2008年7月11日 (76日目) M7、446 Km


朝は6時15分位に目が醒めたが少し横になっていて、6時45分位に起きて準備を始める。走り始めたのは8時くらいだった。ゆっくり片付けてテントが乾くのを待ったが、時間が掛かりそうだったので切り上げて片付けてしまう。



少し走るとカフェがあったので玉子焼きやマカロニ、ケフィール等いつもの食事を取る。朝食を食べ終えて走り出したのは9時過ぎだった。道路は良かったが、直に今までのような道路になった。でも、ウファに向った時のようにクラクションを鳴らして走り去るトラックは少なかった。今日は数台だけが鳴らして行った。









昼過ぎにカフェと修理工場が並んだ所を過ぎる。そこで牛乳、オレンジジュース、魚の缶詰などを買って食べる。またレジの人は計算間違いをしたのか、少し高い値段だったような気がした。食べている間、テントを開いて干した。そして午後1時半位に走り出すが、今日は暑かった。そして、午後2時半か3時位だったか、店が沢山並ぶところへ出た。

昼前にあるカフェの外に居た人に、水が欲しいと伝えると、カフェの中に行け、と言うので中に入ってみると、ウェートレスは怪訝な顔をしたが、外で話をした人が直ぐに入ってきて、俺の水筒を取って水を入れて来てくれた。何とありがたいことか。その礼にとその店で何かを買って出た方が良いと思ったが、何故か気が進まずそのまま出てしまった。


カフェの前の階段に腰掛けて居る人に水が欲しいと伝えると、裏にあったバーニャの入り口に連れて行ってくれて、水道から威勢良く出る水を俺の水筒に入れてくれた。水筒から溢れた水を見て、シベリアの村々では水がどれだけ貴重だったかを思い出した。こぼれ落ちる水が惜しいくらいだった。そして俺はその人に断りもせず、顔を洗わせて貰った。水は程よく冷たくとても気持ちよかった。そして俺は生き返る思いがした。


カフェの前に戻ると、カフェのウェートレスや職員がアイスクリームを食べていたのが目に留まる。彼女達のカフェに入って、てっきりそこでアイスクリームを売っていると思ったら、売ってなかった。店の並びで売っている、と言っていたが、店が沢山あってどこから当って良いか分からない。 где?(グジェ、何処?)と聞いても、返事を理解できそうな場所では無かった。それでも、どこかに無いかと思って自転車を押しながら辺りを見ると、インターネットカフェが替わりに見つかった。でも、明晩はカザンのティムールの家に泊めて貰える事になっているので、そこでメールを確認できるので入らなかった。人里から離れているので、インターネットは低速のモデムなのだろうか。それとも携帯電話の速い回線でもあるのだろうか。

幾つもの店を覗き込んで、遂にアイスクリームを売る店を発見。まるで童心に返ったようだった。それにしても暑さは厳しく、一つのアイスクリームでは満足できない。回りでは、デザートを立って食べる人が多かったので、俺も倣って店の並びの端の方の店で、デザートを頂くことにした。

ケーキと紅茶を買ったのだが、アイスクリームと同じ値段。15ルーブル。安過ぎる。得をしたような気分だった。アメリカのデザートは何でも砂糖が多く入っていて特別甘いので、きっとロシアのデザートも同じように甘いのだろう、と思ったら大間違い。ケーキを一口食べてみるとガッカリ。白く見えたのは甘いココナッツではなく米だった。俺はココナッツが嫌いだが、こんな暑い日には只のカロリーと思って食べておいても良いだろうと、思って口に入れたのだが、値段のとおりの食べ物だった。そして食材の味をうまく出している、という言葉が適切なほど、質素な味だった。でも、その店では沢山の人が買い求めているので、恐らくそういう味のものなのだろう。愛想の良い婦人が二人で店番していたのだが、カザフスタンという言葉だけが分かった。彼女達がカザフスタンから来ているの、それとも俺が買い求めたデザートがカザフスタンの食べ物なのか。恐らく後者だろう。



