2008年6月13日 (48日目) ノボシビルスク


朝は9時前に起きて、紅茶を頂きながらウラジミールとアメリカや日本のことなど色々な話をした。そして朝食はウラジミールの母親がペリメニを作ってくれた。水餃子のような料理で、ロシアの代表料理のようだ。肉無しで、ジャガイモとか玉葱が入っていた。


朝食の後、準備をして出ると12時くらいになった。ウラジミールはケメロボの町の外れまで自転車で案内してくれた。クラスノヤルスクでもフィヨドールがしてくれたように。都会ではこんな案内は非常にありがたかった。たった二晩泊めて貰っただけだが、ハバロフスクで親切にお世話になってから特に感傷的になってしまったようで、ウラジミールとの別れも辛かった。一人旅を続けるある種の辛さと、友人になったウラジミールとの別れが涙を誘った。涙を堪える必要は無かったが、自分の弱さを露わにしたくなかった。でも、いざ走り出したら感傷的にはなっている暇は無い。登りと下りの坂が容赦なく目の前に広がるのだった。



でも、三日後にはノボシビルスクのパベールの家に泊まれると思うと、登りも下りの坂もそれ程苦にならなかった。こうして日記を書いていると思うのだが、例え次に誰かの家に泊まれるのが数日先だとしても、気が随分と楽になるものだった。

今日は50キロ位しか走れないと思ったら、いつの間にか70キロを走った。朝方は寒いと思ったが、途中で2枚は居ていたジャージのパンツを一枚脱ぐ。一枚のジャージで走るのは久しぶりだった。



午後7時を過ぎると疲れてきたので、早く村が出てこないかと思ったが、中々無かった。そして8時過ぎに見つけたカフェの裏にテントを張らせて貰おうと思ったら断られた。仕方ないので次の村に行こうと思ったら、バイクに乗った青年が数人カフェに立ち寄った。

俺は今朝別れたケメロボのウラジミールにあるロシア語をメモ帳に書いてもらっていた。ウラジミール曰く、ロシア人の民家に俺は泊めてもらえるはずだ、とのことでメモ帳には「私のあなたの家に泊めてください」と書いてくれた。ウラジミールは客人を持て成す財力もあり非常に優しい人だ。彼のような人がロシア全域に居るはずが無いと思ったが、彼はとりあえずこのメモを見せて聞いてみたらいいと言ってくれた。


そのメモを青年達に見せると、我々はトムスク(隣の都市)に住んでいる、と言い簡単に断られた。でも1時間待てば友達が来るので待って、との事だった。一番若い17歳のSIDIのブーツを履いたハンサムな青年だけが俺の英語を理解してくれていたが、彼は英語を話すこと出来なかった。でも携帯電話にロシア語と英語の辞書の機能がって、それを使ってお互いに話が出来た。ロシアでもSIDI は有名のようで、良いブーツだねと言うと、嬉しそうだった。


一緒にバイクの近くで写真を撮っていると、一緒にカフェに入ってお茶を飲もうということになったので入る。カフェの人には顔なじみのようだった。一番年長のライダーはSIDI のブーツを履いた青年の父親のようで、青年に他のライダーの紅茶を注文するように言って、俺の分も支払ってくれた。そればかりではなく俺の疲れを察してかSneaker のキャンディーも一緒にご馳走してくれた。お茶を飲みながら分かったのだが、1時間もしないうちに友人が来るので、その車の中で泊まったら良いとの事だった。どんな車か分からなかったが、雨も降るかもしれないので、テントよりも良いかもしれないと思った。



そして俺が一気にSneaker を食べてしまったのを見ていたのか、食事がお盆に乗ってきた。ウェートレスは何も言わずに俺の目の前に食事をテーブルに置いていった。先の年長のライダーが俺に夕食を注文してくれていたのだった。人とは何なのか。どうしてこんなに親切にしてくれるのか。俺はロシア語が出来ないので彼とは何も話は出来ない。それなのにどうしてなんだろう。いつか俺のこんな運が尽きてしまうのではないかと思わせるくらい運がいいと思った。でも、運も実力のうち、等と周りに言いふらしている自分を思うと、実にに矛盾していると思ったものだった。

一時間以上待ったと思う。ホンダの新車のように素晴らしく綺麗な状態のバンに乗った青年が現れる。結果はその友人と一緒にノボシビルスクまで行ってしまった。この人もまたもの凄くスピードを出す人だった。最初は途中で降りたかったが、直ぐに雷雨になってしまったのでそのままノボシビルスクまで来てしまった。カフェの横でテントを張らなくて良かったと思う。

