2008年5月12日 (16日目) M60、ハバロフスク (Хабаровск)、マリーナ宅(5泊目)


朝は8時くらいに起きるが他の3人は寝ている。俺は起きて日記を書く。暫くするとマリーナが起きて来て、玉子焼きなどを作ってくれた。今日は午後まで特に予定が無かったのでゆっくりとする。午後はラジオ局でのインタビューだ。昨日リリーアに会った時に、月曜日(今日)今朝ラジオ局に出勤してから、日本語担当のディレクタに俺のインタビューに興味があるか聞いて貰い、結果的に急なインタビューが今日の午後に決まったのだった。

アーニャは午前中に学校に行ってしまった。午後の1時位になって、マーシャとマリーナと俺は3人でバスに乗ってリリーアが働くラジオ局に向う。昨日も一昨日も来た教会の近くのビルだった。

ビルの玄関に入ると丁度リリーアが迎えに来てくれて、警備員に何かを伝えて、ロビーに入れた。後で分かったのだが、ラジオ局だけではなく色々なメディアの会社が事務所を構えているそうで警備が厳重だった。そして、数分すると日本語担当の岡田さんが現れる。リリーアの紹介を待たずに我々は日本語で挨拶した。そして4階の岡田さんの事務室に案内されてインタビューの準備が始まる。


最初は録音の前に岡田さんは俺の話を聞いてくださった。俺はハバロフスクに来て、マーシャとマリーナが理解できるように、日本語でゆっくりと話をする癖が付いてしまっていた。その為か岡田さんに話す時にも俺はゆっくりとそして教科書のような日本語を話しているのに気付くのに少し時間が掛かった。多分、岡田さんも俺の日本語が変なのに直ぐに気付かれていたと思う。日本を離れ25年以上が経っているし、4日間も彼女達と一緒に生活しているわけだから無理もない。そして俺は岡田さんに質問をする。このラジオ局の前身はモスクワ放送だとリリーアから聞きましたが、それは本当ですかと。すると嘘の様な答えが返って来た。

岡田さんはそのとおりだと言う。俺はリーリアが間違った事を言っているとは思わなかったが、そんな返事を鵜呑みに出来なかったのだ。

小学生の頃の夜7時、AMラジオの1250Khz では日本語でモスクワ放送が流れていた。中波のラジオの特性で、夜になると電離層の変化で遠く離れたラジオ局からの放送が聞こえる。モスクワ放送がソ連のプロパガンダだったとしても、俺にとっては海を越えた海外からの放送であり、夜の楽しみであった。きっとその頃は政治色の濃い内容だったのだろうが、ロシア民謡が流れていた事は覚えている。そして、ラジオのシグナルの強さを東京の支局に報告すると、それはソ連に伝わり、ソ連の切手の付いたべりカード(Verified Card)絵葉書が送られて来た。海外から受け取る始めての手紙には感動し、自慢の種になった。

俺はその旧モスクワ放送のラジオ局に来れたのだった。夢のような事だと思った。ソ連から絵葉書を貰って実に35年以上が経過している。だから岡田さんの返事は感慨深いものであった。もし、リリーアに逢ってなければインタビューは無かった。もしマーシャとセルゲイが俺の事をM60の幹線道路で見つけてくれなければ、リリーアに逢うことはなかった。全てが偶然の連続に思える。

岡田さんに子供の頃にモスクワ放送を聞いていたと伝えたら、それに岡田さんも驚いた。そして夜の7時に流れていたインターバルシグナルと呼ばれる番組の最初と最後に流れた音楽を「タンターン・タタタタターン」と口ずさむと、それに岡田さんは更に驚かれた。俺はその曲を覚えていた事をラッキーだと思った。この曲だけで俺がモスクワ放送を聞いていた証になり、これで岡田さんとは親しい間柄になったような気がした。そしてそんな思い出を共有できる人と出会えた事が嬉しかった。


岡田さんの事務室では、ロシア人で岡田さんの上司の方と挨拶をした。顔は西洋人の顔だが、完璧な日本語を話すのには驚いた。マーシャやマリーナのようにアクセントのある日本語では無かった。もう既に引退しているとのこと。そしてバスケットボールの練習があるとの事で、部屋から出て行った。

実際のインタビューが始まる前に次男のクリスから電話が鳴る。先週の金曜日からの風邪が治らずに泣き声になっていた。励ますことしか出来ない。

電話を切って、少し余談をしてから実際にインタビューが始まった。岡田さんは携帯型のステレオのレコーダを手に持って、岡田さんの挨拶から始まった。マーシャとマリーナは横に静かに座ってインタビューの内容に耳を傾けていた。こんなところにマーシャとマリーナの真の姿を見たような気がした。実に躾の良い娘さんたちだ。

