店に入ると色々と質問をしてきて買い物を手助けしてくれる店が増えてきているとの事だった。ペレストロイカから15年経過しているが、やっと巷の店でも欧米の仕来りが入り込んだと言う事だろう。支払いはクレジットカードでしようと思ったが、持っているマスターカードの期限は先月末で切れてしまっている。でも使えるかも知れないと願ってそのカードを出したら問題なく支払う事が出来た。




携帯電話を買った後は、マーシャの母親の知人の娘さんも合流して、歩きながら英語で色々な話をする。都会であっても、英語を話す機会やアメリカの事や聞けるチャンスは少ないようだった。

この旅行中に休日を取ったハバロフスク、クラスノヤルスク、ケメロボ、そしてこのチェラビンスクでも現地の人と一緒に歩くと疲れる。自分の体力が無いのが良く分かる。実際には疲れているだけなのかも知れないが、歩くのが大変だった。でも、皆気を遣ってくれて、休みながら散策する。

教会や公園、遊園地の近くを歩いてチェラビンスクの有名大学の前にて、マーシャの母親の知人の娘さんとは別れる。また3人になった我々は、その大学の前のバス停からミニバスにのってアレクセイの自宅に戻る。バスを降りて、近くにあった店でアレクセイはジュースやコーヒー等を買っていた。俺は携帯を買って所持金が少なくなってしまったので、この時にお金を出せなかった。次の都会のウファではT/Cを両替しないといけないだろう。(追記:どうしてこの時にチェラビンスクでT/Cを両替しなかったのか、両替しようとしなかったのか思い出せない。)

(左上:マーシャ、アレクセイ、マーシャの母親の知人の娘さん)
(左上:チェラビンスクの有名大学前) (右上:マーシャ、アレクセイ、俺、マーシャの弟の彼女、マーシャの弟)

アレクセイの家に戻ると、マーシャの母親が夕食に準備をしてくれていて、夕食にチーズや牛乳を沢山使ったサラダのようなものと、ピロシキなどを頂いた。

俺はこの1ヶ月位毎朝起きるたびに足の痙攣に悩まされていた。寝る前は問題ないが、寝返りを打つと途端に攣ってしまい、足の親指を力の限り引っ張って治していた。これは体力の限界か、それとも何かの栄養不足か。恐らくその両方なのであろう。

俺はアレクセイが秀才で物知りなのは分かっていたので痙攣の事を相談してみた。ナトリウムは玉子焼きをカフェで食べるたびに塩を沢山沢山振り掛けていたので不足しているとは思えなく、カリウムはバナナで補えていたはずだ、と伝えた。すると、カルシウム不足の可能性があるのでは無いか、との事でマーシャの母親は乳製品を沢山用意してくれたのだと思う。ありがたいことだった。

夕食の後、インターネットをやらせて貰おうと思ったら、アレクセイがDSLの料金を支払うのを忘れてしまったそうで接続出来なかった。でも、昨日に続いて夕食時にゆっくりと皆で色々な話をして、少しのワインを頂いたら凄く眠くなってしまい12時くらいに寝た。



2008年7月01日 (66日目) M5、チェリャビンスク


今日から7月。旅行を始めて2ヶ月以上が過ぎた。朝は夕べの続きで雨だったが先に進む。そして今日は140キロ以上走らないといけない。直に雨が上がってくれる事を期待した。カフェでは4つのピロシキと紅茶を食べて朝食とした。食べ終えても雨は上がらなかった。

自転車を取りに事務所の入り口に行くと、夕べは居なかった青年が、顔を洗ったら良いと綺麗な広いトイレに案内してくれた。そして、水も必要だろうと気を遣ってくれた。こんな嘘のような事が起こるのだ。俺の支払った夕食代と朝食代は僅かなものだったのに、その青年はとても大事なお客として扱ってくれた。俺はカフェの客として扱われたのではなく、一人の人間として扱われたのは分かるが、とにかく嬉しかった。

昨日のトラックのドライバの一人はもう出て行ってしまったようだ。そして、年配の方のドライバに礼を言って分かれる。この人が居なかったら、俺はガゼボのようなところでテントを張らなければならなかったと思うと、人との巡り合せとは本当に不思議なものだと思う。