車に乗って1時間以上走るとノボシビルスクの街に入った。雨上がりの街はいつも綺麗だった。コンビニエンス店で食料を買う。運転してくれた彼はビールを買う。そしてノボシビルスクの街に入ると、彼は奥さんに電話して、日本人と一緒に居ると伝えていた。彼は日本人と一緒に居ることが得意げだった。奥さんとの電話の途中で、何回も俺に電話に出ろと彼の携帯を渡されたので、その度に俺は無理やり英語で話しかけたが、俺の話を聞いている様子は分かったが、返事は無かった。シャイなロシア人女性が多いと思ったものだった。

思いがけないヒッチハイクのような事態になってしまったが、悔いは無かった。70キロ位しか走ってないが、道の起伏が激しく疲れていたし、また親切なロシア人に逢えた事が嬉しかった

2008年6月12日 (47日目) ケメロボ、ウラジミール宅


夕べは疲れていたはずなのに気が付いたら2時を回っていたので寝た。インターネットでCouchSurfing.com のメンバーに泊めて欲しい旨のメッセージを送ったり、届いていたEメールに返信したりしていたのだった。

朝は9時前に目が覚める。2泊させて頂くことになったので今日は休みだ。同じ部屋に寝ていたウラジミールも俺が起きると起きてくれたので、早速夕べの続きのインターネットをやる。

朝食はウラジミールの母親が作ってくれたピロシキを沢山頂いた。俺は肉が嫌いと伝えてあったので、母親のスベルタは野菜のピロシキを大きな皿に一杯作ってくれた。俺は、歓迎されている事が非常に嬉しかった。夕べの午後6時くらいまでウラジミールを含め家族全員は俺が泊まるとは想像してなかった。それなのに急に訪ねて来た俺を家族全員が暖かく迎えてくれた。いつもの事だが、俺が日本人だから親切にされるのか、どうしてこんなラッキーな事ばかり起こるのか。俺には不思議で不思議でたまらない。


2週間ほど前、ウラジミールに最初にEメールを送った時の返事は、アパートに問題があるが必ず泊まれるようにすると書いてあった。昨晩泊まってみると何も問題は無い。ただ、若しかしたら妹夫婦が一緒に住んでいるのがウラジミールにしてみれば問題だったのかも知れない。もし妹夫婦が一緒でなければ、恐らくウラジミールの部屋に泊めて貰ったのだろうが、昨晩ウラジミールと俺はリビングに寝た。客を持て成したいと思うウラジミールにはそれが問題だったのかも知れない。

旅行中に俺がどんな所で寝泊りしているかウラジミールは知らない。だからそんな風に気を使ってくれたのだろう。アパートの中が綺麗になっているので、どちらかと言うと中流以上の家庭だったのかも知れない。現にウラジミールは化学の博士号を持っていた。

ソ連時代、学費は無料だったとは聞いたことがある。共産主義であれば授業料が無料なのは当たり前かもしれないが、それなりの収入が無いと博士号まで取れないと思う。まあ、それにしても俺のような品も学も何も無い薄汚い旅行者を快く家族全員が歓迎してくれたものだ。今思うと、イルクーツクのイレーナ、クラスノヤルスクのフィオドール、そしてケメロボのウラジミール、3人とも修士号以上を持っていた。彼らは俺の自転車旅行を挑戦と理解してくれていたのだろう。


ロシアにはロシア人の誰でも認める幾つかの問題がある、と何人ものロシア人が教えてくれた。一つは道路が悪いこと、それから馬鹿者が多いこと。確かに道路は平均して悪い。舗装が終えたばかりの道路は素晴らしくスムーズだが、それ以外は荒れている上に舗装されて無い部分もある。ロシアの広大な土地の多くは冬に凍結してしまう為、きっと思うように道路工事が進まないのであろう。しかし馬鹿者が多いとはどういうことなのか。確かに酔っ払いは多い。アルコール中毒者も多いと聞く。そんな者のことを馬鹿者が多いと言ったのだろうか。アメリカと同じように超優秀な者と馬鹿者との差が激しいのだろう。

朝食後は、ウラジミールの友人サベールが車で迎えに来てくれて街を案内してくれると言う。サベールはアルメニア系の人だが、子供の頃に引っ越して来たのだろうか、ロシア語がペラペラだった。英語も少し話せた。3人でサベールの三菱製の左ハンドルの自動車に乗り市街地に向う。