暑い中を走り出す。すると後輪の空気が少なくなっているのに気付いた。またパンクかと思って自転車を横にして、ホイールを外し、空気を抜いて、チューブを取り出す。そして、空気入れで空気をチューブに入れてみると、ウファで修理したはずの箇所から空気が漏れている。面倒なので、チューブを新しいものに替えた。チューブの入れ替えは面倒だが、それよりも熱くて参った。温度計では華氏90度近かったが、もっともっと厚い感じだった。

距離は延びない。暑さのせいで少し走っては休み、少し走っては休む。先の休憩した場所でバナナを6本買っていたので良かった。それを休むたびに一本食べる。

夕方は、また夕立になるように灰色の低い雲が西から足早に流れてくる。日中、あれだけ暑くなるのだから当たり前なのだろう。小雨が振り出したので、カフェの並びにあったテントの下に駆け込んだ。すると雨は直ぐに通り過ぎていった。

道に出てみると、大きな虹が見える。去年のハワイ島への出張時には毎日虹を見たが、建物の中からか、車の中からだったので、虹の見え方も違う。自転車に乗っていると、綺麗な虹が綺麗でない。一瞬は虹が見えたことに対して嬉しさがあるが、道路はびしょ濡れ、走り去る車は水飛沫を上げて行く。



暑さは収まらず、やっと午後8時位に収まってきて走りやすくなった。家族から9時半くらいに電話があったが、未だ寝る場所を決めてなかったので、1時間位してからまた電話してみて、と伝え、また走る。

それからは追い風になった。夕立と思ったが、前線だったのか。それから距離が延びた。気温が下がり、道路は乾き、走りやすい。

ある所でカフェとホテルが一緒になっている建物を見つけ、テントを近くに張らせて欲しいと言うと、ここはホテルだからホテルに泊まりなさい、と言う。ホテル代を聞くと900ルーブル(約38ドル)。渋っていると、500ルーブル(約20ドル)でも良いと言ってくれた。俺はそれでも断って、外でどこかテントを張れる様な場所を探す事にした。

АЗС(ガソリンステーション)の空き地だったらOK と言ってくれたが、空き地なので自転車を隠す事が出来ない。仕方なく、道路の反対側に行って、タイヤの修理店の前に居た二人に修理小屋の中に泊めて貰えないかと聞くと、二つ返事でOK してくれた。何とも人の良さそうな二人だった。兄弟だったのかも知れない。トラックのタイヤを主に修理するようで、多きなタイヤを取り外す事が出来る装置や空気を入れるコンプレッサーが置いてある。



二人のうちの年配の人は直ぐに紅茶を入れてくれた。そして、そこのテーブルにあったクッキーも食べなさいと差し出してくれた。俺は先のカフェとホテルが一緒になっている所で既に夕食を済ませていたが、嬉しくて沢山頂いた。

その建物の隣では、堀があって工事をしていた。ウズベキスタンから仕事に来ている、と言っていた。工事といっても近代的な建物ではなく、ブロックを積み上げて僅かに鉄筋を入れて壁を作っている。地震の無いところの建築だ。

タイヤの修理店の小屋の中に自転車を入れ、そこにグランドシートを広げ、マットレスを敷いて寝る。ケメロボのウラジミールからSMS が届く。気を付けるようにとの事だった。屋根の下に寝られるが嬉しかったが、ケメロボを発って一ヶ月になるのに俺を気遣ってくれるウラジミールのたった一言のSMS は非常に嬉しかった。

2008年7月10日 (75日目) M7、322 Km


朝目が覚めると6時を過ぎていたので準備をすると出発は7時半になってしまった。最初からスピードが出ないので、何かを食べないと駄目だと思ったが、実は緩やかな登り坂だった。とりあえず昨日買った秋刀魚の缶詰に醤油を入れてパンと一緒に食べる。

道は登りと下りが緩やかに続く。最初は路肩があったが、直に無くなってしまった。小さな村で何度かバナナを求めたが何処にも無い。10時半位にカフェがあったので紅茶だけを頂いて日記を書いている。