道路はいつものように良くなったり悪くなったり。でも良い区間が長かった様に思える。そして坂は少なかった。


11時位だったか、今晩泊めて貰う予定になっているアレクセイにSMS を送り、夜の7時くらいにはチェリャビンスク(Челябинск)に着けるだろうと伝えると、返事が直ぐに来てアレクセイの家は街の南東との事だと教えて貰う。

ロシアの都会ではいつもCouchSurfing のメンバーの家に泊めて貰っていたが、今まで誰一人として自宅の方角を知っている人は居なかった。街の中心からどの方角に家があるのか教えてくれたのはアレクセイが初めてだった。俺は北から南に向かいチェリャビンスクの街に入るので、街の中心を越えなければいけない事が分かった。もし街の北だったら今日走る距離が多少短くなるので期待したが外れた。



朝からの雨は上がった。レインパンツを脱いで走った区間もあったが、それは短くまた雨が降りだしてしまった。でも、幸いな事に無風に近かったので距離は計算どおりに進んだ。

中央分離帯を挟んで道路の反対側にあったカフェに寄る。いつものボルシチ、玉子焼き、マカロニ等を食べる。カフェには4人の客が居て全員がドライバだった。

俺にロシア語が分からなくても、俺のやっている事に興味を示してくれて色々な質問をしてくれる人と、ロシア語が分からないので話を続けるのは無駄だと直ぐに諦めてしまう人と、色々だ。

この4人の中のドライバの3人は後者だった。3人は残りの一人のドライバに、ロシア語が分からない奴に何を言っても無駄だ、というような事を仲間内で言っていたと思う。でも、その一人はしきりに色々な質問をしてくれた。俺には質問が分からず殆ど答えられなく申し訳なかった。

カフェのテーブルは外に並べられていて、屋根はテントのようなものだった。そのテーブルの端には蒔き木でお湯を沸かすボイラーがあった。今まで何度かバーニャに入れて貰ったが、ボイラーはバーニャの中にあるドラム缶のような簡単なものだった。食事の後、体温が上がっているはずなのに全身びしょ濡れの体は冷えが収まらず、ボイラーの近くに寄ると生き返るようだった。


温まったところで走り出す。何故か昼食を食べた後なのに何かを食べたい。しかし持っていたバナナ、クッキー、そしてお菓子の全て食べ尽くしてしまい、残ったのはキャンディだけ。仕方なくキャンディを舐めながら走る。


しかし夕方になると疲れなのか空腹なのか無性に何かを食べたくなりАЗС(ガソリンステーション)に入ってみるが、どこもお店が無いので何も買えない。そのまま進むとチェリャビンスクの市の境界線を越える。

アレクセイにSMS を送って市内に入った事を伝える。しかし、その後直ぐに雨がまた降ってきた。バス停があったのでそこの屋根の下で雨宿りをする。夕立だと思い30分位休んだが、雲行きは変わらず、雨が上がる気配は無かった。仕方なく雨の中を走り出す。

走り出す前にバス停に居た人にアレクセイからのSMS を見せて、ここからどれ位の距離かと聞くと10キロ位だろうとの事だった。

チェリャビンスクの街は大きく見えた。この都会のどこへ俺は行ったら良いのか分からない。アレクセイのSMS にある道順が分かっても、それがどれくらい先なのか見当が付かない。不安と言うよりも街に進むのが嫌だった。小さな町だったら多少道を間違えても問題ないが、都会ではちょっと間違ったら全然違う方向に進んでしまいそうで嫌だった。ロシア語が話せたらどんなに気が楽だったか。

とりあえずM5 の幹線道路を進む。いつもの事だが、バスも自動車も容赦なく水を撥ねて通り過ぎていく。次第に雨は激しくなり、ビニール袋に包んでいる靴の中も遂に濡れ始めた。片側4車線と道幅は広いが、道路の右端には水が溜まっていて車は走ってない。そして直にペダルが一番下に降りた時に靴は水の中に入ってしまった。それからは誰も走ってない右から2番目の車線を進む。時々先を急ぐドライバがクラクションを鳴らして行く。