公会堂のような建物の前では男女の子供がバレエを踊っていた。文化の違いを改めて感じる。俺はアメリカに住んでいて、ロシアの文学、音楽、演劇を知ることが無かったが、子供のバレエを見てこの国は偉大だと感じる反面、無知を恥じる思いだった。




ケメロボの中心地はレーニンの銅像があった。それから主要都市への距離を記す羅針盤もあった。モスクワへは3621キロと記されている。1日100キロ走ったら、あと36日で着く事になる。ウラジオストックの駅はモスクワから約9300キロだから、5700キロ以上を進んだことになる。ハバロフスクからチタまで2300キロ位はシベリア鉄道に乗ったのとウランウデでヒッチハイクしているので、恐らくで45日間経過して3000キロ位走った計算だ。


レーニンの広場には中央郵便局が見えた。読めなかったキリル文字もようやく「ポシタ」と読めるようになってきた。広場はこの週末のフェスティバルの準備が行われていた。



それから昨日ウラジミールを待ち合わせをした場所に近い川岸の公園にも連れて行ってもらった。若いカップルの結婚記念写真を撮影をしている。カップルは二人共とても嬉しそうだった。


その後、携帯電話でインターネットが出来ると聞いたので、もし値段がそれ程でもなければ今の携帯の替りが欲しかった。でも、新品を買う気はなかったので安い中古でもあればと思ったら、サベールは携帯の中古を売る店を知っていると二つのお店に連れて行ってくれたが、新品の携帯電話と同じ位の値段がしていて特に安くはなく、手持ちのルーブルの現金を考えると買う気がしなかった。せっかく連れて来てくれた二人には申し訳なかった。


ところでケメロボはロシアでは石炭の発掘で有名だという。そして二人は俺をケメロボで最初に石炭が発掘された場所に連れて行ってくれた。その前に、その近くに見晴らしのいい場所があるのでそこに先に行くことにした。そこにはロシアの著名な彫刻家の作品が飾られていた。そしてそこでも新婚のカップルが祝杯されていた。




最初に石炭が発掘された場所は博物館になっていたが今日は閉館されていた。でも屋外の掘削車両は見応えのあるものだった。




サベールは夕方にウラジミール宅に送ってくれて別れた。1日あちこち連れて行ってくれたのでケメロボでも、また素晴らしい思い出になった。

ウラジミールのアパートに戻り、夕食前にまたインターネットをやる。そして夕食をまたウラジミールの母親が作ってくれたので、一緒に頂く。そうこうしていると外は雨になってしまい、外出する予定だったが止めになった。

ウラジミールと色々な話をしたが、夜11時位になるとウラジミールの妹夫婦が、外の雨が上がったので出掛けようと言う。ウラジミールの義理の弟の車で、夜のケメロボをドライブしてもらった。町の中心地は人影が少なかったが雨の後のせいかとても綺麗だった。そして大きなパラボナアンテナのある珍しい場所にも連れて行ってもらった。みんな親切な素晴らしい人ばかりだ。今日は多少、歩いたがいつものような疲れは無い。嬉しく楽しい一日だった。ありがとう。


2008年6月11日 (46日目) ケメロボ、ウラジミール宅


夕べはベッドが柔らかすぎるので何度か起きてしまった。それと両膝が痛く、寝苦しい夜だった。朝になって思ったのだが、マットレスを床に敷いてその上に寝れば良かったと思った。でも、雨に打たれずに済み、親切にしてもらってとても嬉しかった。

朝7時に起きて準備をして警備員の小屋に行き、日記を書いていると朝食にとおかゆみたいな食べ物を責任者のような人がまた持って来てくれた。全部を平らげ、昨晩の残りのパンと、今朝もって来てくれたパンの全てを頂き、おまけに紅茶も頂いた。出る前に作業員の寄宿舎の近くにあったトイレで用を足して8時半位には経つ。作業員はどうして東洋人の俺が敷地内にいるのか不思議そうだった。


責任者らしき人と、昨日会ったサイクリストの話では、次の都会ケメロボまでは登りと下りが大変だと言う。案の定、結構大変な坂が続いた。緩やかな登りでも冷たい強い向かい風で、距離は思うように延びない。でも、ケメロボまでは84キロなので、気は少し楽だった。ケメロボの街が大きかった場合は大変だが、今日泊めてもらう予定の家が街の西側で無い事を願っていた。しかし、朝の10時位だっただろうか、ある丘の上に登ったところで遠くが見えたのだが、道はまるでジャングルの中を奥深くまで進んでいるように見え、道は登ったり下ったりの連続の可能性を匂わせる景色だった。