その後、11時半位に別のカフェを見つけて、少し早い昼飯とする。カフェには玉子焼きが無かった。只、ゆで卵があったのでそれ3つ、サラダ、スパゲティ、トマトジュースを注文する。ジュースはコップに一杯ずつ入っていて、簡単に注文出来るようになっていた。今までの多くのカフェは、1リットルの紙の容器で売られていたので、それと比べると少量しか飲みたくない人には良心的だ。その場所は大きな交差点で、カフェは一軒だけだったが修理工場は数軒並んでいた。お店もカフェと同じ建物に入っていたので見てみたが、バナナは此処にも無かった。そして牛乳も無かった。

食べ終えて少し走ると村が見えたので、M7の幹線道路から離れて村に進む。歩く人にお店があるかと聞くと、最初の男の人は分からない、と言ったが、少し発ってから指差して方角を教えてくれた。その方向に進んで、また別の歩いている女の人に聞くと、親切に真っ直ぐ進んで、左に曲がった後に今度は右に曲がるように教えてくれた。いつもの事だが、必ず誰かが親切に助けてくれる。ありがたいことだ。


お店に入り、バナナと500MLの牛乳を買う。牛乳は冷たくて美味しかったので、店の外で半分を直ぐに飲んでしまった。あまりにも美味しかったので、少しの間だけでも残しておきたかった。時間が経てば暖かくなってしまうのは分かっていたが、5分でも良いから冷たい牛乳を残しておきたかった。

お店の前には配達のバンが止まっていて、配達が終わると作業員の二人は直ぐに去っていった。道の向こう側では、少女が3人、柵に登っているのか少し背丈の高い木の枝になる実を集めていた。無邪気な楽しそうな声が聞こえる。いつも思うのだが、子供は陽気で良い。

少し休んでからM7に戻って走り出すが風が強く走り辛い。午後3時前だったか、M7から店が見えたので村の道を入ってみると店は閉まっていた。そして近所の人に他の店はないかと聞くと、この先にあると言うので行ってみると店があった。ケフィールを買って飲んだが、いつもの酸味の味が無かった。いつもだったらケフィールには乳脂肪のパーセンテージが表記されていたが、それには何も書かれてなかったので、0%だったのかも知れない。


その村を出て走るが距離が延びない。カフェを見つけたので、紅茶を飲んだが、足りなかったので続けてコーヒーを注文する。一緒のテーブルに座った人は、ウラジオストックに軍人として住んでいたと言っていた。今は、この地域を行き交うトラックの運転手をしているようで、カフェの女将さんとは顔見知りのようだった。

カフェを出て少しは休めたので軽やかにペダルを漕いだが、向かい風の強さは相変わらずだった。途中、路肩に敷き詰められた石が拳よりも大きなものに変わり、そんな路肩は走れないので尚更走り辛くなってしまった。

それから先に進むと大きな街に入った。ロシア語の文字が読めない。何と発音して良いのか分からない。(ナベレジヌイェ・チェルヌイ、Набережные Челныという都会で、ロシアを代表するカマズというトラック製造工場のある街、人口50万)


街の南の玄関口には発電所の煙突があった。原子力発電所かどうかは分からないが、そんな事はどうでもよかった。俺にとってはこの街で夜を過ごすとなると、寝床を見つけるのに苦労するだろうという心配があった。

交通量が増えたというかトラックの数が増えた。そして修理工場も並んでいる。それから雲行きが悪くなってきた。小雨が今にも降りそうだった。そしていつものように雨が急に激しく降り出した。運良く先にАЗС(ガソリンステーション)が見えたので、大雨の中を必死で走った。レインジャケットを着る時間を惜しんで、無我夢中で走った。

АЗСの屋根の下に入って休憩をさせて貰う。後から小型のバイクも雨宿りに加わった。夕立の雨は直ぐに止みそうだった。遠くに晴れ間が見える。そして遠くには高層住宅が見える。ここに都会があったのだったら、ここでも誰かの家に泊めて貰えたかもしれないが、ここがこんなに大きな街だとは思わなかった。CouchSurfing のメンバーで、次に泊めてくれる約束をしてくれた人はこの先のカザンに居る。先に進まないといけない。