どれだけ進んだら良いのか分からない。でも、街の中心のレーニン通り(Проспект Ленина )は未だ辿り着いてないのは分かっていたので進む。街の中は登り下りの坂があった。雨の中のブレーキは何も効かない。そして、下り坂を雨水が勢い良く流れているので転びやしないかと神経を使った。

そして店を見つける。お店の人には申し訳なかったが、濡れたレインギアを着けたまま店に入り、ヨーグルトとアメリカのキャンディSneaker 等を一気に飲んで食べた。すると客の一人が俺に興味を示してくれて最後には写真を撮ってくれた。そして記念にと10ルーブルの紙幣も貰った。金額にしたら大した事はないが、雨の中こんな人と会えて嬉しかった。
(追記:この時に携帯電話を確認したら液晶のディスプレイは既に水が滲み込んでいたが、俺はそんな事は気にならなかった。)

街の中は車が多いので歩道を走るが思うように進めなかった。そして遂に歩道も水かさが20センチから30センチに達するまでになってしまった。ペダルを漕ぐ足は水の中。自転車の両輪、前後のパニアは水に浸かってしまっている。でも、俺はどうでも良かった。とくかくアレクセイの家に行けば乾いた寝床が待っていると思い無心に走る。

そして、道路の全幅が川のようになってしまった。俺の横を徐行する車はありがたかったが、容赦なくは進む車から撥ねる水を俺は頭から被った。またしても泣きっ面に蜂。文字通り頭からつま先までずぶ濡れ。靴の中の水が気持悪かったが、どうでも良い。パニアの中の寝袋も着替えも濡れてしまっているだろうが、それどころではない。どうやってアレクセイの家に着けるのかが問題だった。

全身ずぶ濡れになり、持ち物も濡れてしまっていると思うと、道のどこを走っても同じだった。そしてやっとレーニン通りが見つかる。街の中心の通りと思われ、バス停には雨なのに沢山の人がバスを待っていた。


信号を超えてバス停前の僅かな軒下で雨が凌げる場所を見つけて、携帯に残っているSMS のメッセージを見ようとしたらディスプレイにはSIM を入れるように、と表示されている。どうした事かと思った。携帯電話の裏の蓋を開けてみると水が入っている。携帯は小さなビニールの袋に入れて、レインギアのジャケットの内側ポケットに入れてあったのだが、頭から被った水のためか、携帯の内部にも水が入ってしまっていた。失敗した。レインジャケットを信用してしまったのが間違いだった。

10日程前、オムスクで新しいレインジャケットを買ったのだが、それ以前に持っていたノースフェースのジャケットも大雨の中では役に立たなかった。ゴアテックスという素材で外側の雨は浸透せず、内側の汗は外に抜けるはずだったが、大雨では何も役立たないという事だ。水の絶対量が多いので駄目なのだろう。

携帯電話の電池を抜いて水をティシューで拭いてみた。そして電池を戻して俺は携帯の電源を入れた。電源が入らない。逝ってしまった。俺としたことが。濡れている時に電源を入れてはいけない事は分かっていたはずだが、アレクセイからのSMS を読みたい一心で電源を入れてしまった。もうSMS は読めない。ここからの道順が分からない。この交差点からもっと南下しても良いのか、ここを曲がったら良いのか覚えてない。自分の記憶力の無さに呆れようにも疲れていてそんな気も起こらない。

永い距離を、そして長時間走り続けたので、もうどうにでもなれという気持だった。いざとなれば橋の下にでも寝れば良い。でもいつも辛い時にだけ思うのが、捨てる神あれば拾う神あり、という勝手な願い事。そしていつの間にか一人の若者が近くに寄って来たので話をした。

その時、俺はアレクセイの電話番号は携帯の中だけに記録されていると思っていた。携帯が壊れてしまった今、もうアレクセイと連絡出来ない。でも、ふと青年にアレクセイの事を話していると、ある事を思い出した。オムスクのターニャの家に泊めてもらった時に、日記の裏にもアレクセイの携帯電話の番号を書いた事を思い出した。そして日記をフロントバッグから取り出すと、あった。アレクセイの電話番号が残っていた。大雨の中でもフロントのバッグの中のノートは濡れずに済んだ。