ある町のお店で牛乳を買おうと思ったら無かった。でも、ケフィール(Кефир)ならあると言う。牛乳と聞いて無いがこれならあるというので、脂肪分が少ないのだろうと勝手に想像した。店の外に出て、飲み始めてみると大間違い。まるでヨーグルトを牛乳で溶かしたような感じだった。牛乳の少しの甘味を期待していたので、酸っぱい味には驚き失敗したと最初は思った。でも、そのまま捨てるには惜しかったので、少しずつ飲んでみると、ヨーグルトを飲んでいるのと同じような気がしてきて、結局その店の外で全て飲んでしまった。


12時位に見つけた山の中の小さなカフェで昼食を取る。カフェの注文を受け付ける窓口はガソリンステーションの窓口のように小さかった。ボルシチ、玉子焼き、パン、紅茶で60ルーブルと安かった。でも、出てきた料理は値段のとおりだった。でも、俺には腹を満たすことが出来れば良いので問題は無い。


昼食後、距離は順調に延びて、ケメロボには午後6時位には入れると思ったので、午後3時位に着いたカフェの駐車場で、今日泊めてくれる予定になっているウラジミールに、余裕をもって午後7時位に着くだろうとSMSを送った。ウラジミールにはCouchSurfing.com のメンバーとして泊めて欲しい事をイルクーツク近くのアンガースクに居る時にEメールで送ってあり、返事も貰っていた。ところが後で分かったのだが、俺がウラジミールに送っていたSMS は全て彼の手元には届いて無かった。

そのカフェではコーラを買って飲む。ポーランド人から貰ったジャムは全て飲んでしまって、甘いものが必要だった。コーラと一緒にピロシキも食べる。料金は56ルーブルのはずだったが、60ルーブルからのお釣りは2ルーブルだった。御釣りを間違ったのか、小銭が無いのか分からないが面倒だったのでそのままカフェを出る。カフェの中は一般客と混じって、旅行者と思われる客が10人くらい居た。他のカフェの客とは違い身なりが良かった。全員がロシア語を話していたようで、彼らの乗った車両は天井が高くなったバンで乗り付けていた。

その後、丘の上というか、ちょっとした峠にカフェがあり、二組のカップルが車から降りるのが見えた。俺が走り去るのを写真に収めようとしていたので手を振ると、来てくれという仕草だったので戻って話をする。ステーションワゴンの中の後ろに詰まれた荷物は自転車だった。学識ありそうな人達だったが、英語はそれ程得意ではなかった。お互いに写真を撮る。彼らはアルタイ山脈まで行って来たと言う。ロシア、カザフスタン、中国、モンゴルの国境の山脈だ。多分、ロシアで一番高い場所だと思う。彼らはNikon の素晴らしいカメラを持っていた。俺の旅には必要ないが少し羨ましかった。


彼らと別れて先を急ぐ。それからまた道は登って下って、登って下る。きっと今日の事をポーランドから来たサイクリストは言っていたのだと思う。早くケメロボに行きたくて、とにかく走った。それから少しして、ハーレーが一台通り過ぎる。ロシアでは珍しかったので、ナンバープレートを見ると漢字で書かれているようだった。その瞬間、変だなと思うとバイクは路肩に止まった。近づいて行くと日本のナンバープレートだと分かる。ライダーは日本人の吉田さんだった。


ハバロフスクの日本領事館の方から俺がモスクワを目指している事を聞いて、いつ会うのかと楽しみにしてくれたいたそうだ。それにしても意外だった。この広大なロシアで、それも交通量の然程多くないシベリアの路上で、日本人に会うとは夢にも思わなかった。日本語を話すのはアンガースクで泊めてもらった時に話した木村さん以来だった。吉田さんも先を急ぐようで直ぐに別れた。雨と風が冷たいので吉田さんのグローブに目が行ったが、まるでウエットスーツのような生地のグローブだった。あれだったら水は入ってこないだろう。それに引き換え俺の手袋は粗末なものだった。手の内側は皮で外側は Goretex だが、長いこと雨になると手の全てが濡れてしまった。おまけに水の為に手が冷えてしまうので、全然役に立たなかった。それでも雨さえ降らなければサイクリング用の指の部分が無い手袋に比べたら暖かいので、当分未だ使えるだろう。