岡田さんはレコーダーを、岡田さんの口の前から俺の口の前にと忙しく移動させて、周りの音を拾わないようにしていた。そして収録はあっという間に終わってしまった。インタビューの中で俺は良い返事ができたかどうか分からない。でも、俺は思ったとおりの事を伝えた。岡田さんはインタビューの内容は5月末の土曜日か、その次の土曜日に放送されますと教えて下さった。でも残念だが俺にはそれを聞く術が無い。

インタビューが終えて窓の外に広がる平原を見ると、自分が言った事が自分の身に降りかかるような気がした。アムール川越しには水平方向に張られたアンテナが遠くに見える。地平線はその遥か彼方。モスクワは9千キロの距離にある。俺はとてつもない事を始めてしまったものだと思った。時に先が見えると落胆する事もあるのだった。


それから岡田さんはラジオ放送の番組表を我々3人にコピーして下さった。そしてまた、モスクワの本局の住所も教えて下さった。モスクワに行った際には是非また局に寄って下さいと、有難い事を言って下さった。俺にとって、モスクワ放送局の建物を見るのは、赤の広場を見るのよりも価値がある事で、もし再度インタビューになったとしたら、これ以上に無い名誉な事だ。


そしてここでまた岡田さんは嬉しい事を用意して下さっていた。岡田さんは俺の為に、おにぎりやお茶のパック、そしてインスタント味噌汁を用意して下さっていた。おまけにチョコレートも下さった。おにぎりは岡田さんの奥様が作って下さったとのこと。こんな俺の為にどうしてみんなこんなに親切にしてくれるのか。俺はこんな幸運がここで途切れてしまわないように、ただ願うばかりだった。

それから現在は「ロシアの声」として放送していて、その局の小さなバッジや記念品も頂いた。バッジは直ぐに着ていたオレンジのジャケットの襟に付ける。

エレベーターを降りて、岡田さんは本格的なスタジオを我々に案内してくださった。そして歩いて岡田さんと色々話していると、ハバロフスクには60人から70人位の日本人の方が住んでいると教えて下さった。局の入ったビルを出て、全員で写真を撮る。

岡田さんと別れて、我々は眼鏡屋に向う。どんな結果になるのか想像が出来なかったが、結局は目の検査をしてもらって新しいメガネを作った。全部で2280ルーブルだった。(約100ドル)

その後はマーシャの彼氏のセルゲイが現れて、車に乗せて貰って銀行に向った。トラベラーズチェックをルーブルに換金する必要があった。それから、スポーツ店に寄ってもらい、俺は自転車のハンドルに巻くテープを探した。そのスポーツ店は土曜日にマーシャに連れて来てもらった店だった。でも探しているようなテープは見つからなかった。でも、キャンプ(調理)用の小さなアルコールを燃やすストーブがあったのでそれを買う。店では燃料を売ってなかった。

そして今晩の料理の食材の買出しの為に大きなスーパーマーケットに行った。ハバロフスクで一番大きなスーパーだと言う。そこでは、焼き海苔、米、カニカマなどを買った。今まで俺は食事代を支払ってなかったので、今日の買い物は全て支払った。

いざレジで支払おうと言う段階で、マーシャは何か買い忘れていたようで、セルゲイに取って来て欲しいと言ったようだった。でも、セルゲイは買い物に一緒に居たわけではなく、スーパーの外で待っていて、マーシャに自分で行って来い、と返事したようで、それにマーシャは怒ってしまった。セルゲイとマーシャはお互いに話をしなくなってしまった。

でも車に戻り、そしてマリーナのアパートに着いた時には、セルゲイもマーシャも一緒にマリーナのアパートに上がったのでそれ以上の問題にはならなかった。

マリーナの家に戻ってから、俺はユーリヤに電話した。俺がもともとハバロフスクで泊めてもらう予定になっていた大学生だ。ユーリヤも夕食に来る事になった。


夜の8時半を過ぎてしまっていたが夕食の準備を始める。献立は巻き寿司とカレーライス。カレーは和食ではないが、簡単に作れるのでメニューに加わった。でも、マリーナの従兄弟の女の子や、昨日会ったビクターとビクターの友人カチューシャ、そしてユーリヤも来たので沢山の人が集まってくれた。



そして食べ始めたら夜の11時になってしまった。するとユーリヤは彼氏からの電話で呼ばれてしまったので、殆ど何も食べずに帰ってしまった。でも、俺はお土産に持ってきた小さな風呂敷を渡す事が出来たので気持は収まった。


カレーはうまく出来なかった。でも、みんなそれなりに食べたので、巻き寿司が残ったが、殆どが片付いた。食事の後は、俺の自転車の装備にセルゲイとビクターが興味をもっていたので、ソーラーパネルやテントなどを広げて見せた。テントそのものは珍しくないが、張りに使う棒がゴムひもで結ばれているのが珍しいようだった。

皆、明日の仕事があったと思うが、俺が明日発つ事を知って集まってくれた。有難い事だった。皆が帰ったのは夜1時を回っていた。

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