俺には恥も外聞も何も無い。俺には怖いものも恐れるものも何も無い。俺はその青年に携帯が壊れてしまったので、俺の知人に電話して貰えないかと頼んだ。最初は何を言っているんだ、という感じだった。でも、間髪入れずにその青年の友人二人が現れた。するとそのうちの一人が電話してあげると言うので、電話番号を伝えた。その青年は俺に電話を貸してくれて、俺はアレクセイと話が出来た。

アレクセイは俺に、そこを絶対に動かないように言った。まるで俺は迷子の子供だ。直ぐに支度して向うから、何が何でもそこを離れないようにとアレクセイは言葉を繰り返した。アレクセイが迎えに来てくれる。どこから来るのか分からないが、俺のところへ来てくれると言う。

俺は嬉しさ余って3人の青年の写真を撮った。彼らに出会えて良かった。

そして俺はアレクセイとの約束を破って、道の反対側にあるキオスクの様な店に行った。アレクセイが1分で来るのか30分で来るのか分からないので急いだ。そして紅茶を入れて貰って直ぐにバス停の前に戻った。アメリカでは水を入れて飲むのに使う半透明の薄いコップだった。そんなコップに熱い紅茶が入っていたのと、片手で自転車を押さなければならないのと、コップの上の縁を掴んで慌てて横断歩道を歩いたものだから、小さなコップの半分はこぼれてしまった。残った紅茶を熱かったが一気に飲んでしまった。それからは動かずに待った。

30分位するとアレクセイが現れた。助かった。アレクセイは奥さんの弟アンチョンの自動車で迎えに来てくれた。でも、車は小さいので大人3人と自転車は積めない。雨がまた酷く降り注ぐ中、試行錯誤の結果、自転車を後ろ座席に積んで、積み切らない荷物は助手席に乗せて、アレクセイの義理の弟は運転して帰り、俺とアレクセイはバスに乗って帰ることになった。3人共一気にびしょ濡れになった。路肩を川のように流れる水は足のくるぶしを超えている。アレクセイもアンチョンも文句一つ言わずに自転車と荷物を車の中に押し込んでくれた。

暫く歩いて違うバス停に移動してバス停で待つ。、低い空の上では雷が鳴り響いていた。でも、雨はさっきよりも小降りになった。ミニバス(マルシュルートカ)に乗ってアレクセイの家に向う。長い道のりに思えたが、今晩泊めて貰える所があるかと思うと、それだけで嬉しかった。

アレクセイの家に着くと、アレクセイの奥さんマーシャとマーシャの母親スビャータが喜んで迎えてくれた。マーシャは直ぐにシャワーを浴びて下さい、と用意してくれたので、直ぐにシャワーを浴びさせて貰った。長い一日の疲れが飛ぶ。シャワーから出てみると、アレクセイとアンチョンは自転車とバッグを車から全て持って来てくれていた。俺は一番大変な事を任せてしまった。本当にありがたかった。

シャワーを浴びた後は、全員で夕食。みんな俺の事を待ってくれていたのだった。既に夜の10時を回っていた。乾杯にとシャンペンを開けてくれたので、俺は勧められるままに少し飲んだ。アレクセイ以外は英語をよく話せなかったが、アレクセイが通訳して色々な話をしながら食べ終えたら午前12時を回っていた。俺はほんの少し飲んだシャンペンで酔ってしまい、自分の自転車の片付けや荷物を乾かす事を出来ず、靴だけはアレクセイに紐を解いて早く乾くように頼んで寝てしまった。アレクセイに何と感謝したら良いのか。本当にありがとう。

2008年6月30日 (65日目) M5、80Km、 コスマカフ近く


夕べは遅くまでインターネットをやっていたのだが、今朝は7時前に目が覚める。そして続きのインターネットをやろうと思ったら、PCのログインのパスワードを入力するようになっていてセルゲイが起きるまで使えなかった。でも7時半位にセルゲイが起きてきたのでその後直ぐに使わせてもらった。メールと地図を確認したり、CouchSurfing のメンバーに対して泊めて欲しいとリクエストを送る。セルゲイの彼女は先に仕事に出かけて行って、そしてセルゲイも直に仕事に向った。