一時間くらい雨宿りしてから走り出す。すると大きな川を渡った。カマ川だと標識を読めたが、聞いたことが無い。でも、水力発電をしているようで橋と言うよりも低いダムに思えた。交通量が多いので嫌だった。でも、幸か不幸か路面の状態が悪く、俺が2車線ある右の車線を走っていると皆、避けて左の車線を通り過ぎてくれたのは救いだった。そして誰もクラクションを鳴らすドライバは居なかった。橋の上の道路は恐らく今までで最悪の状態だっただろう。


橋を渡ると小雨になってしまった。でも、M7の横を走る線路を行く電車の窓から俺に手を振ってくれる人が居た。俺も思い切り大きく手を振り返した。たった、これだけの事が俺にはとても嬉しかった。男か女か分からない。子供ではなさそうだった。どこへ行くのだろう。きっと先方もそう思っているのだろう。


電車が見えなくなる。その後、小雨の中を走ったが、走っていて面白くない。雨の中は面白くない。陸橋があったので、その下で休憩をする。と言っても、どこかに腰掛けられるわけではない。でも、買ってあったトマトソース煮の魚の缶詰をパンと一緒に食べると、腹が減っているせいかとても美味しかった。小雨があがり、走り出す。

すると、雨の中を追い抜いて行った大型バスが路肩に止まっている。乗客は降りてしまっている。何らかの故障なのだろう。俺はこの時、何故か考えられない事を自分の中で言っていた。「ざまあ見ろ」と心の中で言っていたのだった。雨の中を容赦なく水飛沫を上げて通り過ぎるバスを俺は許せなかった。だから無数の車両が通り過ぎていても、そのバスの事は覚えていたのだった。乗客には何の罪もないのに、と後で悔やんだが過去の気持などどうにも出来ない。

それから少し走ると肉料理のカフェがり、裏には空き地があった。カフェに入って聞くと、裏の空き地にテントを張っても良いと言ってくれた。肉料理が主体なので、魚は無かった。玉子焼きも無いと言う。外では串に刺した肉を焼いている。俺は仕方ないので、サラダ、パン、紅茶だけの夕食を食べる。しかし、これでは足りないので、レジの近くにあった菓子パンのようなものも買って食べた。そして、カフェの中で日記を書いている。すると4歳くらいの女の子が、俺の足を触ってはカフェの中を駆け巡っている。俺が笑顔を見せたのがきっかけで、思わぬ遊び相手になってしまった。子供には人種も何も無いと言うことか。

その小さな女の子のお姉さんなのか、10歳位の女の子は俺に何かを話そうとしているようだが、俺とは目を合わせようとしなかった。目が合えば話しかけるつもりだった。でも、彼女は両親と一緒に席を立つ時に一言だけ言った。「アメリカ人?」

俺は素直に日本人だと答えた。どうして彼女は俺がアメリカ人かと思ったのか。誰が見ても俺は中国人にしか見えてないはずなのに。

テントを張ってみるが未だ明るい。もうこれ以上粘ってカフェの中にいるわけには行かない。隣のルクオイルのガソリンステーションのお店に行ってアイスクリームを買って食べる。テントの周りには未だ2つのグループが屋外のテーブルで食事をしていたが、構わず寝ることにした。そして、その時に気付いた。俺はカリフォルニア州にあるヨセミテ国立公園のTシャツを着ていたのだった。あの少女はヨセミテ公園を知っていたということか。

2008年7月09日 (74日目) M7、193 Km


夕べは雷の音で一度目が覚めてしまった。未だ12時くらいだった。雷は直に勢いを増して、急に豪雨になった。テラスの下にテントを張らせて貰って正解だった。もし屋根のない外だったら、どんなことになっていたか分からない。

その後から、俺がテントを張ったテラスのような場所に、地元の若者と思われる酔っ払いが寄って来ては何かを言って走り去るのを繰り返した。酔っ払った勢いの嫌がらせで、目が覚めてしまった。でも、雷雨が収まると午前1時か2時くらいになったのだろう。若者も帰宅したようでカフェは静かになり、俺はまた寝てしまったようだ。