別れてから暫く進む。道は険しい登り下りが続き、路肩に落ちてしまったトラックを見つける。どうして落ちてしまったのか。ドライバの居眠りなのか、無茶な追い越しの被害者か。可哀想だが何も出来ないので通り過ぎる。






夕方には大きなケメロボのサインを見つける。でも街は見えず相当の距離が未だあるように見えた。そして道端にあった道路工事の寄宿舎のような車両の中に人が見えたので、街の中央への行き方を教えて貰おうと近づく。作業服を着た道路工事の作業員に英語は通じないだろうと思っていたら、親切に英語で教えてくれた。何と英語で会話になったのだった。人を侮ってはいけないとつくづく思った。申し訳なかった。

教えて貰ったとおりに進み、川を渡って街に入る。橋を渡りきると右手には大きな発電所があった。そこでウラジミールにSMS を送って、電話もした。しかし応答が無い。退社の時間なのか発電所の職員が出てきたので、むりやり捕まえてウラジミールへの電話をして欲しいと伝えると、嫌そうな顔はしたが俺の電話を取って電話してくれた。しかし、結果は同じだった。俺の電話の掛け方が悪いのでは、と期待したのだが駄目だった。


仕方ないのでチタでお世話になったセルゲイに電話して、CouchSurfing.com に俺のID とパスワードでログオンして、ウラジミールからのメールに書かれている電話番号を確認して欲しいと思ったが、電話は途中で切れてしまった。それからセルゲイには電話が通じなくなってしまった。嫌われてしまったのか、携帯電話の問題なのか分からない。もうこうなったら、誰でも俺のヘルプしてくれそうな誰でも電話したかった。親切にしてくれたハバロフスクのマリアとマリーナはコンピュータが使える状態か分からないので駄目だ。

次に浮かんだのはクラスノヤルスクのフィヨドールだった。電話してみると彼女リリーの家に居るので、自宅に戻って調べてくれるとの事だった。20分もするかフィヨドールから電話があり、ケメロボで迎えてくれるはずのウラジミールの電話番号は俺の控えていた番号と違っていた。俺はそれまで誰か分からぬ他人にSMS や留守電を残していたのだった。

フィヨドールに教えて貰った番号に電話すると、ウラジミールが出てくれた。何とも嬉しかった瞬間だ。ウラジミールは俺に、M53 の反対側で、その場から少し離れた場所にあるスポーツ施設の建物の前で待つように指示してくれた。自転車を中央分離帯では持ち上げてM53 の反対側に行く。そしてスポーツ施設は直ぐに分かった。施設は夜なので既に閉館されていたが、階段があったので、そこで待つことにした。俺はその間、日記を書く。そして30分位待っただろうか、ウラジミールが迎えに来てくれた。本来なら街の中心の教会の前で待ち合わせだったのだが、俺の間違えで、ウラジミールは長い距離を歩いて来てくれたのだった。クラスノヤルスクでもそうだったが、都会でのテントは危ないので避けたかった。もしウラジミールに会えなかったら俺はどうなっていたか。会えた瞬間、険しかった今日の道のりの苦労は綺麗に消える。嬉しかった。

ウラジミールとは川岸の綺麗な公園沿いに一緒に自転車を押しならが歩いた。20分位歩いたのだろう、ウラジミールのアパートに着く。5階建ての建物が集まる集合住宅地で、ウラジミールのアパートは3階だった。いつものように自転車を持ち上げる。疲れていたが最後の力を振り絞る。

アパートに入ると、既に夕食の準備が出来ていたようだったが、俺は我侭を言わせてもらい、シャワーを先に浴びさせてもらった。疲れているので食事の後ではシャワーに入れるかどうか分からなかったからだ。夕食にサンドイッチを頂く。今まで泊めて頂いたアパートと同じような大きさだった。でも中はとても綺麗にされていた。バスルームも、キッチンも、リビングも、どこも綺麗だった。夕食の後は、インターネットをやらせてもらう。ウラジミールには俺が何をしたいのか全て分かっていたようだった。Eメールをチェックして、今までの写真をアップロードした。ウラジミールは俺の為にベッドを貸してくれて、自分はソファに寝てしまった。またしても俺は思った。何なんだろう。どうして皆こんなに親切にしてくれるのだろう。俺はラッキーなのか、ロシア人は根本的に親切なのか。当然だが答えは出ない。出す必要も無い。ありがとう、ウラジミール。