俺は準備をして9時過ぎにセルゲイの家を出て、セルゲイの仕事場に向った。携帯電話のSIMカードを購入したかったので、セルゲイの事務所の誰かにそれを買いに一緒に行って欲しいとお願いしてあった。セルゲイの家を出て、昨日の線路を自転車を持ち上げて渡り、P351の幹線道路に戻り、エカテリンブルグ(Екатеринбург)の街の中心に向う。自動車専用道路のように思えたが、他の道を進んだら迷ってしまいそうで、仕方なくそのまま進む。

立体交差ではインターチェンジのように道路がらせん状になっていて、自動車が隣を早いスピードで行くが仕方ない。自分は北向きに走っていたが、その交差する道を西に進まないといけないので車と車の間を急いでらせん状の坂を登る。

セルゲイの事務所は直ぐに分かった。でも事務所が入っている建物の守衛が入り口の机に座っていて、俺の自転車が気に入らないようだった。でも、俺は努めて明るく振舞いキャンディーを渡したら喜んで受け取ってくれ、その後は自転車の事を何も言わなかったので助かった。

セルゲイの事務所の中では、セルゲイが職員を集めて熱弁を振るっていた。戦略会議といったところだろうか。俺はそれが終わるのを待った。30分くらいが経過しただろうか。そしてセルゲイは職員の若い一人に、俺と一緒に携帯電話の店に行って欲しいと伝えてくれたので、俺はその職員アンドレと一緒に事務所を出る。事務所の各職員は少しばかりの英語が出来たが、一番英語が得意なのはアンドレのようだった。

(左上:セルゲイと彼女) (右上:セルゲイの事務所の職員)

アンドレの自動車に乗せてもらって携帯電話の店に向う。車はルノーの新車だった。若いのでまるで新卒と思われるアンドレがどうして新車に乗っているのか分からない。アンドレの自動車の運転は実に人の良さそうなものだった。ロシア人にしては珍しいのではないかと思った。周囲に気を配り、道を他人に譲り、慌てる事の無い運転。俺は車の運転に自信があるからそんな事に気付くのか、それとも英語がうまく通じないので敏感になっていたのだろうか。

道路に車を停めて街の中心街の路地に歩いて進む。いつもの黄色い色の看板の携帯電話屋が見つかる。そこでアンドレは色々と契約に付いて質問していたが、最後に俺は115ルーブル支払って新しいSIM を手に入れることが出来た。もし俺が残高を超えて通話した時には、彼のパスポートを使ってSIMを買っているので彼に請求が行く事になる。でも、これは今まで俺の為にSIMを買ってくれて全ての人と同じ条件だ。

ウラジオストックのエフジェニア、クラスノヤルスクのフィヨドール、そしてここエカテリンブルグのアンドレにSIMの購入を肩代わりしてくれた。もしそれぞれの地域でSIMを買えなかったら携帯の通話料がとても高くなってしまい、ロスの家族からの電話を気安く受信できなくなってしまう。でも、こうしてまた購入できたので、当分の間はローミング無しで受信できるので安心して電話を受けられる。115ルーブル(約4.5ドル)の内訳は34ルーブルがSIMのカード代、そして残りの81ルーブルが携帯の残高になった。

セルゲイの事務所に戻って出発の準備をしていると急に大雨になってしまったので、暫く雨が上がるのを待った。そして出発は13時になった。

エカテリンブルグの街は大きく、水の溜まった道路を車が容赦なく進むので、仕方なく路肩を走ったり、道路をゆっくり走らなければならなかった。でも、そのお陰で色々なキオスクのような小さな店を沢山見ることが出来た。そしてロシアに来て初めてある店を見つける。日本やアメリカならどこにでもあるが、今までロシアのどこの都会にも無かった店。それは花屋。

富裕層が多く住む都会の証か。シベリアの西端。切花はアメリカと値段が変わらない。女性達にとって短い夏を飾る贅沢品なのであろう。


(左上:エカテリンブルグの街角)

都会の道路は交通量が多いし、スリにでも逢ったら大変なので気を遣うので嫌だ。一気に郊外に進みたかったが、道が分かりづらく時間が掛かった。でも、途中の交差点で一枚だけ写真を撮った。