昨日はウファの街を出発するのが遅れて、それ程の距離を走ってなかったので、今日は出来るだけ距離を稼ぎたかった。その為か、朝は5時半に起きる事が出来た。寝袋を片付けて、テントを畳んで、準備を進める。しかし、空は曇っていて小雨模様だ。出発の準備が終えたが、小雨は上がりそうに無い。朝食をカフェで食べる。そして食べ終えると雨は殆ど上がっていた。走り出すことにした。


道路は当然、濡れたまま。前輪のタイヤが撥ねる道路の水を被らないように、靴の上から買い物のビニールバッグを履いて走る。

濡れた道路を走るのは面白くない。靴のビニールバッグが擦れてガサガサと煩い。トラックは俺から離れて追い抜いて行ってくれるが、巻き上げる路面のしぶきは容赦なく眼鏡を曇らせる。別にそれがどうしたという問題ではないが、面白くない。しかし、一つだけ救いがあった。風だ。寒冷前線は通り過ぎて、少し落ち着いているようだった。

トラックの数は少なくなかった。カザン(Казан)や首都モスクワに近付いているからだろうか。道は、相変わらずの登りと下りが続いた。雨が降ってないだけ良い。


11時半くらいに見つけたАЗС(ガソリンステーション)の中の店にて魚の缶詰、オレンジジュースなどを買う。パンが欲しかったが、無愛想な若い女店員は只「無い」と返事した。カフェのようにテーブルが並んでいたが、実際は休憩の為のテーブルだった。カロリー源のたんぱく質が無い。ウラジオストックからハバロフスクまで走った時には、お店によくインスタントラーメンが売られていたが、この店には無かった。売られていたら生でも食べたが、どうしようもない。ビスケットはあったが、それでは食べた気にならない。

仕方なく店を出て、外にあった椅子に腰掛けてイワシの缶詰を開けて食べる。すると女店員は、店から出てきて何も言わずにパンを二切れ差し出してくれ店に戻って行った。きっと彼女の昼食の一部だったのであろう。彼女は無愛想だったが、そんな気の優しい娘だったとは。

自転車を走り出す前に店に戻り礼を言うと、不思議なことに英語が通じた。街からも村からも離れたこんな所で英語を話す人と出会うとは思ってもいなかった。


走り出す。M7の幹線道路は右に曲がっった。するとそのコーナーにカフェがあった。村まで相当の距離があると思っていたのは間違いだった。しかし、もう一度食べなおす気がしなかったので、通り過ぎる。その頃からまた向かい風になった。


途中、何度も休んでウファで買ったデーツ(ナツメヤシ)を二つずつ食べる。しかし、あっという間に無くなってしまいそうだ。もっと沢山買っておけば良かったと悔やむ。でもデーツを買った時は、手持ちのルーブルが少なく、カザンまで両替出来ないと思っていたので、沢山は買えなかった。

昼過ぎ休んでいる時に、村の老人が近付いて来た。いつもの質問に答えて少し話をする。老人にデーツをあげると、最初は要らない、と言っていた。でも、俺がデーツの種は食べないで口から出さないといけない、と食べて見せると、老人は安心したように一つのデーツを手に取って食べた。そして老人は、「これはロシアの食べ物?」と聞くので、「ニズナーユ(не знаю)」分からない、と答えた。

これは俺の持ち歩いている会話集に出てない言葉だったが、あちこちの場面でロシア人が使っていた言葉だったので、俺はいつの間にか覚えてしまっていた。もうロシアに2ヵ月半。会話集に無い単語を一つくらい覚えても不思議ではないが、これが最初で最後だった。


走り出すが、昨夜良く寝られなかったのと、向かい風の為かとても疲れる。止まって休んではデーツやバナナを食べる。

小さな村で店を見つけたのでそこまで行こうと思ったら、今までいつもトラベラーズチェックを両替していたセーバーバンク(Сбербанк России)の支店を見つけた。駄目で元々と思い、建物の中に入ると、窓口一つ、行員一人の小さな支店だった。両替したいと伝えると、丁寧に15キロ離れた次の町にも銀行があるから、そこで両替したら良い、と教えてもらえた。

