2008年5月21日 (25日目)M55マーカー:530Km



夕べは1時近くまで話をしていたので早く起きれるものかと思ったが、外が明るくなった時には目が覚めていた。7時過ぎに母屋で寝ていたセルージャが来て、玉子焼きを作ってくれた。自宅の庭で飼っているニワトリが産んだ卵だった。朝食を頂き8時には出たが外は寒く道端は霜で一杯で、吐く息が白くなる。セルージャと一緒に歩きM55に向けて歩くと、小さな路地で行き交う人とセルージャは挨拶をしていた。昨晩の話ではよく喧嘩をして母親を悩ましているように聞こえたが、気の良い青年だった。踏み切りまで見送ってもらい、最後の写真を撮って別れる。ありがとうセルージャ。





(左:1頭だけ道端に馬を見つける)(右:自動車が駐車されているのでカフェと見当を付ける)

幹線M55への村の道も、M55に出てからの道にも登り坂が見える。朝まだ早く冷えたい空気が流れているので膝に気を付けて進まなければならない。準備体操だと思い自転車を押して30分くらい進んだと思う。比較的緩やかな登り坂になったところから自転車に跨る。しかし、道はいつものように登り坂と下り坂が延々と続いた。


そして長い登り坂を越えると、かなり長い下り坂だ。当然のことだが長い下りは助かった。しかし、昨日までの森林火災の煙は見えなくなっていた。極東地方を抜けてシベリアに入ったのであろう。晴天で見晴らしは良く、時に追い風のこともあった。高気圧が北に来たのであろう。しかし走行距離は思うように延びない。


途中、森林伐採現場への入り口の番人と思われる青年がガゼボに座っているのが見えたので、俺はそこに座って休憩させて貰えないかと思った。正確には、もしお茶でも頂ければ最高だと思ったのだった。青年は快くお茶を入れてくれた。(今回のサイクリングで感じたことは日本やアメリカと違って休憩場所が無いことだった。地面に腰を落とすことは出来たが、椅子のように腰掛ける場所が全く無い。道端のガードレールは殆ど無く、あったとしてもカーブなど危険な場所だったので、ガードレールに腰掛けることは危険極まり無いことだったからだ。)
M55を走る乗用車もトラックは少ない。ラジオも無いようだった。ガゼボの横にはトラックが走った跡があり、そして小さな小屋が横にぽつんと建っていた。どこにも電線は一本も見えない。ラジオも音楽も流せないのは電気が無い為か、その青年の性格なのか知る余地も無い。会話は成り立たなかったが、青年はお茶をもう一杯勧めてくれたが、十分にお茶を既に頂いていたので先を急ぎ別れる。近くにカフェがあるか尋ねると、この先の小さな丘を越えて、次に出てきた大きな丘を越えたらあると言った。大きな丘の話は決してありがたい話しではないが、心構えが出来るのでありがたかった。


先に進むと、確かに大きな丘があった。それを下ると看板と建物が見えて、看板にはトラックの絵を描かれていた。建物の前に居た女性にそこがカフェかと聞くとそうだと言う。中に入ってその女性に注文する。ボルシチは無いとの事で、サリャンカスープ、ご飯(リース)、卵(ラズーニャ)、紅茶(チャイ)で106ルーブルを支払う。サリャンカスープは以外に肉が多く入っていたので、殆どを残すことになったが、ご飯と卵焼きは正解だった。またどこかで頼んでみよう。カフェにはトラックドライバーが居て、昼食を取っていた。俺はカフェに入る前に、自分の自転車の右前のパニアのフレームが少し緩んでしまっているのを直そうとしたら、彼らは道具はあるのか、大丈夫なのかと気遣ってくれた。状況を説明するとそのうちの一人が自分のテープを使って緩みを抑えたらといって、テープを下さった。ロシアに入ってから常に思っていたのだが、親切な人々に出会えて自分は果たして只単にラッキーなのか、それともロシア人が親切なのか。。。



昼食の前に何度も貨物列車を見る。多い時は20分間隔くらいで見た。10時半くらいにはガソリンスタンドの向かいにあったカフェの様な所で、お店(マガジン)かと尋ねると違うと言う。しかし万一と思い中を覗くと水を売っていたので、1.25リットルのボトルを買って出る。自転車に備え付けている空の青いボトルに水を入れ替えると、買ったばかりの水のボトルには殆ど残らなかった。その後、自転車に乗って登り坂で気付いたのだが、財布の中に入っていたはずのテレフォンカードがジャケットから落ちてきた。内側のジッパーは締まっていたのにどうして落ちたか分からない。今後特に気をつけなければならない。


夕方、向かい風になり冷たい風が吹いてきた。そして途中休んでいるとバイクに跨る旅行者に会う。インド製のローヤル・エンフィールド。クラシックなバイクだ。ウラジオストックからサンクトペテルブルグに向うと言う。スコットランド出身で現在は香港に住み、現地の女性と結婚しているそうだ。恐らく自分よりも年上で、恐らく50歳は超えていると思う。写真をお互いに撮って、メールアドレスの交換をして別れる。別れ間際、次のカフェはどれくらいかと聞くと、恐らく30キロ位だろうと教えてくれる。しかし、夕暮れ間じかのこの時間から30キロは進めない距離だったが先を急ぐ。すると1時間も走ると村が出てきた。



M55を離れ村に入り、歩いていた子供にテントを張る場所は無いかと聞くと、お金を出したらテントを張っても言いというので付いて行く。しかし、その場所は風も露も防げないお金を払うに値しない只の野原だった。子供と別れて、今度は年配の女性に聞くと、一人住まいの老人宅を案内してくれて、その家に泊めて貰うことになった。アレクセイという老人は左腕を失っていた。村のマガジンは締まっていて何も買うことが出来なかったので、アレクセイが差し出してくれたパンや持っていたラーメン等を食べる。

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