(追記:信号が青に変わるまでの一瞬の時間だったが、自分なりに良く撮れていると思う。行き交う人の中にはノースリーブの服を着た女性がいたり、ビルに掲げられた大きな看板は韓国のサムソングだったり、古いロシア製の自動車が左端に収まっている。そして一番気に入った理由は路面電車が偶然にも納まっている事だった。大都会のエカテリンブルグの写真はこれ一枚だけだった。)


途中で雨が降ったりして、結局エカテリンブルグの街を出たのは午後4時位だった。市の境界線を越える頃になってやっとまともに走れるようになった。風は無く無風に近い状態だった。

M5 の幹線道路を南に進む。日本では一桁の国道、アメリカでは二桁のインターステートハイウェイと同等の道路だと思う。南のチェラビンスクまでは約200Km。二日間の距離で、チェラビンスクのアレクセイには明後日に行くとメールで伝えてある。でも、携帯電話のSIM を買うために半日を潰してしまったので、急がないといけなかった。道路は登り下りが続いたが、緩やかな坂道が多かった。道路は中央分離帯があって道幅が広かったが、舗装の状態は良くなかった。でも、オムスクからエカテリンブルグまでのP351の道路よりも遥かに走りやすかった。





夜9時過ぎに見えたカフェの駐車場に居た人に、駐車場のの外れでテントを張っていも良いかと聞くと二つ返事でOK してくれた。カフェの中は非常に綺麗で、店員も愛想が良く気持ちよかった。しかし夕食を食べているとまた雨が降り始めてしまった。俺は慌ててカフェの外に置いてあった自転車をガゼボのような少し離れた所にあった屋根のある建物の中に入れた。そこにはバーがあって一人のバーテンダーのような店員と客の一人が居たが、何も言われなかった。カフェの中から自転車が見えるような位置に置いて、カフェに戻った。


でも、雨は一向に止む気配がない。雷が通り過ぎたので止むと思ったが、雨は続いた。困った。ガゼボの中にテントを張らしてくれるだろうか。駐車場の濡れた地面にテントを張りたくはない。

カフェの中にはお客が入れ替わり立ち代りしたが、俺の隣のテーブルの二人はカフェの職員でもないようだが、どうした訳か出て行かない。俺は雨があがるのを期待して、夕食は済んでいたが、ピロシキを買って食べて時が過ぎるのを待った。隣のテーブルの二人は、ビールを何本と無く買って飲んでいる。ノボシビルスクでパベールを待っていた時に入れて貰ったビアガーデンのビールと同じバルティカ(Балтика)も飲んでいた。

テレビがカフェの中にあって何かが流れているが全く分からない。興味が湧かない。雨が上がってテントを張れる場所が決まれば意味も分からないロシア語のテレビでも見ただろうが、そんな気分になれない。隣のテーブルの二人も遂にビールの酔いが回ったのか話しかけてきた。二人はトラックのドライバだった。このカフェには頻繁に立ち寄っているようで店員と顔見知りのようだった。

俺は自転車でウラジオストックから来たと言うと凄い事だと喜んでくれた。そして、雨なのでテントを張れないと言うと二人は「大丈夫だよ」と励ましてくれる。俺の友達はいつでも酔っ払いだった。でもとても嬉しかった。俺には何が大丈夫なのか分からない。心配要らないよ、というような事を言っている。俺はこれが何を意味しているのか分からなかった。

カフェで粘って粘って雨が上がるのを待ったが、もう夜の11時。もう寝ないと駄目だ。席を立って外に出ると二人のドライバも出てきた。そしてドライバは駐車場の守衛の小屋に行こうというので雨の中を付いていくと、その中にあったベッドに俺を寝かしてやってくれと交渉してくれたのだった。そしてまた嘘のような事が起こった。守衛の人は、俺が寝られるように自分の荷物を他の所へ移動して場所を作ってくれた。そして、ガゼボの中に入れてあった自転車はカフェの裏の入り口から入って、事務所のような所の廊下にに入れてくれた。外からは鍵が掛けられているので安心だった。ああ、また見知らぬ人に助けられた。