銀行を出て店に向かい、パンと牛乳を買う。パンは外側が硬く、ナイフで切って食べると中は柔らかく意外に美味しかった。店の向かいには何か他の種類の店がある。マガジン(магазин)とだけ分かるが、何の店か分からない。でも、軒先に並べられた物からすると穀物のお店のようだった。周りの人は俺の事を興味深く遠くから見ている。自転車の旅人が珍しいのであろう。

それから1時間くらいして次の町に出た。セーバーバンクを見つけて入ってみたが、他の銀行に行くように言われる。建物の外にはセーバーバンクの緑色の看板があるが、中は違う銀行のようだった。建物の外で、セーバーバンクはどこかと聞くと、町の中心に行きなさい、と教えてくれる。よく言っていることが分からなかったが、町の中心に向う。途中、警官が居たので最初は躊躇したが銀行の場所を聞くと丁寧に教えてくれた。ウファの警官の一件の事が悔やまれる。

その後も何人かの人に銀行の場所を聞きながら進むと、別の銀行が見つかった。その銀行の隣の駐車場では、旅行者の訪問を喜ぶように、どうしたんだ、どこへ行くのだ、と制服を着た親切な人にも会えた。警備員か軍人か分からなかったが、そんな事はどうでも良かった。只、親切にされて嬉しかった。


その人に言われるように隣の銀行に行く。建物の外には都会のようにATM の機械があった。俺は自転車を建物の横に置いて中に入ったが、中からは俺の自転車が見えない。どうしようか躊躇ったが、建物の中に居た警備員に自転車を中に入れても良いか、と聞くと構わない、と言ってくれたので、ロビーのような所に入れた。トラベラーズチェックの両替は往々にして時間が掛かったので、自転車を警備員の居る前に移動できて良かった。

両替の担当の窓口には若い男の銀行員が居た。しかし、英語は全く出来なかった。昼前に寄ったガソリンステーションの女店員が英語を話して、銀行に勤める優秀そうな男は英語を話さない。どうなっているのか。

そしてその行員は、どうして俺がこの町に来たのか、と質問したのだと思う。しかし、行員は俺がロシア語を理解してないので、無駄な質問をしたと直ぐに思ったようで、答えなくても良い、という顔をした。俺はどうしてこの町に寄ったか説明したかったが、先方は拒否しているようなので、無駄な事だと思い留まる。

300ドルのT/Cをルーブルに両替する。手数料は100ルーブル(約4ドル)と安かった。以前のセービングバンクでは2% を手数料として取られていた。この300ドル分のルーブルで、恐らくラトビアまで行けるだろう。少なくとも食事代だけはこれで賄えるはずだ。

銀行を出て、その町を出る。次の村まで走り、店を見つけてそこではリンゴを買って食べる。リンゴは締まってない。しかし安いので仕方ない。

今日は距離のマーカーで200キロ位まで進めたら良いと思っていたが、夜の7時半には疲れてしまい、次のカフェが見つかったらそこで止める事にして走る。結局8時半くらいまで走った。そこはАЗС(ガソリンステーション)とカフェが一緒になっていて、駐車場の外れにテントを張れたら良いと思って、カフェに入る。カフェでは、玉子焼き、マカロニ、キャベツのサラダ等を食べる。食事を終えたがテーブルに残って日記を書く。カフェの中は冷房が効いていて、居心地が良かった。カフェにはアイスクリームがあったのでそれを買って食べながら日記を書く。


ケメロボのウラジミールにSMS を送ったりしていると、家族から電話が鳴る。昨日からウファで買ったメガフォン(МегаФон)のSIM が携帯電話に入っているが、ウラジミールが恵子に新しい電話番号を伝えてくれた証だった。恵子は自転車のパーツをモスクワのいちのへさん宛てに送ってくれたとの事だった。後は、問題なく受け取れるかどうかだ。

駐車場の守衛の小屋の横にテントを張る。かなり北に来たようで、日が沈むのが遅い。道路の反対側では、路肩でトラックを修理している人が居る。今日は久しぶりに綺麗な夕焼けだった。